緑の時間

西しまこ

第1話


 風が緑をさらう。


 ここはいいマンションだ。新築で、セキュリティーもしっかりしていて。エントランスもきれい。そして、緑が豊かで癒される。

 以前住んでいたのは古い一軒家だった。あちこち傷んでいたし、最寄り駅へも遠かった。お風呂やトイレも古くて使いづらかった。もちろん台所も。そして何より、毎年草むしりが大変だった。


「ここは俺が生まれた家なんだ。だからずっとここに住むし、子たちも孫の代も、ずっとここに住んで欲しい」


 そう言っていた夫も、死んだ。

 夫は色々な保険に入っていて、病気になったとき入院したとき、そして死んだとき、たくさん保険金がもらえて本当にたすかった。これでわたしも残りの人生を楽しめる、と拍手喝采を送った。

 夫が嫌いだったわけではない。ただ、深い愛情を抱けなかっただけだ。

 子どもは二人授かった。仕事は辞めずに定年まで働いてくれた。浮気したりもしなかった。舅姑も早くに亡くなったので、それでもめることもなかった。問題といえるような問題は、何もなかった。


 だけど、梅雨が終わったあとの草いきれや冬になるとひどく寒いお風呂、そして孤独な台所に積まれた食器を見るたび、なんとも言えない気持ちになった。夫は草が生い茂った庭を見るたび、眉をひそめた。掃除が行き届いていないときは舌打ちをした。もちろん食器を洗うはずもなく、トイレットペーパーを替えることすらしなかった。

 それはたぶん、団塊の世代と呼ばれる彼らには当たり前のことだった。わたしに我慢が足りなかっただけだ。ただでも、夫が死んで心底ほっとしてしまったのも事実だ。そうして、今まで住んでいた家を売り払い、保険金と合わせてこのマンションを買ったのだ。


「母さん、紅茶、飲む?」

「ありがとう、飲むわ」

「アールグレイでいい?」

「ええ」


 わたしはいま、長男と一緒に住んでいる。長女は結婚して別世帯を構えた。長男は結婚する気がないらしく、このマンションを買うとき一緒に住むことにしたのだ。

 長男と向かい合って紅茶を飲む。なんて温かい時間なんだろう。

 午後の光が斜めに差し込む。緑の影が差す。蝉の声が聞こえる。

「小さいころ、蝉捕りによく行ったわね」

「そうだね。なんであんなに楽しかったんだろう?」

「そうね」

 小さく笑い合う。

 もしかして、長男はこの先、結婚するのかもしれない。でもそれまではこうして、温かい緑の時間を過ごせたらいい。

 紅茶のカップをソーサーに置いたら、かちゃんと微かな音がした。




☆☆☆☆☆

「金色の鳩」

https://kakuyomu.jp/works/16817330651418101263

「銀色の鳩 ――金色の鳩②」

https://kakuyomu.jp/works/16817330651542989552

「イロハモミジ」

https://kakuyomu.jp/works/16817330651245970163

「つるし雛」

https://kakuyomu.jp/works/16817330651824532590

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緑の時間 西しまこ @nishi-shima

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