心の盲点

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心の盲点

 大切なものは、失った時に初めて気づく。もはやテンプレとなったと言っても差し支えないこの言葉は、人間の心理の1つの答えだろう。しかし多くの人は、頭でその言葉を知っていても、心で理解できていない。ポジティブな人は己の短所に気づかず、ネガティブな人は己の長所に気づかない……それは心の盲点。


 あなたの心に映る僕は、本当に僕ですか?









「……あれ、今の須藤すどうさんちの佐衣さい君じゃない?」

「え? でも今日平日よ? もうお昼になるし……」

「間違いなく佐衣君だったわよ。荷物も持っていなかったし、今から学校じゃないのかしら」

「……もしかして、不登校なんじゃない? ほら、佐衣君少し前から鬱病だって……」

「ああ、そういえば……かわいそうねえ、若いうちから」

「やっぱりいるのよねえ、学校とかに適応できない人。これからどうするのかしらねえ」

「頑張って欲しいわね」


 住宅地の真ん中で、そんな井戸端会議が行われていた。


(……聞こえないと思ってるのかな……)


 その横を、須藤すどう佐衣さいは通りすぎていった。


 須藤佐衣、16歳。地方に生まれ、何不自由なく育ってきた“一見”普通の男子高校生。長閑のどかな地域に建つ学校に通い、高校は少し離れた場所に進学した。友人にも恵まれ、近所付き合いも良好、これからも順風満帆な人生を歩んでいく……はずだった。


 佐衣は中学3年生の秋ごろから鬱病に悩まされていた。何か原因はあるのかははっきりしていない。ただ段々と学校に足を運ぶことに苦しみを覚え、理由の分からない涙を溢す日が増え、気がつけば学校を休むようになっていった。


 それでも勉強への義務感により、なんとか公立の高校に合格。初めは周りが変われば自分も変われるかもしれないと淡い期待を持っていたが、精神状態が不安定な状態で環境の変化に耐えられるわけもなく、すぐにまた不登校へ。


 現在は高校一年生の秋。佐衣が学校を休み始めてから大体1年だ。しかし回復する兆しもなく、佐衣はこの日もまた学校を休んでいた。今はずっと引きこもっているのはいけないと思い、少しでもいいから散歩をしようと家を出たところだ。


 家を出てすぐに、ファストフード店などが立ち並ぶ大通りに出た。そこは平日だから多少少ないとはいえ、車は意外と多く、排気音が鳴り響いていた。


 そしてその光景を見た瞬間。


「はぁ……はぁ……ハア、ハア……!」

(まだ……無理だ……!)


 佐衣は息を荒げながら、元来た道へ戻り始めた。


 何か出来事が起こるたび、辛い思いをする。何か行動を起こすたび、失敗して辛くなる。それどころか立つだけでも、寝ているだけでも……生きているだけで辛い。


 ふとした拍子に周りの声が耳に入れば、「どうして?」「がんばれ」「この先どうするの?」……そのことごとくが佐衣の心を蝕んでいく。


 佐衣が進んできた道は100メートルにも満たない距離だった。その半分ほどで佐衣は足を止め、少し逡巡した後に道から外れ近くの公園に向かった。家の近くで井戸端会議をしていた主婦達を思い出したからだ。


 平日の昼近く、誰もいない公園の、小汚いブランコに腰を下ろす。大きなため息を一つ吐き、少し心が落ち着いた段階で、佐衣は俯いて唇を噛み締めた。


「……疲れた……」


 誰かが聞いているわけでもないが、佐衣はそう呟いた。


 何かするわけでもなく、地面を光の無い目で見つめ続ける。


 数分か、数十分か、はたまた数秒後かも分からないが、ある時佐衣は自分に近寄る一つの気配を察知した。


「あ、やっぱり佐衣だ!」


 その人物は元気でハキハキとした声を上げた。


 その声に佐衣も顔を上げる。そこには1人の女性が立っていた。


 身長は小柄な佐衣よりも高く、170センチほど。女性にしては高身長だ。ツヤツヤとした綺麗な黒髪を後ろに一本に結え、できたポニーテールが風に靡いてる。まさに元気を体現したような顔は、強い光を宿す目、小さな鼻、形の整った口が並び、紛うことなき美人を作り出している。


