第14話 寄る辺
――榎本みのり。
それがこの女性の名前だった。男のように短く刈った髪の下に、気弱そうな小さな目が、今は怒りで真っ赤に充血して松田と啓治の二人を睨んでいた。
彼女は自分の名前が呼ばれたことを察すると、また獣のような声をあげた。
そんな榎本みのりのことを、啓治は恐れるように、首を振りながら後ずさった。
「……どうして、みのりがここにいるんだ? 彼女は十年前に死んだはずだろう?」
啓治の言葉に松田は声を上げて笑った。
「おいおい、嘘つくなや。やっぱりちゃんとみのりのことを覚えとるんやんか。それにさぁ、勝手に殺してやるなよ。……夏のあの日に言ったやろう? 『みのりが死んだ』なんてただの噂だって。誰か啓治の知り合いで、みのりの葬式に言った奴がおったんか?」
松田の言葉に啓治はハッと顔を上げた。松田はおかしそうに笑う。
「榎本みのりは生きとった。そして、この街に戻ってきたんや。偶然か何かは知らんけど、こいつは去ったはずの故郷に戻って来て、そして何の因果か俺のことをコソコソ嗅ぎ回っている様子やった。やから、こうして捕まえた。それだけのことや」
そう言って松田は、突然傍にあった和箪笥の一番上の引き出しを開けた。
「……?」
啓治は彼が何を取り出すのかと、暗闇の中目を凝らした。すると、突然彼の足元にいたみのりが悲鳴を上げて首を振った。その異様な様子に啓治は一歩退く。
「でも、あかんやろう……秘密は十年経とうが百年経とうが、守らへんと」
そう言って引き出しから出てきたのは中年の男の首だった。真っ赤に濡れたその首を、松田はまるで大きなボールでも抱えるように腕に乗せて笑った。
啓治は悲鳴を上げて後ずさる。しかし、背後の壁にぶつかってしまい、そのまま足に力が入らず尻餅をついてしまった。
その首は、榎本みのりに十年前のことを話してしまった倉田のものだったが、それを啓治は知る由もなかった。
松田はしばらくその首を腕に乗せて、指で表情を動かしたりして遊んだ。やがて、啓治に向かってその首を放り投げた。首はボールのように跳ねることなく、パシャリと水が溢れたような音を立てて畳の床に弾けた。
「うっ……」
啓治は弱々しい声を上げて、口元を手で覆う。みのりは目を真っ赤にして松田のことを睨んでいた。
対して、松田はこの血の匂いが濃い部屋の中で一人楽しげに声を張り上げるのだった。
「それに面白いことにな、みのりも啓治と一緒で昔の記憶を忘れてたんや。人間って辛いことがあるとやっぱり嫌な記憶は覚えていたくはないもんなんかな?」
松田はわざとらしく、首を傾げた。
「……まぁ確かなことは、みのりは生きてたってことや。十年前に榎本みのりは確かに死んだという噂はあったけれど、それは事実無根で無責任なただの噂やった。……で、実際に当時死んだのは彼女の父親や」
啓治は予想外の言葉に狼狽えるように首を傾げた。
「なんだよ、それ……父親? どうしてここでみのりの父親が出るんだよ」
「榎本みのりは転校先でひどいイジメを受けて精神的にも肉体的にも追い詰められた。そんな最中にコンクールに入選した啓治の絵を彼女は見てしまったんやな」
啓治は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。
「俺は啓治が本当に盗作したのかは知らんけど、少なくともみのりと美咲はそう思ったんやな。かつての想い人に自分の絵を奪われた彼女は相当なショックを受けた。他人のことが信じられへん、人が怖い、社会が怖い……そんな風におかしくなっていく中で、不幸にも父親が死んでしまった。裏切りに重なるように起こった愛しい家族の死――それからや、みのりが対人恐怖症になったのは。……他人の悪意がトラウマになって敏感になった彼女は、ひどく人間を恐れるようになった。まるで汚いものでも見るように人に触れることを拒み、厭世的になり引きこもっていく」
かわいそうやな、と松田はみのりの頬を叩いた。それに嫌がるようにみのりは首を激しく振った。
