第9話 ノイズ
都会の夜は明るい。街灯やビルの窓から漏れる光で道は照らされて、いくつもの色とりどりの明かりが満ちている。それは夜の十一時になっても変わらなかった。
「細川、ちょっといいか」
事務所のビルの出入り口で、啓治は細川を呼び止めた。彼女はカバンを肩に担いで今にも帰ろうとしているところだった。
「なんでしょうか」
少し、彼女の口調が固く感じた。明るい都市の夜光燈に彼女の冷たい笑顔が照らされた。その表情からも『何話しかけてんだ。早く帰りたいのに』という無言の主張を啓治は感じた。
(……細川って、俺に対してこんな態度だったっけ?)
啓治はふとそう思った。先日のロゴ制作で啓治にミスを指摘してくれた時のことを少し思い出した。
「呼び止めて悪い。一つ聞きたいことがあって」
そうは言いつつも、啓治はどう細川に話を切り出すべきか悩んでいた。
(一昨日、俺が友達と入った居酒屋に細川もいたよな? 駅に向かった後だったと思うけど、どうして一度引き返して俺の入った居酒屋にいたんだ?)
言葉にすれば簡単だが、セクハラとも捉えられるのではないかと啓治は詰まってしまった。少し悩むように黙り込んでしまったが、細川の睨むように細められた目を見て、呼び止めた手前、覚悟を決めて話し始めた。
「え〜と、これはセクハラとかのつもりはないのだけど……一昨日、退勤した後に途中まで一緒に駅に向かったよな。俺はそのまま友達と合流して居酒屋に行ったけど、細川ってその後どうした? まっすぐ家に帰った?」
明らかに裏の意図を感じるしどろもどろな言い方になってしまった。もう少し自然に、スマートに彼女の真意を探るような言い方は出来なかったのかと自分のことながら悔やまれる。啓治は気まずさを感じつつも細川の顔を見ていた。
少しの間、細川は虚を突かれたように黙り込んでしまった。しかし、すぐに顔を上げる。
「それ、あんたに返答しなければならないことですか? 仕事上の命令ですか?」
啓治は鼻白んだ。
『あんた』。
今まで先輩と啓治のことを親しく呼んでくれていた細川から発せられたとは思えない言葉に返答を窮する。
「そういう、わけじゃないけれど」
「それじゃあ、私は答える必要はありませんよね。失礼します」
細川はそう言い放つと啓治に背を向けてつかつかと歩き出した。
啓治はその背中を見ながら困惑していた。いつもの細川とは全く異なる、啓治を突き放したその態度に閉口せざるを得なかった。
二人の間に冷たい風が通り抜けた。季節は秋へと移り変わろうとしている。空気が乾燥して気分が沈みがちな季節だ。きっと、細川も気がたっているのだろう。そう自分に言い聞かせようと啓治は自身に自制を呼びかけた。
しかし、普段は彼に懐く素直な後輩という態度を見せる細川が、啓治を荒い言葉で突き放したその事実は啓治を苛立たせた。その結果、啓治の中で沸き起こったのは『彼女を教育しなければ』という傲慢な態度だった。
ふと、昨日の新人と教育担当者の間の諍いから起こった職場の剣呑な雰囲気が思い出された。「こうした細川のような態度が職場の雰囲気を荒らすのではないか、そもそも感情に任せて啓治に八つ当たりをするのは社会人としてどうなのか」と次々に『先輩と後輩』である関係性を言い訳にした暴言が彼の中で湧き上がってきた。啓治の頭に血が上る。
「おい、細川」
啓治は細川の腕を掴んだ。それを彼女は乱暴に振り払う。空を掻いた自分の中の手の感触がさらに啓治を苛立たせた。
「お前、さっきからなんだ、その態度。お前俺のことナメてんのか。こっち向けって言ってんだよ!」
最後の言葉は怒鳴りつけるような言い方になった。
「そっちがダンマリなら言わせてもらうけどな、一昨日の夜、お前は俺のことを付いて回っていただろう。一度駅に行くような素振りを見せて、俺が入った店にわざわざ引き返したんだろう? そこで何していたんだよ。なんなのお前、気持ち悪りぃことしやがって。俺になんか恨みでもあるわけ?」
「何の話ですか」
