第10話 けいじ
散乱した綿、どこもかしこも開かれた扉という扉、そんな部屋の真ん中で呆然と立ち尽くしている啓治を見て、高松は言葉を詰まらせた。
「あぁ、やっと来たか」
どこかやつれたように見える啓治に、高松は何か言おうとしてやめた。
早朝に啓治の電話で叩き起こされて、一言でも文句を言ってやろうと思っていた高松だったが、実際に啓治の顔を見ると、頭の中に思い描いていた言葉が何も出てこなかった。
啓治の手の中にはズタボロに切り裂かれたぬいぐるみの残骸があった。彼はそれを持ち上げて無言で高松に見せる。窓から差し込む光が逆光になって、啓治の表情は影に隠れて見えなかった。
啓治からぬいぐるみの残骸を受け取って検める。元々腹があったと思われる部分を見ると白い綿の中に黒いプラスチック製の小さな機械が紛れ込んでいるのが見えた。
「それって、盗聴器だよな」
「……そう、だな」
高松は背筋にゾッと冷水をかけられたかのような感覚がして震えた。
「これも見てくれ」
啓治が放り投げたのはぬいぐるみの頭だった。
「たぶん、目が怪しい」
そう淡々と言う啓治の声は虚ろだ。高松はなぜここに呼ばれたのかを悟った。
高松は戦闘機やスパイ道具といったミリタリー系の造形物が好きだった。そのため自然と銃や盗聴器といった道具の種類、使い勝手の知識を得る機会が多かった。だがそんな高松も、実際にそうした機材が悪用されている現場を見るのは初めてだった。
断りたいと思った。犯罪の場に自分から足を踏み入れることはやはり怖い。だが、啓治のこの様子を見ると、その選択肢を選ぶことは出来なかった。ここにきてしまった時点で、高松は啓治に協力せざるを得ないのだった。
高松は仕方なく、啓治に渡されたぬいぐるみの目を覗き込んだ。
しばらく眺めていると、彼はぬいぐるみの頭の裏に指を突っ込んだ。グリグリと指を潜らせて目の裏側を探り、やがてそこから小さな機械を引っ張り出してくる。
「小型のカメラだな。腹にあったのは電池式の盗聴器」
高松はしばらくの間、その手に取った機械を指で弄んでいたが、顔を顰めて机の上に置いた。
「盗聴器ってのは普通、電話の受話器とかにセロテープとかで取り付けるのがストーカーのやり口だ。だから大抵の場合、怪しいと思えば振ればいい。激しく振れば、テープが外れて『カラカラ』と音が鳴ってわかるからな。……だけど、ぬいぐるみの中身は綿だ。振っても音が出やしねぇ」
そう語りつつも、高松のその知識はネットや本で得た受け売りだ。実際にその現場を見ると、吐き気にも似た感情が喉にこみ上げてきた。
「……それにしても一体だれがこんなことしたんだよ」
呟くようにずっと胸に抱いていた疑問を吐いた。すると啓治はにべもなく「細川だ」と答えた。その答えに一層高松は目を見開く。
「細川さんって、この前飲みに言った時に見た、あの……おいおい、まじかよそんな……」
立ちくらみを感じた。まだ直接話したこともない女性だが、知っている人間の凶行と知ると、大きな衝撃が高松の中で感じられた。しばらくじっとそれに耐えるように彼は黙っていたが、やがて、高松は顔を上げて啓治を見上げた。
「……どうする」
脂汗を額に浮かべながらも啓治に問いかけた。
「たぶん、この家は他にも盗聴器が仕掛けられているぞ。俺のわかる範囲で良ければ探すけど」
高松は本音を言えば今すぐにでも帰りたかった。しかし、今こそがこれまで培ってきた知識を生かす場だと自分に言い聞かせる。ここで啓治を見捨てるなどあるはずがなかった。
啓治は黙って頷いた。それを見て、高松は躊躇いながらも部屋に一歩踏み出した。
結果的に、啓治の家から合計四つの盗聴器が出てきた。壁の電源口のカバーから出たものと、いつの間に取り付けられたのかデスクトップ型パソコンの裏側にあるUSB端子型のもの。
