第7話 日常
夢を見た。
赤い空が啓治の頭上高くに広がっていた。雲ひとつないような広く澄んだ、赤く美しい空だった。
夕暮れから夜になろうとする赤の絶妙な淡い色合いの空を見上げながら、啓治は校舎から出て駐輪場に向かった。啓治の家から学校までは自転車でも通学できる距離にあったので、登下校の際はこの駐輪場に向かうのが日課だった。
学校の敷地内にはもう一つ別の駐輪場があり、校舎に近いためそちらを使う生徒が大半だった。それに対して啓治が向かっているこの駐輪場は校舎から少し離れた位置にあり、鬱蒼とした雑木林がすぐ傍にある。夏の季節には藪蚊が多く、また学校の中でも陰鬱な場所としてあまり生徒は立ち寄らなかった。特にこうした夕方から夜にかけての時間にはほとんどの生徒はここに近づかない。
そんな薄暗い駐輪場に向かうと、人影があるのを啓治は見つけた。珍しいな、と思いつつも啓治は近づく。その人影の周囲は暗く、木々の影に混じって輪郭もおぼろげだったが、近づいていくとやがてそれが美咲だとわかった。
美咲は空を見上げていた。啓治が近づいてもこちらに気づいていないのか、姿勢を変えずに上を向いている。その瞳はどこか虚ろだった。
彼女の様子に首を傾げて、啓治も空を見上げたが、この駐輪場に向かう途中で見た空と変わった様子はなかった。
不思議に思いながら視線を美咲に戻すと、彼女と目があった。
先ほどまでピクリとも動かなかった美咲が、いつの間にか空から目を離して啓治の方を向いていた。美咲の真っ黒な瞳は吸い込まれそうなほど深く、底が見えなかった。
思わず啓治はたじろいだ。
――なぜだか、美咲が怖いと思った。
啓治は彼女に何か言おうと口を開くが、何を話すべきか言葉が見つからずに結局閉じてしまった。美咲の方も啓治のことをじっと見つめるが、決して何かを言おうとはしなかった。それが不気味であり、また彼女が何を考えているのかがわからなくて不安に感じた。
啓治は美咲の不自然な視線から逃げるように、自分の自転車を探しに背中を向けた。肩越しに背後を振り返ると、彼女はまだ啓治のことを見ており、その視線が痛い。
その時、啓治はいつも櫛の通った美咲の髪が今は妙に乱れていることに気づいた。普段なら滑らかに整えられた彼女の細い髪が、今は荒く乱されている。
今頃のように啓治は美咲の様子がおかしいと思った。
脱力したようにうな垂れた首、カサカサに乾いた唇、ダラリと垂れ下がった両腕はいつもより細く骨張って見える。外見に気を使う彼女らしくない姿に啓治は猛烈な違和感を覚えた。
いつもの美咲はもっと輝いていた。学園ドラマに出てくるヒロインのように綺麗な黒髪を肩に流し、スラリと背の高い体の最も美しい立ち居振る舞いを彼女は知っていた。そんな普段の美咲と、今目の前にいる彼女はまるで別人のように感じた。
啓治は美咲を恐れた。あれは決して見てはいけなかった存在なのかもしれない。
昔話に見るような理不尽な罰を人間に与える神々。彼女はそれらと同じなのではないか。そう思えてならなかった。
啓治は美咲から目をそらすように自分の自転車を探し続けた。しかし、啓治はいつまで経っても自分の自転車を見つけることが出来なかった。
周囲は次第に暗くなる。美咲の視線は何かを咎めるように啓治から離れることがなかった。ひどく喉が乾いた。
正体不明の焦燥感と不安が啓治を追い立てる。早く、早くと何かが啓治の背中を押すのだが、自転車を見つけ出すことのできない啓治はこの駐輪場から抜け出すことができない。
やがて啓治は美咲の視線に耐えられなくなり彼女の方を振り返った。まだ美咲は黒い瞳で啓治のことを見つめている。啓治は生唾を飲み込んで、口を開いた。
「……おい、美咲、さっきから何やねん、お前。なんか、おかしいぞ。変だ」
しばらくの間、美咲はその声には反応しなかった。
啓治がもう一度彼女のことを呼ぼうとしたその時、美咲は突然パカリとその口を開けた。
暗い闇が彼女の口の中には蟠っていた。
――いや、おかしい。
ぞわりと啓治の背中は冷たい感触に震えた。
急いで逃げ出そうと走り出す。しかし足が縺れてその場に倒れてしまった。