「とぼけても無駄なんだよ。気づいてないとでも思ったか? 俺の友人が、お前が店の中にいるのに気づいていたんだからな」
そう言うと、細川は黙ってしまった。その無言が細川の答えだった。
啓治は怒鳴りながら、少なからず否定はしない細川に幾分ショックを受けていた。
――本当にあの居酒屋に細川がいたなんて
どうして、帰ったはずの細川がわざわざ啓治の入った居酒屋に引き返して、啓治のことを見張っていたのだろうか。
まず思いついたのは恋愛感情が高ぶって起こったストーカー行為だった。しかし、先ほどからの細川の態度でその可能性は低いと啓治は思った。では、細川が企業スパイで啓治から何か情報を盗もうとしているとか? あまりに非現実的な思考だと思い首を振る。
啓治は次第に細川のことがよくわからず怖くなってきた。
「どうして俺を見張っていたんだ。俺、お前になんかしたか?」
すると、細川は立ち止まって啓治を振り返った。その目は怒りのこもった力強いものだった。
「その『お前』って呼ぶのやめてくれませんか。ムカつくので」
啓治は鼻白む。そんな彼を細川は鼻で笑った。
「もうさ、やめませんか? あんたも取り繕うのも疲れたでしょう。私のこと、嫌いなんですもんね。それはもう嫌っていうほどわかったから、裏でコソコソ言わずに直接私にハッキリと言ってください。私はそうするって決めましたから」
啓治は戸惑った。「何を言っているんだ」と口の中で呟く。
「……私も、あんたのそういう無神経な言葉遣いとか、態度とか、そういうの前から無理だったんですよ。それなのに、ネットでも人のことを嘲笑して……本当に最低」
「……細川、お前さっきから何を言っているんだよ。俺が、ネットでお前の悪口を?」
「誤魔化すなよ。もう知ってるんだからさ」
啓治は困惑して言葉が出ない。それに細川はため息を吐いた。
「もうウンザリなんですよ。話しかけないでほしい。近づかないでほしい。私の視界に入らないでほしい。……ほんと、死んでほしい」
細川は嫌悪感で耐えられないというように表情を歪ませて啓治を睨んだ。
(こいつは何を言っているんだ?)
啓治は細川の話についていけず、眉を顰める。彼女の怒りがなぜ啓治に向けられているのか理解が出来なかった。
(俺が、細川を嫌ってる? ネットで悪口を言ってる?)
身に覚えのない罪状に言葉を失った。細川は一体何と啓治を誤解しているのか?
啓治はハッと顔を上げた。気づけば遠巻きに啓治たち二人に視線を投げる通行人の姿が見えた。マズイ、と啓治は少し焦る。ここは口論するには人目が多すぎる。
「お、おい……とりあえず一旦落ち着けよ」
啓治は言葉を濁しながら、宥めるように細川の肩に手を置いた。その熱い体温に触れながら、啓治はふと、既視感のようなものを感じた。
――以前も同じように、こうして怒り狂う誰かを宥めたような気がする。
「触るなっ!」
細川は地団駄を踏むように何度も地面を足で蹴った。苛立たし気に頭を搔きむしり、啓治を睨む。吃りながら細川は必死に啓治に怒りを吐き出した。
「あんたは……気持ちが悪い」
細川の目に、啓治の顔が写り込んだ。
「上司や他の同僚、私に媚びへつらうのが嫌。そのくせに裏では悪口ばっかり言ってるのが本当に無理。自己顕示欲のために私をダシに使うの、あれ、なんなの? 死ねよ。仕事が出来ないんだったら、せめて目立たないように端っこで蹲っててよ。どうして自分の虚勢のために他人を巻き込んで威張れるの? 本当に気持ち悪いから死んでほしい」
啓治には彼女の話のほとんどが理解不能だった。ただ、まるで呪いのようだと思った。そして彼女は錯乱しているのだと確信した。――まともじゃない。
苛立たしげに体を揺らす細川に啓治は近づき、落ち着かせようと声のトーンを落として話しかけた。
「おい、細川。別に俺のことをどんな風に思っていてもどうでもいいけど、ここはまずい。一旦ビルに戻ってからちゃんと話そう。な」
そう言って近づこうとしたが、細川はビクリと体を震わせて、啓治を拒絶した。
