第11話 殺意

「おはようございます」

 啓治は晴れやかな気分で出社した。空は生憎の曇り空だが、安いビジネスホテルからの道のりは啓治にとって明るいものだった。

 啓治のポケットには電池を外した盗撮用カメラがあった。生憎記録した映像の書き出し方法が啓治にはわからず、その内容を見ることは出来なかったが、細川を揺さぶる武器としては十分だろうと思って持ってきたのだった。

 おはよう、と既に出社していた同僚の何人かが返事をした。それを横目に啓治は自分のデスクに座り、パソコンを起動する。珈琲を飲みながら細川のデスクに目を向けた。

 まだ細川は来社していなかった。空の机を見ながら、啓治は珈琲を飲み干す。

(この前のことがあるから、今日は休んで様子見か?)

 それならそれでいい。明日、明後日と来なければ上司の片山が動くし、長期間の理由のない休暇は彼女自身を不利に追い込むだけだ。

 来ても、来なくても、啓治はもう家にはいないのだから細川に盗撮の弱みを握られる心配はなかった。それに対して細川の方は、啓治に対する加害行為の証拠がこちらに揃っている。どちらにしても啓治が有利であることには変わりがない。啓治は小さくほくそ笑んだ。

 その時、始業を知らせるチャイムの音が放送用スピーカーから流れた。始業時間から一分過ぎても、細川は姿を見せなかった。

 チラリと片山に目を向けると、彼は目を細めて細川のデスクを見ていた。その苛立たしげな表情から細川は片山にも黙って無断欠席をしているのだと気づいた。

 啓治は愉快な気持ちでいた。加虐性の愉悦。啓治の中で満ちる幸福感の正体はそれだった。しかし、啓治はそれを自覚してはいなかった。自分の中のその残酷な精神性には無頓着で、ただ細川が不利な状況に落ちれば落ちるほど彼はちっぽけな愉悦を感じるのだった。

 案の定、部署別の朝礼を始めた時、片山がメンバーの全員を見渡して尋ねた。

「誰か、細川から休みの連絡が来ているやつはいないか?」

 全員が顔を見合わせて首を振る。特に誰も連絡を受けていないようだった。

 片山は小さく舌打ちをして「寝坊でもしたか?」とぼやいた。

(違う、俺に会いたくないから来てないんだよ)

 啓治はそう思って笑った。あとで彼女に体調を気遣う電話をしてやろうか、もしくは片山に細川の犯した啓治への加害行為の一旦を密告してやろうかと考える。

 ――人に嫌がらせをする行為はこうも気持ちがいい。

 罪悪感さえ覚えない限り、啓治に心地よい快感と中毒性を与えてくれる。いずれ、その行為が恐ろしい形になって自分に返ってくるのでは、などと嫌がらせをしている間は露とも思わないのだ。

 啓治は窓辺に立つ。今日は比較的業務に余裕があった。この前問題を起こした新人も少しは反省したのか大人しくなっていた。

 窓の外は赤いテールランプを残しながら走り去る車の影で満たされていた。通行人の数もまばらだ。傘を差している人が多く、彼らの足元に広がる路面は濡れているように見えた。

「……あぁ、雨が降りはじめたのか」

 通勤していた時には降っていなかった。いつから降ってきたのだろう。

 窓ガラスに触れると少し冷たかった。小さな雨粒が窓をしとしとと濡らしているのが見える。

 少しずつと夏の暑さが引いていき、秋の匂いがし始めている。青い葉が枯れて、虫が地に潜り始める夕暮れの季節。

 啓治はしばらくの間、無言で窓ガラスに跡を残す雨の雫を眺めていた。

 ちらりとフロアに目を向けると、片山が自分の座席で貧乏ゆすりをしている振動音が聞こえた。

 片山は気の短い男だった。彼は元々営業課の人間で、デザイン部のまとめ役として配属された。社内外関わらず打ち合わせの立ち回りがうまく、部の窓口として重宝されていたが、気の短さと部下への理不尽な言葉が度々問題となる人間だった。彼のせいで何人もの若手社員がこの会社から立ち去っていった。

