第6話 東京
照明の消えた暗い廊下の奥で、煌々と照っている自販機の白い蛍光色の光が、残業中の啓治には眩しかった。あくびを嚙み殺しながら、自販機から温かい缶コーヒーを選ぶ。啓治以外誰もいない廊下に、ガコンと缶が落ちる派手な音が鳴り響いた。
夏の季節が過ぎ、カレンダーは捲られて九月となった。もう、松田と話していた夏のひとときが啓治には懐かしく感じた。
熱い缶を片手に啓治は元来た暗い道を引き返した。スマートフォンを開くとそのホーム画面には夜の十時と時間が刻まれていた。
啓治は商品メーカーのデザイン部に勤めている。職場は都内にある雑居ビルの四階だ。清潔感のあるビルではあったが、内装は安っぽかった。白いパネルの壁やタイルカーペットの床は無機質で、毎日見ていると気持ちが荒んだ。
自分のフロアに戻った啓治は缶コーヒーを机の端に置いた。凝り固まった体を伸ばしながら、何気なく同じデザイン部の同僚たちを見渡す。全員同じようにのっぺりとした白い顔をパソコンの光に照らされていた。その瞳はどこか虚ろに彩度を失っており、疲労の色が濃かった。
そんな中、中年の男が顔を上げた。
「あぁ柳、帰ったか。これ新商品のパッケージ案だから目を通しておいてくれ」
上司である片山はそう言って資料の束を啓治のデスクに置いた。
「あ、はい……」
啓治は誰にも気づかれないように小さなため息をこぼした。
(こんな時間に仕事を増やすなよ)
そう胸の中で苛立つ気持ちが暴れるが、なんとか飲み込んだ。
啓治は自分のデスクに座るとパソコンを立ち上げて、途中まで仕上げていた資料のレイアウト調整の作業を再開した。
啓治の勤めるこのデザイン部は、その名前の通り商品の外装をデザインするのが主な仕事だった。しかし、それほど大きな企業でもないためか、販促ポスターのデザインや動画撮影、ウェブやSNS運営、果ては企画開発などといった立ち上がった当初の目的から発展して、いつの間にか啓治たちの望まぬ形で総括的なデザイン業務を行う部署となってしまった。時には事務仕事や経理の手伝いも併任しているため、他の部署の同期には『何でも屋』と揶揄されていた。
また、直接的な売り上げに貢献しないので大した役職は与えられず、六年勤務してそれなりに業務をこなしてきた啓治だが、未だに新入社員の頃とほとんど変わらない給与額しか支給されなかった。何の成果もあげていない他部署の同期たちはそれなりに会社の中での地位を得てきているのにも関わらず、自分は正当な評価を与えられていないと感じた。
しかし、それを上司である片山や社長に言うつもりはなかった。平社員である啓治の発言は軽視される。上長は「意見があれば言ってくれ」と暇がある度に口にしているが、啓治たちの声が彼らの耳に届いたことはない。それに大きな声では言えないが役職を得ることで今以上の仕事を任されるのも嫌だった。
すぐ傍の座席で、同僚たちの中では比較的交流の多い細川が小さくため息を吐いていた。細川は啓治にとって後輩で、もう三年目になる彼女だが、今でも律儀に「柳先輩」と啓治のことを呼ぶ。
彼女とは会社の食堂で昼食を共にすることが多く、その度に二人で「転職したいな」と話していた。
だが、そう口では話しつつも、二人はそれほど転職活動に力を入れているわけではなかった。転職に消極的というわけではない。単に、転職活動に取り組むほどの体力が勤務時間外に残っていないだけだ。平日は夜遅く帰るので最低限の睡眠時間にしか時間を割くことができない。休日は週明けの仕事に気分が憂鬱になり体を動かすことがひどく億劫に感じる。そうした毎日を過ごす内に心が諦めてしまっていた。ダラダラと満足もしないこの会社に居座って、納得のいかない仕事に時間を奪われる。そんな自分自身の惰性な日々に啓治は妙な焦燥感を覚えるのだった。
「最近の若者だな」