「今ではこうして男みたいな格好して、舐められへんようにして……こいつなりに世間と向き合って立ち直ってきたみたいやけど、数年前の当時は外に出るのも困難で、とうとう不登校になったんや。それを生徒たちが面白おかしく『みのりが死んだ』と噂した。……そんな、悪意で歪められた噂を美咲は耳にしてしまったんやろうな。そして、愚かにも彼女はそれを信じてしまった」
松田は蔑むように笑う。
「美咲はみのりが死んだと思い込んで、啓治に突っかかったんや。……でも、それってさすがにアホちゃうか? 自分勝手に想像を膨らませて暴走して、挙句に死んじまうなんて、ある意味、自業自得やんな。美咲はなぁ、生きている間はどうしようもなく愚かな女やったで」
松田の言葉に啓治は歯を食いしばった。――あまりに、ひどい。
「死んだやつをそんな風に言うなよ!」
ずっと黙っていた啓治が声を張り上げた。松田の言葉は沸々と啓治の中で怒りとなった。
「俺が美咲を殺したんだから、あいつを庇う権利なんてねぇのはわかっているけどよ……なんでお前は美咲をそこまで貶せるんだ? お前、何様だよ? さっき俺が美咲を殺したことを知っていたって言ったよな? それってお前も見殺しにしたってことじゃねぇか。そんなお前が美咲の何を知って、どうして貶すことが出来るんだよ」
啓治は強く松田にそう言い放った。しかし、松田はそれに対して肩を竦めるだけだった。
「……まだ気づいてないんやな」
何を、と啓治が問い返すより早く、松田はみのりの耳を削いだ。
悲鳴が二人の間で高く響いた。同時に啓治も何事かを叫んでいた。やめろ、と制止する声なのか、なぜ、と理由を問う声なのか、それとも意味を成さないただの叫びだったのか……松田には聞き取る事ができなかった。
「ほら、こんなんにビビっている啓治が美咲を殺せるわけないやろう?」
「なに……?」
啓治の耳には先ほどのみのりの叫び声と、自分の心臓のやかましい音が高く鳴り響いてうるさかった。今にも意識を失いそうなほど視界が揺れる。その中で、暗い和室の真ん中で悪鬼のように仁王立ちして笑う松田の顔だけはよく見えた。
「俺はさぁ、別に美咲のことは嫌いやないねん。生きていた頃はアホな奴やな〜って思っていたけど、むしろ死んでからの彼女は大好きやし……これでも敬意を払っているつもりなんやで。美咲の死はもっといろんな人に知ってもらって、信仰されるべきやと俺は思っとる。啓治に首絞められて、死んだ方がマシって状態になっても、息絶え絶えの中必死に生にしがみつこうとした美咲はなぁ……凡俗な言い方をすれば綺麗やった。俺が心から『美しい』と思えたんや」
「……何を言っているんだ」
啓治は松田の言葉が理解できず、体を固めていた。まるで、冷たい氷に閉じ込められたような気分がした。
しかし、次第に松田の言葉の意味を咀嚼した啓治は「まさか」と目を見開いて顔を歪めた。
「……松田、お前が美咲を殺したのか」
松田は「そんな言い方はないやろう」と困ったように笑う。
「そんな物騒な言い方はやめてぇや。俺はさ、ただあの子を残したかっただけなんや。あれや、仏像様みたいにみんなに崇めてもらえるような形にして、ただ残したかってん」
「……仏像?」
「そう、ほとけ様や。……たくさんの人に彼女は敬愛されて、崇められる。美咲の死は意味のあるもので、その意味を多くの人々が知り、自分の子どもに伝えていくような……そんな仕組みを作りたくって、俺はあの子をほとけ様にしようとした」
啓治は、松田の言葉が理解できないように困惑していた。しかし、意味がわからずともそれがろくでもない告白であることを感じ取る。表情が歪むのを感じながら、未だに立ち上がらない足を引き綴るように後ろに退いた。
――そんな啓治の様子が松田には不服だった。
「……なんで引くねん。美咲を綺麗にしてくれたのは、啓治やのに」
「俺が……?」
懐かしい、と松田は思った。今でも美咲の浅い呼吸の音が思い出される。