そして、もう一つ新たな事実が見つかった。風呂場の天井にある点検口、そこを開けて天井裏を覗き込むと、人が出入りしていた後が見つかったのだ。ユニットバスの天井は薄い板だ。その上には何の形跡もないのだが、それよりも奥に懐中電灯の光を向けると、厚い埃が被った梁の上に足跡が残っていた。足跡をたどった先にあったのは一つの旅行用カバンだ。中には一本の懐中電灯とビニールシート、乾パン、そして壊れたノートパソコンが入っていた。
高松は天井裏から部屋に戻ってくると、何も言わずに啓治を連れてマンションから外に出た。外は雲ひとつない晴天だった。その明るい空が心底憎いと高松は思った。
啓治のマンションの近くには小さな公園があった。普段なら子どもとその親が何人か集まって遊んだり談笑したりしている和やかな場所だが、昼少し前という微妙な時間もあり、今日はまだ誰もいなかった。
「……悪いな、いろいろ調べてもらって」
啓治がそう謝ると、高松は首を振った。
「謝ることじゃない。もし俺がお前の立場だったら、耐えられなかったと思う。……けれど、まだ安心はするなよ。たぶん、まだ俺が見つけられてない盗聴器が残っているかもしれん。俺もプロじゃないからな。保証はできないんだ」
そう言って公園のベンチに座ると、立ちすくむ啓治を見て、高松はおもむろに言った
「警察に行こう」
啓治は何も言わない。高松は話を続けた。
「軽い気持ちで来た俺も馬鹿だったが、これは事件だよ。立派なストーカー被害で、犯罪だ。そして啓治はその犯罪の被害者だ」
高松はそう言ってスマートフォンを手にした。その指が一一〇のボタンを押そうとしているのに気づくと、啓治は思わず高松の手を叩いた。カタン、という音と共に高松のスマートフォンが地面に落下した。
「警察は、呼ばないでくれ」
「……おい」
啓治の言葉に高松は眉を顰める。
「俺の言ったことが理解できてないわけじゃないだろう。自分が……男がストーカー被害を被っていることが恥ずかしいと思う気持ちはわからんでもないが、警察に言って解決してもらわないと安心できないぞ。細川さんがおそらく犯人だろうって目星もあるんだろう? じゃあ、なおさら警察を呼んで解決してもらおう。呼ばない理由はないだろう」
それに啓治はうつむきながら、震える声で答えた。
「……もうあの家には住まない。今夜からホテルに泊まるよ。引っ越しの段取りができたら最低限の荷物を持ち出して他は捨てて逃げる。だから……警察には言わない」
高松はしばらく啓治を見て黙っていたが、ため息を吐いた。
「細川さんはお前をなんらかの目的で見張っている。さらには家に侵入して居座っていた形跡があることもわかった。これがどういうことかわかっているのか? お前が飯を食ったりエロ動画を見たりしている時も、そいつは屋根裏にいてお前のことを盗み見ていたかもしれないんだ。無断で他人の領域に入り込んで、平気で居座るようなヤバイ奴なんだよ。お前はそういうヤバイ奴に付きまとわれているんだよ。それでも、警察には言わないのか。職場にだっているんだろう。逃げ場がないじゃないか」
啓治は黙り込んだ。高松は啓治の肩を掴んでさらに説得を試みる。
「俺が盗聴器をとったことだってすぐに細川さんにはわかるぞ。まさかと思うが、細川さんが自首でもすると思ってんのか? ……だとしたらおめでたいよ。犯罪者心理なんて俺にはわからんが、きっとそういう奴は開き直るに決まっている。バレたんなら、今度は強硬手段に出るんじゃないか。直接会いに来て、お前に手を出すかもしれんぞ。……お前、今の状況はマジでヤバイんだぜ」
「……わかっている」
「それじゃあ、警察に」
「でも、警察にはそれでも言わない」
高松はあんぐりと口を開いた。
「まさか、細川さんを庇っているのか?」
「そんなんじゃない。むしろ逆だ」
啓治は首を振った。啓治は高松に諭されるまでもなく、今の自分の状況や危険性は理解していた。しかし、だからこそ――これは使えるんじゃないかと思った。