「いや、近づくな!」
怒り狂った鬼のような表情だが、その挙動はどこか怯えているように啓治には見えた。
そんな細川に、啓治はまたもや既視感を感じた。
――この顔をどこかで見た。どこだろうか。誰の顔にこの怒りの表情を見たのだろうか。
(……あ)
啓治は脳裏に、美咲の顔が浮かんだ。
――思い出した。
美咲の顔を、啓治はやっと思い出した。
より正しくいうのであれば、十年前の夏の日、啓治のことを責め立てる美咲の怒り狂った顔を、思い出したのだ。
ガン、と頭を殴られたかのような衝撃を感じ、思わず啓治は自分の頭を押さえた。
その隙に細川は逃げるように駆け出した。その足取りは酔ったように揺れていて危なっかしげだった。しかし、今の啓治にはそんな細川のことはもうどうでもよかった。
――なぜ、突如美咲の顔を思い出したのだろう。
啓治の頭が割れるように痛んだ。そして新たな疑問も啓治の中で想起される。
――なぜ、美咲は啓治のことを、あんな鬼のような表情で見ていたのだろう。
頭痛がひどく、啓治は呻くようにうずくまった。
『どうせまったく関係のない適当なタイミングでポロっと思い出すんだよ』
高松が居酒屋で言っていた言葉が脳裏を過ぎ去った。本当だな、と啓治は苦笑いを浮かべる。
ただ、細川の――美咲の、あの怒り狂う顔が怖いと思った。
細川と別れた後も、啓治はまだ仕事が残っていたので事務所に残っていた。誰もいないフロアの中で痛む頭を押さえながらなんとか今日のノルマを終わらせると、そのままカバンを担いで事務所を飛び出し、なんとか終電に間に合った。電車に揺られながら、止まらない頭痛に呻く。時間が経つごとに痛みが強くなっているような気がした。電車の姦しい走行音や、カーブで体が揺すられる度に啓治は痛みに呻いた。
やっとの思いで自宅のマンションにたどり着くと、時間は既に夜の一時過ぎだった。時計を見た瞬間、啓治の足は力が抜けてしまい、靴のまま玄関に座り込んで膝を抱いて身を縮めた。
何か、緊張している細い糸が今にも切れてしまいそうにキリキリと張り詰めているような気がした。
頭の中がノイズに溢れて止まない。忙しい毎日の仕事、止まない頭痛、細川の意味不明な暴言、ずっと思い出せなかった美咲に関する記憶の一部。そうした様々な思念が火花のようにパチパチと啓治の頭の中で弾けて、燃え滓を腹の底に残していく。啓治は頭を抱えるように蹲った。
「……もう、ダメかもしれない」
何が『ダメ』なのか自分自身わからずに啓治は呟いた。
ただ限界が近いのだと思った。
仕事も、東京の生活も、過去の思い出も。
しばらくの間、じっと膝を抱えて自分の体温の温かさにだけ意識を集中させた。数分経ち、足がしびれ始めてようやく啓治は立ち上がり、靴を脱いだ。
――今日は、もうこのまま寝てしまおう。全部、忘れてしまおう。
そう思って頭痛薬と、一年前から通っている精神科で処方された安定剤を水と共に飲みこむ。
(寝よう。ベッドで、ゆっくりと、細川も美咲のことも忘れて……)
まだスーツを着たままだったが、構わないと思った。奇妙な頭痛と酩酊感に千鳥足のような足取りでベッドに向かった。
そして、そこに黒い瞳が二つあるのを見て――啓治は思わず立ち止まった。
柔らかな布団の上に、いるはずのないぬいぐるみが座って啓治を見上げていた。
昨夜ベッドボードに背を向けて座らせたはずのぬいぐるみが、今は上目遣いで啓治のことを見上げている。そのありえない状況に目眩がした。しかし、ぬいぐるみはこれが現実であり、まるで自分の意思でこちらを振り返ったとでも言いたげに、綺麗に整えられたベッドシーツの上にちょこんと乗せられていた。その意味ありげな配置に啓治は身体中に鳥肌が立つのを感じる。
しばらくの間金縛りのように動けずにいたが、ぬいぐるみの尻に貼り付けていたテープのことを思い出した啓治は、思わずぬいぐるみに飛びついた。思った通り、ぬいぐるみに貼っていたテープは無くなっていた。
――どこに?