(やばい、こっちにあいつが来る)
啓治は急いで美咲に視線を戻したが、彼女はいなくなっていた。周囲に視線を走らせるが彼女の姿はない。
代わりに、啓治の足元に、シワだらけの醜いミイラのような死体が一つ、転がっていた。その指にはハート型をした紙の指輪が結ばれていた。
啓治は飛び起きた。
大きく息を吸って自分を落ち着かせる。時計を見ると、午前四時半だった。最近、朝のおかしな時間に目が覚める。そのため寝不足気味で疲れがなかなか取れなかった。
啓治はベッドに体を寝かせたまま、ベッドボードに置いていたスマートフォンを手に取る。そのままニュースアプリを開いて、お気に入り保存していた過去の記事を開いて読み始めた。
盆休み明けから何度も読んだ記事だった。
『行方不明になっていた女子高生の遺体発見』
十年前の九月二十二日を最後に連絡がつかなくなっていた付近の高校在学の奈良美咲さん(当時十七歳)について、警察は遺体が発見されたと発表しました。
奈良美咲さんは未明、雑木林に囲まれた場所で倒れているところを警察官が発見しました。
警察によると遺体は部分的に損傷しているものの、半分ほどミイラ化しており死後十年経っているにも関わらず極めて保存状態がよかったということです。なお、ミイラ化した原因は特定されておらず、警察は発見現場にて自然にミイラ化したものか、または人為的な原因によるものか捜査を進めています。
地元の人々から親しまれた少女は失踪当時も全国的にニュースとなりましたが、発見された現在も死体がミイラ化していたことなどにより「神隠し」と噂され、周囲では波紋が広がっています。
記事のトップページには、山に警察が入ろうとしている現地の写真が表示されていた。啓治にはこの写真に映る山が、果たして松田に案内されたあの山なのかは判断できなかった。だが、啓治はこの記事を見るたびに、あの日彼に連れて行かれた山の砂埃の匂いを思い出した。
――あそこに美咲がいた。ミイラ化した死体となって。
誰にも見つからず、静かに息もできずに乾き、崩れ、砂となっていこうとしていた美咲。
どうしてそんな哀れなことになったのか。若い人間の死に様としてはあまりに酷いように思えた。
啓治は「美咲」という名前を思い出す時、いつも胸が苦しく痛かったが、同時に懐かしさだけでなく胸に重くのしかかる苦痛が伴う時がある。その感覚は、啓治に決して彼女との思い出は良いものばかりではなかったことを確信させていた。
松田は、二人は仲がよかったと言っていた。
――本当にそうだったのだろうか?
啓治にはわからなかった。ただ、彼の胸には違和感だけが広がる。
最近、おかしな夢を見ているような気がしていた。しかし、目が醒めるとその内容をほとんど思い出すことが出来なかった。夢で美咲を見たような気がする。彼女と何か話したような気がする。思い出そうとすればするほど、夢の記憶は輪郭を失い靄のように形を無くし消えてしまい、後には漠然とした不安だけが残る。
どうして彼女のことを思い出せないのか、松田は啓治が事件に絡んでいることはないと断言していたが、それでもなお啓治の胸には気味の悪い蟠りがあった。
そうしているうちに、カーテンの間から陽が差し込んで啓治を眩しく照らした。出勤時間が近づいていた。
榎本は書類の整理が終わり、一息つこうと席を立ち上がった。時計を見上げると午後六時頃だった。
飲み物を飲もうと、口元を覆っていたマスクを外して愛用のタンブラーを手に取った。しかしその中身は空で、ぬるい空気が口内に流れただけだった。榎本は小さく舌打ちをして立ち上がり、ため息を落として給湯室に向かった。
転勤後、新しい仕事場に来て一ヶ月が経とうとしていた。まだ大した仕事は任されていないが、それでも残業の多い毎日だった。
軽く息を吐いて事務所の出入り口の脇にある給湯室に入ろうとした。給湯室は使われない時、節電のため普段は電気を消している。事務所の角の、さらに奥まった場所にあるため電気をつけていないと薄暗くて近づきがたかった。榎本が電気のスイッチを襲うと近くと、突然その薄暗い給湯室の奥から、ぬっと男の首が給湯室から突き出された。