「警察には言わない。出来るだけ俺と細川の間でこの問題は解決したいんだ」
「……どうして」
高松は不可解なものを見るような目で啓治を見た。
「だって、そうじゃないと細川を脅せないだろう」
「……は?」
啓治は唇を震わせながら笑う。
「目には目を、歯には歯をだよ……あいつは俺をコケにした。俺を精神的にも追い詰めた……なら、俺だってあいつにやり返したっていいだろう? 先に仕掛けたのはあの女だ。なら、これは正当防衛だ。そうだろう?」
啓治の笑顔はひどく歪んだものに高松には見えた。いつもと異なる雰囲気をまとう彼に高松は一歩下がる。
貶された相手に見返してやりたい。その悔しく思う気持ちはまだ理解できた。だが、啓治の言うそれは、『悔しさ』という感覚とはどこか性質が異なるように思う。
「おい……この前俺にセクハラはやめろって諭していたやつが、同じ口で女を脅すって言うのか」
犯罪に脅しで仕返しをするのは、どこかおかしくないだろうか。それに啓治の言葉はどこか、細川を人として見ない傲慢な態度が見え隠れしていないだろうか。
「バカなことはやめろ。それに、お前が細川さんを脅すことが成功したからって、お前の安全が保障されるわけじゃない。逆上した細川さんがお前に襲いかかる可能性だってあるんだぞ」
そう言うと、啓治と目があった。瞳孔が開いて異様に黒いその目に高松はギョッと身を固くした。しかし、目を合わせているうちに啓治も気持ちが落ち着いてきたのか、普段の目つきに戻っていく。
「その時は、その時さ……ただ、俺はあの女に思い知らせてやりたいだけだよ。バカなことをするなって」
そう言って、啓治は微笑んだ。いつもの通り柔和な笑顔に戻っている。
「……安心しろよ、別に金をせびろうとか、レイプさせろとかそんなことは言わないさ。俺だってわきまえている。ただ、この盗撮の証拠をあいつに突きつけて、もう二度とするなって言うだけだよ。そうすれば、細川は警察に捕まらず、俺は細川をセーブすることができるだろう」
「そう、だな……」
高松はなんとか頷いた。未だの啓治の言い分には納得出来なかったが、これ以上彼に反論すると、自分の身が危ないような気がした。
高松は口元を押さえて、啓治から一定の距離を置く。大学時代から一緒につるんでいた友人が、なぜだか今は、よくわからない恐ろしい別の何かに見えた。
高松はふと『なぜ啓治は警察を避けているのだろうか』と思った。彼は細川を脅すためだと言うが、それはどこか言い訳じみているように感じる。むしろ啓治は、犯人である細川よりも警察に警戒しているのではないだろうか?
そう考えてから、高松は首を横に振った。いくらなんでも考えすぎだろう。
(きっと、一時的に気が立っているだけだ)
そう自分に言い聞かせる。思えば、彼は仕事先の同僚に裏切られたという強い精神的ショックを受けているはずだ。また安全圏であるはずの自宅がそうでなかったと知った時の衝撃はどれほどのものだろうか。数日前に会ったはずなのに、彼は目の下に濃い影を落としてどこかやつれているようにも見えた。精神的に追い込まれたが故に脅迫したいという暴力的な思考に陥っているだけだ。そうに違いない。
「わかった……俺はもともと部外者だからな。お前の方針に異議は唱えるが強制はしないさ。だけど、本当にやばいと思ったらすぐに警察に言うんだぞ」
啓治は「ありがとう」と笑う。高松はそれに笑い返さなかった。
それが、啓治を見る最後の姿になることを、その時の高松は、まだ知らなかった。
用務員のその男は名前を倉田と言った。彼はあの高校で十五年以上働いていると言った。
「長いんですね」
古い喫茶店の窓際の席で、榎本は倉田と話していた。倉田は学校で見た用務員の制服から、今は私服に着替えていた。
「まぁね、それに耳がよくって記憶もええ。なんでも聞いてくれよ」
