第2話 知らない少女

 翌日、啓治は朝食を終えると「散歩」とだけ言い残して家を出た。

 父には介護が必要だったが、それを手伝おうとしたら母に邪魔だと言われた。今日はいないが、日によっては介護士を呼んでいるようだ。母も若い頃、介護の経験があったのでテキパキと動いている。その様子を見ると、確かに素人の啓治が下手に手を出すよりは、介護のプロである母たちに任せた方がいいと思えた。そのため、家でやることの見つからなかった啓治は、こうして暇つぶしに街へ繰り出したのだった。

(これじゃあ、マジで顔を見せるためだけに帰ってきたようなもんだな)

 啓治は陸橋から顔を出し、電車の走り去る線路とその周囲の街の景色を眺めた。

 あと三日はこの街に滞在する予定だったが、やるべきことが見つからなかった。故郷といえども、十年も離れていては友人との縁も疎遠になっており、久しぶりに連絡するのも憚られた。また、観光するべき場所もない。啓治はどちらかといえば忙しいことを好む性質だが、仕事をプライベートに持ち込むことは嫌って、この休みに入るまでに仕事は全部東京にいる間に終わらせてしまった。

 思えば高校を卒業してから東京でずっと忙しない毎日を送っていた。学生時代はアルバイトを掛け持ちして平日も休日も関係なく働き、社会人になってからも副業として友人の仕事を手伝っているため休日らしい日はない。何もせずフラフラと街を歩き、空を眺めて、景色を見下ろすなど何年振りのことだろうか。

(それにしても、十年もあればこんな田舎町でも景色は変わるものだな)

 啓治は街を眺めながらそう思った。啓治のいた十年前と比べると、明らかに住居が増えて古い建物がなくなっていた。街の区画は変わっていないので道に迷うことはないが、啓治の記憶にあった家並みの景色は失われ、代わりに真新しく規格化された住居がズラリと同じ顔をして並んでいる。

「……なんだか浦島太郎の気持ちだ」

 そう誰に聞かせるわけもなく呟く。

 ふと、顔を上げると小高い山が見えた。その上にポツンと立つ白い外壁の大きな建物がある。山の木々が生い茂っている中、そこだけ切り立つ白い人工物がやけに目を引いた。

 それが、啓治が通っていた高等学校だった。

 これといった特徴のない学校だ。県下最も敷地面積が広いと謳われていたが、都会にある学校ならいざ知らず、田舎町にあってはそれほど誇りに感じる要素とは思えなかった。偏差値は可もなく不可もないというレベルだ。卒業生に著名人がいるわけでもなく、設備が整っているとも言い難い。学校の前には大きな坂があって登下校する生徒には不評だった。

 だけど、その坂道にある桜並木は美しかった。

 春の季節、桜の花びらが散る並木の中で生徒たちが肩を並べて歩く。いつもは坂道に辟易する生徒たちも、その時期だけは心なしか表情が明るく見えた。

 啓治はその景色を見る度に「絵になる」と思った。だからその季節は放課後にクロッキー帳を持って並木の傍を歩き、気に入った景色をスケッチして描き留めた。

 啓治は絵を描くことが好きだ。それを友人に言うと、皆は「キャラじゃない」と言ってなぜだか少し笑う。それが心底気に障り、意趣返しのつもりで美術部に入部した。啓治の学校の美術部は毎年部員の誰かはコンクールに入賞するような活動的な部で、比較的名前が知れ渡っていた。入部してからはあまり馬鹿にされなくなり、やはり肩書きなんだな、と学生ながら実感したものだった。

 だが、だからと言って啓治が部活動に熱心だったかというとそうでもなかった。啓治は課題やコンクールの提出用に最低限の絵は描くが、部活動としてはほとんど顔を出すことはなく、部員との付き合いも数人の生徒をのぞいてほぼ皆無だった。ただ、それなりに実績を作っていたこともあり、他の部員や顧問の教師に咎められることはなかった。