榎本の上司にあたる男だった。思わぬ鉢合わせに榎本は息を止めた。声を上げはしなかったが、心臓の音が一際大きく鳴った。
なんの感情も感じられない薄気味悪い顔だった。
その男は、給湯室に近づいたのが榎本だとわかると、無表情のまま頭を奥に引っ込めた。曲がり角の影に退くその上司の顔から、パラリとこびりついていた黴の欠片が落ちるのを榎本は目の端で捉えた。
榎本は少しの間、その場を動けなかった。
この上司が榎本の同僚の女性に付きまとっていると噂で聞いていたが、それは本当だったのだろうか。なんにしても、榎本はもう給湯室に入る気を失ってしまった。まだバクバクと音を立てる心臓を抑え、自分のデスクに戻る。
榎本は先ほどの男の無表情な顔を思い出していた。何の感情も抱いていないような白い顔だったが、その肌には黴が蠢いていた。
――悪意に蝕まれている。
悪意の黴はぞわぞわと細い毛をたなびかせて人間の肌を緑色に染める。あの男の顔にもびっしりとこびりついていた。そして、その青い黴の群れの間から覗く、ぽっかりと開いた二つの目。
榎本は鳥肌の立つ腕をさすって自分のデスクの椅子を引いた。
(どうしてあんなものが見えるのだろうか……)
人の悪意が見えていいことなんて何もない。ただ、他人への不信感だけが募っていく。
ふと、自分の口周りがいつもよりも涼しいことに気づいた。先ほどタンブラーの中身を飲もうとマスクを外し、そのままだったことを思い出した。慌ててポケットに入れていたマスクを取り出すと、耳にかけて息を吐いた。榎本は職場のような閉塞した空間ではマスクをしていないと不安で押しつぶされそうになる。誰かの黴が体の中に入り込んできそうで怖くて、マスクと除菌シートは手放せなかった。そんなつもりはなかったのに、榎本のそれは潔癖症だと職場の同僚には言われた。それに対して曖昧に頷くことしか出来なかった。
(……きっと、目を合わせもしない根暗な奴だとか思われているんだろうな)
自嘲的にそう思う。榎本は背が平均よりも高かったが、自信の無さを表すように猫背でその背の高さを活かしきれていない。細身で背中の丸い榎本は常に周りから頼りなく見えた。大学生の時は陽気な同級生が、そんな外見を嘲笑と共によくからかってきた。
当時はそんな彼らの言葉など聞く耳を持たなかったが、今になって思い出すとあれは「いじめ」と言っても過言ではなかったのではないか、と頭を悩ますことがあった。
(……そうだ、あの時もひどかった)
高校生の頃、榎本を執拗に「汚い」と言って罵ってきた同級生たちがいた。転校したばかりで右も左もわからない中、突然「犯罪者」と罵られた。当時の榎本にはわけがわからなかった。しかし暴言の波は次第に大きくなり、やがて学校中の生徒や教師が榎本を毛嫌いした。彼らの悪意は増幅し、言葉の暴力は度々拳に姿を変えて榎本を肉体的にも精神的にも追い詰めた。
――あの頃の黴は本当に酷かった。
罵られる度に、榎本は(お前らの方が汚いじゃないか)と心の中で怒鳴り返していたが、実際に言い返すことは出来なかった。
そんな時に榎本の父親は死んだ。自殺だった。
すると、同級生たちが、今度は榎本の父親の死を揶揄するようになった。父親を貶され、馬鹿にされて、尊厳を叩き落とされた。あの時が一番地獄だった。周りの人間が全て得体の知れない怪物のように見えた。また、自分の人生にひどく絶望した。
人は悪意に満ちている。
榎本の二十八年の人生の中で得た教訓はこれだけだ。
――どこを見ても黴だらけの人生だった。
(そういえば)
榎本はふと、先日の川辺で見かけた二人連れの人影を思い出した。見たことのない量の黴を撒き散らす、恐ろしい影の男。
(あれは、何だったのだろう)
頭にこびりついてしまったのか。時折こうして、あの日見た恐ろしい光景を思い出すことがあった。影の中で蠢く黴を今でも鮮明に思い出すことができる。吐き気を催すその姿に榎本は一人で身震いしていた。
どれほどの悪意を持てば、あんな量の黴が出るのだろうか。見たことのないその悪意の大きさに、畏怖にも似た感情を榎本は抱いていた。
――そして、ずっと引っかかっていることもあった。