そう言ってカカと笑う倉田の笑い声は乾いており気持ちが良かった。他人との交流を嫌う榎本だが、倉田との会話は苦ではなかった。これから情報を売るという話がなければ、きっと年の離れた良い友人になれたのではないかと思った。
「それで、あんたは何が知りたいんや」
「……その前に、どうして私に話してくれる気になったのか、教えてくれませんか」
榎本は声を低めてそう聞いた。この喫茶店で待っている間ずっと考えていたことだった。まだ倉田のことは信用ならなかった。
それに対して、倉田は愚問だ、とでも言いたそうに眉を寄せた。
「なぜって、変なことを聞くな。そんなん、俺があんたのことを知っているからや。懐かしい人を見ると、ついつい口が軽くなるやろう?」
そう言って、倉田はちらりと榎本の顔を見る。
「……当時とえらく見た目は変わったけど、それでも俺はあんたのことを覚えとるし、ここに帰ってきた意味もなんとなく察しているつもりやで。さっきも言った通り、俺は耳がよくって記憶力がある。あの時よく聞いた君に関する噂も知っている」
榎本はずきりと頭が痛くなった。今日はずっと頭痛がしている。チクチクと倉田の言葉は榎本の脳を刺激しているように感じた。榎本は呻くように声を上げて首を振る。それを倉田は憐れむように目を細めて見ていた。
「忘れてるんか」
「何を」
「いや、なんでもない」
そう言って倉田は榎本から目を逸らし、喫茶店の窓の外を見た。榎本からも見える。窓の外に見える山の影から白い校舎の角が顔を覗かせているのだ。
「それなら、俺の独り言をしばらく聞いてくれへんか」
倉田は外を見ながらそう言った。頭の痛みに呻いて背を丸めている榎本はその横顔を見る。
「あんたが知りたいことは、一体なんだろうね……この学校の卒業生にいる知り合いのこと、学校の成り立ちや歴史……いや、十年前の事件か」
勘のいい男だと榎本は思った。
「……奈良美咲について教えてくれ」
倉田はこちらを振り返らずに頷いて、そのまま話し始めた。
「あの子は都会から来た可愛らしい子やった。でもまぁ、いわゆる『おませさん』って感じの子やったな。ここら辺では珍しく標準語で話すから、周りからは垢抜けてるって評判やったし、本人も大人びた話し方を意識しているようやった。なんか、話し方から動きまで演技しているみたいな面白い子やったな。そんな彼女は生徒たちにとって色んな意味で注目の的やった。今みたいにスマートフォンが普及する少し前の時代や。生徒たちの都会に対するイメージはテレビドラマのキラキラした世界でしかなくって、奈良美咲はまるでテレビ番組からポンと現実世界に飛び出してきたような子に見えたのかもしれへん。そして本人もそういう風に見られるのを好んでいたし、楽しんでいるようにも見えたわ。やけど、あの子はそんな特別な子じゃない。奈良美咲は普通のどこにでもいる女の子やったんや。…・東京では色んな個性に埋もれてしまうけれど、ここでなら唯一の色を持って輝ける。自己顕示欲が肥大して少しばかり正義感が強すぎることがある意味欠点やったかもしれへんけど、思春期のあの世代やったらよくあることやろう。あの子はいい子やった。俺みたいなおっさんにもよく話しかけてくれるような、よく笑う、女優を目指したいい子やった。……それが、ある日突然姿をくらました」
思い出に浸るように笑っていた倉田は、その顔に一瞬陰りを見せた。
「……あんたは、神隠しって信じるか」
突然の問いかけに、榎本は一瞬、頭痛の痛みも忘れてポカンと彼の顔を見た。
