寄る辺

秋野 圭

第1話 帰る場所

「それってさぁ、パクリなんじゃないの」

 蝉の声が遠くで聞こえる。

 校舎の中は蒸したように暑い。生徒たちはみんな、ワイシャツの背中側をじっとりと濡らしていたけれど、お互いに汗の臭いなんて気にならないような顔をして談笑していた。

 そんな夏の日に、彼女は俺の手元にある紙を指差してそう言ったのだった。俺の耳から周りの生徒たちの声が、海の潮騒のように近づいては遠ざかっていった。

 ――それってさぁ、パクリなんじゃないの。

 彼女の言葉をうまく理解することができなかった。

 ……いや、違う。無意識に理解を拒否しようとしていた。彼女の言葉に傷つかないように俺の心は無知を装ったのだった。

 でも、もう遅かった。知らない間にその言葉は俺の心に傷をつけていた。目に見えないような小さな傷跡だったが、十年経った今でさえもその小さな傷は叫んでいた。

 それはまるで傷ついた木に虚が残るように、常に存在感を訴えて、俺の心が苦しんでいることを知らせた。


啓治は目を覚ました。一瞬自分がどこにいるのかわからなかった。

 グォ……と怪物が唸るような音が聞こえ、それがトンネルを通過する新幹線の走行音だと気づくのに少しだけ時間がかかった。霞む目をこすって首を上げると背中が痛い。

 啓治はやっと、自分が東京から関西方面に向けて新幹線で移動中だったことを思い出した。

 久しぶりの帰省だ。進学を機に上京してから、関西の実家には一度も帰ったことがなかった。実家を離れて数年は両親から責めるような電話もあったが無視を決め込んでいた。今では半年に一度ほど母親から届くメールだけが唯一の付き合いだった。

 しかし最近になってその関係性が崩れた。

 父親が癌になったのだ。

 ――だから帰ってこい。

 母はしきりにそう言ってメールを送るようになった。やがてメールだけでは飽き足らずに毎日啓治に電話をかけてくるようになった。

『お父さん、もう長くないかもしれへんのやで』

『あんた、一人暮らしで困っていることはないん?』

『なぁ、たまには帰ってこうへん?』

 啓治が無視すると、留守番電話にいくつものメッセージを残すようになった。仕事終わりに電源を切っていたスマートフォンを開くと、二十件も母親からの着信履歴があった時には軽い目眩に襲われた。

 大学生時代は勉学を、社会人になってからは仕事を理由に帰省の話題を避けていた啓治だったが、父の死期を理由に出されるとさすがに断りづらかった。結果的に母の交渉という名の脅迫に根を上げて、こうして夏のお盆休みを利用して十年ぶりに故郷へ帰ることとなったのだった。

 啓治はため息をつき、スマートフォンを取り出してこれから向かう実家のある街の名前を検索した。

 啓治の故郷は地方都市の端にある中途半端な田舎町だった。其処彼処に田んぼや畑があり、その間を縫うように家屋が並ぶ。その背後には緩やかな稜線を描く山が立つ。駅前には申し訳程度にビルがあるが、少し駅を離れれば三階以上の建物は無くなってしまう。盆地形状の土地柄、夏は暑く冬は寒いので過ごしにくい地域でもあった。

 面白みのない町だ。思った通り検索アプリで調べても、乗換案内だけが羅列していて観光や見どころといった大した情報は出てこない。

 啓治は別段、その故郷に愛着といった感情を持っていなかった。だから、そんな町のためにわざわざ高い交通費を払って移動しなければならないこと自体が億劫だった。それに、十年ぶりに会う両親の老けた顔を見るのは気後れした。

 だからだろうか、嫌な夢を見た気がする。

 窓の外に目を向けたが、新幹線はトンネルの中を走っているので真っ暗だった。代わりにガラスに反射して写った自分の顔が見えた。ガラスの中の啓治の目は暗い。

 窓ガラスには啓治以外にも、新幹線の他の乗客たちの表情も映っていた。お盆休みという時期もあり、新幹線の自由席エリアは混んでいた。座席に座れずにあぶれた乗客たちが、通路にぼうっと立ち尽くしている顔も見える。皆、高速で移動する新幹線の速度に意識がついていけないような、どこか呆けた表情をしていると啓治は思った。