突然、上司の片山がそう呟いたのが聞こえた。啓治は自分の思考が読まれたのかと思わず身構えたが、片山がパソコンを見て舌打ちをしているのを見て、啓治のことではないとわかって内心胸をなでおろした。
「……何が『最近の若者』なんですか?」
誰も片山の言葉に反応しないのを見て、細川が仕事を続けながら声を掛けた。
「あぁ、取引先の営業の奴だよ。この前から進めてるコラボ商品の企画で、そいつからのメールの返信文を読んでいたんだが、長文の割にビジネス文章と変な敬語が混ざっていてよくわからん内容になってんだよ」
「新人なんでしょうね〜」
「新人ならそれなりに調べてから送れってんだ。それになぁ、この前の営業同行でこいつには会ったが、妙に歯切れが悪くて頼りなさそうでな。せめて自社商品の説明くらい、ちゃんと話せるようになってから営業に来てくれよな」
片山はそう言って一人で笑う。細川は、片山に聞こえないほど小さくため息をついてから「そうですね」と愛想笑いを送った。
啓治はそんな二人のやりとりを聞きながら自分の仕事を進めていく。
作業がひと段落して息を吐いた時、デスクの端に置かれていたパッケージサンプルの資料が目に入った。
(あ、そういえば忘れていたな……)
……帰る前にこの資料に目を通しておかなければ。
そう考えて手に取った時、資料の右横に置かれていた缶コーヒーに気づいた。先ほどの休憩時に買ったものだ。見るとまだ開封すらされていなかった。
慌てて啓治は缶を手に取ったが、すでにそれは温もりをほとんど失っていた。その微妙にぬるい温度が、啓治の心情を寂寞としたものに塗り替えた。
啓治はため息をついた。
「こんなはずじゃなかったのにな」
――こんなはずじゃなかったのに。
それは東京に来て何度も呟いた言葉だった。
自宅の玄関の照明を灯しながら、啓治は頭の中で同じ言葉を反芻した。靴を脱いで廊下を歩きながら、身体中に乗りかかってくる疲労感を振り払うように軽く伸びをすると、肩の関節がゴキリと音を鳴らした。
冷蔵庫を開いて中を覗き込みながら(缶ビールを買わなくなって久しいな)と思った。啓治の東京の友人たちは仕事に嫌気が差すと、すぐに酒を飲みたくなって困ると言う。しかし、啓治は疲れている時にビールを飲むと悪酔いして体調を崩してしまいがちだった。だから啓治の家の冷蔵庫には酒缶の類がなかった。そもそも酒缶だけでなく、料理をする時間も体力もないので生野菜のような食材もまた皆無なのだが。
代わりに冷凍室には数々の弁当型の冷凍食品が並んでいた。啓治はその中から一箱選んで取り出すと、電子レンジに入れて温め始めた。唸るような稼働音を聞きながら、部屋に戻ってテレビとエアコンのボタンを押した。
その瞬間、ブツンという音と共に部屋中の電気の明かりが全て消え失せた。啓治は舌打ちをする。ブレーカーが落ちたのだ。今月に入って三度目の出来事だった。啓治は暗闇の中、慣れた手つきでブレーカーを戻し、エアコンとテレビはつけずに電子レンジだけ再度ボタンを押して動かし始めた。
いい加減、電気を気にせずに全部のスイッチを押そうとする癖を治さなければと思うのだが、啓治は何度も同じ失敗を繰り返しているのだった。「電気代がかかってもったいない」とかそういうことを考えることすら、今の啓治には煩わしかった。
蒸すように熱い部屋の中、啓治はスーツ姿のままソファに倒れ込んだ。ふと自分の腹を触り、以前よりも柔らかくなったその感触に唇を噛んだ。
――こんなはずじゃなかったのに。
スマートフォンを開き、SNSにも同じ文章を打ち込んで投稿する。
生活の様々なところで、啓治は「こんなはずじゃなかったのに」と感じていた。
平日も、休日も、自分はここにいるべきではないと感じてしまう。仕事をしている時も、買い物をしている時も、こうしてソファでくつろいでいる時も、自分は本来ここにいるべきではなく、もっと別のどこかにいたはずなのではないかと感じる。
――なら、それはどこだ?
