第2話

 屋上のフェンスを握りしめたダイスケさんは「わーっっ!」と大声を上げる。

 近くにいた人たちが驚いてこちらを振り向く。

 わたしは慌ててダイスケさんの傍に駆け寄る。

「ダイスケさん、みんな驚いてますよ。落ち着いて話を……」

 言いかけたところで再びダイスケさんの「わーっ!」という声が響き渡る。

 少し離れたところには、ダイスケさんのご両親が困ったように立ち尽くしている。

 お母さまが後ずさりながら言った。

「堪忍ね、ダイスケ。もう帰らなくちゃ」

「そうやな。婆さんも待っとるからな」

 ダイスケさんのご両親は大阪に住んでいる。ふるさと園にはバスと電車を乗り継いで来てくださった。お二人とも受付では優しそうにニコニコ微笑んでおられたのだけれど、今は困ったような表情をしている。

「帰りたい、帰りたい、帰りたい!」

 ダイスケさんはイヤイヤをするように首を横に大きく振りながら声を絞り出す。

「ダイスケは一緒に帰られへんのよ。ここにおらなアカンの」

「いやや。帰る!」

 まるで子どものように泣き叫びながらダイスケさんは手足をバタバタさせている。

 どうしたらいいのだろう。普段のダイスケさんは温厚で、笑顔がチャーミングなオジサンといった様子なのだが、少しばかり拘りが強いように思う。一度こうと決めたらてこでも動かない、頑固な一面も持つ。

