花束のありがとう

篠宮京

第1話

 キヨさんは、もうずっと長いことふるさと園で生活をしている。

 おそらく幼い頃からいろんな施設を転々としながら生きてきて、辿り着いたのがここ、ふるさと園だ。

 今年の夏に70歳になるキヨさんは、すぐ怒りよく笑う、折り紙と歌が好きなキュートなおばあちゃんだ。

 わたしは腕時計にちらっと視線を落とすとキヨさんに声をかけた。

「長田さん、そろそろ折り紙はおしまいにしましょうか」

 昼食がすんで小一時間ほどの間、キヨさんはずっと折り紙をしている。四角い紙を真剣な表情で半分に折り、さらにそのまた半分に折る。器用さが失われた手と年々視力の落ちている目ではどうしても上手に折ることができない。

 それからキヨさんはおもむろに折り紙をくしゃくしゃと握り締めると「はい」と近くを通りかかるスタッフの手に握らせるのだ。

「折り紙、上手にできたからもらってちょうだい」

 にこにこと笑いながらキヨさんが言う。

 スタッフは皆心得たもので、キヨさんの折り紙を嬉しそうに「ありがとう」と言って受け取るのだ。そうしなければキヨさんが悲しむと知っているから。

のぞみさんも、お一つどうぞ」

 キヨさんがくしゃくしゃの折り紙を差し出してくる。

「ありがとうございます、長田さん」

 握り潰されくしゃくしゃになった折り紙を受け取り、わたしは笑みを返す。

「どういたしまして。上手にできたから、大事にしてね」

 それはもう嬉しそうな顔をして、キヨさんは言う。

 キヨさんが折り紙を折ることができなくなって半年ほどになる。

 最初は、ふざけているのかと思ったのだ。あの折り紙が上手なキヨさんが、折り方がわからなくなったなどありえないと、信じられない気持ちでいっぱいだったのだ。

 だけど、くしゃくしゃの折り紙を何日も続けて折っている姿を見ているうちにわたしは気付いてしまった。キヨさんは、折り紙の折り方だけでなく他にもできなくなっていることがいくつもあることに。

 例えば、ちょうちょ結び。レクの料理教室でエプロンをつける時に、後ろ手に持ったエプロンの紐をクルクルと捩じっているだけで三十分近く時間が過ぎていることが何度もあった。そのうち、エプロンをつけるのが嫌になり、同時に料理教室も嫌になり、キヨさんはレクに参加しなくなってしまっていた。

 人との交流がなくなると、途端にキヨさんは気難しい不機嫌なおばあちゃんへと変貌した。

 気に入らないことがあるとすぐに声を荒げ、だれかれ構わず叩いたり引っかいたり、時には突き飛ばしたり。誰かのハンカチやアクセサリーを盗ることも日常茶飯事になってきた。ちょっと可愛らしい柄のハンカチだったり、子どもが好きそうなキーホルダーのマスコットだったり、レクで作ったビーズのアクセサリーだったり、そんなものが気が付けばなくなり、いつの間にかキヨさんの身の回りから出てくるようになっていった。

 これではいけない。キヨさんも、周囲の人たちも嫌な思いをするばかりだ。このままにしておくことはできない。そう思ってみたところで改善策はなかなか出てこないのだけれど。

「あまり悩みすぎないほうがいいよ、希さん」

 気が付くと、わたしのすぐ隣に先輩スタッフの名尾さんが立っていた。厳ついガタイの熊みたいなオジサンだけど、名尾さんはとても目端のよく利く先輩だ。笑顔で利用者と会話をしながらも、常に遠く離れた廊下の向こうのことにまでアンテナを張り巡らしている。

