第2話


ここは、小さな町の路地裏にある、小さな喫茶店。

「名前のない喫茶店」。看板は無い。

私はその喫茶店の、雇われマスター。



選ばれた者だけに見えるらしい、このお店。

場末のスナックを思わせる、窓の無い外観。

建物のわりに、妙に重厚感のある扉。

その扉には似つかわしくないドアチャイム。



ある人は私を若い女性だと言う。またある人は、髭を生やした初老の男性だとも。

どうも、見る人によって姿が変わるようなのです。

お客様は来たり、来なかったり。

それでもなんとか営業できている。ありがたことです。




あ! お客様がいらっしゃったようです。




カラン・コロン


「いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ。と言っても、椅子は一つしかないんですが」


そう言って私は、カウンター越しに目の前の椅子を案内しました。




「すみません。道に迷ってしまったようで……」


 二十代後半くらいでしょうか? まだ若く可愛らしい感じの女性です。


「まあ、それは大変でしたね。この時間はもう少しすると霧が出てきます。危ないですので、霧が晴れるまで少し休んで行かれたらどうですか?

 良いのか悪いのか、他にお客様もいらっしゃいませんし、気兼ねは要りませんよ」


 私は安心させるように女性に微笑みかけました。

 慣れないことをして、笑顔が引きつっていないと良いのですが。


「じゃあ、お言葉に甘えて、少し休ませてください」


 そう言ってお客様は、一席しかない椅子に腰を下ろしました。

 この季節には似つかわしくない、軽装な装いですね。寒くはないのでしょうか?

 ご自分の背に背負っていたリュックをカウンターに置くと、少しだけ身なりを整え始めたようです。

 それが落ち着いた頃、私はお客様の前にお品をそっとお出ししました。


「ブラックコーヒーでございます」


 お客様は差し出した真っ黒い液体をじっと見つめています。


「やっぱり。ここは『名前のない喫茶店』なんですね」


「ええ。間違いなく名前のない喫茶店でございます。

看板も上げておりませんし、特別な名前は付けてないんですよ」


 私は優しく彼女に語り掛けます。どうやら、相当に緊張をされておいでのようですので、少しでも心を解していただきたいと思いました。


「ブラックコーヒーはあの人が好んで飲んでいました。私には苦くて、美味しさがわからなくて、全然飲んだことないんです」


「まあ、そうでしたか。ですが、当店のメニューは『店長のおすすめ』これ一つだけなんです。申し訳ありません」


「いえ、大丈夫です。これを飲むことに意味があるということでしょうから。

 いただきます」


 お客様はカップを手に取ると、恐る恐ると言った感じでひとくち、ゴクリと飲み込まれました。


「ああ、やっぱり苦いですね」

 そう言いながら、顔をゆがめ無理に笑顔を作られております。


 カップを置き、顔を上げたお客様の顔が驚きとともに、少し興奮したように私を見ながら名を呼ばれました。


「トオル」


 その頬は紅潮したように色を染め、お客様の顔もほころんでいくようです。


「やっぱり会いに来てくれたのね? 最後だから、せめて最後に会いたいって言う私の我儘を聞いてくれたのね。嬉しい。ありがとう」


 お客様はカップを握りしめ、ポトリとカウンターに涙を一粒こぼされました。

 とても会いたかった方の姿を私に映しているようです。


「トオルが居なくなってから、私、どうして良いかわからなくて。ずっと泣いて、泣いて、泣いて……。

 でもね、どんなに悲しくて、悲しくてこんなに辛いのに、それでも眠れてしまうの。

 夜になれば眠れてしまって、朝になれば目が覚めるの。辛くて、このまま目が覚めなければ良いと思うのに、それでも朝には目が覚めてしまう。


 目が覚めれば、何もしていないのにそれでもお腹が空くの。

食べたいものなんか無いし、食べたくないはずなのに、自然にお腹が空くの。


 日にちが経てば、どうしたって普段の生活をしなくちゃいけなくて、本当はずっとあなたのそばに居たいのに、あなたをずっと想っていたいのに、それなのに周りがそれを許してくれなくて。こんなに辛いのに……」