「美咲はあの日、あの学校の裏で啓治に首を絞められた。確かにあの時点でほとんど死にかけていた。でも、それでもまだ生きてたんや。……啓治は殺人犯としては甘かったってわけやな。首の締め具合が中途半端で、最後の最後に緩かったんや。美咲は呼吸困難で一時的に意識を失っていただけやった。まだ心臓は動いていたんや――けれど、ひどい酸欠状態は彼女の脳を壊してしもうた。美咲は意識を混濁させて、立つこともままならない体になったんや」
松田は夢心地のように上気した表情で啓治に笑った。どうして、啓治は嫌なものを見る目で俺のことを見ているのだろう、と内心首を傾げながら、啓治にもあの時の美咲を見せたかったと後悔の念が押し寄せる。
「……その時の美咲が、なんとまぁ可愛らしくって、綺麗でな……美咲は啓治に殺されかけて、まともに体を動かせず口を動かすのもつらくって舌ったらずになってしまってご飯も噛み砕けなくなって這いずる虫みたいにしか生きることが出来なくなった体でも『死にたくない、死にたくない』ってもがいて暴れて這いずって、叫んでいた。……今でも鮮明に思い出せるで、啓治が去った後に雑木林の湿った汚い土の上に残された美咲の姿を。涎や胃液で濡れて顔は真っ青で、でも、それでも彼女は生きようと足掻いていた。――そんな美咲はまるで生まれたばかりの赤ん坊のように俺には見えて、可愛くってかわいくって仕方がなかった。――そう、美咲は生まれ変わったんや。これが『奇跡』かと興奮した」
土と草葉の青い臭い。雨が近づいてきた時の独特な曇り空の臭い。その中で新たに生まれ変わった美咲の匂いは、胎児のように柔らかで、健やかで、愛おしかった。
「あんまりに可愛くって、そんな彼女を俺は家に連れて帰ったんや。美咲はよくむず痒そうに体を動かすし、舌が回らへんからほんまに赤ん坊のように泣き喚くんや。離乳食みたいに柔らかくした食事を与えている間、おままごとをしているようで楽しかったわ。――俺の両親はその頃から既に立ち上がることも辛い体やった。ばれへんとは高をくくっていたけれど、迷い犬を隠れて飼っているみたいにドキドキしてな。その頃、この家の裏にあった車庫は両親も近づかへん俺の秘密基地みたいな場所やった。コンクリートを固めてできた、窓もないそこなら誰も美咲に気づかへんし、俺も美咲の世話に集中できた」
啓治は松田の話を聞きながら、ふざけた話だと思った。
その頃といえば、松田は父親の代わりに地域の人々や警察と共に、美咲を捜索するために山狩りをしていた時期なのではないか。……ということは、彼は山で美咲を探すふりをして、その土に汚れた手で、家で監禁している美咲の世話をしたということにならないか。啓治はこみ上げてくる吐き気と寒気に耐えていた。
松田は手に持っていたナイフを目の前に翳した。それに啓治は身を構える。しかし松田はその刃に目を向けているだけで、啓治や足元に転がるみのりを刺そうと動く様子はなかった。彼はただその刃に映る自分の影を見ているだけだった。
「啓治が俺にとって光なら、美咲は俺にとって天使であり、伝道師であり、聖書であり、祈りやった。啓治が光である意味を証明してくれた女やぞ。まだまだ美咲は世界にその使命を果たすために命を使わなあかんと思った。――だからほとけ様のように俺の光の象徴として、より多くの人にその存在を認めてもらえるように本物のほとけにしようと思ったんや」
松田は少しの間黙り込む。その沈黙が、啓治にはひどく怖かった。
「俺はな、美咲を即身仏にしたかったんや」
――即身仏。生きたまま仏に至ろうとする仏教的な修行の一種だ。
「美咲を永遠に残る形にしたかった。だから、彼女には水を飲ませるのをやめて、木の皮や種みたいな乾き物をすり潰して食わせた。高校を卒業したらすぐに自動車免許を持って、美咲を埋めに行った。……ほら、啓治と一緒に行った、あの山だよ」
「……あの山で」
啓治の脳裏に、山に登った夏の日のことが思い出された。瞬間、啓治は自分の手を口で塞ぐ。だが、すでに吐き出せるものが胃に残っていなかった。噎せるように胃液と涎を口からこぼしながら、啓治は松田を睨む。