彼らは二人連れで、何事かを話していた。そのほとんどのことが榎本には理解できず、今になっては思い出すこともできない。しかし、彼らが話していた『けいじ』と『みさき』という名前と思しき言葉が記憶にあった。
その二つの名前がどうしても榎本の心の中で、居心地の悪い部分に引っかかっていた。
なぜだか、榎本自身にも理解できなかったが、その二つの名前を思い出すことはひどく恐ろしいことのように感じた。
――だというのに、気になって仕方がない。
「最近どうよ」
居酒屋の店員に案内されたテーブル席に座ると、高松はメニューを開くよりも先に啓治にそう問いかけた。啓治も店内の騒々しい音に負けまいと「何が」と聞き返す。
この高松という男は啓治の東京に来てから出会った友人だった。同じ大学に通っていたが、高松は啓治のいたグラフィックデザイン学科とは異なる、情報工学デザインの分野を専攻していた。受ける授業も異なりサークルにも属していなかった二人だが、同じレンタルビデオ屋のアルバイトで出会い不思議と気が合った。大学を卒業後も交流は続き、こうして週末に会う約束をして酒を飲み交わす日もあった。
「あの、同僚の細川さんだっけ。さっきもいい感じだったじゃん。俺が見た感じお前にぜって〜気があるだろ、あれは。押せばイケる」
「うるせぇなぁ」
高松のリクエストで、啓治の職場のすぐ近くにある人気の居酒屋に二人は訪れていた。
啓治は仕事が終わるとすぐに居酒屋に向かった。その時、たまたま退勤時間が重なった細川と道すがら軽く会話しながら歩いてきたのだ。それをこの高松に見られてしまった。
高松には度々細川と並んで歩いているところを見られることがあった。高松は会うたびにそのことについて執拗に啓治に絡んでくるのだった。高松はニヤニヤと笑いながら啓治と細川のありもしない猥談を期待する。それが啓治には鬱陶しいことこの上ない悩みのタネだった。
「何度も言うけど、細川はただの同僚だ。何度も言わせるなよ……そういうの、セクハラだからな」
「ふ〜ん。セクハラって女にするもんじゃない? 男友達にもなんの?」
高松はつまらなそうに唇を尖らせた。それに啓治は呆れてうなだれる。
「……あのな、人に恋愛や私生活をぶしつけに聞くのは失礼だって話をしているんだよ。それに男も女も、友達も他人も関係ないだろ。あぁ〜……あれだ、親しき仲にも礼儀ありってやつ。とりあえず、お前は何度も俺に細川をネタにして絡むのはやめろって話だ。せめて反省してくれ」
はいはい、と高松は面倒臭そうにメニューに視線を落とした。そんな彼の態度に何を言っても無駄かと啓治は首を横に振る。
高松は他人の意見に耳を貸さず、ガサツで、不遜で、デリカシーのない男だった。おそらく彼はこの店を出る頃には、啓治との先ほどの会話など忘れて次回会うときに飽きることなく細川のことを話したがるだろう。そんな性格ゆえに他人とのトラブルが絶えない人間だったが、豊富な知識で今の職場でも重宝されていると聞く。
啓治には高松がもし同じ職場だった時、彼が活躍する姿を想像することができなかった。むしろ疎まれるに違いない。適材適所ということだろうか、と啓治は自分を納得させるためにそう考えることにした。
嫌な奴だと思うことは多々あったが、それでも不思議と彼と縁を切りたいと思うことはなかった。決して二人で旅行をしたりすることはないのだが、今日のように食事をして他愛のない会話を興じる。損得勘定や好き嫌いといった感情とは別に、彼とは会話をしたくなる時が啓治にあり、また高松にとっても啓治はそういった存在のようだった。
いくつか食事と酒を注文すると、啓治は高松に「ほら」と紙袋を渡した。
「この前実家に帰ったから、そのお土産な」
「おぉ、サンキュー」と高松は紙袋を受け取って早速中身を覗き込んだ。啓治はきっと次にはつまらない小言が来るぞ、と彼にはバレないように身構えた。
案の定、高松は不服そうに唇を尖らせる。
「なんだ、クッキー系のお菓子なんてどこでも買えるじゃん。もっと地元っぽい感じの土産はなかったのかぁ?」
予想通りの反応に啓治は笑った。