 そんな美術部の中にみのりという女生徒がいた。彼女は啓治に好意を寄せており、啓治にとっても部員の中で数少ない交流のある生徒でそれなりに好感を持っていた。

 だが、みのりは高校二年生の時に転校してしまった。みのりは結局啓治に想いを伝えることもなく出て行ってしまい、啓治も彼女には特に別れの言葉を告げることはなかった。

 よくある青春劇の一ページだ。きっと他の誰かも同じような経験をしており、こうしてたまに思い出すようなほろ苦い記憶だ。

 懐かしいとは思った。しかし、それだけだった。

 高校生活でのあらゆる出来事は、今思い返しても『青春』と言えるものだったかは啓治には判断できない。人並みに恋愛はしたし、人並みに恥を知り、人並みに苦労して人並みに努力をした。今を生きる自分の性格や考え方の土台となった時代だと思う。だが、だからこそ漫画や小説で見かけるような美しい思い出とは違うと思った。

 啓治は学校の建つ山を迂回するような道を進んで歩いた。サワサワと頭上の木々が揺れ、木漏れ日が眩しかった。足元のアスファルトは所々に罅が入っており、たまに足を引っ掛けそうになる。

 グラウンドに近い場所を通ると、夏休み中の部活動だろうか、生徒たちの掛け声と断続的に鳴る笛の音が聞こえてきた。学校の体育の授業や、放課後に校庭で部活動をする生徒たちの景色が脳裏に浮かんだ。なんとなく学校がある方向に目を向けるが、木々の間からグラウンドの白い土が見えるだけで生徒たちの姿を見ることはできなかった。

 しばらく歩いた先に、学生時代は毎日足を運んだ校門前にある桜並木の道に差し掛かった。今は桜の季節を過ぎて、既に青々とした葉が道の上に広がっていた。広げた傘のように天に向かった木々の梢が伸びている。啓治の立つ場所から急な斜面を登った先にある学校の校門までその並木は続いていた。

 啓治は顔を上げて坂道の頂上にある校門を見上げた。

 そこに、一つの影を啓治は見た。虚ろに佇むその影は、まるでスカートを穿いた女生徒の姿に見えた。

 その瞬間、ザワリと昨夜から啓治の心を蝕む暗雲が再びその姿を現した。

 ――十年ぶりに見つかった、美咲という行方不明だった少女。

 啓治は胸が重くなるのを感じた。

 ――美咲。

 昨夜見た夢を思い出す。啓治を挑発するように笑った幽霊のような少女。

 あれが、美咲なのか?

 ドクドクと鳴る心臓の音を聴きながら、啓治は深呼吸をする。強い光を目にした時のように強い目眩を感じて、啓治は頭に手を当てて立ちくらみに耐えていた。

 どのくらい、そうして立ちすくんでいただろう。気分を落ち着かせて顔を上げると、先ほどの影があった場所に数人の女生徒達が笑いながら歩いていた。これから部活に向かうのだろうか。彼女たちはスカートの裾を揺らして歩み去っていった。

 ――もう、大丈夫。

 啓治はそっと息を吐いた。

 少しだけ学校の校門に目を向けていたが、やがてそれにも背を向けて歩き出した。



 啓治は一日中、そうやってふらふらと故郷の町を歩き回った。昼食は市街のレストランで軽く済ませて、そのまま気分が赴くまま歩いた。

 午後三時を少し過ぎた頃だろうか。高校の最寄り駅の近くで懐かしい店を見つけた。

「へぇ。ここ、まだあったんだ」

 古びた雑貨屋だった。雑貨屋と言ってもオシャレな小道具を売っているのではなく、生活用品や軽めの食材といった、どちらかといえばホームセンターにあるような商品を揃えた小さな店だった。長年の風雨で薄汚れてしまい、所々剥げた漆喰の壁が、この店が耐えてきた年月の長さを物語る。店の入り口の頭上にある赤と黄色の天蓋も、よく見ると破れた箇所を張り合わせたような跡が見えた。

 啓治の学生時代は学校の周辺にはコンビニがなかったため、代わりにこの雑貨屋がパンや飲み物といった軽食を学生たちに提供する憩いの場となっていた。

 この故郷の街に帰ってきてから、ずっと啓治は喉に小骨が引っかかったかのような居心地の悪さを感じていた。

 両親も、街の風景も、学校を囲むその道も、どこかしら啓治の記憶の景色とは異なる『ズレ』があった。啓治の中で今まで変わらず胸に抱かれていたはずのものが、この一日ですっかりと上書きされていくことに多少のストレスを感じていたのかもしれない。