松田の足元では、みのりが松田に抗議するように声を上げていた。しかし、松田がその頭を強く殴ると倒れて静かになった。気絶してしまったようだ。
「俺はあの山で美咲を箱に入れて、土に埋めた。彼女と地上をつなぐのは、一本の竹で出来た空気穴だけ。俺は週に数回、朝になると美咲を埋めた山まで登るのが日課になった。ある日は車で行き、別の日は自転車で、とある日は走って山を登った。そして、その土からポツンと突き出た棒を見て満足して帰るんや。――まだか、まだかと待ち遠しい十年間だったよ。ある日、埋まっているはずの彼女がふっと起き上がって、あの山で待っていてくれるのを夢見ていた」
そこまで言った彼は、しかし突然、その生き生きとした表情に影を落とした。
「……だけど、うまくいかなかった」
美咲を埋めて十年経った今年の春、松田はスコップを持ってその山に現れた。まだ寒さの残る時期で手がかじかんでいたのを覚えている。土を無心で掘っている間はドキドキと緊張して楽しかった。埋まっていた木の箱が次第に土から現れるのが、まるで財宝の入った宝物を掘り上げているようでワクワクした。
しかし、蓋を開いて出迎えてくれたのは腐臭だった。桶の底の方にうずくまるようにして小さくなっていた美咲の体を見て、松田は落胆せざるを得なかった。
「確かに美咲は体の形を保っていた。やけど、それは半身だけやった。美咲の生前の柔らかそうな頬の形を残したのは右側だけで、左側は液状化してひどい状態やった。そんなん見たら、誰でも心が折れるやろう……これじゃあ、生まれ変わった美咲が綺麗やったことや啓治に首を絞められて、それでも生きたようとした力強さを誰も伝えられへん。それが、悔しかったし……自分に失望した……」
その時の松田の胸に満ちたのは絶望だった。何より、美咲という奇跡の象徴を後世に残すことができない自分の不甲斐なさに泣いた。
「……だから、美咲に即身仏になってもらうことは出来ひんかったけど、代わりに俺が伝道師として美咲の死体をこの世に公表することにした。俺が死体を見つけたことにして警察に渡して、ニュースで全国に流したんや。せめて、奈良美咲という少女が十年前にいて、誰かの心にその生きた証が残ることを願った。そして、俺と同じように誰かが救われることを祈ったんや」
そして、と松田は啓治を見る。
「どうか、啓治がこのニュースを見て東京から俺の元に戻ってきますように……って願った」
サッと空気の温度が変わるのを啓治は感じた。松田はどこか冷めた目で啓治を見ている。
「卒業してから、ずっと啓治見ていて、おかしいと思ったんや」
松田はそう言って小さく息を吐く。
「美咲の死は行方不明としてうやむやになって、クラスの奴らには俺から脅しをかけてだーれも啓治を疑おうとしなくなったのに。なのに、肝心な啓治が誰よりも悲しそうで、辛そうで、暗い顔をしていた。あの堂々としていた啓治が、どうして美咲を失ってから、こんなにもビビりに成り下がったのかと不思議で仕方がなかったんや。東京の生活でも、啓治はいつも人に怯えているように見えた。高校生の頃のような勢いはどこにもなくって、優柔不断で、挑戦を選ばずに自分を守る選択ばかり選んでしまう弱い人間に見えた」
松田は悲しそうに眉を下げて笑う。
「……あれは、性格や考え方が変わったとかそういうのじゃない。人として変わってしまったようにしか俺には見えへんかった」
松田はナイフを構え直す。
「――でも、記憶がなくなったんやと分かれば納得できた。啓治は自分を形成するはずやった重要な記憶を失ったことで、手にするはずだった未来の形を失った。俺が理想としていた啓治の形を失った。――でも、そんなんあんまりやろう。理想であり続けるはずやった啓治が変わって、その啓治を模倣していたはずの俺が、結果的に本物の啓治よりも『啓治らしく』あるなんて……馬鹿げている」