「はあ……」

 生返事をしながらわたしは、キヨさんにもらった折り紙をまじまじと見つめる。

 可哀想な折り紙。少し前までキヨさんは、それはそれは上手に折り紙で作品をつくる人だった。

 施設の玄関口にある作品展示スペースに毎月のように作品を飾ってもらい、利用者だけでなくスタッフからも称賛を受けていたのに。

「……ねえ。ねえ、希さんったら」

 袖を強く引かれて、わたしは我に返った。いけない、仕事中だった。

「おやつ。用意ができたって」

 キヨさんが嬉しそうにわたしを見つめてくる。

「ねえ。早く行きましょうよ、希さん?」

 今日はドーナツですって。無邪気そうな笑顔を浮かべ、キヨさんは言った。

「テラスでいただきましょうか」

 キヨさんの車椅子をゆっくりと押しながら、わたしは提案する。

 ガラス張りのテラスは、気候のいい時は屋外の空気を取り込むために窓を開けることもある。流石に冬の間は開けることもないが、かわりに空調がきいているから暖かだ。

「ドーナツ、おいしいわね」

 まだ食べてもいないのに、キヨさんは気が早い。そわそわしているのが見て取れる。きっとおやつが楽しみで仕方がないのだろう。

「コーヒーと紅茶、どちらにしますか?」

 飲み物はセルフで用意することなっている。キヨさんはもちろん、大好きなミルクティーを選ぶはずだ。

「ミルクティーがいいわね。大好きなのよ」

 ほら、やっぱりミルクティーを選んだ。キヨさんは毎日ミルクティーを選ぶ。彼女の小さな世界の中に存在する飲み物は、ミルクティーしかないのだ。

「ミルクティーを買ってきますね」

 テラスの隅にある自動販売機でミルクティーをふたつ購入する。ひとつは、わたしの分。それからキヨさんの分のドーナツを受け取り、テーブル席に移動した。いちばん眺めのいい場所に、キヨさんと二人して並んで座る。

「このドーナツ、おいしいわね。大好きよ」

 さっそくキヨさんはドーナツを頬張り始める。口当たりの良い豆腐ドーナツは柔らかく、ほんのりとした甘みの味で気持ちがホッとする。

「そうですね、おいしい」

 厨房で作られる料理はどれもおいしい。飽きのこない優しい味で一日三食の食事や軽食、ちょっとしたスイーツなどを提供している。わたしもこの豆腐ドーナツは大好きだ。

「おいしーっ」

 キヨさんは子どものように無邪気な笑顔を浮かべている。

 こんなふうに笑っているキヨさんは、とても可愛らしい。無邪気で、優しくて、本当に楽しそうで。

 だけど、わたしは知っている。

 彼女の別の一面を知ってしまうと、こんなふうに楽しいばかりではないということを。

 寒くて暗くてどす黒いドロドロとした負の感情が、時折キヨさんの中で渦巻いている。感情と呼べるものなのかどうかはわたしにはわからないけれど、とにかくそれは、とても嫌な時間だと思うのだ。

 わたしたちはそれを、認知症と言っている。

 これまで出来ていたことが出来なくなったり、直近の記憶がぽっかりと抜け落ちたり、忘れてしまったり……最近でこそキヨさんは楽しそうに過ごすことができるようになったけれど、それはわたしたちが認知症に気付いたからだ。キヨさんはまだ、自分が認知症だということを理解していない。どうしてか忘れっぽくなった、色々と出来なくなったということはわかっているようだけれど、すべて歳のせいだと彼女は思っている。

 そう遠くない未来にいつか事実を話すべき時が来るだろう。だけど今はまだ、告げるべきではないとの判断が出ている。それはわたしたちスタッフの判断ではなく、キヨさんの遠縁にあたる人の希望でもある。

 笑っているキヨさんは可愛い。

 わたしはキヨさんに笑みを向けた。

 あれこれ悩んでいて真実を告げる時はやってくるし、それはわたしが思い悩むことではない。

「もう一個食べますか」

 尋ねるとキヨさんはうん、と大きく頷いた。

 わたしはドーナツの乗ったお皿をキヨさんのほうへと差し出した。

「どうぞ、長田さん」

 キヨさんは嬉しそうにドーナツを手に取った。

「ありがとう」

 優しい笑顔が、目に眩しい。

 わたしは目を細めてドーナツを頬張るキヨさんを見つめた。

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