「あ……流子りゅうこ……」


 その女性の名は獅子髪ししがみ流子りゅうこ。幼稚園、小学校、中学校と佐衣と共に過ごしてきた幼馴染だ。


 流子は佐衣が自分の名前を口にしてくれたことが嬉しいのか、ニコリと笑みを浮かべた。


「隣、いい?」


 そう言って、空いている佐衣の隣のブランコを指差す。


「え……い、いいけど……」

「やった!」


 ウキウキでブランコに腰掛け、背負っていたバッグを床に投げ捨てる。


 少し困惑したような顔をした佐衣は、空を眺める流子を呆然と見つめた。その視線に流子が気づき、何事かと目で問いかけてくる。


「……あ、あの、流子」

「なにー?」

「な、なんでここにいるの? まだ、その……平日のお昼だよ」

「あー今日なんか午前だけなんだよ。色々あるっぽい」


 とだけ言うと、流子は笑顔を崩さずに佐衣の目を見つめ返した。


「それよりさ、これから佐衣の家行っていい?」


 流子は当然佐衣の精神状態について知っている。その為、流子はなるべく佐衣の前では学校についてのことを話さないようにしている。これがいいことか悪いことかは分からないが、佐衣に対する気持ちの表れだ。


「僕の家……?」


 佐衣は再び困惑顔を浮かべる。


「あの……ダメ……?」

「ダメ、じゃ、ないけど……でも僕の家行っても何もできないよ……」

「いーの! ダメじゃないなら早速行こ! 家の中の方がゆっくりできるしさ!」

「う、うん……」


 流子の押しに若干引きつつも、佐衣は流子と共に家に歩き始めた。いくら幼馴染とはいえ、年頃の男子の家になんのためらいも無く上がろうとするのは些か不用心というか、危機感が無いと言わざるを得ない。もっとも、佐衣は流子に対し手を出そうとは微塵も思っていないし、流子もそれを分かっているのだが。


 歩き始めてからまもなく、二人は先ほど主婦二人が井戸端会議をしていた場所にまで辿り着いた。既にそこには主婦達の姿は無く、見れば道の奥で笑いあいながら歩いていっている。


 その時、流子は再び少し嫌な気持ちに包まれ始め、俯いていた佐衣の顔を覗き込んだ。


「ねえねえ佐衣」

「な、何?」

「今度の週末さ、デートしない?」


 流子の顔の近さに戸惑いながら、佐衣は今流子が発した言葉に驚愕し、その後に眉を顰める


「……デート……?」

「そ! 最近ショッピングモールに新しいお店ができたんだって! ここで会えたのも何かの縁だし、佐衣も一緒にどうかなーって」

「で、でもどうして僕と……」

「そんなの私が佐衣と一緒にいたいからに決まってるでしょ?」

「……」

「あ、でももちろん強要はしないよ。さっきたまたま会ったから誘えただけだからね」


 今の佐衣にとって外出は少し難しい。大通りに出るだけでも辛かったのに、それより人の溢れているショッピングモールは厳しいだろう。流子も当然それを分かっている。


 変に気を使うのも相手にとっては心苦しいことがある。流子はそれを分かっているが、自分に付き合ったことで佐衣が辛い思いをするのも避けたいため、流子はあくまで任意だということを佐衣に聞いたのだ。