 そんな片山の気の短さの面倒を見てくれていたのが細川だった。彼女は片山の席に近いこともあり、よく彼の話し相手になっていた。すぐ暴言を吐く片山をいつも細川がなだめて落ち着かせていた。

 彼女は入社当時から片山に気に入られ、良い意味でも悪い意味でも可愛がられていた。機嫌が良い時の片山は真っ先に細川へお土産を渡すしよく笑う。しかし機嫌が悪い時には細川の電話を取る一挙手一投足まで貶す。

 そんな暴言に細川は笑顔でやり過ごす。彼女はよく耐えていたと啓治は思った。細川は嫌なことがあるとよく笑った。笑って相手の言葉を受け流してやり過ごし、デスクに戻ると眉間に指を当ててしばらくの間俯くのだった。

 一度、「嫌なことは嫌だと言わないとダメだよ」と啓治が細川に言ったことがあった。それに対して彼女は少し笑うと「柳さんは男だし、マイペースなキャラだから」と言った。啓治にはその言葉の意味を未だに正確に捉えることができずにいる。しかし、それでも彼女が抱えているものの一端が見えたような気がした。

 今頃のように啓治は、細川が哀れだと思った。いつも彼女に社内の人間関係での理不尽を被らせているように感じたのだ。啓治はポケットに入った機械を指で弄ぶ。

(もう少し、様子見してもいいか)

 啓治はそう思った。決して彼女を片山との関係から救うつもりはなかったが、今後は少しでも細川の負担を減らして、お互いにいい関係を築けたらと思った。

 そろそろ仕事を始めなければならない。片山の機嫌も悪く、いつこちらに理不尽な怒りが飛んでくるかもわからない。啓治は軽く伸びをしながら、窓から覗く暗い雨雲を見上げて、デスクに戻ろうとした。

 その時、目の前にサッと影が通り過ぎていった。雨が降る景色の中、雫と共に真っ黒なその塊は啓治の目の前を上から下に向かって一直線に走り去っていく。啓治はその影を無意識に目で追い、その黒い闇の中に二つの瞳があることに気づいた。

 啓治の視線と、影の中にある眼が重なり合う。瞳はうっすらと笑うように細められたように啓治には見えた。

 あまりに突然のことで体が固まる。次の瞬間、下方で水風船が割れるような音と、車が何かに衝突する激しい音、そして金切り声が聞こえてきた。

 デスクにいた同僚たちがぞろぞろと啓治の目の前の窓辺に集まり、そして小さな悲鳴を上げる。「警察」という声と「いや、救急車」と狼狽える交差する声を聞きながら、啓治は体を動かせずにいた。

『自殺』という言葉がまず浮かび上がる。そして次に浮かんできた言葉は『細川』だった。先ほど落ちてきた影の髪は長かった。落ちる直前啓治を見て笑った瞳はよく知った目のように見えた。

 啓治は震える身体を動かして窓辺に近づき、眼下の景色を見下ろした。

 窓の真下には人だかりが出来つつあった。その中央に赤黒い血だまりが広がっていた。雨粒が落ちる毎にひたひたと波紋を広げるその血だまりは、曇り空の灰色に塗りつぶされた景色の中で一際目を引いた。そんな赤の真ん中に横たえる一人の女。それは、細川が会社に着てくるブラウスの色によく似ていた。

 啓治の意識はぷつんと切れてしまった。



 夢を見た。

 赤い血だまりがあった。

 いや、血だまりだと思ったそれは、よく見たら真っ赤な夕日だった。燃えるように、沸き立つように、赤い夕日が揺らめいている。

 夕日が眩しくて目をそらすと、美咲の顔がすぐ近くにあった。彼女は今にも何か言おうと口を開きかけている。それがゆっくりとスローモーションな動きで見えた。そして、啓治は彼女がこれからなんと言おうとしているのか知っている。何度も夢で聞いたのだからわかっていた。

 いい加減にしてほしいと思った。夢といえども、こう何度も出て来られては見る方も飽きてしまう。

(……早く、黙ってくれないかな)