 しかし、この雑貨屋は啓治の記憶と寸分違わずそこにあった。それが啓治に言い知れぬノスタルジーを感じさせたのだった。

 雑貨屋の入り口は自動扉ではなく、安っぽいアルミの枠で出来たガラス引き戸だった。手を掛けるとレールに沿ってカラカラと扉は滑っていった。

「いらっしゃい」

 店の奥で大きな声が聞こえてきた。啓治の記憶にはない若い店員が棚に商品を補充していた。

 ――やはり、こうした場所でも小さな変化はある。

 少々の落胆を感じつつも、店の内装は啓治の記憶にある通りだった。

 それほど広くはない店だった。入口から入って手前側の棚には軍手や洗剤といった生活用品が並び、奥側の棚には菓子パンなどの軽食が並ぶ。棚に揃った商品を眺めていると、啓治が通っていた頃とそれほど品揃えが変わっていないことに気づいた。

 ふと、啓治は籠に無造作に並べられたジャムパンを目にした。高校時代によく食べていた銘柄のパンだった。卒業してから初めて知ったが、このジャムパンは県内でしか作られていない地元の食品メーカーの商品だったらしい。卒業直後は、慣れ親しんだ味を口にできず、少し寂しく感じた時期もあった。ジャムパンを手にすると、その味が頭の中で思い出された。

 その時、啓治はふと視線を感じた。振り返ると、店の奥で棚の整理をしていた若い店員が、商品を片手に啓治のことをジッと見ているのだった。

「……何か?」

 啓治は小首を傾げて問いかけた。すると、彼は何か決心したのかキュッと口を結び、立ち上がって啓治に声をかけた。

「……あの、もし間違っていたら申し訳ないんですけど」

 関西弁のイントネーションで語る丁寧な言葉は絶妙な違和感を発する。その声音に、なぜだか啓治は聞き覚えがあると感じた。

「もしかして、ケイジ……ですか? 柳、啓治」

 啓治はこの若い店員の口から自分の名前が呼ばれるとは思っていなかったので、思わず目を見開いた。その反応で相手は確信したように表情を明るくした。

「やっぱり、啓治やろ」

 少し肌が焼けた短髪の青年だった。健康的な体付きで、笑うと白い歯が眩しい。

「俺だよ、まつだ」

「……松田?」

 啓治は懐かしい響きを感じながらその名前を復唱した。

「ほら! 高校の頃よく一緒におったやろう。ここ、俺ん家やからって、お前、ツケとか言って勝手に商品を持って帰ったりしたやんけ。あの時の請求金額、まだ覚えとるからな」

 彼はそうおかしそうに笑いながら言った。

 啓治の頭の中で、過去の記憶がうっすらと蘇った。確かに啓治はこの店の商品を図々しく「ツケ」と言って持ち帰った。それは、確かこの店の子どもが同級生だったからだ。

 あの時の同級生が、この目の前の青年なのだろうか。

「あぁ、確かに、そんなこともあったな! ……でもお前、本当にあの松田か?」

 啓治は実のところ、先程から彼の学生時代の姿を思い出せずにいた。松田という友人とその交流は覚えているのだが、その記憶が目の前の青年に結びつかなかった。

 松田は少し気まずそうに視線を落とす。

「そっか……まぁ、そりゃ仕方ないか。啓治と卒業後は一度も会ってへんし……数えてみりゃ十年になるからな」

 明らかに落胆した松田に、啓治は多少心を痛めた。

「松田……はさ、今はこの店で働いているのか?」

「いや、ここは実家やから暇な時に手伝っているだけや。親父も腰を悪くしたし、母さんは元々寝たきりやったからな。この店も平日の夕方頃しか最近は開けてないねん。もうほとんど閉店間近やで。普段の仕事やったらな、俺、警察になったから交番におるで」

「え、警察?」

 意外に感じつつも彼の外見を見て納得した。鍛えられた体は確かに消防士や警察といった職業に相応しく感じた。そこで、とある違和感の正体に気づいた。

「…………なぁ、松田って昔はもっと細くなかったか?」

 そう言うと、彼はハハ、と声を出して笑い始めた。

「なんや……啓治、自分、ちゃんと覚えてるやん」

「あ、やっぱり、お前そんなゴツくなかったよな」

 彼の笑い声につられて、啓治の声も明るくなる。少しずつと薄れていた記憶がハッキリと見えてきた。

「高三から一応筋トレは始めてたんやけどな。まぁ大学になってからや、ちゃんと警察になることを意識して鍛えはじめたのはさ。そしたらいつの間にか、まぁこんな感じになったわけですよ」