 ふと、その視界の端で誰かと目が合ったような気がした。だが、気づいた時にはもう誰と目があったのかわからなくなっていた。窓ガラスには無数の人々の顔がある。誰と視線を交えたのかと視線を彷徨わせているうちに、新幹線はトンネルを抜けてしまい、窓に写った車内の情景は外の山々の景色に塗り替えられた。

 啓治は小さなため息を吐いて、座席に身を沈めた。



 新幹線を降りたあと、普通電車に一時間、バスで三十分、徒歩十五分の移動でようやくたどり着いたのが、記憶よりも古びた我が家だった。

 昭和後期に建てられた、どこにでもある白くのっぺりとした塗装の家。長年の風雨に晒されて、その壁の所々にシミを浮かばせながらも、今なお堅強に仁王立ちしている。夕日を背景に立つ変わらない我が家を見ていると、啓治はこの家に住んでいた十年前の日々を思い出した。

 学校からの帰り道、家を見上げて思い出すのはいつも父親の顔だった。彼は夕食の時、必ず家族三人が揃うのを待ってから食事を始める。

 そして啓治に「今日は学校で何をしたんだ」と問う。

 啓治にとってはこの夕食が、一日の中で最も苦痛な時間だった。ここで、父の満足するような答えを提出しなければ、父は「お前は学校で何をやっているんだ」と無感情な顔で責めるのだった。啓治の無学を詰り、自分の知識をひけらかし、たまに暴力で抑圧することで父親としての威厳を誇示する。そんな父の狭量さと、啓治を見下し諭そうする図々しいほどの過干渉が嫌いだった。

 夕食時の母は何も言わずに黙々と食事を口に運ぶ。彼女は決して啓治の味方をすることはなかった。父が自身の立場を大仰にひけらかして主張するのとは対照的に、母は静かに黙することで、母親という立場を表明していた。

 啓治はこの両親が嫌いだった。

 成長する過程で啓治の中に組み立てられる自尊心や個性という精神が、毎晩この両親に踏みにじられるのを感じていた。せっかくの食事がまともに喉を通らなかった。啓治が話せば話すほど、皿の中の料理は冷めて固くなる。やっと父が食事を終えて解放される頃には、口に入れてもゴムのような食感しか残してくれなかった。

 夕日と共に見上げる我が家の情景は、そんな苦い記憶を呼び覚ますのには十分な景色だった。

 自然とため息が漏れる。たった三泊四日といえども、彼らと一日中顔を合わせて過ごすことは、啓治にはとても耐えられないことのように感じた。だが、ここまで来ては引き返す方が癪だ。啓治は諦めたように俯いてインターホンを押した。