松田の下唇を噛んで、瞳にうっすらと涙を浮かべた。ナイフを啓治に向ける。
「俺を置いていくんじゃねぇよ! 俺の知らない啓治になるな、俺の理想であり続けろ。俺のために生きてくれよ!」
松田はほとんど懇願するように叫んだ。ナイフの刃が暗い部屋の中で鈍く光る。
しかし、啓治にはもう松田の声は届いていなかった。啓治は何か腫れ物のように松田から目を反らして、小さく「細川じゃなかったんだ」と呟いた。
松田の言葉の一部に、啓治はひどく違和感を感じていた。彼はまるで、啓治の東京での生活を知っているような口だった。しかし、彼がどうして数百キロも離れたこの故郷から、東京の啓治の様子を知るというのだろうか。そこで、ハタと気づいた。……啓治は一ヶ月前の夏、十年ぶりに松田に再会したのだと思っていた。しかし、それは啓治だけの認識だったのだ。
松田は啓治の知らないうちに、どこかから、啓治のことを見ていたのだ。
「……お前が俺の家に盗聴器やカメラを仕込んだんだな」
言葉にすると、胸が痛くなった。――細川じゃなかったんだ、という暗い後悔と、松田の裏切りに対する怒りが、無性に啓治の腹の底をかき乱した。知らないうちに、嗚咽が勝手に漏れてくる。悔しいのか、悲しいのか、わからないがただ苦しかった。
家の中や仕事中、あるいは道を歩いている時に感じていた視線の正体は、松田だったのだ。彼は、卒業後も啓治の知らないところからずっと見ていたのだ。
「……お前は、もうずっと俺のことを裏切っていたんだな」
その言葉に、松田はひどく傷ついたように悲しそうに鼻を啜った。
「……そんな風に言わんといてぇや。本当は俺も、もっと早く啓治と直接会って、いろんなことを話したかった。やけど、啓治はおかしくなってるし、卒業後の新しい生活を邪魔したくはなかってん。……出会うなら、それはこの故郷の街で、ちゃんと再会したかったんや」
そう言って、彼は優しい顔を見せるのだった。
「俺が生きるためには啓治が幸せであることが大事やった。啓治がこの街に帰ってきた時に、俺が居場所を用意したかったからな。だから、もうお前は無理に美咲のことを忘れようとしたりせんでええんや。ありのままの啓治でいてくれてええんや」
松田はそう言って啓治に向かって手を伸ばした。その手を、啓治は唾を飲み込んで黙って見つめた。
「……ほら」
松田は一歩、啓治に近づいた。左手はみのりの首を、右手は啓治に向かって伸ばして、松田は優しく微笑む。
「……細川もお前が殺したのか?」
啓治は松田の手を無視して、おもむろにそう言った。松田は少しイラついた。これ以上、何の説明が彼に必要だと言うのだろうか。知らないうちに松田の声は冷たくなる。
「さっきから言っているその細川って誰や?」
啓治は予想外の松田の返答に少しの間黙った。
「……俺の会社の同僚の女性だよ。一昨日の夜、突然転落死した。警察は自殺だろうって話していたけれど……あれも、お前が殺したんじゃないか」
松田は目を細めた。しばらくの間黙って(細川って誰だ?)と記憶を掘り返していたが、やがて「あぁ」と思い当たって声を上げた。
「細川って、昨日、啓治の職場で死んだあの女のことか! なんだ、あれなら俺が殺したんちゃうよ。本当に自殺や、自殺」
松田は声を上げて笑った。啓治は松田の言葉に戸惑うように目を瞬かせる。
「……嘘だろう?」
「嘘ちゃうって。あ〜、おかしくて笑うわ」
松田は腹を抱えて笑った。
「細川は死んでもええねんって。啓治がそんな悩むようなことちゃうから。……あの女は、最終的に自分で死ぬことを決めたみたいやけど、元々啓治のことを散々馬鹿にして憎んでいたやばい奴やねんから」
「え?」
啓治は松田を見返した。松田は部屋の奥に置いてあるパソコンに指を差す。
「あいつ、口の悪い女やったで。『先輩マジで無理』とか『人の気持ちがわからんのか』とか……まぁ啓治のことをすっげぇ嫌ってたんやな」
啓治は頭がガツンと殴られたような気がした。
細川が、裏で啓治をそんな風に言っていたのか?