 お客様は流れる涙を拭おうともせずに、目の前の方に向かって切々と訴えています。


「早いもので、もう一周忌も済んだのよ。あなたのお骨も、もうあの家にはないわ。

 あなたのお母さんが寂しがるからって、納骨を待っていたみたいだけど。一周忌と一緒に納骨もすませてしまったの。

毎週、休みの度にあなたに会いに行っていたのに、もう会えなくなってしまったわ。

 こんなことなら、あなたの骨をこっそりもらっておくべきだったと思うの。

 そうすれば、ずっと一緒でしょう。ううん、食べてしまえば良かった。そうしたら、本当の意味で私達一つになれたのに。でも、もうそれも無理ね」


 寂しそうな顔をされ、両手で抱えていたカップを握りしめ、ブラックコーヒーをもうひと口飲まれました。


「先週の日曜日。あなたのお母さんに呼ばれてね、あなたの家に行ったの。

 そうしたらね、何て言ったと思う?

『あなたはまだ若いから、トオルのことは忘れて生きて欲しい』って、面と向かって言われたわ。そんなこと言われた私の気持ちがわかる?

 お母さんはね、笑って言うの。あなたのことが忘れられなくて、こんなに悲しくて辛い私に笑って言うの。忘れろって。忘れて前を向いて生きてくれって。


 そんなの……、無理にきまっているのに。お母さんだけはわかってくれていると思ったのに、それなのに、笑って言うのよ。この私に……」


 とうとう、お客様はたまらず目の前の私に手を伸ばされました。

 私は目の前に立ちながら微動だにしません。お客様の手を取ることも、避けることもしません。

 ですが、お客様の手が私に届くことは、触れることはないのです。


「どうして? こんなに近くにいるのに。目の前にいるのに。どうして触れないの?

 いつもみたいに手を握ってよ! 名前を呼んでよ! 

 しょうがないなって、笑って頭を撫でてくれたじゃない。

 恥ずかしいから人前で手を繋いではくれなくても良い。我慢する。

 好きとか、愛してるとか、そんな言葉もいらない。

わかってるから、あなたも私を好きな事、ちゃんとわかってるから。

 だから、我慢するから。我慢できるから……。



 私を、私を、一緒に連れて行って。


 何にもいらないから。他にわがまま言わないから。

 一緒に、居たいの。

 それだけなの。


 お願い。連れていって……」




 もう、お客様の目に涙はありません。

何かを固く決意したような瞳は、意思を持ったように強く輝いています。

 

 

「しょうがないな。こんなことになるんじゃないかって思ってたんだ。

 君は僕がいないとダメだから。だから、長生きしなきゃって、ちゃんと思ってたんだ。

 僕だってこんなことになるとは思っていなかった。ホントだよ。

 それより。あの子、無事だった?」


「うん。トオルが助けてあげた子は無事だった。擦り傷とかはあったけど、ちゃんと普通に歩いてお葬式にも来てたよ。

 でも、顔に大きなガーゼをあててたから、顔に怪我が残るかもって」


「そうか、それは申し訳ない事をしたな」


「ううん。そんなことないよ! 

男の子だし、顔の怪我を見る度に思い出して、道路では気をつけるって言ってたし。

 それに、将来はおまわりさんになるって。事故の無いように、見守るって。

 トオルにありがとうって言ってた」


「そっか。こんな僕でも、少しは役にたてたんだね。良かった」


 お客様の視線は熱く、どこまでも強い眼差しです。


「私、一緒に行きたいの。もう、ひとりになりたくない。

 誰に何を言われてもいい。だから、だから、連れて行って。ね? お願い!」


「一度言い出したら聞かないからな。わかったよ。

 ちゃんと、待ってる。待ってるから、気をつけておいで」


「トオル……。ありがとう、私の我儘聞いてくれて、ありがとう。ありがとう」


 お客様はそっと俯き視線を下ろすと、目の前のブラックコーヒーを一気に飲み干しました。そして見上げた視線の先に映るのが、「トオルさん」ではないことに少し驚かれたようですが、すぐに納得されたようにコクリと頷かれました。