 佐衣はそのやつれた顔を再び俯かせた。そしてしばらく考え込んだ後、流子の目を見て話し始める。


「……ううん、行くよ」


 その声は、どこか先程より覇気のある声だった。


「本当⁉︎ やったー!」


 ニッコニコの笑顔をまったく隠さずにはしゃぐ流子。そんな流子を見て、佐衣はなんだか不思議な気持ちを抱いていた。嬉しいような、微笑ましいような、ここ一年、流子といる時だけに抱く気持ち。


 それに気を取られ、佐衣はボーッと流子の顔を眺めていた。


「ん? 私の顔に何かついてる?」

「あ、いやっ、ご、ごめん……」

「別に謝ることじゃないって。佐衣は朝起きれる方?」

「最近は10時ぐらいに起きてるけど……」

「おっけ! じゃあ土曜日の10時半に佐衣の家行くね〜。お腹空かせてきて、一緒にお昼食べよう!」

「は、はは……」


 いつも通り押しが強い流子に、佐衣は乾いた苦笑を浮かべた。そして、自分が苦笑とはいえ笑みを浮かべたことに、佐衣は少し驚愕する。


 ここ一年、1人でいる時に笑うことなど本当に無かった。ふとした瞬間に、真面目に働いている人達と自分を比較してしまうのだ。


 けれど、流子といる時はそんなことは考えない。考えたとしても、どこか希望があるような、そんな風に思える。それは流子に好意を寄せているからか、それとも流子自身にそのような力があるからか。


 どちらにせよ、流子と一緒に居たいという気持ちは高まっていく。それは佐衣が生きるための目標になり得る気持ちだ。佐衣本人は気づいていないかもしれないが、流子は佐衣の未来を変えられるほど、佐衣にとって特別な存在なのだ。


 それから2人は佐衣の家に到着し、しばらく談笑して過ごした。談笑と言っても、ほとんどリアクションをとらない佐衣に流子がずっと話しかけているという形なのだが。それでも佐衣は流子の話を聞くのが好きだし、流子も本人にとっては2人のお喋りが楽しかったので、結果的には暗くなって流子が帰るまで、お互い楽しい時間だっただろう。


 そして週末はあっという間にやってきた。


 土曜日の10時半過ぎ、佐衣の家に流子がやってきた。チャイムが鳴り、あらかじめ準備をして待機していた佐衣が外に出る。


 佐衣の服装は、お世辞にもオシャレとは言い難いものだった。柄も何もない黒い長ズボンに、灰色のパーカー。下げているのは無骨な黒いバッグ。佐衣のスタイルがいい……というか結構痩せているので形にはなっているが、一歩間違えれば部屋着だ。


 一方、流子は恐らく精一杯オシャレをしてきたのだろう、とても綺麗な服を着ていた。白の暖かそうなシャツの上に、薄いピンク色のコートを見に纏っている。膝丈ほどの黒いスカートに、スラッと伸びる脚にはタイツを着込んでいる。右手には女子らしいあまり大きくないバッグを持ち、ニコニコな笑顔で佐衣と対面した。


「おはよう! ねえねえどうかなこれ。1時間ぐらい悩んだんだー」

「……うん、似合ってると思うよ」

「本当⁉︎ やった!」


 嬉しそうに笑う流子を見て、佐衣の顔にも笑顔が浮かぶ。


 2人はそれから最寄りのバス停からバスに乗り、15分ほどでショッピングモールに到着した。


 そこは3年ほど前にオープンしたかなり大きなショッピングモールで、その分多種多様な店が並び、老若男女誰もが利用しやすい場所となっている。週末ということもあり、今日も多くの人で賑わっている。駐車場は朝早いというのに屋上含めて埋まっており、置いてある自転車もかなり多い。


 敷地の入り口でその光景を見た佐衣と流子は呆然としていた。


「ひ、人が多い……」

「こういうちょっとした田舎にこういう場所があると賑わうよね〜……中も結構混んでるかな……」


 と、少し唸る流子の横で、佐衣の心臓の鼓動はドンドンと早くなっていっていた。


 佐衣自身、何故人混みにいると辛くなってしまうのかは分からない。やはり自分と他を無意識に比較してしまうからか、人の視線が自分を蔑むように感じるのか、それとも肉体的な問題か。