そして、なぜそれを松田が知っている?
「……どうして」
啓治は目眩に頭を押さえながら思わず疑問符を口にしていた。それに松田は律儀に答える。
「さぁ……たぶん推測やけど、なんか小さい頃に両親を亡くしているっぽかったから、それがきっかけになったんちゃうかな。――ほら、啓治は両親のことを嫌っていたやろう? 『両親が生きているのに無下に扱っている』『それが許せない』って……まぁ正義感と、家庭に対する憧れや理想と、ちょっと嫉妬みたいなものがあったんとちゃうかな。知らんけど」
松田は心底興味がなさそうに言う。
「あの女にとって啓治は羨ましいものを持っていて、それを自分にひけらかしてくる嫌な人間……そんな風に見えたんとちゃうかな。妬ましく、同時に悔しかったんやろうな」
「そんなことで……?」
啓治は信じられない、とでも言いたそうに呆然とした表情で言った。それに松田は「おいおい」と小さい子どもを嗜めるように笑う。
「人を嫌ったり憎むきっかけなんて、大抵些細なことやん。人を好きになることには大した理由って求めへんのに、嫌う時には大義名分を求める時ってあるよなぁ、人って」
別にそんなものないのに、と松田は首を傾げた。
「……たまたま啓治にとって細川憎むべき存在ではなかっただけで、細川にとっては、嫌な上司や他の同僚よりも、啓治がたまたま気に食わなくって嫌いな存在になった。それだけの話や。だから、そんな自分勝手な人間やったんやから、少し痛い目を見ても俺は当然やと思うんやけどなぁ」
その意味深な言葉に啓治は心臓の音が一段を大きくなった。
「細川に、何をしたんだ」
「何って……すこーしだけあの子の背中を精神的に後押ししただけや。啓治のことを嫌う気持ちに正直になって、それでそんな自分に自己嫌悪するように、彼女のSNSにちょっとコメントしたりな。……そういう時ってインターネットって便利やなって思うわ。複数のアカウントで彼女のことを責めたり、優しく慰めたり、貶したり、一緒に泣いてあげたり、馬鹿にしたり、趣味に興じたり、脅迫したり、笑ってあげたり……直接会わずとも、あの女の生活に毒を注いで他人への信用を蹴落とせる。簡単に現実の人間社会から関係を切り離すことができるんや」
――そして、自殺に追い詰めた。
松田も、具体的に何をしたのかはあまり覚えていなかった。暇つぶしに始めたゲームのようなものだったが『啓治から引き離す』という目的だけは明確に持って進めていたので割と楽しかったと思う。
「まぁ、どうでもええけどな」
松田はそう言って朗らかに笑った。啓治と初めて会った時と同じ笑顔がそこにはあった。
啓治は呻くような声をあげた。
「しんどいか?」
松田は啓治の心中が手に取るようにわかった。彼は今まで松田によって作られた無菌室で健やかに育てられていたようなものだ。それが、真実を知ってしまったがために、始めて無防備に世界の理不尽な痛みを感じている。――苦しいだろう、辛いだろう、信じたくないだろう。だが、その痛みが啓治を磨く。鉄を叩いて鍛錬するように、啓治の中の不純物を叩き出し、より精錬させていく。そのために松田は啓治のことを追い詰めなければならなかった。松田にとっての光としてあり続けさせるために。
「……お前、これからどうするつもりなんだよ」
「どうする? さぁ、どうしようか……」
愚問だと思った。だけど、夢を見るのは松田も好きだ。
「そうだなぁ。啓治と俺、それにみのりの三人で一緒に山で暮らすなんてどうや? 美咲の死体があったあの場所、俺はかなり気に入っているねんなぁ。あそこに小さな家を建てて三人で暮らすとか、楽しそうやなぁ」
黙って聞いていた啓治は松田の言葉が理解できず、思わず「は?」と聞き返した。
(何を言ってるんだ? この男は)
次第に怒りがこみ上がってきて、血管をこめかみに浮かばせる。
「……ふざけているのか?」
それに、松田は真顔で答えた。
「実現させてもええんやで」
松田は本気でそう思った。冗談のように聞こえるのも理解しているが、その冗談を啓治が受け入れるのなら叶えるつもりだった。
啓治は、湧き上がる怒りを抑えるように目を閉じた。そのまま、ずっと心の中でこだましていた言葉を吐き出す。
「…………どうして」
――どうして?
