地下室の芽
朝吹
地下室の芽
※お題【苦手、旅行、大切】に傍点をふっています。
A CHAINLESS SOUL(縛られぬ魂)
これはエミリ・ブロンテの伝記に添えられた副題だ。
姉シャーロットは「ジェーン・エア」、妹エミリは「嵐が丘」を書いた。英国小説のベストを組むなら両方、もしくはどちらかが必ず入る。その作者が姉妹なのだ。
長女シャーロット長男ブランウェル次女エミリ末妹アン。上の三人が一歳違い、末子のアンがエミリと二歳違いだ。
今に名を遺すブロンテ家の子どもたち。彼らは年の繋がった四人きょうだいだった。姉が二人いたのだが、この二人は相次いで病死しており、三女シャーロットが長女となっている。
「ジェーン・エア」のなかで主人公の友人として出てくる心優しい少女は、死んだ長女マリアの面影をシャーロットが写し取ったものだ。
「ジェーン・エア」「嵐が丘」は繰り返し映画化されてきた。作者であるブロンテ姉妹の生涯についても何度も映画化されている。美人女優が演じることが多いが、2016年「To Walk Invisible」については姉妹の肖像画に極力寄せているようだ。
ブロンテ姉妹の生涯は悲劇的なものだ。それは十九世紀の貧しい女性のほとんどが味わった、惨めで暗い人生だ。そこに二つの小説が黄金の碑石となって輝かしく遺されている。
生前、その恩恵を受けたのは姉シャーロットだけであり、エミリの「嵐が丘」は酷評を受けて終わった。しかし出版界の大波に埋もれることなく、エミリ・ブロンテ「嵐が丘」は現代でも版を重ねている。
父パトリックは牧師だ。ブロンテ家の子どもたちは母を早くに亡くした。母の記憶があるのはシャーロットだけ。母の死後、幼い子どもたちの面倒をみるために母の姉がやって来て、この伯母が母がわりとなる。
1820年に父パトリックが赴任した教区ハワースは今も昔もへき地の寂しい田舎で、旅行ついでに同行の友人と別れて現地に行ってみたが、不便極まりない寒村だった。
ハワースの村人は無教養で排他的、下水道をはじめとした衛生設備も当時は中世さながらに疎かだった。平均寿命は三十歳前後。その不潔さとうら寂しさは適当に想像してもらえばいい。
一家は教会の向かいに建つ牧師館を住居として暮らす。家の片方の窓からは人家と墓場が見えた。そして丘の上に建つ牧師館の反対側には何もない。あるのは、地平線まで続く起伏ある荒野だけだ。苔むした墓がなし崩しに無人の荒野に向かって埋もれて消える。ブロンテ姉妹の暮らした牧師館は今も変わることなく、村はずれの丘の上に孤立して建っている。
牧師館の裏手の荒野。地表を覆うのは柔らかい草などではない。一面を覆うのはヒースという、蔓延るだけはびこる植物だ。
ヒースは花をつける。
夏になると荒野は、ヒースの花の薄紫色に染まるのだ。
強い風が唸りを上げる吹きさらしの原野。英国の移りやすい天候が黒雲を呼び、冬季は凍り付くような雪が吹きつける。
ここに次女エミリ・ブロンテは虚像の王国を解き放った。その夢想の王国の名をゴンダルという。十代の子がよくやるような物語創りだ。だがエミリは大人になっても、このゴンダル王国の方を「本物の現実」として心に育て、外界に背を向けて生涯を過ごすことになる。
ゴンダルの物語は遺されていない。そのほとんどをエミリは自身の手で焼却してしまった。
遺稿から読み解くに、エミリが創り上げたゴンダル王国は傲慢で残酷な女王を中心とした王政の国だ。エミリの書いた詩の多くはこのゴンダルの中から語りかけられている。ゴンダル王国は人界の反対側の無人の荒野に広がっていった。ちょうど宮沢賢治が空想の理想郷イーハトヴを郷里岩手に重ねて創ったのと同じように。
物語を書くものは誰もが皆、空想と親しむ。ブロンテ家の子どもたちも同じだ。ある日、父パトリックが兵隊の人形を土産に持ち帰った。シャーロット、ブランウェル、エミリ、アンの四人のきょうだいはたちまちその人形に夢中になる。それぞれお気に入りの人形を選ぶと、人形を動かして、彼らは物語を織りはじめた。「人形あそび」だ。
無学な村の子どもたちとは違い、牧師の子どもという立場から、彼らは遊び友達を外に持たなかった。丘の上の牧師館から滅多に坂道を下ることのない彼らは、狭い子ども部屋に閉じこもり、物語創りに没頭していく。
最初はベッドの中のひそひそ話から始まった。やがて彼らはそれを文字で記録するようになる。新聞雑誌、歴史戦史、世界地図。読むものすべてが彼らの王国に吸収されていった。習ったことは直ちにこの空想の国にかたちを変えて盛り込まれ、現実の英雄たちも新たな名を与えられて闊歩していく。