「おまじないとか、神隠しとか、そういうもんを信じているか? ……俺は信じてない。だけど奈良美咲はそういうオカルトチックなものも好きやったんや。不可思議なものが好きで仕方がないように見えた。……俺は彼女にとって友達っていうカテゴリーじゃなくって『学校でよく見かける気のいいおじさん』とかそう言う風に見られてたんやろうな、たまにそういう話をしに来てくれたけど、友達にはイメージが崩れるのを避けるために決してその趣味を誰かに言ったりはしてなかったみたいや。……でも、彼女はその知識を巧みに学校生活に取り入れていった。例えば、ほんの一時期この学校では恋のおまじないが流行った。高校生にしては幼稚な可愛らしいもんで、俺はアホやなって思いながら見ていたもんやけど、彼女たちは意外と真剣でな。昼休みに折り紙を持ち寄って円囲むように集まって、数人で折ってたんや」
「あの、折り紙でハート型の指輪を作るやつ?」
「なんや、あんたも知ってたんか。俺は他の学校では見たことないけど案外有名なおまじないなんかな。あのおまじないを広めたのは奈良美咲やった。他にも学校の七不思議に関する噂を流したのもあの子やった。……不思議と、誰も美咲がそういった怪しい噂の元だとは思わへんかったみたいやな。……まぁ、何が言いたいかと言うと、奈良美咲はオカルトに――非日常に憧れていた。そういうものを見たい、知りたい、と思ってたんや。だから、俺には奈良美咲とオカルトチックな噂は一本の線で繋がっているように見えるねん。あの子が『神隠し』にあったと聞いた時も、俺は妙に納得したんよ。『あぁ、あの子はやっと非日常側へ行けたんやな』ってな。そう思うことで、自分を慰めたんよ。決してあの子は非道な誰かの手に汚れたのではなく、超自然的なものに囚われたんやって……不幸は不幸やけど、まだその方が俺の心は痛まなかったから、そう思うことにしたんや」
倉田はそう言う間も、じっと窓の外の景色を見ているのだった。
奈良美咲は、浮世離れした子どもだった。仕草や言葉使いが演技的で、自分たちとは少し異なる次元に存在するような人。しかし、それでも奈良美咲は普通の子どもだったと倉田は言うのだった。
「……奈良美咲が行方不明になった日のことは覚えていますか」
倉田はしばらくの間黙っていた。やがて、重い口を開く。
「覚えている。あの子は男に騙されたんや」
「男に騙された……?」
その時、今まで凪のように静かだった倉田の表情に始めて感情が浮かぶのを榎本は見た。怒りだった。額に皺を寄せて、歯茎を見せて食いしばくその男に榎本は目を見開く。
「あれは『ひとでなし』や。人間社会の中での異物、ほんまはいちゃあかん奴や。人を人と思ってないような、悪意の塊や」
今まで穏やかに語っていた倉田とは思えないその言動に榎本は背筋がぞくりと震えた。
「……その男って、もしかして『けいじ』ですか?」
ぐるりと倉田は榎本の方に首を向けた。痛々しいほど開いたその両目が、窓の外の夕日により影を濃くする喫茶店の中でより一層ギラギラと目を光らせていた。そんな倉田の顔が榎本はひどく怖いと思った。
「……けいじが、奈良美咲を殺したんじゃないですか?」
倉田はしばらくの間黙ってじっと榎本を見ていたが、やがてテーブルの上にある水の入ったコップを手にすると口に流し込んだ。
「…………わからん。だが、俺はきっとけいじが殺したんやと思っている」
その言葉に、榎本は「やはり」と口の中で呟いた。
(川辺で見たあの黴の男がけいじなのだ)
倉田はコップをテーブルに戻す。その指がブルブルと震えていることに榎本は気づいた。彼は先ほどの怒りの面をどこに忘れたというのか、今は何かに怯えるように顔を歪ませていた。
榎本は眉を寄せる。倉田は情緒不安定に見えた。校門や喫茶店で顔を合わせた当初の明るい初老の男はそこにはおらず、榎本の目の前には喜怒哀楽の感情に放浪されるどこか危なげな老人の姿がそこにあった。
「……けいじは、それほど怖い存在なのですか?」
倉田は首を振る。
「わからん」
榎本は眉を顰めた。奈良美咲の時はひどく饒舌だった彼が、今は黙りがちだった。
「……さっきから、『けいじ』に関してはわからん、わからんって……彼について何にも知らないのですか? 何にも知らないのにそれほど怯えているのですか?」
