名前のない喫茶店
蒼あかり
第1話
ここは都会の路地裏にある、小さな喫茶店。
「名前のない喫茶店」。看板は無い。
私はその喫茶店の、雇われマスター。
選ばれた者だけに見えるらしい、このお店。
場末のスナックを思わせる、窓の無い外観。
建物のわりに、妙に重厚感のある扉。
その扉には似つかわしくないドアチャイム。
ある人は私を若い女性だと言う。またある人は、髭を生やした初老の男性だとも。
どうも、見る人によって姿が変わるようなのです。
お客様は来たり、来なかったり。
それでもなんとか営業できている。ありがたことです。
あ! お客様がいらっしゃったようです。
カラン・コロン
「いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ。と言っても、椅子は一つしかないんですが」
そう言って私は、カウンター越しに目の前の椅子を案内した。
「ここは、名前のない喫茶店だと聞いて来たんですが」
そのお客様は、年齢的に言えば40代後半から50代前半くらいでしょうか? ビジネススーツを着た姿は堂に入ったもので、働き盛りの男性のように見えます。でも、後ろ頭は一房寝ぐせがピンと立っていますし、目の下に薄っすらとクマがありますね。少しお疲れでしょうか?
そんな彼が、おずおずと様子を伺うように聞いてきました。
「ええ、間違いなく名前のない喫茶店です。
立ち話もなんですから、どうぞお掛けになってください」
お客様はコートは脱ぎながら、椅子に腰かけられました。
「マスターのおすすめをいただけますか」
「はい。かしこまりました」
言いながらコーヒーの準備にかかる。この店のメニューは一つだけ。
『マスターのおすすめ』のみ。
お客様が椅子に腰かけるのを確認して、目のまえにコーヒーをお出しする。
今日のコーヒーは砂糖とミルクたっぷりの甘いコーヒー。
「ああ、甘いですね。彼女が好きなヤツです。あいつはいつもこんな甘いコーヒーを飲んでいたんですね」
そう言いながらカップから視線を上げ、目の前の私と目が合いました。
彼は目を大きく開け広げ、驚いたように私を見つめます。
「加奈。加奈なのか?
ああ、そうか、そう言う事か。君はあの時から変わらないんだね。僕だけが歳をとっていくのか」
目の前に座る彼の瞳には、加奈さんと言う方の姿が映っているようです。
「あれから8年だ。さくらも高校を卒業するよ。大学には行かず結婚したいと言い出してね。
なんとかそれは思い留まらせて、専門学校に行くことになった。
付き合っている人が美容師らしくて、一緒に店を開きたいって言って、美容師の学校に行くことになったんだ。
散々浮気をして君を苦しめた僕が言える立場じゃないから、さくらがどう生きようと僕には何も言えない。
でも、さすがに高校卒業してすぐに結婚なんて早すぎだろう?
それを止めた僕は間違ってないよな?」
お客様は私の目を見つめながら問いかけてきます。でも、私にはお答えする権利を持ち合わせてはおりません。
ただ、目の前のお客様に笑みを浮かべるだけです。
「そうか、良かった。間違ってなかったんだな。安心したよ。
僕は男だから娘の事は全然わからなくて、この8年間苦労したんだ。
君が嫌がると思って、僕の母を家に上げることはしていないよ。
時折、君のお義母さんに来てもらって手伝ってもらったりしていたんだ。
さくらもそれなりに反抗期はあったけど、それでも彼女なりに家の手伝いもしてくれたし、勉強もちゃんとしていたみたいだ。大丈夫、ちゃんと良い子に育ったよ。
最近は、ふとした表情が君に似てきたみたいだ。
僕を叱る口調も、君を思い出させるんだ」
お客様は甘いとおっしゃるコーヒーをひと口飲まれ、「やっぱり甘いな」そう言って、嬉しそうに笑われました。
「君は僕を恨んでいるんだろう? 幸せにすると誓って一緒になったのに、君には辛い思いばかりをさせてしまった。酷い男だと思う。
仕事が順調で、家庭も安定して、本当ならそれで満足するべきなのに、あの時の僕はそれが全て自分のおかげだと本気で思っていたんだ。
何をしても上手くいくと、失敗なんてしないって思っていた。
本当はそんなことないのにな。家庭が安定しているのは、君が守っていてくれたからだ。
だからこそ、仕事に集中して良い結果が出せていたのに。
そんなことも気が付かないほどに、あの頃の僕は調子に乗っていたんだろう。
愚かなことだよ」
「あの時の彼女たちとは、すぐにみんな別れたよ。
きっと、彼女たちも仕事の出来る男の不倫相手になりたかっただけなのかもしれない。
カッコいいとでも思っていたんじゃないかな?