 再び苦痛の渦へと引きずり込まれてしまいそうになった佐衣。しかし、その時流子が佐衣の手を掴み、


「早く行こ!」


とショッピングモールへと駆けていった。


 佐衣が嫌な思考を巡らせる瞬間、流子が間に割って入る。もはや鉄板の流れは、これは二人の性格が阿吽の呼吸のように噛み合うことで成されていた。まさしく運命の相手のようだが、二人共それに気づいていない。1年前からずっとそうだったのだ、当たり前だろう。


 ショッピングモールに入ってからは、二人はドタバタとあちこちを駆け巡った。


 流子が行きたがっていた服屋にて。


「こっちの白のと、こっちの黒の、どっちが似合うかな?」

「……白だと思う。流子は上が白で下が黒が1番似合う……と思う」

「本当⁉︎ じゃあこっち〜!」


 ふと目に入った宝石店のショーケースにて。


「……綺麗……」

「……流石に買えないと思うけど……」

「……あ、指輪……いいなあ」


 別の店ではあるがまた入店した服屋にて。


「スカートもいいけどジーパンも憧れるなあ。うーんめんどくさいや、これとこれとこれと……あと、これも買おう!」

「……持てる……?」


 ふと通りかかったゲームセンターにて。


「あ、太鼓やろうよ太鼓!」

「ぼ、僕はいいよ……」

「え〜二人でやろうよ〜……まあいっか。えっと荷物は……」

「あ、僕が持ってるよ。せっかく買ったの床に置いちゃうのもアレだし……」

「ごめんね、ありがとう!」


 二人は主に、というか全て流子の行きたい場所へ行っては、流子のはしゃいでいる様を佐衣が見届けるということを繰り返していた。


 一見して佐衣を荷物持ちにして流子が連れ回しているように見えるが、佐衣は流子が楽しそうにするのを見るのが好きだった。そもそも嫌ならここには来ていないだろうし……来たくても普通ならいきなり人混みに行くのは厳しかっただろう。


 それでも佐衣が流子と共にこの場にいるのは、その流子に対する純粋な想い故だった。 


 バタバタしているうちにお昼時、佐衣と流子はフードコートの席についた。流子が本当に栄養が摂れているのかと疑うほど少ない食事を食べ、佐衣がそんな流子よりさらに少ない食事を食べた後。流子の手にはサーティーワンのアイスがあった。


「……疲れた……」

「ごめんね、色々連れ回しちゃって。佐衣も行きたいとこ行っていいんだよ?」

「ううん……僕は流子と一緒に入れるだけで楽しいから……」

「……そっか」


 しかし、どこか悲しそうな顔を浮かべる流子。その表情はそのままに、流子は佐衣の瞳を見た。


「……ねえ佐衣……もしかして、このデートあまり楽しくない……?」

「え……?」

「だって私についてくるだけで何もしないしさ……もしかして嫌々ついて来てるのかなって……」

「そんなわけ無い‼︎」


 佐衣が突如声を荒げ、流子を見つめ返す。流子は最近全く聞いていなかった佐衣の大きな声にポカンとした表情を見せる。


「いつも、流子と一緒にいたいと思ってる……‼︎ 嫌々流子と遊ぶなんてあるわけない‼︎ 流子と一緒に入れるだけで楽しいのだって本当だ‼︎ ずっと……“俺”はずっと流子のことを想って……‼︎」