 そう言って彼は力こぶを腕に作った。それを見て啓治はやっと納得した。外見的特徴が過去と現在でまるで違ったのだ。

「いや、だって全然違うじゃん! 昔はそんな力こぶみたいなの出てなかっただろ。顔立ちもなんか昔と違うし……整形でもしたかと思ったぜ」

 かっこよくなったか、と松田が笑い、啓治が調子に乗るなよ、と小突く。

「それにしてもまさかあの松田が、警察になっているなんてなぁ。これじゃあ、もうこの店のものをツケにしてもらうなんて怖くて出来ねぇな」

「それはどの店でもやんじゃねぇぞ。……っていうか昔の分もちゃんと払えよ。逮捕されたくなかったら、今からでも遅くねぇからな」

 そう言って松田は笑う。

「なぁ、今って帰省中とか? もし暇してるんやったらさ、今夜ちょっと呑もうや。近くに美味い店知っとるから」

 それはいい、と啓治は思った。実際に啓治は暇を持て余していたし、なにより両親のいる家にはあまり帰りたくなかった。

「おう、スマホは今持ってる? IDを教えるからさ、あとでメッセージを送ってくれ」

 啓治はスマートフォンを片手に、松田に笑って頷いた。



「あったなぁ、そんなこと」

 啓治は声を上げて笑った。この街に帰って来て心から笑ったのは初めてかもしれない。

 最寄りから三駅ほど離れた場所にある居酒屋に松田は啓治を連れてきた。

 外壁が黒ずんだ小汚い店構えを見た時はあまり期待していなかったが、実際に料理を口にすると目を輝かせた。野菜が新鮮で、焼くだけでこれほど甘くなるとは知らなかった。

 思えばこうした店でちゃんとした食事をするのも久しぶりだった。普段はコンビニや冷凍食品など市販品ばかりで食事を済ませている啓治には新鮮な野菜の味や肉の柔らかさを楽しむ時間がなかったように思う。

 二人は各々で気になる食事を注文しては舌鼓を打ち、また過去の思い出話に花を咲かせた。

「まぁ、啓治はなんだかんだ優等生やったよな。俺は怒られてばっかやったけど、啓治は素行が悪いこと以外、成績はそこそこでうまくやっとったし、人付き合いも器用やん。卒業してからは東京の美術大学に行って、今はデザインを仕事にしてるんやろう? あの頃は絵をよく描いているしなんや暗いなぁと思っとったけど、それを仕事にして食ってるんやから立派やで」

 世辞を言うもんだ、と思わず口元が緩んでしまう。

「いやいや、松田の方がどっちかと言うと意外だと思うけどな。背は高いけど細っこかったのに、それが今じゃムキムキの警察官じゃん。もう俺悪いことなんてできねぇよぉ」

 大げさに嘆くと松田が破顔する。

「なんかやらかしたら真っ先に俺に言えよ。自首ならいつでも受け付けてるぜ。啓治はいつかなんかやらかすと思ってたんだよな」

「おいおい、なんもやってねぇよ。俺のこと疑いすぎだろう」

「いや、お前はやらかすやろ。俺ん店のツケをまだ返してくれへんし」

「めっちゃ根に持ってんじゃん」

 二人はお互いの言葉に笑いながら酒を呑み進めた。酔っているためか、啓治はふと、幼い頃の記憶が蘇った。

「あぁ、そういえば……俺も小さい頃は警察に憧れたことがあったなぁ……」

 どうして諦めたのだろうか、その理由を思い出すことは出来なかった。だが、小さい頃の夢なんて諦めの連続だろう。啓治はアルコールと共に思い出も喉に流しこんだ。

 松田そんな啓治に、日本酒を呑みながら尋ねた。

「啓治は絵が上手くてええよなぁ。最近SNSとか見ると色んな奴が絵やらCGやら描いたり作ったりしとって……めっちゃおもろそうに見えるねん。啓治は昔っから絵が上手かったし、ずっとデザイナーになることを目指してたん? 絵描きになろうとは思わんかったんか?」