その答えを啓治は見つけることが出来ずにいた。漠然と胸にあるのは不満だった。日々ハッキリと感じるのは正体の掴めない焦燥感と不安。
どこにも自分の居場所がないと思った。
背後でチン、と電子レンジが仕事を終わらせた音がした。啓治は立ち上がって熱くなった弁当型の冷凍食品を手に取り、食卓へ運んだ。
「……いただきます」
啓治は蓋を開けて暖められた食材を口に入れる。薄味の食材の味を楽しむよりも早く、啓治はその物体を噛み砕き飲み込む。美味しいとか不味いとか、味のことはあまり考えなくなった。ただ、腹の空腹感を満たせばそれでいいと思った。
食べ終えると、ゴミ箱にもかけずに廊下に裸で放り出しているビニール袋に冷凍食品の包装を捨てた。
服を脱ぎ捨てて風呂場に向かう。バスタブは使わずに洗い場に立ち、シャワーを浴びた。
――雪崩のような毎日だと思った。
会社は、日々の安定した生活を続けるための基盤を用意してくれているが、その足場はグラグラといつも揺れていて気分が悪かった。別の場所に移り変わりたいと思うのだが、啓治の周りの友人達も、自分の足元はよく揺れると言って笑う。……どこもかしこも揺れている。それなら、少しでも揺れ具合が予測できる今の生活に依存するしか、啓治は選ぶことができなかった。
帰る前に仕事は終わらせてきたが、明日の朝には営業部から修正の依頼が来ることは目に見えていた。そのことを考えると頭が痛い。
風呂を出た啓治は、髪を濡らしたまま布団に倒れこんだ。
ふと頭を上げるとベッドのサイドボードに座らせているぬいぐるみと目が合った。東京に来たばかりの頃に交際した女性と一緒に手に入れたものだ。ゲームセンターにあったユーフォーキャッチャーに入っていたぬいぐるみだった。ペアルックで二つ手に入れたので、お互いに片方ずつ家に持ち帰った。もうその女性との交際は切っていたが、そのぬいぐるみは惰性で捨てられないままベッドの脇に飾っていた。
こちらを向くそのぬいぐるみの視線に鬱陶しさを感じた啓治は、乱暴に頭を掴んで背中を向けさせた。そのまま頭を布団にこすりつけるように埋もれさせ、眠りについた。
夢は見なかった。
次の日の朝、予想通り営業部から目的の不明瞭なデザインの修正依頼が届いた。彼らは「客が直してほしいって言うからさ」を理由に何度でも修正依頼を出してくる。啓治は特に反論することもないまま、朝からデスクに座って指示通りの修正作業に取り掛かった。その作業の間にも新しい仕事や急な依頼が飛び込んでくる。結局、本来この日に取り組むべきだった仕事を始められたのは定時が過ぎてからのことだった。
啓治はスケジュール帳を開きながら頭を掻く。
(……まぁ、どの業務も締め切りはまだ先だし、のんびり進めていいか)
啓治はエナジードリンクの缶を開けて、喉に流し込んだ。
その時、啓治の後ろを通り過ぎようとした細川が、ふと彼のパソコン画面を見て立ち止まった。
「……ねぇ柳先輩。今パソコンに表示されているそのデザイン、この前公開された他社のロゴに構成が似ていませんか? ほら、確か以前一緒にウェブの新コンテンツを考える会議で他社サイト見ていたじゃないですか。その時のウェブ会社の実例紹介で、今先輩が作っているロゴと似ているやつがあったと思います」
「え、マジで?」
細川はスマートフォンを取り出して少しの間操作すると「やっぱり」と小さく呟いてから啓治に画面を見せた。
「ほら、これです。色は違いますけどシルエットがほとんど同じに見えますよ。これ社長にも見せる提案用資料ですよね。……このまま進めるのはちょっとマズイかもです」
細川が見せたロゴマークと、啓治の作っていたものを見比べる。シンプルな幾何学模様で構成されたデザインだが、その形状や配置がそっくりだった。
「……あぁ、確かに。これはダメだ」
啓治は自社の新しく展開される新ブランドのロゴマークをデザインしていた。事前に関係者の意見を汲み取り、ニーズを把握して慎重に進めていた作業だった。市場調査と共に既存デザインも確認していたつもりだったが、一足先に同系統のデザインが他社から発表されてしまっていたらしい。