 その時、昂った感情が僅かにでも落ち着いたのか、佐衣はハッとなって俯いた。そして「……ごめん……」と呟き、黙り込んでしまう。


 しかしそれを見て、呆気にとられていた流子は柔らかい笑みを浮かべた。


「……今のが佐衣の本音」

「……え?」

「ずっと自分の気持ちを抑えて、苦しい思いして……私は自分がこうしたいって思ったらすぐ行動する。佐衣と今日デートしたいって思ったのも私の本音……さっき佐衣が楽しく無いんじゃないかって思って悲しかったのも本音。私が素直に自分の気持ちを抑えてないのに、佐衣が気持ちを抑えなきゃいけない道理なんてない。佐衣も、もっと自分を曝け出して」


 そう言うと、流子は手の中のアイスをスプーンで掬い、佐衣の前に突き出した。


「はい、あーん」

「い、いいよ、だって……」


 しかし、佐衣は自分を見つめる流子の瞳を見、目を見開いた。そして少しぎこちないながらも口を開け、流子がスプーンをその中に入れる。


「……うん、美味しい」

「ふふっ、でしょ?」


 その時、佐衣と流子はその日1番の笑顔を浮かべた。


 その後は先ほどまでとは違った、本当のデートの雰囲気となり、ほんわかとした時間を過ごした。佐衣も本屋に行きたいと言っていくつか購入したが、それとは比較にならないほどの量を流子が買い込み、両手で持ってギリギリなほどだった。


 時は過ぎ午後三時ごろ。佐衣が苦笑いしながら流子の荷物を半分持ち、二人はバス停に並んでいた。


 既に一日の疲れが出始め、ぐったりした様子の二人。そんな時、バス停に赤ん坊の鳴き声が響き渡った。見れば食材が沢山詰まった袋を持った女性に抱かれた赤ん坊が泣いていた。


 頑張ってあやしている女性と赤ん坊を見て、流子が「子供……」と心の中で呟き、ポッと頬を赤くした……その時。


「チッ、うるせえな! 早く泣き止めさせろ!」


 そんな声が響き渡る。視線をずらせば、見るからに強面な中年男性が、女性を睨みつけていた。


 女性は必死に謝り、赤ん坊をあやすが一向に泣き止まない。それ見てさらに苛ついたのか男は女性の脚を蹴り、凄まじい大声で怒鳴り散らした。


 流子含め、その場にいた誰もが関わってはいけない人物であると判断し、見てみぬふりを決め込んでいた。


 しかし。


「……やめてくださいよ。この場にいる皆に迷惑ですよ」


 男に対し、そう声を上げたのは、紛れもなく佐衣だった。流子が視線を逸らした時、佐衣は男に歩み寄っていたのだ。


「ああ⁉︎ ガキは黙ってろ‼︎」

「ッ……‼︎ ……でも、この場で迷惑をかけているのは間違いなくあなたで……」

「黙れっつってんだクソガキが‼︎」


 男の叫び声に、佐衣はいつも以上に縮こまり、しかし決然とした意志を、今にも泣き出しそうな瞳に宿していた。


 1年前からの佐衣にあるまじき行動。尚も口論を続ける佐衣は、次第に男を睨みつけていく。


 そして、とうとう堪忍袋の尾が切れたのか、男が拳を振りかぶった。


 その光景を見ていた流子は、ふと脳裏に昔のことがよぎっていた。


 それは10年ほど前。二人がまだ幼稚園に通っていた頃のこと。二人が園内の砂場を通った時、ある園児が他の子を叩いていたのだ。何があったのかは分からないが、二人共目に涙を浮かべ、感情の整理ができていないようだった。