 そう思った時、啓治は「そういえば」と思い出した。

 ――他人に対して初めて殺意を抱いたのは、きっと高校生の頃の、この日だった。

「――それってさぁ、パクリなんじゃないの」

 何度聞いても美咲のこのセリフは啓治の首筋を嫌な肌触りで撫でていく。

 蝉の声がよく聞こえた。赤い滲みはいつの間にか消えて、よく見た学校の教室の風景に啓治は閉じ込められていた。

 啓治は自分の手元に置かれた写真と賞状を見る。写真には笑顔の啓治と、入賞した絵が並んで撮影されていた。

 啓治は絵画コンクールの高校生部門で、初めて絵が入賞した。モチーフは滝だった。夏休みに山に迷った時に偶然見た滝を啓治は鮮明に記憶し、その思い出の景色を描いたのが入賞したこの滝の絵だった。絵筆を動かして、流れ落ちる水の流動や光の反射を啓治の可能な限りの技術で克明に再現した。啓治が今できる技を駆使した自信作だった。

 だが、美咲はそれを『模倣』だと罵った。美咲の目は怒りを抱き、侮蔑を込めて啓治のことを睨む。

「……もしかして、あんた気づいてないの?」

 美咲のその問いかけに、啓治は返答が出来なかった。あれほどうるさかった蝉の声がパタリと鳴き止み、同じ教室の生徒たちの声も潮騒のように遠ざかる。

 美咲の背後で真っ赤な夕日の空が、教室の窓ガラスを赤く染めていた。

 美咲はポケットに手を入れると、折りたたまれたメモ用紙を啓治に見せた。一目で、以前美術室でみのりが美咲に渡した絵が描かれたメモ用紙だとわかった。

 美咲はそれを啓治の目の前で開いてみせる。

 ――そこに、一つの滝の絵があった。

「あんた、みのりの絵をパクって賞とったでしょ」

 啓治は、何も言わなかった。何も言えなかった。

 それは、確かに啓治の描いた滝の絵と酷似していた。構図も似ていた。――絵筆と鉛筆という画材の違いから塗りの質感は異なるが、――水や滝の周りに生える苔の表現の仕方、それに絵画全体の空気感に、二つの絵は通ずるものがあった。

(そんなわけない)

 冷や汗が背中を流れ始めた。

 啓治の描いた滝の絵は、確かに自分自身の記憶から再現した絵のはずだ。この絵は啓治が山での経験を得て、自分の心に刻まれた感情を形にするために描いた絵のはずだ。

(……その、はずだ)

 そう答えようと顔を上げると、美咲の顔がすぐ目の前にあった。吐息も頬にかかるほど近い距離で彼女は啓治のことを穴があくほど見る。その目にはやはり非難の色があった。

「……あんたってさ。前から模写はうまいよね」

 突然美咲はそう切り出してきた。啓治は彼女の意図を掴みきれないまま頷いた。

「色彩構成とかデザイン発想とかは大してうまくもないし、構図決めも中々決まらなくってどんくさい。だけど『見たまんまの風景』を絵として紙に落とし込むことだけはうまいよね。だから比較的評価される風景画にばかり逃げていたんでしょう? 自分では自然のモチーフに惹かれると言いながら、結局自分に都合のいい評価が欲しくて風景ばかり描いていた。それ以外の能力を上げる努力はせずにさ……まぁ、それを悪いと言うつもりはないし、あんたなりの努力なんだろうと思うよ……けれど」

 美咲は力強くそのメモ用紙を机の上に叩きつけた。その音に隣の席にいた女生徒がびくりと肩を震わせる。

「あんたはその記憶力と描写力で、みさきの絵を盗んだ。――盗作で賞をとったんだ」

「違う!」

 啓治はやっと声を出すことができた。美咲を見上げて必死に弁明する。

「俺がみのりの絵をパクるわけないやろうが! 俺はこの絵をちゃんと自分の目で見た景色で描いたんや。みのりがお前に渡した絵とはなんも関係あらへん。単なる偶然や」

 それに、美咲は顔を歪めて怒鳴りかえした。

「嘘をつくな! この滝は、私とみのりが一緒に歩いた山で偶然見つけた滝を、あの子が描いてくれたものなんだよ。この滝は雨上がりの日にたまたま出来た天然の滝だ。次の日二人で見に行ったら無くなっていたから間違いない。誰も知るはずがない滝なんだよ。――そして、同時に私たちの思い出の象徴なんだ。それをあんたが知るはずないだろう」