「家に帰るんや!」

 ダイスケさんが大きな声を上げれば上げるほど、わたしは周囲にいる人たちの目が気になりだす。

 きっとご両親も同じなのだろう。そわそわと落ち着きない様子でダイスケさんから離れようとしている。

「なんでや? なんで帰ったらアカンの?」

 泣きながらダイスケさんが尋ねる。苦しくて、悲しい彼の声に、わたしは胸が痛くなる。

「アカンのよ。おばあちゃんもいるし、お姉ちゃんも帰ってきてるし」

 お母さまが言うと、ダイスケさんは金切声を上げてフェンスに頭を何度もぶつけていく。

「帰りたい……お母ちゃんのご飯食べたい! もういやや、こんなトコ居りたないんや!」

 ごめんな。堪忍な。そんなご両親の悲痛な声がダイスケさんの言葉の合間に聞こえてくる。

「許せ、ダイスケ」

 お父様が低い呻き声と一緒にそんな言葉を吐き出した。

「許してくれ。アカンのや」

 そう告げるとお父様はダイスケさんに背中を向けて、屋上から立ち去ろうとする。

「ダイスケ、職員さんたちの言うことをよぉ聞くんよ」

 泣いているのか、震える声でお母さまはそう言って、お父様の後を追いかける。

「うわあぁぁぁぁっ!!」

 いっそう大きな声で叫びだすとダイスケさんは、これまで以上の力で頭をフェンスにぶつけだす。

「ダイスケさん……ダイスケさん、落ち着きましょう」

 ああ、誰か……、こんな時、どうしたらいいのだろう。

 あたりを見回すと、ちょうど名尾さんがこちらへ駆けてくるところだった。

「大丈夫ですか、のぞみさん」

 名尾さんの優しい声に、わたしはホッと胸をなでおろす。

「あの、吉岡さんが……」

 言いかけたわたしの言葉を遮るように、名尾さんは静かに口を開いた。

「今しがた、ご両親が帰って行かれるのが見えたので様子を見に来たんだけどね」

 小さく肩をすくめると名尾さんは、ダイスケさんの肩をトントン、と優しく叩く。

「吉岡さん、遊戯室でカラオケ大会やってるんですけどね、盛り上がりがイマイチなんですよ。是非、吉岡さんに十八番を歌ってほしいんですけど、行きませんか?」

 カラオケ。十八番の歌。そんな言葉がダイスケさんの気を引いたのだろうか。今まであんなに騒いで癇癪を起していたというのに、ピタリとダイスケさんの動きが止まる。

「カラオケ?」

 ダイスケさんが名尾さんの顔を覗き込む。

「そう、カラオケ。なかなか盛り上がらないのは吉岡さんがいないからかなってみんなで話してたところなんですよ」

 そう言って名尾さんは困ったように頭をポリポリと掻いた。

「吉岡さんの十八番、僕も聞きたいなあ」

 名尾さんのお願いモードの声にダイスケさんは引きずられたのか、顔をぱあっ、と輝かせる。

「歌ってもええの?」

 ダイスケさんはカラオケが大好きだと聞いている。皆と一緒に楽しむものなら大概のことは好きだけれど、カラオケが特にお好きなようだった。

「歌ってくださいよ、吉岡さん。僕、吉岡さんの歌が聞きたいなぁ。何でしたっけ、あの、一番得意の……」

 名尾さんは喋りながらもダイスケさんの腕をそっと掴むと屋上から離れるようにして誘導する。

 わたしは一人、屋上に取り残された。

 怖かった。

 ダイスケさんのあの豹変ぶりが、わたしにはとても怖かった。

 いつもは温厚で、笑顔がとてもチャーミングなダイスケさんがあんなふうに変貌してしまうなんて、信じられないぐらいに怖かった。

 違う。いつもなら多少興奮したとしてもダイスケさんに声をかけるとすぐに落ち着いてくれていた。

 だけど今日は違った。

 フェンスを掴んで、あんなふうに力いっぱい頭をぶつけて……細い金属を格子状に編んだフェンスだから頭を打ち付けても傷ができるような心配はないけれど、それでもわたしは怖かった。フェンスが壊れたらどうしよう、このままダイスケさんが屋上から飛び降りでもしたらどうしようと、怖くなって動くことができなかったのだから。

 怖い。

 今でも、怖い。

 足が竦んで一歩も動くことが出来ない。

 じっとその場に固まっていると、「希さん」と声をかけられた。

「名尾さん……?」

 ああ、名尾さんが戻ってきてくれた。

「吉岡さん、落ち着いたみたいだよ。遊戯室で浅川さんがついてくれているから、もう大丈夫だと思う」

 名尾さんはそう言うと、わたしの肩をポン、と叩いた。

「お疲れさん。びっくりしただろ?」

 びっくりしたなんてものじゃ、ない。

 時々、ダイスケさんが意固地になるということは知っていた。興奮すると手が付けられなくという話も聞いたことがあったし、何度か見たこともあるから対応はできると思っていた。実際、これまでに興奮したダイスケさんの対応をしたこともあったし、そんなに手がかかるとは思ってもいなかった。

 だけど、今日のは違う。今までこんなふうに興奮して手がつけられないダイスケさんは一度も見たことがなかった。

 わたしは今まで、ダイスケさんの何を見てきたのだろう。

「あ、の……」

 驚きすぎたのか、ホッとしたからなのか、言葉が上手く出てこない。それに、足も、動かない。腰が抜けてしまったようにへなへなとその場にわたしは座り込んでしまった。

「ちょっと刺激が強すぎたかな、希さんには」

 名尾さんの穏やかな声に、わたしは心底ホッとした。

 もう大丈夫だ。どうにもならないもどかしくて恐ろしい瞬間は、過ぎ去ったのだ。

「……びっくりしました」

 こんなこと、本当に初めてだった。

「まあ、ちょっと訳ありだからね、吉岡さんは」

「そう……なんですね」

 確かダイスケさんは所長の知り合いの伝手で入所したとか何とか、聞いたことがある。

 わたしは、そろそろと自分の力で立ち上がると、名尾さんにお礼を言った。興奮して手が付けられなくなったダイスケさんの対応、少しわかった気がする。

「あの、吉岡さんのご両親は……」

「少し前からお姉さまが精神的に不安定だから、吉岡さんのことまで手が回らないそうだね」

 ダイスケさんのご両親は大阪からここまでやって来るのに、どれほど大変だっただろう。バスと電車を乗り継いで、いったいどれだけ時間がかかったのだろう。そんなことはおくびにも出さず、ご両親は来てくださった。別れ際はあんなことになってしまったけれど、面会に来ましたと声をかけてこられた時にはお二人ともダイスケさんのことを心から気にかけているのが見て取れた。




 わたしは名尾さんと並んで屋上を後にする。

 ダイスケさんのご両親の気持ちがどんなものか、わたしには想像もつかない。

 だけどいつかわたし自身が両親を施設に入れることになったなら。そう考えると、少しだけ、彼らの苦しみが想像できるような気が、した。



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