 それを見ていた流子も泣きそうになり、先生を呼びに行こうとしたのだが、佐衣は自分も涙を浮かべながら二人を止めに入ったのだ。


 その時の光景と、今の佐衣の姿が重なる。


 瞬間、流子は動いていた。佐衣と男の間に入り込む。男が振るった拳は流子のみぞおちに直撃した。


「アガ……ッ‼︎」


 流子は当たりどころが悪かったのか咳き込みながら蹲る。男の方は突然の乱入者に舌打ちをすると、蹲る流子に向けて足を振り上げた。


 しかしその時、「おいお前! 何をやっている!」という声が、ショッピングモール方面から聞こえてくる。その声に男は目を見開き、全力で逃げ出した。


 それを追いかける警備員を目の端に映しながら、流子は腹部の激痛に目に涙を浮かべた。


 地面に蹲る流子を見ながら、佐衣は体を震わせていた。


「流子……そんな……僕の……せいで……」


 幸い流子の体にこれといった異常は無く、数分後にやってきたバスにそそくさと乗った。


 言いようのない重い雰囲気の移動を経て、二人は佐衣の家へとたどり着いた。道中、着いてこなくていいと言わなければと心の中で考えながらも、佐衣は言い出せずに地面を見つめていた。


「……ごめん流子……ごめん……なさい……」


 部屋に入ってベッドに腰掛けて早々、佐衣は涙目になり、声を震わせながらそう零した。そんな佐衣の隣に、少し俯いた流子は腰掛ける。


「僕が……僕の……せいで……」


 流子の体には、奴に殴られてできたあざがある。いまだにそこは痛み、確かに苦しい。


 しかし流子は、そんな痛みなど無視して立ち上がり、正面から佐衣を抱きしめた。そして佐衣の気持ちを沈めるように話し始める。


「違う……佐衣は何も悪くない……あれは私の意志だよ」

「そんな……だって……」


 必死に流子を引き離そうとする佐衣を、流子はさらに力を込めて抱きしめる。少ししてから抱擁を解き、決然とした表情で佐衣の顔を正面から見つめる。


「……私はずっと佐衣と一緒に居たい。佐衣がどんなことをしようと受け入れるし、佐衣のことずっと支えるから……!」

「ど、どうしてそんな……」

「そんなの好きだからに決まってるでしょ……! 好きな人と一緒に居たい、支え合いたい、触れ合っていたい……ずっと……ずっと佐衣と……!」


 話しているうちに、何故か流子の目から涙が出てくる。言葉を詰まらせながら自分の気持ちを吐き出し、感情がぐちゃぐちゃになっていく。


 佐衣はしばらく無言だったが、目尻の涙を拭うと、不器用な手つきで流子を抱きしめた。


「……俺も……流子が好きだよ……でも、僕なんかが……」


 するとその時、流子はベッドを回り込むと、佐衣をシーツの上に押し倒した。腫れた目を誤魔化すように笑い、顔を近づける。


「……ダメ。佐衣が嫌がっても、私は佐衣と一緒にいる。佐衣が抵抗しても、私は向き合い続ける。……だから……ね?」


 驚愕の表情を浮かべる佐衣の唇に、流子は自らの唇を重ね合わせる。逃げる舌を絡ませ交わらせ、互いの温かさに酔いしれる。


 数秒後、流子は頬を高揚させ、顔を上げた。同じく顔を赤くさせる佐衣を見つめる。


 2人は互いに互いを求め、その気持ちを体で表していく。


 抱きしめ合った相手の体温に安心感を覚えながら、熱くなっていく体の内から沸く感覚に身を委ねていく。目の前にある佐衣の顔がいつも以上に愛おしく感じるようになり、高まる気持ちに逆らわず、抱きしめる力を強くする。


 だんだんと息が切れてきた流子は、少しぼーっとしてきた頭でふと今の状況についてを考えた。ずっと想いを寄せてきた男性。自分は今彼と体を交わらせ、愛を育む段階へと進もうとしているのだ。佐衣を好きな気持ちが抑えられないほど強くなっていく。


 自分の意志ではなく、佐衣の手によって体が変化し、反応してしまう。その感覚に恐怖感を覚えないわけでは無いが、佐衣のことを想うと不思議と嫌な気持ちはしない。幼少期、恐怖を感じている時に握られる母の手のような、暗闇に差すの光のような安心感。