 啓治は目を見開いた。違う、美咲は誤解している。全ては偶然なんだ。

 啓治も滝を見た。夏に遊びに行った山の中で、偶然見つけた滝を食い入るように眺めたことを覚えている。――そして、それと同じ滝を美咲とみのりも見たのだ。(ありえない)と思ったが、そうとしか思えない。みさきとみのりも偶然同じ山に同じ日の別のタイミングに入って、三人は同じ滝を見たのだ。そして偶然みのりと啓治はは同じ滝を絵に描いてしまったのだ。

「私があんたにみのりの絵を見せた時、あんたはちゃんと絵の詳細を見ていたんだろう。そして、記憶していたんだ。それを絵に再現してコンクールに出して賞を獲った」

「そんなわけないやろ! 偶然なんやこれは、少し落ち着け!」

 啓治は美咲にそう怒鳴りかえした。早く彼女を説得しなければ、と気だけが焦る。

 しかし、啓治の中で確信した考えは、急激にその輪郭を崩していく。

 ……本当に二人の絵が似ていたのは、偶然なのだろうか?

(偶然だ。そうに違いない。そうじゃないと、説明できないだろう?)

 ……しかし、仮に美咲たちと啓治が見た滝が同一のものだとして、それを啓治もみのりも、たまたま同じ構図、たまたま同じ雰囲気の絵を描き起こすなんてことがあるのだろうか?

 啓治は自分自身を疑った。「そんな偶然はありえない」という理由だけではない。啓治は確かに、みのりの描いた滝の絵を克明に思い出すことが出来たのだった。その事実が、彼の額に大粒の汗を作っていく。

 啓治はみのりの絵を見ていたのだ。そして、覚えていた。啓治がコンクールに向けてその絵を描いていた時、確かに彼の脳裏にはみのりが描いた絵が思い浮かんでいたのだ。

 だが、信じたくなかった。自分が必死になって表現したあの絵が、あの山で得た感動ではなく、他人の描いた絵をただトレースしていただけの盗作だとは思いたくなかった。山で見た自然への畏怖の念が、その程度の感動だったのだとは思いたくなかった。

 啓治は自分の才能を信じたかった。

「偶然だ。当たり前やろう……そうじゃなきゃなんだって言うんだよ。お前がなんと言おうと、俺はみのりの絵をパクったりなんかしてへん! この絵は間違いなく俺の中から生まれた創作なんだからな!」

 美咲はそんな啓治を心底軽蔑するように睨んだ。

「……あんた、みのりが死んだって聞いても同じこと言えるの」

 啓治は思わず目を見開いた。

「死んだ?」

 そう、と美咲は頷く。

「みのりはね、引っ越した先でいじめられて、そしてあんたに裏切られて死んだの」

 美咲は啓治に向かって唾を吐く。ワイシャツの胸についたその薄い滲みを啓治は眺めながら、美咲の言葉をぼんやりと聞いた。

「あの子はいつも悔しがっていた。私にメールで辛い、悲しいって毎日のように連絡してくれた。……でもね、あの子は決して負けてなかったの。この学校での私や啓治との思い出があるから、美術だけは諦めないって言っていた。美術大学に受験するために、絵の勉強も、コンクールも頑張る、だからまた大学生になったら会おうねって私たちは励まし合っていた」

 なのに、と美咲はそこで声を落とした。

「……コンクール後、突然みのりが私のメールや電話に一切返事をしなくなった。あまりに突然で理由がわからなかった。

 みのりの引越し先は県を跨いだ先だけど、それほど遠くはなかったから、私はみのりが通っているはずの美術塾に行った。……彼女の学校には行けなかった。もしみのりがいじめられている現場を見ちゃったら、それこそ私は耐えられなくなったから。……だからみのりが通っているはずの塾に行って、そこの生徒に声をかけたの。『みのり、どうしているの』って何気ない風を装って聞いた。そしたら、そこの生徒の奴なんて言ったと思う? 『みのり? あぁ、あいつのことか。なんか死んだらしいぜ』って……そんなバカみたいなことを笑いながら平然と言うんだよ」