視線を部屋中に走らせて、すぐに自分の足元に落ちている、キラリと光を反射させたセロハンテープを見つけた。拾い上げて天井の照明の光に翳してみる。
テープの表面には指の跡があった。啓治は慎重に今掴んでいる自分の指を外して、たった今残した指紋と元々テープについていた指の跡を見比べる。啓治の指にはハッキリと指紋が見えたが、その隣に残されたもう一つの指の痕には何もなかった。明らかに指の形をした痕のはずなのに、本来見えるべき波線状の指紋をどうしても見ることができなかった。
この指の痕は啓治のものではない。指紋が残らないよう手袋をした誰かが、このテープを手に取り残していったのだ。
――細川だ。
啓治はそう確信した。
あの狂った女。あいつに違いない。あいつがここにいたんだ。あいつがぬいぐるみを動かした。あいつが昨夜感じた視線の正体だ。
怒りが啓治の体を震わせる。ふと、啓治はとある可能性に思い至った。
昨日感じた視線は、もしかしたら本当はずっと以前から啓治のことを見ていたのではないだろうか? だとしたら、細川はいつでもこの家に侵入できる。それを証明するために、ぬいぐるみをベッドの真ん中にわざわざ置いたのではないか?
そう考えた瞬間、啓治は怖くなって部屋の中を見渡した。
――今も、ここにいるのか?
嫌な想像が脳内を駆け巡る。いてもたってもいられなくなり、啓治は急いでクローゼットを開けた。そこに誰もいないことを確認すると、次はカーテンを開けてベランダを覗き込み、人影がない暗闇に胸を撫で下ろした。しかし次は浴室が怖くなる。浴室まで走って行き扉を開けて誰もいないことを確認して息を吐く。……そうして誰かが隠れていそうな場所の扉を全て開けて中に何者もいないことを確認した。
しかし、全ての扉を確認したにも関わらず、最初に開けたクローゼットは、本当に人はいなかったのだろうかと不安に襲われた。もしかしたら啓治がこうして探している間に細川がこっそり侵入してクローゼットに忍び込んだのではないか……?