「気をつけてくださいよ〜。ネットが普及したこの時代に、意図していないとはいえ盗作疑われちゃったら、こういうのって一気に炎上するんですからね。特に最近ってデザインとかイラストの絵柄とか、そういうのって厳しいですよね。慎重に越したことはないと思いますよ」
細川の言葉に頷きつつ、啓治は深いため息を吐いた。
「なんかさぁ、新しく作ろうとするものって大体誰かが先に作ってない? AIやロボットが発達している現代でさ、そのうち人の好みやジャンルから適切なデザインが勝手に書き出されて、みーんなそのテンプレートに合わせて物事が進む時代がきっと来るよ。そんな世界が近いかもしれない世の中で、俺なんかが必死に働いてデザイン考えたりする必要ってあるのかなって思っちゃうんだよね」
そう言うと、「サボりの言い訳ですね」と細川は笑った。それに啓治も笑う。
「まぁね。……でもさ、もうこの世にあるデザインって大体出し尽くされているんだし、俺らが新しいものを考えるのって、そろそろ限界近いと思うんだよな。この前も片山に別件で提出したデザイン物を『あぁ、ネットで見たアレと似ているなぁ』って言われてさ。なんかそういうこと言われるのって地味にヘコむなって思ったよ。……いや、っていうか片山のあれ、普通に失礼だな? ……なんか今頃ムカついてきた」
「まぁまぁ。それだけ先人が偉大ということなんですよ。きっと」
細川はそんな適当な言葉を啓治に投げかけて笑った。
少しの間拗ねるように啓治はジッと今まで作っていた自分のロゴマークを見ていたが、やがて吹っ切れたのか首を振った。
「……うん、細川ありがとう。気づいてもらって助かったわ。まだ時間は余裕があるから、とりあえず他の候補案で進めることにしてみる。もう一度考え直すか……もちろん、ちゃんと既出のデザインと被ってないかも調べてな」
最後の言葉は念を押すように付け加えた。細川は笑って頷く。
彼女はそのまま去ろうかと背を向けかけたが、ふと思い出したかのように啓治を振り返った。
「そういえば、実家は帰ってみてどうでした?」
啓治は顔を上げた。お盆には関西の実家に十年ぶりに帰ることを啓治は細川には話していた。
「別にどうってことないよ。変わらず両親がうざかっただけ」
「うざいって……」と細川は苦笑いした。
それに対して啓治は軽口のように「ほんとほんと」と肩を竦める。
「まぁ……親父はなんか丸くなっていたけどさ。久しぶりに会うと、親でも他人のような気がして変な感じだった」
「先輩は両親に十年ぶりに会ったんですよね? そこまで会わずに過ごしてきたのなら、親御さんたちも先輩の顔を見ただけで、なんかもう満足しちゃったんじゃないですか?」
「いや〜、どうだろう? うちの親に限ってそんな『感情でお腹いっぱい』みたいなことはないと思うけどな。どちらかというとドライな感じだし」
「絶対そうですよ。あ、そういえばお土産は喜んでもらえました? 私がおすすめした奴を選んでくれたんですよね。あのバターがおいしいお菓子」
「うん、喜んでくれたよ。特に母さんがうまいって言ってた」
「よかった〜。選ばせてもらうのは光栄なんですけど、やっぱり責任を感じちゃうじゃないですか。これで不味かったとか言われていたらどうしようって不安だったんですよね。もしそんなこと言われていたら、わたし自分の舌に自信なくしちゃう」
「別に細川の親じゃないんだから、そんなの気にしなくていいのに」
啓治はパソコンのキーボードに文字を打ち込みながら、素っ気なくそう返事をした。それが不満だったのか細川は唇をすぼめた。
「……っていうか、先輩はご両親に不満ばっかりみたいですけど、逆に何を期待して実家に帰ったんですか」
「いや、何も期待なんてしてないよ」
嘘だ〜、と細川は笑う。
「さっきから先輩、すごいご両親のこと貶しますけど、それって期待が裏切られた人の発言のようにしか聞こえないんですよね。親に『本当はこうなっていて欲しかったな』って、先輩なりに理想があったんじゃないですか?」
