夜獣

しらす丼

夜獣

 辺りには黒がすっかりととけ込んでいる。歩を進めるごとに吹く風の細かな冷刃が私の頬をひりりと斬りつけていた。


「なんでこんな時間に出てきちゃったんだろうなあ」とため息を一つ。


 時刻は深夜零時。私は一人、如月特有の寒さに身を震わせ、暗い夜道を進んでいた。


 こんな時間に家を出てきた理由といえば、近くの自動販売機に向かうため、というとても単純なものだった。


 しかし、今日はいつにも増して風が強く、出てきたことをすでに後悔し始めている。


 本当は家でぬくぬくとインスタントコーヒーを飲もうとしたのだが、うっかり替えを買い忘れていたらしい。コーヒー瓶の中はすっからかんだったのだ。


 そこで諦めれば良かったものの、どうやら私の口はコーヒーを含まずにいられなかったようだ。


 本体である私の思考はまんまとコーヒーを求めるその口に乗っ取られ、こうして真冬の夜道を歩かされる羽目になったのである。


「昼間は工事音とかが聞こえて騒がしいのに、真夜中は人の気配すら感じないくらい静かなんだなあ」


 周囲にある家屋に目を向けながら、私はゆっくりと足を動かしていく。


 踏み出す一歩一歩の足音は、鳴った途端にその場を支配する静寂に吸い込まれ、存在を失っていくような気がした。


 そのまま私の存在までもを吸い込んでしまうのではないか、という思いすら抱く。


 小さな石粒を踏みつけ、突として鳴った異音にギョッとし、片足を上げながら思わず飛び退いた。


 辺りをきょろきょろ見回し、誰もいないことを確認してからホッと息をつき、私は再び歩みを進める。


「なんだよぉ、びっくりしたじゃんか……」


 胸に手を当ててみると、激しく鼓動が波打っていた。


 夜道を一人で歩くというのも怖いけれど、前後左右から見えない何かが迫ってくるような感覚に恐ることもある。夜は何が起こるかわからないのだ。


 そんな人気ひとけのない夜道は、雲がかかった月からのわずかな明かりとポツポツとある街灯のみ。


 雲のかかった月明かりは心許なく、意外と明るい街灯の照度に助けられているのが現状だった。


「ああいうのを朧月って言うのかな。家の窓から覗くと綺麗なんだろうけどなあ」


 月を見上げ、ぽつりとこぼした。こんな幻想的な月の夜には、何かが起こりそうな予感がしてならない。


 こんなにも月やら周囲の様子に何かを感じながら歩み進めてはいるものの、実のところ深夜の出歩きは今日が初めてではない。


 一週間に一度くらい経験しているのだが、なぜか今日の夜だけは特別だった。


 いつものように人の気配は無い。けれど、代わりに人にはない気配がこの場を支配しているような感覚が有る。


 息を潜め、姿を隠し、獲物を確実にとらえる瞬間を狙っているような、そんな不気味な気配も。


 潜んでいた恐怖がここに顕現し、私の身体を包みこまんと手を伸ばしてくる。私はそれを避けるように足を早めた。


 そしてしばらく進んだところで、一度キョロキョロと辺りを見渡す。


 よかった、どうやら巻けたようだ。


 ほっと息をついていると――バタン、バタン。

 遠くの方でそんな物音が聞こえ、私はビクッと肩を震わせた。


 それから背後から吹きかけられた何かに、ハッとして振り返る。


 そこには――何の姿もなかった。


 しかし、私の耳は確かにそれを感じている。

 人ならざるものの、不気味な息遣いを。


 そういえば昔、おばあちゃんから聞いたことがあった。


 姿がなく、現世うつしよに存在しないはずの獣。深夜にだけ徘徊する闇の使者――それが、夜獣だと。


 そいつが私を狙っているのだ。


 カラコロと響く物音はにじり寄るときの足音。ごうごうと鳴る風音は威嚇のための咆号だろう。


 すでに逃げ場がないことを、私に伝えているつもりか。


 ヒヤリと頬を何かが撫でる。思わず飛び上がり、撫でられた頬を押さえ周囲を見渡した。


 しかし、そこには何もない。黒が溶けた空間が広がっているだけ。


「なんだよ、もう」


 それから私は、辿り着いた自動販売機でホットのブラックコーヒーを購入し、それをポケットに突っ込んだ。


 そして、再び同じ道を戻っていく。


 遠くで鳴る物音を耳にし、頬を刺すような冷風を受けながら私は一歩一歩確実に家へと近づいていった。


 大丈夫。後は家に帰るだけ。


 だが、家につく直前。ひときわ大きな物音がした。思わず息をのみ、振り返ると――。


 刺すような突風が、私の全身を襲うように吹き抜けていった。


 息が出来ない。殺される。直感的に私はそう、思った。


 それから声も出せないまま、私は押し倒されるようにして尻もちをつく。


 そして起こったことを理解できずに、その場で目を白黒させるだけだった。


 すぐに理解はできずとも、これだけのことはわかった。


 ――私はちゃんと生きている、ということは。


 それから私はゆっくりと辺りを見回した。まだ私を襲った何かの残滓が見つけられるかもしれないと思ったからだ。


 しかし、すでにその場には何もなく、いつものように黒が溶けているだけだった。


 そしてふと我にかえると、急に尾てい骨あたりが痛みだした。


「いてて、骨折してなきゃいいけれど」


 お尻をさすりながら立ち上がり、私はまた歩き出す。


「でもさっきのって、もしかしておばあちゃんが言っていた……」


 目には見えない夜の獣。


 もしかしたら私は、見えないその存在に一瞬だけでも触れることが出来たのだろうか。


「まさかね。そんなオカルト、ありえないか」


 そして私は進む。黒が溶けきった、夜の道を。そこに潜む、見えない何かの気配に気づかないまま。



(了)

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

夜獣 しらす丼 @sirasuDON20201220

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