「ないよ。うちの近くには名産的なものなんてなーんもない。強いていうなら、有名な漬物屋さんが駅前近くにあったかな。でもそういう渋いものばっかりだ」
「クッキーよりはそっちの方が俺好みだな」
「マジか、悪いけど漬物は今回買ってねぇわ」
「次行った時はそっちでよろしく」
「……次があるかなぁ」
啓治が半笑いを浮かべてそう言うと、高松は首を傾げて啓治を見た。
「なんだ、実家嫌いだったのか」
「そだよ」と啓治は軽口を叩くように頷いた。
「大学の時だって、一度も帰らなかったし」
「そういえばお前が実家の話をしてんの、聞いたことなかったな……つーことは高校卒業してから一度も帰ってなかったのか。十年くらい? それは長いな。そんなに嫌いだったのに、今回はなんで帰ったんだよ」
「親父が死にそうだったからだよ。母親がそれで一時期荒れてうるさかったから、仕方なく帰ったんだ。……まぁ思っていたほど悪い待遇は受けなかったけど、改めて、あんまりこの両親のことは好きじゃないなって再認識した帰省になったよ。もう二度と帰んねぇ」
「薄情な奴」と高松は笑った。
しかし、彼もまた都内の自宅には長年帰ってないことを啓治は知っていた。いつもなら、啓治に皮肉の一つでも言いそうなものだが、一言だけで黙ってしまったところを見ると彼も両親に対して何かしらの苦手意識があるのかもしれないと啓治は思った。
「じゃあ、その親父さんが死んでも葬式には行かねぇの?」
その時、注文した食事を店員が運んできたので会話は中断された。言いかけた言葉を飲み込んだ啓治は、黙ってテーブルに置かれていく品々を眺めていた
ふと、脳裏に松田の姿を思い出した。
(そういえば、松田と行ったあの店の料理、旨かったな)
高松は運ばれた料理に小さな歓声を上げた。
「これとか美味そうだな。串焼き注文したのは啓治だよな。先に食べていいぞ」
高松に渡されて早速頬張った啓治だったが、松田との店の味と比較してしまい、素直に美味しいと言えなかった。
そんな啓治の様子を見て高松は眉を顰める。
「なんか、今日は調子でも悪いのか?」
「……いや、別にそういうわけじゃないけど、なんで?」
啓治が聞き返すと、高松は「なんとなく」と言葉を濁す。
「……なんか飯食べながら別のこと考えているように見えたから。本当は実家で嫌なことがあったんじゃないか?」
高松の言葉に啓治は微笑んだ。ガサツで、不遜で、デリカシーのない高松だが、たまに勘が冴えて人を気遣える時がある。そういう時の彼が啓治は好きだった。
「別に実家は関係ないよ。ただ、まぁ……なんかさ、大事なことを忘れているような気がするんだよ。最近」
美咲の名前は出さずに、啓治は呟くように言った。
「具体的になことはなんも覚えてないのに『忘れた』ってことだけはハッキリとわかっているんだ。だからこそ、思い出すことができない自分に苛立って仕方がないんだよ。仕事でも、家でも、最近ずっとそのことばかり考えていてさ。我ながらヤバイよな」
努めて、啓治はなんでもない軽口のように言った。
「夢にも出てくるんだよ。まるで忘れたことを責めるみたいに、まとわりついて離れない。……そういうことって高松にはないか」
高松は少し考えるように宙を見ていたが、しばらくして「あるな」と答えた。
啓治は少し意外そうに目を見開いた。
「へぇ……高松にも意外と繊細な部分があるんだな」
「お前、俺のことを今かなり馬鹿にしただろう」
高松は肉を噛みながら啓治を睨んだ。
「俺にだって、忘れたくないのに忘れてしまったことがたくさんあるよ。大事なことだった気がするし、忘れちゃダメだったって妙に焦る気持ちになる時がある。でも、そんな『気がする』感覚があるだけで、何も思い出すことが出来ない。肝心な『誰』と約束をしたのか、『どこ』にその忘れてはいけないものを置いてきてしまったのか思い出すことが出来ないんだ」
高松は喉を鳴らしてジョッキに入ったビールを飲んだ。
「『忘れたってことはたいしたことないんじゃないか』なんて、気休めでも言ってほしくないよな」
啓治は首を傾げるのを見ると、高松は言葉を繋げた。