 もう乾ききった目元を手で拭うと、お客様の顔には笑顔が輝いています。




 求められる幻が見えるのは、お出ししたコーヒーを飲み干されるまで。

 飲み干せば、私は元の姿に戻るだけ。



「ごちそうさまでした。苦かったけど、美味しかったです」


「それは良かったです。ちょうど霧も晴れたようですね。気をつけてお帰りください」




カラン・コロン



 最後に満面の笑みをこぼし、私に頭を下げられました。


 そして重い扉を開けると、お客様はお帰りになりました。









『ドンドン!! ドンドンドンドン!!』


 ガラスを叩く音に驚き、女性は思わず振り返る。


「え、なに? ここは……、公衆電話?」


 女性は公衆電話の受話器を手に、呆然と立ち尽くしていた。

 何故こんなところに居るのかも? なぜ公衆電話の受話器を握りしめているのかもわからない。


 何が何やらわからない女性の後ろで、公衆電話の扉が開いた。


「大丈夫ですか? 俺は怪しいものじゃありません。この町で商売をしている者です。

 今、仕事帰りに通りかかったら、あなたの姿が見えて。 

 落ち着いて。まずはその受話器をおきましょうか」


 青年と呼ぶべき年齢の男性に突然声をかけられ、女性は驚きと戸惑いながらも、言われた通りゆっくりと受話器を元に戻した。


「俺は決して怪しい者じゃありません。これ、免許証。

 この町で生まれ育って、今は自分で店を持ってる者で、悪いことをしたらすぐに身バレしてしまうから変なことはしないと約束します。

 良かったら、落ち着くまで俺の車に乗りませんか? この季節はまだ寒いから」


 優しくほほ笑む男性は、女性にその手を差しだした。

 普段なら、この手の者には毅然とした態度で接するのだが、この時ばかりはなぜか彼女は彼の手を取り、言われるままに公衆電話を後にするのだった。


 男性の車の助手席に誘導されるままに座ると、男性がドアの上から覗き込むように、問いかけてくる。


「何か暖かいものでも飲みましょう。何が良いですか?」

 

 そう言って指さした先には自動販売機。

 女性は「ブラックコー……」と言いかけて、「いえ、何か甘い紅茶を」

「わかりました。甘いやつですね」言いながらドアをバタンと占めると、駆け足で自動販売機に向かっていた。

 そんな男性の後ろ姿をぼんやりと見ながら、女性は自分の顔が薄っすらとほほ笑んでいるのに気が付いた。 

 こんな気持ちになるのは、どのくらいぶりだろうか? それに、自然に顔に笑みが零れたのはいつぶりだろう? もう、ずっと思い出せないほどだと考え始めていた。


「お待たせしました。ミルクティーで良かったですか?」


「はい。ミルクティー、大好きなんです」



 男性からミルクティーのペットボトルを受け取った女性の顔は、少しだけ頬を赤らめ、恥じらうような自然な笑みを浮かべていた。

 そんな女性の顔を見た男性はそっと視線を反らしながら、同じように目じりを赤らめると、優しい眼差しでもう一度女性を見つめるのだった。





 その後ろ姿を遠くから見つめる影がひとつ。

 影がふと視線をずらした公衆電話には『いのちの電話』の文字。

 しばらく止まっていた車が動き出すまで、その黒い影は見守る様に佇んでいた。

 






 会いたい人の幻が見える喫茶店。

 でも、その人はもうこの世に存在しない人。

 会えるだけ。話しをすることはできない。

 その人の声は、自分の心の声。

 欲しい言葉を、その人が紡ぐだけ。

 都合の良い幻。

 それでも良いと、訪れる人たち。


 報酬は、あなたのわずかな記憶。


 今日、この店に来たことは覚えていない。

 これから先も思い出すことは無い。

 

 そして、一番大事な記憶をほんの少しだけ。



 これから先の人生で、一番大事な記憶を頂戴いたします。

 あなたの人生が大きく変わるかもしれないし、変わらないかもしれないし。

 それは誰にもわかりません。




ここは、小さな町の路地裏にある、小さな喫茶店。

「名前のない喫茶店」。看板は無い。




 もし、たどり着くことが出来れば、わたくし雇われマスターがお相手いたします。




 カラン・コロン



 おや。どうやら、お客様のようですね。



「いらっしゃいませ」



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名前のない喫茶店 蒼あかり @aoi-akari

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