 家の中からドタドタと足音がして扉が開けられる。そこには記憶よりも皺と横幅が増えた母親の顔があった。

「ただいま」

 啓治はぎこちなく笑って十年ぶりの母の顔を見た。

「おかえり。思ったよりも元気そうやね」

 母は破顔して啓治を迎え入れた。声だけは、記憶と変わっていなかった。

「なんや、駅で呼んでくれたら車で迎えに行ったのに」

「別にいいよ、雨が降っていたわけじゃないんだし」

「こういう時くらい親を頼りなさいよ。それに、あんた電話でも思ったけど話し方がもうすっかり標準語やな……なんかさみしいわ」

「十年も大阪から離れていちゃ、そりゃあ変わるよ。それよりこれ、お土産」

「あら、ありがとう」と母は笑いながら啓治から紙袋を受け取った。

「それにしてもおおきなったなぁ。高校生の頃よりも体大きくなったんちゃう? 男の子って十八歳を超えても成長するもんなんかな?」

 そう言って母は笑って啓治を家に迎え入れた。

 啓治は少し拍子抜けする。記憶よりも柔らかな反応を返してくる母に、少々の違和感を覚えつつも、笑いながら相槌を打った。

 ――あの、過剰な電話履歴やメッセージは、本当にただ父親に最後に会わせたい一心で送られたものだったのだろうか。

 母は啓治の渡した紙袋を廊下の隅に置きながら「そうや」と声を上げた。

「手を洗ったらお父さんにも挨拶しぃや」

「…………」

 まぁ、そうなるよな。と啓治は思っていた以上に気持ちが沈み憂鬱になるのを感じた。

「あぁ」と曖昧に返事をしながら啓治は洗面所に向かった。

 蛇口をひねると同時にハァ、と無意識にため息を吐いてしまった自分に気づく。啓治は鏡に映る自分の姿を確認すると、両手の人差し指で自分の唇の端を上に持ち上げた。笑顔というには少し歪な表情が鏡の中で啓治を見返していた。



 父は家の一番奥にある和室にいた。八畳ほどの広さの真ん中に布団が敷かれ、その上に記憶よりも幾分か体が小さくなった男が上半身を起こして啓治を迎え入れた。

「久しぶりやな」

 父は小さく笑って言った。その記憶にない父親の表情に、啓治はひどく戸惑った。そのため、すぐには返事をすることが出来なかった。

「………」

 少しの間、気まずい沈黙がその場を満たす。

「……具合、悪いんだって?」

 やっと舌が動いた啓治がそう問いかけると、父は笑顔を見せた。

「今日はわりかしマシや。見ての通り起き上がれるからな」

 そう言って父は声を上げて笑った。

 ――啓治は、父親のそんな笑顔を見たことがない。

「そっちはどうや?」

 父は突然啓治に話を振った。

「え、まぁ……別に普通かな……」

 そう答えてから、啓治は自分の口を手で塞いだ。

 ――しまった。

 うっすらと冷や汗が背中に浮かんだ。この家に住んでいた時、父は会話の曖昧な表現を最も嫌っていたことを思い出したのだ。

『学校、どうや?』

『別に普通』

『普通ってなんや、何が言いたいねん。ちゃんとはっきり言え』

 適当な相槌に対して殴られた頬の痛みが思い出された。きっと次に来る言葉は嫌味だろう、と暗澹とした気持ちで父の顔を見た。

 しかし、啓治の予想に反し、父は柔らかな笑みを浮かべたまま「そうか」と短く返事をしただけだった。

 呆気にとられた啓治は、しばらくの間じっと目の前の初老の男を見つめていた。

「……なんか、変わったな」

 そうか? と父は部屋を見渡す。どうやら指摘されたのが自分ではなく、家のことだと思ったようだ。

「……一日中、寝てんの?」

「いや、ずっと寝とるわけやない。少しは体を動かさな、逆に健康に悪いからな。昼過ぎあたりは近くを散歩したりしとるよ」

 よく見ると、和室の入り口には昔はなかった手すりが壁に取り付けられていた。部屋の端には父の着替えや私物が積み重なり、その上に無造作に杖が置かれていた。

「病院に入院しなくていいのか?」

 すると、父は啓治の前で初めて嫌そうに顔を顰めた。

「あそこは好かん。看護師は俺のことを赤ん坊かなんかと同じようにしか扱わんから自分が嫌になる」

 背後で扉の開く音がした。母がお盆に薬と水の入ったコップを持って入って来た。

「またそんなこと言って。……お父さんね、わがままで家に帰って来とるんよ。本当は入院した方がいいってお医者さんにも言われとるのにねぇ」

「医者の言葉が全て正しいとは限らん。病院で死ぬのも嫌や。自分の家で俺は死にたいからな」

「はいはい、そうですか」

 母はそう笑いながら父に薬を渡した。父はプラスチックケースに小分けされた数種類の錠剤を取り出し、それを口に入れて水で流し込んだ。

「……なんや、質問ばっかしとるな。そっちこそどうなんや。東京は人が多いやろう。仕事は何しとるんやったかな」

「あ、あぁ……まぁ人は多いよ。仕事はデザイナーみたいなことをしている。……と言っても販促から商品開発までやっていて、何でも屋みたいな感じだけど」

 啓治は言葉に詰まりながらも、父に自分の仕事ぶりや東京での暮らしを話した。その間、父は啓治の話を遮ったり、叱ったり、図々しくアドバイスをしたりすることはせず、黙って聞いていた。