啓治はまたクローゼットまで戻ると扉を開けて誰もいないことを確認した。次にカーテンを開いてベランダに誰もいないことを確認した。そして浴室へ行き扉を開けて……啓治は強迫観念に背中を押されるまま、部屋中の扉を開けては閉めて、開けては閉めてを繰り返した。何往復しても気が済まなかった。啓治が扉を開いた瞬間に、身を潜めていた細川は別の暗闇に移動して、今も啓治の目を盗んでこの部屋の中で笑っている。そんな妄想が頭に張り付いて離れなかった。確認したからといって、そこが安全だとは誰も証明できないと思った。
結局、啓治は朝日が部屋を明るくするまで、部屋中を歩き回って細川がどこにもいないことを確認し続けた。太陽光がカーテンを明るく染めるまで、啓治は足を止めることが出来なかった。
啓治は朝日に白くなった窓の方を向くと、光に目が眩んで立っていられなくなった。視界が真っ白に焼けるのを感じながら、太陽光が不安を溶かしてくれるのを感じた。
そのまま倒れるように床に突っ伏した。身体中が悲鳴をあげていた。
啓治はスマートフォンをポケットから取り出して、連絡先の一覧を呼び出す。そこに並ぶ「松田」という名前に触れようかと思ったが、指を向けたまま固まってしまった。悩みに悩み続けて、結局啓治は「高松」の名前を押して電話をかけた。
古い図書館は常に埃っぽい匂いがする。榎本は新聞紙の束を抱えて、本棚の間を移動しながらそう思った。
市街地にある図書館は古いコンクリート造で長年の風雨により汚れが目立っていた。無機質な外観と同様、中も陰鬱とした薄暗さを湛えていた。町の中心部に建っている割に利用者の数は少なく、なぜだか肌寒い。そんな図書館の中で最も陽の光が届かない最奥にある資料室を榎本は行き来していた。
資料室にはスチール製本棚が所狭しと並んでいる。製本された新聞紙がぎっしりと整列し、愛想のない背表紙をこちらに見せていた。古い紙とインクの匂いがこの部屋は濃かった。その中から榎本は約十年前の記事を中心に選んで引き出していく。
資料室の端に用意された座席に座り、榎本は古い新聞紙のページを捲った。
――十年前、『みさき』と『けいじ』という学生がいた。みさきは行方不明。その失踪事件にけいじは何かしらの形で絡んでいる。
榎本は顎を撫でながら、慎重に新聞紙の文字に目を通す。
「行方不明」「高校生」「みさき」。
この三つの言葉に絞って目を走らせていく。小さな記事欄も見逃さないようにしなければならず、中々集中力を要する作業だった。榎本は文字の羅列を目で追いながらも、先日の食堂で涙を流しながら過去を悔いていた小山という女性のことを思った。
榎本は小山の言葉を思い出した。
『……どうして、止められなかったんやろう。どうして、それはダメだって言ってやれなかったんやろう。どうして、何もせずにおられたんやろう……って、後悔が止まらない。――もう全部手遅れなのに……』
彼女は何かに気づいた。忘れていたはずの記憶から、取り返しのつかないことを思い出したのだ。だが、それを友人の女性たちは誤魔化すように口々に小山の気をそらす言葉を並べ立てた。その時に湧き上がった黴――悪意。
彼女たちは罪を共有している。そして、それをお互いに忘れようと努力しているように榎本には見えた。そしてそれは今までの十年間、みさきという存在を忘れることで成功していたのだ。その封印が、みさきが見つかったことにより崩れ始めている。
それに、と榎本はペンを顎に当てて不思議に思った。
(なんでだろう……彼女たちとは初対面ではないような気がする)
何か、榎本も忘れているような気がした。記憶の彼方、もう思い出すこともないと思っていたはずの何かが、影の中からうっそりと顔をこちらに覗かせているような、そんな気がした。しかし、その時榎本は気になる記事を見つけてしまい、そこで思考を止めてしまった。
「……あった」
それは小さな記事だった。紙面の十分の一にも満たない面積の欄に小さく掲載されていた。
『女子高生 行方不明 帰宅途中に攫われたか』
N県T町にて「娘が帰ってこない」という一一〇通報があった。警察によると、N県立高等学校に通う奈良美咲さん(十七歳)が行方不明になったという。
同署によると、奈良美咲さんは二十二日の下校後、姿をくらましたと発表している。同日の昼過ぎまでは学校に登校している姿が確認されていた。同署や消防庁は、奈良美咲さんは下校途中に何者かに攫われたとして付近を捜索している。