 美咲は啓治の肩を強く掴んだ。

「いじめが辛かったのかと思った。耐えられない一線を超えてしまったのかと思った。でも、そうじゃなかった。あんたの絵を見てわかったよ。みのりはあんたに裏切られたことが苦しくて死んだんだ」

 静かに美咲は啓治のことを揺さぶった。いつの間にか教室の他の生徒が啓治と美咲のやりとりを窺うように見ているのがわかった。

 他人の視線が怖かった、彼らのヒソヒソと耳打ちする声が怖かった。

 美咲は声を荒げて啓治の胸ぐらを掴んで揺さぶり続けた。

「お前が殺したんだ。あたしがもらったこの絵を奪って賞を取って、みのりを傷つけて殺したんだ」

 啓治は口をパクパクと動かしたが、何も言葉が出て来なかった。

 早く、彼女を説得しなければならないと思った。これは偶然であり、美咲の誤解なんだと。いや、もしかしたら啓治の無意識の過失があったかもしれない。だが、これは決して故意にみのりの絵を模倣したわけでない。――全ては、偶然なんだと。

(言わないと……)

 だが、怒り狂う美咲を見て、どう説得すればいいのかわからなかった。浮かんだ言葉は彼女の暴言に塗りつぶされて頭の中で霧散する。

 ――なぜ啓治は、自分の滝の絵を描いている時、みのりの絵に似ていることに気づかなかったのだろう。

 過去の自分を怒った。疑った。後悔した。そして、もう遅いと悟った。

 なにより、美咲が話の通じる状態だったとしても、この出来事が『偶然』であることを証明する手段が啓治にはなかった。滝はすでに失われてしまったのだから。――そして、美咲と啓治の決定的な決裂はみのりの死で確定している。

 啓治の中で焦燥、絶望、後悔、苦悩、悲哀が入り混じり、啓治の心を追い詰めていく。

(あぁ、なんで……こんなに……)

 啓治は頭を手で覆った。

 ――めんどうくさいんだろう。

 そう思った瞬間、啓治の中で急に冷めていくような感覚が起こった。

 美咲の言いたいことはわかった。確かにこれでは啓治に対して盗作疑惑を抱いても仕方がないと思う。だが、そうだとしても彼女の怒りはあまりに理不尽ではないだろうか。みのりの絵がなんだ。美咲はみのりの死に対する悲しみを、啓治にぶつけているだけなのではないか。

 今までじっとりと濡れていた啓治の脇や背中の汗が急激に引いていき、不思議な爽快感を感じた。意識や身体の中の何かが変化していくのを感じる。美咲に責められている間ずっと重かった胸の苦しみが急に軽くなり、頭を沸騰するように滾らせていた熱が冷めていく。

 ――殺意とは、何もない闇のように見えた場所から、突然するりと暗幕を捲るように現れる感情なのだと知った。

 啓治は閉じていた目を開くと、キョロリと教室中を見渡して、最後に美咲に目を向けた。

「……なぁ、美咲。そうヒステリックにならへんでええやん」

 なんだか妙に落ち着いた声を出すことが出来た。全て吹っ切れたように感じる。

 だが、美咲はそんな啓治の様子が信じられないように目を見開いた。啓治の言葉は彼女の神経を逆撫でたようだ。ワナワナと目くじらを立てて震え上がる美咲を見て、啓治は彼女の感情の限界値が近いことを知った。

 それに啓治はそっとほくそ笑む。――怒れ、と心の中で笑った。

「……最低ね、あんた謝る気、ないじゃん」

 美咲の声は掠れていた。近くにいる生徒にもほとんど届かないような声だった。だから、その声を覆うように大きな声を出すことは啓治には簡単なことだった。

 啓治は軽い調子で声を張り上げ、美咲の肩を叩く。

「お前は不安になっているだけや。……なぁ、美咲。お前、みのりが去って、俺にまで愛想尽かされるんじゃないかって焦ってるんやろ?」

 は、と美咲は嫌悪と疑念に顔を歪める。しかし、啓治はさらにとぼけるように笑顔を見せた。

 ……わかっている。啓治はわかっていた。

 美咲との話の辻褄が合わないことを、彼女の怒りがさらに上がっていることを、そして聞き耳を立てている生徒たちが戸惑っていることを。――同時に、啓治は知っていた。他の生徒たちが、啓治たちの今までの会話のほとんどを『理解していない』ことも。