 啓治を見上げる父の顔には、かつての張りつめられた冷たい抑圧的な仮面はなく、ただの優しげな老人の面があった。

 違う、と心の中で大きな違和感がざわめいた。

 俺の父親はもっと尊大で、嫌な奴で、啓治のことを嫌っていて、馬鹿にしていた。だからこそ啓治はこの家を飛び出し、長い間帰らなかった。――いや、帰れなかった。

(――なのに、まるで杞憂)

 啓治を傷つけ、家から逃げ出す原因を作った元凶は、こんなに優しく体の弱い、ただの老人だったというのだろうか。

 ふざけるなと思った。これまで家に帰れなかった自分が、なんとも馬鹿みたいじゃないか。

 そう言いたいのに、口にすることはできない。

「啓治?」

 父親が名を呼んだ。驚いて顔を上げると、父は不思議そうな顔で啓治のことを眺めていた。

「どうした? 心ここにあらずって顔しとったで。……新幹線で来た、言うてもさすがに疲れたか。今日はもうええから、自分の部屋に戻って休みなさい。自分の部屋に帰るのも久しぶりやろ」

 啓治はなんと答えたらよいかわからなかった。だから、開きかけた口を閉じて、無言のまま父親に背中を向けた。その背に父の視線を感じるが、振り返りはしなかった。

 ただ、啓治の胸には気まずくて重い塊が沈んでいた。

 十年という歳月はあまりに長すぎたんだ、と思った。



「父さん、変わったな」

「そぉ?」

 夕食後、皿に盛られた桃を食べながら母と話した。

「別に変わってなんかあらへんよ。むしろ、あんたの見る目が変わったんと違う?」

「そうかな」

「私から見れば、あんたも随分変わったからね」

「大げさだな」

「まぁね、でもお父さんから見てもそれはおんなじことよ」

 啓治は桃の表面をフォークで撫でた。

「……いや、俺も変わったのかもしれないけど、やっぱり父さんのは変だよ。まるで別人だ」

 桃にフォークを刺し、一口で食べた。

「まぁ病気やからちょっと弱気になっとるんやろう。……そういえば前よりも少しおしゃべりになったかしら。仕事も辞めて、もうお父さんの話し相手なんて、最近はお母さん以外誰もおらへんからね」

 母は小さくため息を吐いた。その顔に浮かんだ皺は深い。

「……病院ってね、いろんな人がおるのよ。お父さんみたいに弱った感じの人はもちろんやけど、全然病気に見えへん元気そうな人とか、看護師さんにめちゃくちゃ怒る変な人とかね。なんかそういう、いろんな人たちでごっちゃごちゃの病院の中ってえらい怖いなって思ったんよ」

「怖い?」

「そぉ、たくさんの人の声が無規則にざわめく環境って怖くない? 病院って体の悪いところを治すために休む場所やけど、そこは家でもなく仕事場でもなく、公私が入り乱れてて常に気を張ってなあかんような場所に感じる。そして、治った人は退院して、ダメやった人は死んでしまう。そんな色んな意味で人の出入りが激しい感じもお父さんには辛かったんちゃうやろうか。……場の空気に圧倒されるとかいうやろ。お父さん、それでどんどん自分はあかんと思い始めたみたいなんよ。だから、病院にいたくなかったんやと思う」

 母の言おうとしていることはなんとなくわかった。

 病院という場所は個室でもなければ他人との一時的な共同生活の場となる。そして、生と死の境目が曖昧な非日常の空間でもある。母が言いたいのは父がそれに感化されて弱り、変わってしまったのだということも理解できた。

 だけど、それでもやはり、父に対する心のわだかまりは解けなかった。

 そうそう、と突然母は啓治に向かって顔を近づけた。

「そういえばね、あんたの中学の頃の友達の、霧島くんやったっけ。あの子ね、今看護師さんになっとったよ。お父さんの担当ではなかったけど、病院で偶然会って声をかけてくれてね。懐かしかったわ」