今日はやけに絡んでくるな、と眉を顰めた。啓治は作業の手を止めて細川を振り返る。
「うるさいなぁ。別に理想なんてないよ。……まぁ、十年ぶりだったからな。確かに、無意識に何か期待していたところはあったかもしれないよ? でも、もういい年齢の大人なんだし、年老いた両親にそんな幻想は抱かないよ。とっくに色々諦めてんだよこっちはさ。……まぁ、もうちょっとお金やら土地やら、車とかいいもんくれたっていいじゃん? とかそういう期待はあったけど」
最後は冗談っぽく言った。両親のことは東京に帰ってからあまり意識しないようにしていた。一度だけ母親から「その後はどうだ」という内容の電話があったが、もう父親の病気を理由に帰郷を迫ってきたりすることはなくなって啓治は一安心していた。
そんなことを知らない細川は「嫌な理想ですね」と細川は苦笑いを浮かべた。
「まぁ半分は冗談ですけどぉ……柳先輩が両親のことでちょっと思うところがあるように見えたのは、以前から話していて感じていたので。やっぱりそうすると気になっちゃうじゃないですか」
それに啓治は少し目を瞬かせる。
「……そんなに俺、親苦手ってオーラ出てた?」
「ハハ、オーラってなんですか。そんなんじゃないですけど、先輩の言葉や態度の端々でなんとなく思いましたよ。この人は親が……っていうか、地元が苦手なんだろうなぁって」
細川の観察眼に啓治は少し驚いた。細川は上司の片山や同僚への気遣いがうまく、妙に鋭いことがあった。
「だとしたらそれは無意識だわ。なんか悪いな、嫌なオーラを出していたみたいで」
「だからオーラってなんですかぁ」
細川は乾いた笑い声を上げて、啓治に背を向けて自分のデスクに戻っていった。啓治は彼女の後ろ姿を見届けてから、自分のパソコンに向き直る。
しかし、先ほどの帰郷の話のためか、啓治の頭の中では夏の思い出が蘇ってなかなか仕事に集中することができなかった。
カラカラと開く玄関のガラス戸。
松田と一緒に食べた居酒屋の料理の味。
山で五月蝿いほど耳にした蝉の声。
砂利道を踏みしめた時の足裏の感覚。
啓治は頭を振った。早くも記憶が美化され始めているように思った。
啓治は立ち上がって窓辺に立ち、ぼんやりと外の景色に目を向けた。夜の暗い道路にいくつもの車が赤いテールランプを背負って走っているのが見えた。あの田舎町では決して見ることのなかった景色にしばらくの間、釘付けになった。
――自分の居場所は果たしてどこにあるのだろう。
この息苦しい都会の中にあるのだろうか、それとも、嫌いで仕方がなくって逃げ出したあの田舎町に啓治の居場所はあったのだろうか。
また会おう、と言ってくれた松田のことを啓治は急に思い出した。あれからメッセージアプリで何度か会話をしているが、どうしても文章だけでは物足りなく感じた。
また彼とちゃんと会って話したいと思った。
窓ガラスには先ほど変わらず、渋滞している車が作り出す赤と黄色の光がキラキラと反射していた。
ふと、啓治はその景色の中に自分のことを見る視線を感じたような気がした。
誰かと目があったわけではない。はっきりとした確証はなかった。
ただ、違和感があった。
啓治は窓の景色に視線を走らせると、啓治のいるビルより少し離れた道路の脇に、人がじっとが立っているのが見えた。かなり距離があるため確かとは言えないが、その人物がこちらに視線を向けているような気がした。
啓治には、その人影が男か女かの区別もできなかったが、なぜだか松田ではないかと思えてしまった。
考えてからそんな自分がおかしくて少し笑う。松田はあの田舎町にいるんだ。今も警察署か交番かで、警察官の青い制服を身につけて、あの田舎町を守っている。彼がここにいるはずがなかった。
きっと道路のあの人物も、たまたまこのビルに目を向けていただけだろう。その視線がたまたま啓治の目と合っただけのことだ。
――そうに違いない。
啓治はパソコンに向き直ると、中断していた仕事に再度取り掛かり始めた。
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