 美咲はきっと、放課後という生徒の多い時間に啓治を捕まえて怒りをぶつけてきたのは、啓治を逃さないためだったのではないだろうか。美咲は美咲なりに、自分の立場を優位にするためにこの場を選んで声をかけてきたに違いない。……だが、美咲は判断を誤った。

 相手が啓治ではない別の人間だったら、おそらく美咲の思惑通り、クラスメイトである群衆は被告人の逃げ場を無くし、美咲に有利な場として機能しただろう。しかし、美咲は自分が女であり、啓治が男であり、そしてクラスメイトたちが二人をどのように評価しているのか、ということを忘れていた。

 啓治は笑った。我ながら嫌な笑みを浮かべたと思う。

「今夜空いている? 空いているよな。ちゃんといつも通りお前ん家行くからさ、その時にちゃんと話そうや。ここで話すのは、ほら……あんま、よくないやろう?」

 そう言って啓治は美咲の手首を掴んだ。わざと曖昧な言葉を選んで、周囲の想像力を掻き立てる。啓治にとって、二人が男女の関係に見えさえすればそれでよかった。――美咲がヒステリックに叫ぶ女であり、それを落ち着かせようとする彼氏の役割に啓治が徹しているように見えさえすれば、それでいい。

 他人は理解できない状況を見ると、自分にとって最も納得できる理由を探す。そして理解したふりをするものだ。

 その時、啓治の言葉が周りの生徒たちにどのような印象をもたせるのかを、美咲はやっと理解したのだろう。美咲は怒りに血走った目で啓治を睨み、拳を握って彼の頬を思いっきり殴りつけた。

 その頬から頭の裏にまで響く痛みを感じながら、啓治は心の中で一つの決心をした。

 ――殺そう。やはり彼女を殺そう。

 そう心に決めて、啓治は笑って彼女の腕を掴んだ。

「だからやめろって。あんまり騒ぐとみんなに迷惑やろう」

 その啓治の朗らかな笑顔が最後の決定打になったのだろうか。先ほどまで静かに二人の様子を傍観していた生徒たちが、次第に少しずつ会話を再開し始めたのが聞こえた。

 そして、その会話の中心はやはり、啓治と美咲に関するものだった。

「なんだ、痴話喧嘩かよ」と言ったのは山本だろうか。

「俺はあの二人はやっぱり怪しいと睨んでたねん」と誰かに自慢げに話すのは寺島だろうか。

「こんな場所で派手に喧嘩してやばくない? ていうか迷惑なんだけど」と笑ったのは小山だろうか。

 ……誰でもよかった。啓治にとって、都合の良いように啓治と美咲の関係を捉えているのであれば誰でもいい。美咲がヒステリックに啓治に感情をぶつけるように見えているのならそれでいい。啓治がそれを慰める優しい男に見えていれば、それでよかった。

 啓治は美咲の腕を掴んだまま歩き出した。美咲は「やめろ」と声を荒げて抵抗したが、啓治はそんな彼女の頬を強くつねった。殴っては、今までの演出の意味がない。あくまで彼女の荒れる口調を嗜めるように見えなければならなかった。だが、引き千切ろうかというほど力を込めて、美咲の言葉は徹底的に黙らせる。美咲は抵抗する意思をまだ見せていたが、痛みで声を出すことはなかった。啓治はそれを確認すると美咲を無理矢理引っ張って歩く。美咲は痛がりながら、周囲に助けを求めるように視線を彷徨わせるが、誰も美咲に手を伸ばそうとするものはいなかった。

 美咲の顔に初めて絶望の色が見えた。それを見て啓治は満足気に笑う。

 ふと、啓治は背後にいた男に振り返って言った。

「悪いけどちょっと出るわ。松田さ、俺の荷物を後で持ってきてよ」

 黒い学生服のその男が頷いたかどうかは、もう覚えていない。


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