君がいなくなってから、関わるなと言われたこともあるし。
僕の存在なんて、そんなもんだったんだよ。
だから、君が気に病む必要なんてなかったんだ」
「いや、違う。そうじゃない、君は悪くない。そう、勘違いをしていた僕が全て悪いんだ。
君がいなくなって、僕は初めて君を知った気がしたよ。
君が残した物をひとつ、ひとつ確かめた。鏡台の中も、キッチンの引き出しも。クローゼットの中の君のバッグの中も見た。
君を知る物など何もないのに、君が溢れてくるようだった。
君の思いをしたためた日記も手紙もない、なのに君はそこかしこに、その存在を塗りたくるように残していた。
僕の着替え一つにも君が見える。さくらのおもちゃにも君が聞こえる。
料理をしていても、洗濯をしていても、君が消えてはくれなくて……。
僕は、初めて君に恋をしたのかもしれない」
「あの日、あれは本当にただの事故だったんだろうか? それだけがどうしても気がかりで、忘れさせてくれないんだ。
さくらも周りも気が付いていないから。僕が浮気をしていたってことを……。
だから、君は単独の事故だったと思われているけど、本当にそうなのかな?
僕を憎むあまり、僕を苦しめる為にわざと……。
いや、そんなことはないよな。君は自ら命を捨てるような人じゃないと信じてる。
僕はまだしも、さくらを残していくはずがない。あんなに可愛がっていたんだから。
すまない。君の顔をみたら、つい」
「さくらがお嫁に行ったら僕は一人ぼっちだな。あの家に僕ひとりは寂しすぎるよ。
僕も早く君のそばに行きたいけど、今度は孫の顔をみたい欲が出てくる。
君の代わりに、さくらの子の顔を見るのも良いかもしれない。
そしてその後は、君は僕を待っていてくれるだろうか?
こんな僕を憎まずに待っていて、手を伸ばしてくれるだろうか?」
『あなたを恨んでいないとは、決して言えないわ。
でも、もう少し時間が経てばわからないけど。そうね、あなたの寿命が尽きる頃になれば、私の気持ちも変わるかもしれないわね。
その時にはさくらの子も大きくなっているでしょう? そうしたら、たくさん話を聞きたいわ。
それまで、ずっと待ってる。約束よ』
「っつ! わかった。君の元に行くのはもう少し後になりそうだが、それまで懸命に生きるよ。さくらのために、僕は生きると約束する。
だから、もう少し待っていてくれ。もうしばらく一人にさせてしまうけど、許してほしい」
目に涙をためたお客様は、掠れた声でささやかれました。
そして、甘いとおっしゃったコーヒーを全て飲み干されました。
「ありがとうございました」
「あ! もう、お終いなのですね……。でも、お陰様で前を向いて歩けそうです。
こちらこそ、ありがとうございました」
求められる幻が見えるのは、お出ししたコーヒーを飲み干されるまで。
飲み干せば、私は元の姿に戻るだけ。
「また、来てもいいでしょうか?」
「ええ、たどり着くことが出来れば、いつでもお待ちしております」
「ごちそうさまでした。美味しかったです」
カラン・コロン
重い扉を開けて、お客様はお帰りになりました。
「え? ここは? 僕はなんでこんなところに?」
キョロキョロと辺りを見回す男。今くぐったはずの扉はもう見えない。
腕にはめた時計を見る。時刻は17時過ぎ。
「ヤバい! 晩御飯の準備をしないと、さくらが帰って来…る?。
え? さくらって、誰だっけ? 晩御飯の準備なんて、この僕が? おかしいだろ。
それより、社に戻らないと。ついでに二課の宇木君を誘ってやるか。
あいつ、絶対僕に気があるから、うまく行けば家に誘えるな。
いや、家はダメだ。恋人面で勝手に入り込まれちゃかなわん。あいつは遊びと本気の区別がつかなそうだからな。安ホテルで十分だ。
ずっとご無沙汰だったから、たまには良いだろう? どうせ、寂しい独身貴族。
久しぶりに謳歌してやるか」
男はニヤついた顔で、嬉しそうに最寄りの駅に向かって歩いていた。
今、行った店も、会った人も、すべてを忘れたように。
その後ろ姿を遠くから見つめる影がひとつ。
男が歩き出すと影もまた、振り返り反対方向へと消えて行った。
黒く映るその口元は、口角が上がったように見えた。
会いたい人の幻が見える喫茶店。
でも、その人はもうこの世に存在しない人。
会えるだけ。話しをすることはできない。
その人の声は、自分の心の声。
欲しい言葉を、その人が紡ぐだけ。
都合の良い幻。
それでも良いと、訪れる人たち。
報酬は、あなたのわずかな記憶。
今日、この店に来たことは覚えていない。
これから先も思い出すことは無い。
そして、一番大事な記憶をほんの少しだけ。
これから先の人生で、一番大事な記憶を頂戴いたします。
あなたの人生が大きく変わるかもしれないし、変わらないかもしれないし。
それは誰にもわかりません。
ここは都会の路地裏にある、小さな喫茶店。
「名前のない喫茶店」。看板は無い。
もし、たどり着くことが出来れば、わたくし雇われマスターがお相手いたします。
カラン・コロン
おや。どうやら、お客様のようですね。
「いらっしゃいませ」
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