「たまにそう言って勝手に慰めた気になる奴っているだろう。『忘れたってことは脳が重要視していなかったんだ、だから忘れても無問題だ』って言う奴。あれが俺はなんかすっげームカつくんだよ。じゃあお前は家の鍵や財布の場所を忘れないのかって思うし、老人だってアクセルとブレーキを踏み間違えて悲惨な事故を起こしたりなんてしないだろう……ってちょっとこれは例えが違うか?」
啓治は笑った。
「まぁお前の言いたいことはわかるよ。重要なことだって、人間誰しも忘れる時がある」
「そういうこと。そして辛いことに『忘れてはいけない』って気持ちだけが名残として心に残っちまうんだ。気だけが焦ってしまうけど、肝心なことが記憶のレコードには残ってないからどうしようもないんだよな。……でも、たまに思いもしないところから、その『忘れてはいけないもの』が発見されることがある」
そう言って高松は箸をカチカチと鳴らした。子どものようだと啓治は思った。
「脳味噌って自分の思い通りに記録してくれないから困るよな。ゲームのセーブデータみたいに何個か枠を用意して記憶を自分好みに記録できればいいのにさ。脳味噌に任せると大事にしすぎておもちゃ箱の一番奥にしまっておいて、そのまま二度と遊ばない子どもみたいに、『忘れちゃいけない記憶』は置いていかれる。どうでもいいことはしっかり覚えているのにな。……まぁ、だから、あんま意識しないことが重要なんじゃないか。いつも片付けている場所にはないなら、探すのは無駄骨だろう。どうせまったく関係のない適当なタイミングでポロっと思い出すんだよ。そういうのはさ。大人になってから荷物を整理して、懐かしいおもちゃを見つけて感傷に浸る時みたいにさ」
居酒屋はひっきりなしに人が出入りして、近くの座席では歓迎会でもしているのか大人数が大声で会話しており騒々しかった。しかしその中でも高松の声は啓治によく聞こえた。
「あるいはさぁ、むしろ本当は思い出したくないんじゃないか?」
「え?」
「『忘れちゃいけない』って焦る気持ちは、その思い出したいことの本質から目を逸らすために無意識が反発しているのかもしれないってこと」
「思い出から、目をそらす?」
啓治は首を傾げた。
「思い出そうとしていることが、本当は啓治にとって都合の悪いことなら思い出さない方がいいだろう。思い出したら、二度と忘れていた頃には戻れないんだからな」
ぞくりと体が震えた。
「こんな経験ってないか? 自分の中では間違いなく正しいと確信していることが、他者に『本当に?』って疑われると自信を無くしてしまって、その確信が揺らいでしまうことが。それと同じことが記憶にも起こるんじゃないか? 思い出してはいけない記憶から遠ざけるために、無意識が『焦る気持ち』を過剰に啓治に与えて、本質から目を逸らさせようとしているんだ。『そっちには何もないよ』ってな具合で嘘をついて隠し事をする子どもみたいに」
高松の話を聞きながら、啓治は小さい頃の記憶が蘇った。
あれはいつだったか。啓治はいつもなら母が必ずいる家を、一人で過ごした日があった。母が珍しく誰かと出かけて啓治が一人で留守番をしたのだ。
母は誰かと一緒に家を出て行った。その誰かが、母の友人なのかそうでない人なのかは啓治は知らなかった。そして、母はそのことを父に黙っていた。
後日、啓治が母に何気なく『あの時どこに行っていたの?』と問いかけた。そしたら母は優しく『家で一緒にいたじゃない』と啓治の頭を撫でて嘘を言った。
啓治は不思議に思いながらも『そうか、一緒にいたのか、自分の思い違いだったのか』と納得した。きっと、母が誰かと外に出たのは思い違いで、一緒に家で過ごしていたのだ。たぶん、一緒にテレビを見ていたんじゃないか、と本気で思い込んだのだ。
しかし、後日にそれが嘘だったことを知る。母は、父の所有物の内、金銭的価値のあるものを無断で持ち出して売りに出ていたことがわかった。それが、啓治を置いて家を出て行ったあの日の出来事だったのだ。父は母を烈火のごとく怒り、母もそれに対して強く反論していた。母は啓治を見ると『あの日、一緒に家にいたでしょう』と詰め寄った。その時の力強く啓治の肩を握る指が痛かった。この指が、優しく頭を撫でたことが信じられなくって怖かった。