記事の中には『けいじ』という名前を見つけることが出来なかった。しかし、榎本の探していた『みさき』は間違いなくこの『奈良美咲』という少女だろう。急いで同日の他新聞社の記事も引っ張り出して、図書館内にあるコピー機で印刷した。
印刷物を整理しながら、片手でスマートフォンを取り出して『奈良美咲』で検索すると、今年の四月に彼女の遺体が見つかったというニュースも見つけた。記事の中には『半ミイラ化』して見つかったことも書いてあった。
「……繋がった」
小山が……黴の男が語っていた全容がようやく見えてきた。榎本は微かな興奮を感じながら整理していく。
一、奈良美咲は十年前に『けいじ』とトラブルを起こし、そして行方不明になった。
二、小山たち同級生はその時起こったことを知っている(だが、罪の意識からか忘れようとしている)。
三、今年になってようやく奈良美咲の死体が半ミイラ化した状態で見つかった。
四、そのことを大量の黴(悪意)をまといながら話す男を、榎本は偶然川辺で見つけた。
――そしてここからは推測だが、奈良美咲はおそらく殺された。それに川辺で出会った黴の男が、きっとその殺人に関わっている。
そこまで考えて、榎本はもしや、川辺で出会った男こそが『けいじ』なのではないかと思った。
ふるりと背筋が震えた。
これで名前も特定できた。もっと、より詳細な情報がほしい。それで犯罪者を探し出すことができる。追い詰めることができる。榎本がその首根っこを捕まえて、大衆の前に犯罪者を連れ出すことができる。榎本が人間社会という集団の中心に足を踏み入れることが、きっとできる。
その時、ずきりと頭が痛んだ。だが、そんな痛みなど気にならないほど榎本を支配していたのは興奮だった。早く、黴の男の正体を掴まなければならないという使命感が榎本の足を先に進ませる。
先ほどコピーした記事の中で、奈良美咲が通っていたという学校名の記載があるものがあった。榎本はスマートフォンで検索して学校の距離を測ると、図書館から飛び出して小走りで駆け出した。
涼しい風が榎本の横を吹き抜けていった。
夏の茹だるような熱はすでに失せて、そこはかとなく秋の匂いが香り始めた。まだ木々の色は青いが、数日前にあった瑞々しさは失われつつある。やがて赤く色づき始め、紅葉の季節に移り変わるのだろう。
小高い山の上、木々に覆われたその白い校舎を榎本は見上げた。
先ほどから頭痛がして辛かった。いじめられていた在学中の記憶が刺激されるのか学校にはあまり良い印象を持てなかった。学校という建造物はどこか威圧的に見える。白い壁や均整のとれた四角い角の形は、汚れを嫌う潔癖さを印象付けているように感じた。
頭痛をなるべく気にしないようにしながら、榎本はその学校の校門の前に立つ。
勢いで来てしまったはいいが、興奮が冷めて冷静さを取り戻すと、校門のしっかりと閉ざされた門を前にしてどうやって学校に入ればよいのかわからず、途方に暮れた。
果たして学校という施設は「入らせてください」と頼んで「はい、どうぞ」と入り口を開けてくれるものなのだろうか。そんなわけない、と苦笑しながら校門の前で立ち往生する。榎本は校門から見える校舎の様子を覗き込んだ。守衛らしき人物の姿は見えなかった。
もし入ることが許されれば、榎本はこの学校の図書館におそらく保管されているであろう卒業アルバムを見るつもりだった。そこに、奈良美咲の顔写真や、おそらく『けいじ』に関する情報も手に入れることが出来る。
背後を振り返ると青い木々が並んだ急な坂道と、盆地特有の緩やかに下るすり鉢型の土地に建つ家々の景色を見下ろせた。うっかり足を滑らせると、そのまま転がり落ちてしまいそうな坂道に唾を飲み込む。その時、校舎の方から吹奏楽の高らかな音色が聞こえた。今日は土曜日だが、学生たちは部活動に勤しんでいるようだ。
ふと、校舎の渡り廊下を歩くジャージ姿の中年女性を見つけた。おそらく部活動の顧問をしている教師だろう。榎本は「すみません」と校門からその女性に声を掛けた。彼女は榎本に気づくと小走りにこちらに駆けてきた。
「……はい、うちの学校に何かようですか?」