はっきりとしない倉田の態度に思わず強い調子で言ってしまった。倉田はうなだれる。
「いや、そういうわけやない……ただ、俺にはあの男のことがよくわからんのや……」
倉田はそう言って自分の顔を覆った。
「もともと『けいじ』はそれほど目立った生徒ではなかった。暴力沙汰を起こすわけでもなく、だからと言って慈善活動に勤しむわけでもない、学校に数多いる無気力な学生たちと同じように、なんの特徴もない生徒やった。やのに、あの子は豹変した」
「豹変……?」
「奈良美咲が行方不明になった翌日から、今までそれほど目立たなかった『けいじ』の顔を学校中でよく見るようになった。日が経つ毎にあの子は見違えるように垢抜けていって、クラスでも目立つ存在になっていったんや。それと同時に、どういうわけか『けいじ』の発言力は力を増していった。他の生徒たちはみんな、奈良美咲のことは何も話さなくなっていき、最初は突然目立ち始めた『けいじ』の陰口も、次第に誰も言わんくなっていった。……むしろどこか畏れるように、賛美する言葉が飛び通うようになった。
そんな時に俺は『けいじ』がとある学生を殴っている現場を見てしまったんや。喧嘩じゃない。あれは一方的な暴力や。倒れた学生を『けいじ』が雨のように殴って蹴って、潰しにかかっていた。俺は不良の喧嘩を何度も見たことある。そら暴力沙汰は怖いけど、それでも間に入る度胸もあれば、止められるくらいには腕に自信もあった。……やけど、俺は『けいじ』のその暴力を止めることが出来へんかった。その異常な光景に無理やと悟らざるを得なかった。……『けいじ』の周りには他にもたくさんの生徒がおったんや。でも、なーんもその子らはしてへんねん。あの子たちは誰もが虚ろな目でその殴られている子を助けたりもせず、ただただ見ていた。まるで何か諦めたかのような……虚ろに憑かれたような顔でジッとその光景に釘付けになってた。それを見てわかったんや。これはただの暴力やない。公開処刑やって。……そして今、『けいじ』はこの子たちの心を壊しにかかっているんやって」
倉田は再度コップの水を飲んだ。もう一度テーブルに置いた時にはコップの中身は空になっていた。
「そして、『けいじ』はクラスメイトを集めて言ったんや。『美咲が帰って来ないのはお前たちのせいだ。お前たちが美咲を見捨てて、お前たちが美咲を殺したんだ』って」
「それは、どういう……?」
「あの子たちは見てたんや。美咲が行方不明になる直前の姿を。クラスメイトのみんな見ていたのに、止められなかったんや」
榎本は目を見開いた。それと同時に小山がこぼしていた言葉が思い出された。
(……どうして、みさきとけいじが喧嘩していたあの時、同じ教室にいて近くにいたのに、けいじがみさきを連れて行くのを止めようと思えば止められたのに……何もせずにおられたんやろうって、最近ずっと思うの。もう全部手遅れなのに……)
――このことか。
榎本はわかったような気がした。
小山は今年の春、美咲が見つかったとニュースで知るまで過去の出来事を思い出せなかったと言っていた。それが、これなのだ。クラス全員で封印した罪の記憶。――美咲が連れ攫われるのを見て誰も止められなかったという、罪悪感。
頭の痛みが強くなった気がした。それを片手で押さえながら、倉田に問いかける。
「それは、警察には言わなかったんですが」
「…………言えんかった」
どうして、と榎本は問いかけるが、倉田は「そんなん無理や」と絞り出すように答えた。
倉田は小刻みに震えていた。窓の外は夕日が山の裾に隠れ、暗くなり始めている。もう夜がすぐそばまで来ていた。