当時の母の顔がとても醜く啓治には感じた。やがて、幼い自分を騙して保身に走った母に対して、次第にやりきれない苛立ちがふつふつと湧いて来た。
果たして、啓治は母の言葉に頷いたのかどうか、もう覚えてはいなかった。その真相も、いつかふと思い出す日が来るのだろうか。
「……なんか、お前の話を聞いていると、親の嫌なことを思い出してすげぇムカついてきた」
啓治の言葉に高松は「突然どうした」と面白そうに笑い出す。
「あぁ〜、すんげぇムカつく。反抗期の中坊みたいなこと言うけど、もし次両親に会ったら、マジで殺す」
「そうしろ。俺が許すからさぁ」
「お前が許してどうすんだよ」
苛立つ気持ちを紛らわすように啓治は酒を呑んだ。
それからも二人で他愛もない話で盛り上がる。結局日付が変わる直前の時刻まで二人は語り合ったのだった。
「次はいつにする」
「そうだな、来月はうち繁忙期だから、できれば十一月頃がいいかな」
啓治と高松は店を出ると、店頭から少し離れた路面で、お互いのスケジュール帳を睨みながら日程の擦り合わせをした。
「じゃあ、この十五日な。あとで次の気になる店をピックアップして送るから見といてくれ。決まったら俺から予約入れとくから」
「おう、サンキュー」
啓治は帰り道の交通経路を検索しながら歩き出そうとした。駅は歩いて徒歩二分もかかわらない距離で、余所見をしながらでもたどり着ける自信があった。しかし、高松が突然肩を掴んで呼び止めた。
「なに?」
啓治が振り返ると、高松は駅に続く目の前の道を指差して、声を低めて言った。
「あれ、お前の同僚の細川さんじゃないか」
一瞬、高松が何を言っているのか啓治にはわからなかった。
ここは職場から近いのだから、細川がいてもおかしくはない。だが、彼女は今日、啓治と同時刻に退勤して居酒屋までの道すがら一緒に歩き、その後彼女が帰ったことを啓治は知っている。「それじゃあ、また明日」と言って駅に向かう細川のことを啓治は覚えていた。あれからすでに三時間が経過している。そんな細川がまだこの周辺にいるとは思えなかった。今頃、自宅の布団で眠る用意でもしているような時間だろう。
困惑しながら高松の指先が示す方向を見ると、こちらに背を向けて歩いている女性の後ろ姿があった。確かに、背格好は細川と似ているように見えた。だが、断定はできない。
今日の彼女の服装を思い出すことができず、啓治は少し歯がゆく思う。
「確かに……似ているけど。でも、あんな背格好の女性なんて割とどこでも見るだろう。細川は別に特別背が高いとか服が奇抜とか、そういう特徴がないしわかんねぇよ」
啓治はそう高松に反論した。
その時、啓治のいる道の反対車線でけたたましいクラクションの音が響いた。それに目の前の女性は振り返る。その横顔を見て啓治は目を見開いた。
間違いなく、その顔は細川のものだった。
細川は騒々しい音に無意識に振り返っただけのようで、すぐに目の前の道に視線を戻してしまい啓治たちには気づかなかった。
「……どうして、細川がここに?」
高松が「なぁ」と何か言いにくそうに声をかけた。
「俺さぁ……本当は気づいていたんだ。細川さんに似ている人が、あの居酒屋で俺たちのテーブルのすぐ近くの席にいたことに」
啓治は眉をひそめて高松を見た。その視線から高松は目を逸らす。
「ずっと一人で酒を呑んでいる様子だったし、多分他人の空似だろうと思っていたんだよ。……だったら、そんなのわざわざお前には言うほどのことでもないだろう? でも、なんだか聞き耳をたてるみたいにジッと動かずに酒を呑んでいる様子が気味悪かったし、それにやっぱり、あまりに細川さんに似た顔立ちに見えたけど、なんで彼女がいるのか理解できなくった。そしたらなんだか怖くなって……」
高松は言い訳のようにどもりながら言った。その声も次第に小さくなる。
細川はすでに都会のネオンが光る闇の中へと姿を消してしまっていた。
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