「……へ〜」

 曖昧に返事をしながら、啓治は少し苦笑いをした。母は思ったことをそのまま口にするから、すぐに話題が転がるように変わる。正直、啓治は霧島という同級生のことを覚えていなかったが、下手に口を挟むと話が止まらなくなるのも目に見えていた。

「そうよ、近所の美恵ちゃんは学校の先生になっとるし、秀ちゃんは大学院にまだ通っているらしいね。たしかね、警察になった子もおったよ、あれ、高校の頃の松田くん。近藤さんのお子さんも警察目指しているとか言っていた気がするわ」

 どんどん出てくる名前の数に目が回る。

「あぁ、それとね……」と、母は突然何か嫌なことを思い出したのか、少し顔を曇らせた。

「あの子ねぇ、見つかったらしいよ」

「……?」

 啓治が首を傾げるのを見て、母は少し声を低めて言った。

「ほら、あんたが高校生の時、クラスの女の子が行方不明になってえらい騒ぎになったことあったやんか」

「……そんなことあったっけ?」

 薄情な子、と母は苦笑いした。

「あったよ。新聞にも載ってたで。まぁあんたの高校の頃の友達は、家に遊びに来る子以外、お母さんはよく知らんかったけど。それでもやっぱり、啓治と同じ高校の子が事件に巻き込まれて行方不明なんてショックやったからな……」

 母は本当に心を痛めたように、憂えるような顔をした。

「それで、その人が見つかったんだ。最近?」

 そうなんよ、と母は頷く。

「ちょうど今年の春頃やったかな。十年越しに見つかったってニュースでやってたんよ。『今まで何で見つからなかったんや』『この十年何があったんや』ってみんな大騒ぎでな。そんな噂のせいか、近所の人たちが『神隠しやったんや』って変なこと言い始めるし。そういうの聞いていると、行方不明やった子もかわいそうな気がしてくるわ。見つかった時もひどい姿やったみたいやで」

 そういえば、啓治も最近のネット記事で『神隠し』という言葉を見かけたような気がした。啓治は新聞を読んでいない。またそのネット記事もそれほど心が惹かれるニュースではなかったので、今まで気づかなかった。

「なんて名前やったかな、覚えやすい名前ではあってん。下の名前が確かね……何やったかな」

 その時、窓から風が流れてカーテンを揺らした。バサバサという音に混じって小さな声が聞こえた。

「え?」

 母は目を丸くして啓治を見返した。新しい桃にフォークを向けていた啓治は視線だけ母に向けて「ん、なに?」と問いかけた。

「なにって、あんた今、その女の子の名前言わんかった?」

「……え、俺が?」

 母は頷いた。

「事件覚えてなかったくせによぅわかったね。そうよ『みさき』ちゃんよ。『美しく咲く』で『美咲』ちゃん」

 チリっと、頭の中で火花が散る音がした。

 ――それってさぁ、パクリなんじゃないの。

 頭から離れることのない、忌まわしい言葉が啓治の心の中でこだました。

「みさき……?」

「そう。あんたがよく携帯で電話してたやん。この家、壁が薄いしあんたの声が大きいからよく美咲ちゃんの名前を呼んでるの聞いてたから、一時期付き合ってるんかと思ってたんやで。だから余計怖くってな。仲いいあんたまで行方不明なったらどうしようかと、当時は黙ってたけどすんごい不安やったわ……あら、桃なくなったね」