「……俺が生徒たちに黙って、勝手に警察に言えるはずがあらへん。クラスの子たちは誰かが言い出してしまわないかと怯えておった。自分たちのせいで美咲が消えた。自分たちのせいで美咲はもうここにいない。……そして、もし警察に言ったら、今度は自分が『けいじ』に処刑される。そんなこと状況で、俺が勝手にあの子たちに断りも入れずに警察に? 言えるわけないやろう。あの子たちだけやない。俺だって……『けいじ』に何されるかわからへん。……わかってやってくれ。あの子達は悪くないんや。警察に言いたくても、いえへんかったんや」
倉田は項垂れた。そんな彼の頸を見て、榎本はため息を吐いた。
彼らは『けいじ』によって必要以上に美咲の死を止められなかった罪の意識を認識させられた。そしてお互いにその罪を共有することを迫られた。同時に『けいじ』はルールを破った場合の刑罰も示した。スケープゴートの悲惨な姿は生徒達の目に焼き付いてしまった。結果として彼らがお互いに密告しないよう見張り合う関係性を築き上げさせたのだ。それは強固な檻として機能しただろう。生徒たちに正常な判断を与えず、連帯責任という都合の良い言葉で縛り付けた檻。あるいは、一種の信仰と言ってもよかったのかもしれない。けいじを中心に奈良美咲を象徴とした恐怖の宗教。
さらに悪いことにそれは忘却装置としても作動した。生徒たちはお互いに罪から目をそらし、お互いに密告しないか見張り合ううちに、最初にあったはずの罪の意識が薄れていった。お互いを見張り合うことに努力が削がれ、いつの間にか美咲のことを忘れてしまったのだ。なぜお互いに見張りあっているのかという目的を見失ったことを自覚しないまま、美咲の事件は記憶の隅に置いていってしまう。時間と共に記憶が風化して見失ってしまう。榎本はその最悪のストーリーに顔を顰めた。
「あの子たちは苦しんでいた。そりゃ、俺が警察に言うのは簡単やで……でも、それであの子たちを救ってくれるんか? 大人の正論振りかざして罪と向き合わせれば、あの子たちは納得するんか? そんなわけあるか。それは大人の都合で、子どもたちが決めることやあらへん。あの子たちが言わないのであれば、俺は一生言うつもりなんてなかった。だから、俺は美咲のことは『神隠し』やと思うことにしたんや。そうすれば、『けいじ』と関係ないし、誰も傷つかへんし、罪の意識なんていらんはずやろう」
「でも、人の命がかかっていたんですよ」
榎本は小さくそう呟いたが、倉田は情けなく首を振るだけだった。
「それでも、実際に何人も苦しんでいる子らを見てしまうと、動けんかった」
榎本は倉田のその言葉には返事をしなかった。
榎本は当時の状況を何も知らない。それこそ大人の正論を言うことは簡単だが、榎本が倉田を責めるのもお門違いだと思った。
倉田はこの短い会話の間に随分と老けて見えた。
「どうして、ずっと……警察にも黙っていた話を、話してくださったのですか」
そう聞くと、彼は悄然した様子で「なんでやろうな」と呟いた。
「たぶん、早く楽になりたかったんや。誰でもいい。あの子たちの迷惑にならない場所で、この抱えきれない想いを吐き出したかったんや。一番辛いのはあの子達なのに、俺は勝手に楽になろうとしてるのは、随分随分卑怯な気がするけどな……でも、もう疲れたから」
そう言って、倉田はゆっくりと息を吐いた。その顔には安堵の色が濃かった。榎本はやっと、彼がなぜ榎本に話しかけてくれたのかわかったような気がした。榎本は奈良美咲の事件を追っていた。そして倉田はずっと蟠る胸の中の真実を誰かに話したかったのだ。
倉田は突然顔を上げると、榎本を見て怯えるような目で懇願した。
「あぁ……俺がこんな話をしたことは、決して誰にも言わんでくれよ。思わずあんたにすがってしまったけど、やっぱり、怖いんや……あの時の『けいじ』のセリフは、きっと俺にも言っとった。俺も、粛清の対象なんや……まだ、生徒たちにも『けいじ』の呪縛は残ってる。禁を破ってしまったことがバレたら、例外なく酷い目に遭うんや……」
倉田はそう言って震えた。十年経ったというのに、彼はいまだに当時の恐怖が張り付いて怯えている。榎本は改めて今回の事件の根の深さを感じた。