 愛。生まれながら人に与えられた可能性。それは複雑に絡み合い、時にはぶつかり時にはすれ違い、そして数多の苦難を乗り越えた時に、確かな幸福を人に与えるのだ。


 緊張に心臓を跳ねさせながら、仰向けに寝た佐衣の上に跨る。途端に痛みが走り顔を歪めるが、少し落ち着くと体を落とし佐衣の顔を上から覗き込む。


 そして両者目を瞑り、お互いの唇を重ね合わせ、舌を絡め合う。重なった唇と触れ合った体からお互いを感じ合い、愛し合い、幸福感に包まれる。直に緊張もほぐれ、体もさらに熱くなっていく。少しして顔を上げ、2人はそのまま見つめ合った。


 どれほどそうしていただろうか。佐衣が唇を震わせ、より一層頬を高揚させた時、流子は体を起こして佐衣の横へと寝転んだ。


 溶けてしまいそうな表情をした両者はベッドの上で見つめ合い、微笑んだ。今まで感じたことのない幸福感と言うべきか、愛する人としか交換できない不思議な感覚。


 2人はそれから体の火照りが静まるまでベッドの上で目を閉じていた。


 両者、相容れない二分した想いを胸に秘めて。


 約30分後、流子は佐衣の家の玄関で佐衣に見送られていた。


「……じゃあね、佐衣。その……ごめんね、最後までできなくて」

「ううん、こっちこそごめん。色々迷惑かけちゃって」

「そんなことないって。これからも、何かあったら私に言ってね」

「……うん。でも、今でも充分救われてるんだ。……ありがとう」

「……そっか。それじゃ、またね!」


 流子はそれから帰路へとついた。数百メートルの道のりだが、その間にさまざまな想いが頭に駆け巡る。


 とても濃い1日だった。楽しいこともあった。苦しいこともあった。けれど、ずっと想いを寄せていた佐衣と、距離を縮めることができた。それだけで、幸せな1日だったと、そう断言できる。


「……これからも、佐衣と一緒にいられたらいいな」


 結論付けるように呟き、両手をそっと触れ合わせる。


 すると、流子は自分が荷物を左手にしか持っていないことに気づいた。ショッピングモールで買ったものは両手で持ってギリギリなほどだったので、帰りは半分佐衣に持ってもらっていた。


 恐らく佐衣の家に置きっぱなしだったのだろうと思い、流子は踵を返した。


 あまり進んでいなかったのもあり、すぐに佐衣の家にたどり着く。そしてチャイムを押すが、いつまでたっても返事が無い。


(あれ……どこか出かけたのかな)


 なんとなしにドアの取手を下ろすと、鍵がかかっておらずドアが開いた。不用心だなと思いつつ下を見れば、佐衣の靴は揃えてある。


「佐衣ー! ごめん忘れ物ー!」


 しかし返事は無い。


「……寝ちゃったかな」


 勝手に上がることに申し訳なさを感じつつも、靴を脱いで家に上がる。


 シンと静まり返った家に、流子の足音だけが響く。


 2階に上がり、佐衣の部屋に辿り着く。ノックをする。しかし返事は無い。


 流子は静かにドアを開けた。


「……え……?」


 途端、流子の口から震える声が漏れる。


 部屋の一面に広がる赤い液体。その真ん中に蹲る佐衣。両手で握られた包丁が、佐衣の喉元に突き刺さっている。既に光の無い佐衣の目は地面を見つめている。


 そして、そこには涙が一筋伝っていた。


 流子は呆然とその光景を見つめる。時間と共に脳が情報を処理し、どんなに拒絶しても現状を理解し始めてしまう。


 その部屋にあったのは、既に心臓の止まっていた佐衣と、忘れていた流子の荷物、そしてそこに添えられた1つの手紙だった。



※※※※※



 私の近況ノートにあとがきがあります。よければ。


https://kakuyomu.jp/users/ScandiumNiobium/news/16817330652634386489

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