 邪気のない称賛に少しだけ照れた。

「バカ、俺なんかそんな上手い部類には入んねぇよ。こんなとこでそんなこと言うなよ、恥ずいからさ」

「そうかぁ?」

「そうだよ。デザイナーになろうと決めたのも大学に入ってからだし、ちゃんと絵の勉強を始めたのも美大受験を初めてからだ。あの頃はそれでどうするかなんて考えてもなかったよ。それはお前だって同じだろ。あの頃は警察になるなんて一言も言ってなかったじゃないか」

「そうやっけ? そうかもなぁ」

 松田はうまく思い出せないのか頭を掻く。

「……高三ってみんな学校でも家でも勉強漬けの日々だったから、あの頃どんな話をしてたかなんてもう覚えてないな」

 確かに、と啓治は頷いた。

「……ちょうど、美咲がいなくなったのも高三の頃だったな」

 松田はふと思い出したかのようにそう言った。啓治はその名前を聞いた瞬間、少しの間体を固めてしまった。

「美咲か……」

 松田はそんな啓治に気づいた様子はなく、手にしたお猪口を指でもてあそびながらその名前をもう一度呼ぶ。

「お前ら仲よかったよな」

 松田はそう言って啓治に指差した。突然の名指しに啓治は動揺するように、手に持っていたグラスを傾けてしまった。

「おいおい! あぶねぇぞ」

 もう中身が殆どなかったことが幸いして、少量の氷が机の上に散らばっただけで被害が済んだ。松田は急いで机の端に置かれていた布巾でこぼれた氷を拭き取った。

「わ、悪い……」

「ハハ、動揺しすぎやろ」と松田は話を続けた。

「いや、わかっとるよ。付き合っているとかそういうタイプの『仲良い』のとは、お前らのソレは違うよな。何人かはよく囃し立てとったけど、お前らはそういう甘い感じじゃなかったし」

 そう言って松田は懐かしむように遠くに目を向けながら酒を呑んだ。

 対して、啓治は沈黙していた。先程松田が拭い去ったあとの机の上に、小さく残っている水滴を彼はジッと見つめていた。

 母が話していた聞き覚えのない少女。夢の中で見た見覚えのない少女。

 ――美咲。

 ここでも現れるのか。

 啓治は微かに自分の背中が冷や汗で濡れるのを感じた。

 先ほどまであれほど饒舌に話していたのに、何も答えなくなった啓治の様子に松田は眉をひそめた。首を傾げて啓治の様子を伺っていたが、やがて「あぁ」と頷いた。

「お前『神隠し』のこと気にしとるんか」

 松田は誤解しているが、一人で納得して話を続ける。

「……まぁ胸糞悪い話やんな。いなくなった時も『攫われた』とか『駆け落ちや』とか勝手なことを大人に噂されて、挙げ句の果てどこぞのやつと『心中した』なんて言われて……俺もこう、胸の奥がすっげぇイライラしてムカついたわ。そんでいざ見つかったと思ったら、今度は『神隠し』なんて言われて……そこまで来ると怒るの通り越して呆れたわ。かなわんよな。

 美咲の事件はいつも誰かの噂話や妄想とか、そういう話の娯楽のネタにされて消費されとる。……誰も本当に美咲のことを心配なんかしてへんのや。みんなが大事にしてるんは、噂を絶えさせないためのネタ、娯楽の提供な。近所の奴らも、ネットで呟く奴らも、誰も彼も美咲をコミュニケーションのネタ程度にしか見てへん」

 松田はぐいっとお猪口をあおった。

「美咲の事件を、まるで怪談話みたいに語ろうとするやつらはどっかおかしいんや。肝心の美咲がもう話すことも出来ひんからって、あいつらは好き勝手にいろんな想像を膨らませて嫌らしい噂を好きなだけ言える。美咲のことを想えば……そんなこと言えるわけもないのに」

 松田は片手の肘をついて枕にし、そこに頭を傾けた。

 啓治は、そんな彼になんて言葉を言えばいいのかわからなかった。一言「そうだな」とさえ言えればいいのに、その一言が出ない。

 ただ、疑問だけが渦巻く。


 ――美咲って、誰だよ。


 一体誰が、高校の頃俺と仲良しだったんだ?

 一体誰が、行方不明になったんだ?

 一体誰が、噂の食い物にされたっていうんだ?


 啓治の知らない人間を、みんな啓治が知っていると思って話す。啓治には、その中心が見えていないのに。

 啓治だけが知らない『美咲』。これが意味するのは、一体なんなのか?


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