榎本はしっかりと頷いた。
「言いません。私は喫茶店に一人でお茶を飲んでいた。倉田さんのことは知らない。……それでいいですね」
倉田はやっと笑顔を見せた。その笑顔には疲労が滲んでいたが、榎本は何も言わなかった。
それからしばらくして、丁寧に倉田に礼を言って榎本は喫茶店を後にした。
夕闇の中、榎本は歩きながら家々の明かりや街灯を見ながら、無性に煙草を吸いたくなった。立ち止まると口に一本加えてライターで火を灯す。薄い藍色の闇の中でカチンと火花と共に瞬いた火が目に眩しかった。
煙を吐き出して、その紫煙が消えてゆくのを見届ける。
(……ただ、黴の男の正体を掴めたらと思ってここまで来たのに)
榎本は嘆息した。知りたかったことからどんどんと踏み外れて、とんでもない所に来てしまったような気がする。
おそらく黴の男は『けいじ』で間違いないと榎本は考えていた。だが、倉田の話を聞いても『けいじ』の肝心なその詳細を知ることが出来なかった。奈良美咲のことはどんな少女であり、どんな風に学校でも慕われていたかはわかったが、『けいじ』はどこか掴みどころのないと思った。美咲という明るい光が目立って、その影に潜むのがこの『けいじ』なのだと榎本は思う。
『けいじ』が奈良美咲を殺した。だが、そうすると新たな疑問が浮上する。
その動機は?
奈良美咲はどうしてこの十年もの間、見つからずにいたのか。『けいじ』はその間死体をどうしていたのか?
榎本は煙草を吸って考え事をしながら、いつの間にか歩き始めていた。先ほどの倉田の話で妙に興奮していたのかもしれない。思考が頭の深くに沈むほど、無意識は榎本の足を動かした。ちょうど曲がり角に足を踏み入れた時、人影が飛び出してきても榎本は気づくことが出来なかった。
「うわ」
榎本と曲がり角にいた人影は正面からぶつかってしまい、榎本は思わず尻餅をついた。相手も軽く呻きながら倒れる。二人の間に榎本が咥えていた煙草が跳ねて転がった。
榎本が顔を上げると、目の前の人影もむくりと体を起こす。その人影の服装が警察の制服だとわかると、榎本は思わず顔の筋肉を引きつらせた。
目の前の人影は男のようだった。彼はぶつかった胸をさすりながら起き上がる。
「よそ見はあかんよ。くわえ煙草ならなおさらやで」
「す、すみません……。考え事をしていたら、ぼうっとしていたみたいで」
周りを見ると、二人の荷物が辺りに散乱しているのがわかった。街灯の届かない暗い道の中で白い紙がバラバラに舞い散っているのが見える。
「本当に申し訳ありません」と榎本は頭を下げながら紙片を拾い集め始めた。
「あぁ、ありがとうなぁ。次は気をつけるんやで」
榎本はペコペコと頭を下げて、拾い集めた紙を警察の男に渡そうと手の中でまとめた。しかし、手の中の感触にかすかな違和感を覚えた。
それは住民票のコピーのようだった。「どうして警察官が住民票のコピーを?」と疑問に思っていると、その住民票の名前の欄に榎本は自分の名前が記載されているのが見えた。
そんなばかな、と笑いそうになる。この暗闇の中で見間違えてしまっただけだろう。そう思うのに、いつの間にか榎本の表情に浮かんだ笑みは引きつり始めた。手で撫でればその住民票が皺だらけで妙に汚れていることがわかった。
榎本の脳裏に、川辺で無くした住民票のコピーが横切った。
頭上で警察官の男の声が降ってきた。
「本当に気をつけてやぁ。特に個人情報の取り扱いにはな」
榎本は顔を上げると、目の前に立つ警察官の顔は、暗闇の中でもわかるほどその肌の表面に黴に埋もれていた。繁茂した青い黴は榎本の頬にふわりとその胞子を落とす。
警察の男は手を振り上げる。その手には金槌が握られていた。
「あ」
榎本が声を出すよりも早く、その警察官は金槌を振り下ろした。
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