その女教師は不審そうに榎本を頭から足先まで眺める。気難しそうな性格が顔の皺に刻まれた女性だった。榎本は今頃のように、もう少し融通が利きそうな若い先生を捕まえたらよかった、と後悔した。
「あの、こんにちは、突然呼び止めてしまってすみません。ここの学校の卒業アルバムを見せてほしいのですが、何か、事前に申請とか必要なものなのでしょうか?」
一瞬、女教師の顔に微かな黴が現れてすぐに消えた。
「……失礼ですが、生徒の父兄か……うちの学校の卒業生の方ですか?」
「あ、いえ。父兄でも卒業生ではありません。在籍はしていたのですが、途中で転校してしまって、そのまま卒業アルバムを見ることが叶わなかったんです。今日はたまたま近くを通る機会があったので、もし可能でしたら、旧友の写真を一目見て帰れないかなと思いまして……」
「あぁ、そうだったんですか」
我ながら言い訳が下手だなと不安に思いながら口にしたのだが、意外とその女教師は榎本の話を疑いはしなかった。榎本は内心胸をなでおろした。
その女教師はしばらくの間悩むように首を傾げて考え込んでいたが、やがて申し訳なさそうに首を横に振った。
「……事情はわかりました。ですが、やはり中にお入れすることはできません。許可がないとダメなんですよ。学校の関係者以外はホームページにある申し込みフォームから事前に申請していただかないといけないのです」
「やっぱりそうですよね……」
榎本は苦笑いした。ここで下手にゴネたりしたら今度こそ疑われるかもしれない。榎本は素直に頷いて頭を下げた。
「突然すみませんでした。ありがとうございます。今度はちゃんと申請して出直してきますね」
女教師は小さく頭を下げて、来た時と同じように小走りに校舎へ駆け戻って行った。その背中を目で追いかけながら、榎本はやはり今日学校に入ることは難しいと諦めざるを得ないことを悟った。
小さくため息を吐いて、元来た道に引き返そうとすると、背後で「おい」と呼び止める声がした。
榎本は反射的に振り返り、いつのまにか傍に立っていた男と目があった。男は校門の内側に立ち、作業着を来ている。学校の用務員だろうか、初老の男でどこか人懐っこい顔をしていた。彼は「あんただ」と榎本を指差して手招きする。
「あ、あの……?」
用務員の男は榎本の顔をじっと見ると、しばらくした後ニッと笑った。
「俺はあんたのこと、覚えているぜ」
榎本は目を瞬かせた。榎本にはこの男と会った記憶がどこにもない。人違いをしているのではないか、と不審そうに眉を寄せた。
「失礼ですが、どこかで会いましたか……?」
「覚えてないなら、まぁいいわ」
榎本の態度に用務員の男は気にする風でもなく、顎で学校を指した。
「何が知りたいんや」
その端的な言葉に榎本はさらに不信感を増す。
「……どういうつもりですか? 学校には今さっき入れないと断られたばかりですが」
その言葉に初老の男はフン、と鼻を鳴らす。
「あんた、本当に卒業アルバムが見たくてここに来たわけじゃないんやろう? 何かうちの学校のことで調べていて、偶然ここまで来てしまったんじゃないんか」
榎本は黙り込む。
「こういうのは学校に入れないなら、その関係者にあたるのが一番や。そういう点ではあんたはラッキーやね。俺の地獄耳はこの学校の噂から生徒の流行、教師の不倫事情まで聞いてるぜ」
男は自慢げに自分の耳を触った。榎本は胡乱げにその男を上から下まで見る。
「……私が学校の悪評を調べる記者とかだったらどうするつもりですか」
「記者だったらもうちっとまともな調べ方をするわ。あんたはどうせ調べものがこの学校にあるとわかって、いてもたってもいられなくて考えなしにやってきたズブの素人やろう」
図星だった。それに男は声をあげて朗らかに笑った。
「もう少し仕事があるから、駅前の喫茶店で待っとって。なぁに、あんたに悪い思いはさせんよ」
男は榎本に背中を向けて校舎に戻り始めた。榎本の中で男に対する様々な疑念が生じるが一旦飲み込むことにした。確かに学校には入れない今、榎本にとって最短で情報を得る近道はあの用務員の話を聞くことだ。用務員なら学校の事情には詳しいだろう。
釈然とはしないが、一旦彼の口車に乗ろうと榎本は決めた。
気のせいか、頭の痛みが先ほどよりもひどくなった気がした。
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