松田は啓治の疑問に答えることができなかった。彼が何に対して疑問を抱いているのかわからなかったから。
「――お前は俺にとっての光だから……って、それじゃあ答えになっとらんか? 俺が最も恐れとるんは、その光が失われることや。天照が岩に隠れて世界から昼が消えたように、お前が消えたら俺は生きていけへん。お前のためなら何だってするし何だってできる。……人間が生きる理由なんてそんなものやろう。誰かに依存してしか生きていけない奴はたくさんいる。それが、俺の場合はお前やったんや。俺は、柳啓治という人間がいなければ生きていけない、松田慶次という人形や」
松田慶次。
――まつだ、けいじ。
瞼を閉じればいつでも思い出される。十二年前、始めて会った柳啓治は松田慶次に『同じだな』と笑った。
同性で、同名。同じ血液型で、背格好も似ていて、そして同じ誕生日。
『そうやな』と笑い返した、あの日が松田にとっては人生が始まった瞬間だった。
同じ。たったそれだけの理由で、人に依存してもいいと松田は思った。
雑誌に載っている占いも結果は同じ。背の順で並ぶといつも隣。名前を呼ばれて振り返るタイミングも同じ。
自分が誰かに『けいじ』と呼ばれる時、啓治も誰かに『けいじ』と呼ばれている。
だけど、松田には自分よりも啓治の方が眩しいほど魅力的な人間に見えた。だから憧れた。――同じだけど、同じじゃない。だから、あぁなりたいと他の人間よりも強く願った。
「啓治こそ、これからどうするつもりなん」
松田が問うても、啓治はピクリとも動かなかった。
「もうお前には法も、社会も、親も、誰も、守ってくれる者はおらへんで。退路は断たれた。俺以外に啓治を受け入れて、隣に立ってくれる人間なんてどこにもおらん。……みのりだって、お前のことをもう受け入れることはないやろうな」
松田はそう言ってみのりの肩に刃を突き刺した。気を失っていたみのりは突然の痛みに悶えるような悲鳴を上げた。
「やめろ!」
啓治が叫んだ。松田はみのりの肩から刃を抜いて身を翻すと、刃に着いた血糊が勢いをつけて部屋の壁に飛び散った。松田はみのりから一歩退くように後退し、傍にあった柱に背中をもたれかけて刃を自身の上着で拭った。
みのりから松田が離れたのを見て、啓治は急いでみのりに駆け寄って助け起こそうとした。しかし彼女は啓治のことがわからないのか、唸るような声を上げて身をよじる。落ち着かせようとしても、恐怖が彼女を駆り立てて、暴れることをやめなかった。
「もう、楽になろうや」
松田は心からそう願った。この社会は、松田や啓治のような人間を受け入れてはくれない。あれほど帰属したいと願ったみのりだって弾き出された。
「俺たちにはどこにも居場所なんてないねん。それならお互いに身を寄せ合って生きていくべきやろう。……せめて、こうしてお互いのことを知っている俺たちなら、共に生きていくことができる」
群れは集まれば集まるほど競争が高まり個性が否定され争いが激しくなる。松田や啓治、みのりは否定される側の人間だ。なら、否定された者同士、少人数で集まって社会に抵抗して、自分たちのためだけに生きていきたい。小さな反抗のための逃走がしたい。この醜悪な社会の中で松田が願うのはそれだけだった。
「お前さえ頷いてくれたら俺は進む。そうしたいし、せなあかんと思っている。……あとは啓治の覚悟だけが欲しい」
そう言うと、ポケットからスマートフォンを取り出して、連絡帳からとある電話番号を検索した。それは警察の頃に知り合った、表には顔を出さない医者の電話番号だ。
「今なら医者を呼べる。みのりには痛い思いをさせたけど、急所は外してある。せやけど、出血量が多いから助かるかは半々やなぁ」