 母は空になった皿に気づくと、それを手にして立ち上がった。ふと啓治の顔を見て、少し心配そうに眉根を寄せる。

「……美咲ちゃんのことは残念やったけど、あんま気を落としなや。もう十年も前のことやねんから」

 母はそう言ってキッチンに向かった。その背中を見送りながら、啓治は耳の裏に流れる血潮の音を聞いていた。

 大きく、啓治の中で暗い影が膨張する。

 みさき。ミサキ。美咲。

「そんな奴、知らん」

 誰に聞かせるわけでもなく、啓治はポツリと言葉を落とした。



 夢を見た。

 啓治は高校生の頃の姿だった。真っ黒な学生服に身を包んだ彼は、机の上に腰掛けて友人と談笑していた。

 埃っぽい香りと緩やかな陽の暖かさ。五月の陽気が、顔を合わせたばかりの新しいクラスメイトたちの心を和ませていた。

 ふと教室の隅に目を向けると、クラスの少女たちが何やら小声で話し合っていた。

 夢の中だからか、啓治は彼女たちが何を話しているのか知っていた。

 恋のおまじない。

 ――こうすれば、あの人が私に振り向いてくれる。

 ――そうすれば、あの人が私の魅力に気づいてくれる。

 少女たちは、その細い指で丁寧に折り紙を折っていた。小学生の頃から久しく見かけなくなった色とりどりの紙の束。そこから好きな色を選んで、祈るように折っていく。

 きっと誰もがこの恋のおまじないをそれほど真剣には信じていなかった。啓治は内心小馬鹿にしていたし、少女たちも学校生活のひとつの暇つぶしに興じているようにしか見えなかった。

 ――でも、やっぱり恋は願う時が一番楽しいじゃない、と誰かの声が聞こえた。

 ――例えそれがどんなに幼稚に見えても、やっている間はみんな真剣だし、楽しいし、苦しいものだよ。

 そう言ったのは誰だったか。啓治は夢の中で頭を悩ませた。

 知っているはずの、誰か。

 啓治はもう一度、教室の隅の少女たちの群れに目を向けた。その誰にも啓治は見覚えがなかった。

 チャイムの音と共に教師がやってきた。生徒はそれぞれの座席に戻り、啓治もそれに倣った。ふと彼は思いついたように、手元にあったノートから紙を一枚破りとった。それを少女たちがしていたように、丁寧に折っていく。そうして、啓治の手の中でハート型の白い小さな紙の指輪ができた。

 ――指輪をつけて、好きな人に告白してみて。きっとうまくいくから。

 ――指輪をつけて彼のことを想ってみて、きっと素敵ないいことがあるから。

 啓治は鼻で小さく笑うと、作った指輪を片手で握り潰した。

「あれ、潰しちゃうんだ」

 啓治は驚いて顔を上げた。授業中、突然声をかけてくる者などいないと思っていた。

 彼の背後には一人の少女が立っていた。

 それは一種異様な光景だったろう。啓治の座席は教室の中で中央に位置する。そんな、最もクラスメイトの視線が交わりやすい場所で、誰の注目も浴びずにその少女は啓治の背後に立っていたのだから。

 誰も彼女が立ち上がっていることを咎めない。そもそも気づいてすらいないようだった。

 ――幽霊のようだ。

 肉体を失った、彷徨う霊魂。

「……お前、誰や」

 高校生の頃だからか、啓治の言葉は今とは異なり関西弁だ。そんな啓治の言葉も、クラスメイトたちは一向に気にする素振りを見せなかった。

 少女は啓治の質問には答えず、平気で教室を歩き回った。

「あんたも誰か好きな人がいたの?」

 どこか、聞き覚えのある声だった。

「そんなもんおらん。みんながやっていたから俺も試しに作ってみただけや」

「内心馬鹿にしていたのに?」

「馬鹿にしていたら、作ったらあかんのか?」

「そんなことはもちろんないけど、みのりみたいな真剣にやっている人もいる中で、遊びでまじないに手を出すのは失礼よね」

 少女は笑いながら啓治の斜め前の座席に座るみのりという生徒の肩に手を置いた。みのりはそれに気づいた様子を見せない。

「この子、啓治のことが好きなんだよ」

 知っていた。クラスのみんながそう噂していた。だから、啓治はその言葉に照れたりすることはなかった。

 少女は首を傾げて小さく微笑んだ。

「まじないは、遊び半分でやるもんじゃないよ。取り返しがつかなくなるからね」

「どういう意味だよ」

「そのまんま」

 少女は声を出して笑い出した。歪む口元を隠すように右手を顔に翳した。

 その手には紙の指輪があった。

 あ、と思った時、突然周囲が暗くなった。

 少女も、みのりも、教室も、他の生徒の姿も見えない。

「気づいた時には、取り返しがつかないところまで事態が進行しているのかもしれないよ」

 少女の声だけが聞こえる。それはこだまのように暗闇の中で響きながら啓治の肩を震わせた。

 ――あれが、美咲?

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