我ながら感情が乗っていない声だと思った。それは啓治も同様に感じたのだろう。彼は怒気を含んだ目で松田を睨んだ。
「……それで、俺に選べっていうのか。みのりを助けたければ、お前の案に頷けって」
「好きに選べばええ。ただ、今の啓治じゃこうでもしないと動けへんやろう。自分のことを好いた女が死ぬか生きるかを選ぶ。そうした儀式でもないと、今の啓治は進む勇気すら持てへん」
啓治は完璧な人間ではない。だからこそ、彼には無理にでも突き進めさせるための機会がないといけなかった。――完璧でないことは欠点ではない。不完全であるがゆえに感じる美しさがある。啓治はそれに属しており、その影を濃くすることこそ、松田に課せられた使命でもあった。
だが、啓治はそれを理解してはくれなかった。
「裏切りだ」と彼は言う。
「俺は、松田のことを信用していた。――夏のあの日、お前と一緒に過ごして、始めて友達という存在の意味を知ったつもりだった。初めて、他人との交流を心から心地よいと思ったんだ。……なのに、どうしてお前は俺を裏切るんだ。どうして、お前は俺を試すようなことをするんだ」
啓治の両の目から、やがてポロポロと涙がこぼれた。
「わかっているんだろう。お前は俺がみのりを助ける道を選ぶことを。その上で、俺はお前と共に歩めないことを」
その言葉を聞いて、松田の胸に初めて痛みのような感覚が生まれた。
「お前の中にあるのは不安だよ」
啓治の言葉が松田の胸に出来た傷に滲みる。耳が痛くなるほど静かな夜の中で、みのりの息遣いと啓治の言葉がやけに松田の耳に響いた。
「お前は社会が怖いと言う。だから、人間の群れの中に自分たちの居場所がないから、別の群れを作ろうって、そういう話だろう。俺たちが生きるためにその他大勢を排除して、自分に都合の良い人間を集める。……でも、その考え方は、お前にとっての両親のようじゃないか」
彼の言葉に松田は無意識に視線を床に向ける。その下にある、一階の寝室に寝そべっているであろう、両親の死体の姿を松田は頭の中に思い描いていた。
「言っていたよな、お前。自分にとって都合がいいから両親のことが好きだって。自分にとって居心地の良い存在だったから、都合がいいから好きだって。お前はその考え方を俺やみのりや、他の人間に押し付けようとしているんじゃないか。……それは、誰かを幸せにするものじゃなくって、お前だけが救われる自分勝手な思考だ。……松田は、俺を理由にその夢を叶えようとしているだけだ」
啓治は、涙を拭って松田のことをもう一度強く睨んだ。
「俺を理由にして、現実から目を背けるな。俺はお前を認めない」
そう言うや否や、啓治は立ち上がって、松田に向かって駆け出した。その手にはいつの間に隠し持っていたのか裁縫ハサミが握られていた。この部屋に落ちていたものを咄嗟に手に取ったのだろうか。松田の顔に向かって振り下ろされたそれを、松田は素早く避けた。しかし、とっさの猛攻に思わず体勢が崩れる。急いで立て直そうと一歩後ろに退いた。しかし、それよりも早く啓治はハサミを持ち替えて刃の向きを変えると、松田の肩に力強く凶器を突き刺した。
不意の痛みに、松田は思わず手に持っていたスマートフォンを畳の上に落とした。啓治は素早くその落ちた機器を拾い上げると、みのりの傍に戻って彼女を引きずるように後退した。
「……悪いな」
啓治は何に詫びようと言うのか、一言そう口にして、みのりを連れて部屋から出て行った。
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