世界地図を下敷きに、ブロンテ家のきょうだいたちは大グラス・タウン連邦という巨大な国を創り上げた。大人たちには秘密の国だ。
おもちゃの兵隊人形の大きさに合わせた切手サイズの豆本を手製すると、虫眼鏡でしか読めないような小さな文字で、子どもたちはグラス・タウンの年代記を書き綴る。豆本には活字を意識した字体で書いた。
やがてグラス・タウンの西部に年長者のシャーロットとブランウェルは新しい国「アングリア」を建設する。
十四歳になるとシャーロットは寄宿学校に旅立った。長女の留守の間に次女エミリと末子アンは、軍事面にばかりに心血をそそぐ兄ブランウェルと袂をわかち、グラス・タウン連邦を出て北大西洋の奥に移動し、そこに「ゴンダル」という国を新たに開拓する。
幼少期からはじまったこの空想の遊びは、思春期を過ぎても長いあいだ続いた。
シャーロットはある日「さようならアングリア」と夢の世界との決別を宣言するのだが、逆にエミリはより一層ふかくゴンダルにのめり込んでいく。
アングリアもゴンダルも、主導していたのはシャーロットとエミリだ。ブランウェルは成長するにしたがい女姉妹たちからしだいに離れ、末子のアンも、もともと傍観していただけということもあって、ゴンダルが見えなくなっていく。
みんなそれぞれに夢の国から離れていった。ゴンダルにはエミリだけが残る。
ブロンテ家は経済的に貧しかった。牧師である父パトリックがもし死ねば、たちまち子どもたちは牧師館からも追い出されて路頭に迷うのだ。当時の英国で、教養のある女性が名誉を損なわずに選べる職業はそう多くはなかった。
薄給でお屋敷に雇われる家庭教師が、せめてもの選べる仕事だった。不幸なことに、この職業ほど姉妹に不向きなものはなかった。幼少期から精神年齢が高く、孤島のような牧師館の一室で活字中毒になっていた彼女たちは、子どもらしい遊びなど一切したことがなかった。遊戯も球技もやったことがなく、ルールも知らなかった。
裕福な子どもたちを前にして、生徒たちの無邪気さや明るさに困惑するばかりで、取り扱い方が分からない。子どもが苦手。それでは家庭教師として子どもたちの心を掴むことは出来ない。
もともと彼女たちは内向的で、快活さがなく、陰気で、自意識過剰と劣等感にも満ちていた。読書の深い森に沈む者にありがちな理想家肌で、空想癖と強い自尊心を持て余していた。
心を通じ合えるのは、共に育ったきょうだいだけだった。
シャーロットは何処にいってもホームシックに悩まされる。とくにシャーロットにとって妹エミリは、知的水準と気脈が通じる唯一の大切な理解者だった。
家に帰りたい。家に帰ればまたあの王国に戻れる。そこで私たちはまた一緒に素晴らしいあの夢の国で遊ぶのだ。
同世代の少女たちはまるで時が止まっているかのようだった。アングリアに盛り込む必要性からシャーロットはすでに世界史に精通しており、大人と対等に議論できるほど政治の動きにも詳しかった。想像力が豊かで、絵画が得意で、小さな絵の断片からも自由自在に物語を生み出して取り扱うことができた。「彼女はまるで老人のようでした」とシャーロットの同級生は愕きをもって回想している。
優れた生徒に与えられる賞を総なめにしていたシャーロットだったが、その心は欠乏していた。シャーロットは精神的な双子であるエミリを連れて留学することを計画する。
エミリはといえば、彼女は今でいうコミュ障だった。極度に内気であり、内気といっても気弱なそれではなく、頑迷なハワース村の人々と同じように「絶対に口を利くものか」と唇を引き結んでいるような、陰険で頑強な性質だった。エミリにとって外の世界は監獄と同じだった。教養を積むためにシャーロットと共に留学したベルギーの寄宿学校でもエミリは他の生徒と馴染もうとせずに、ふさぎ込んでほとんど病気になってしまう。
しかしその作文は素晴らしいものだった。教師はエミリの書くものに圧倒され、少女の才能を他にはない異質で特別なものだと認めている。
背の高いエミリは、背の低い姉のシャーロットの背後に隠れ、必要なことは姉に返事をさせて、不愛想な沈黙を貫いた。
外に出るたびに病気になるエミリ。根負けしたシャーロットはエミリを郷里ハワースの牧師館に残すことになる。
姉シャーロットとても、世間と折り合えなかった。ずんぐりした体型に眼鏡をかけた、お世辞にも美人とは云えない容姿をひっさげて、シャーロットは果敢に外の世界に挑んでは、深く傷ついた。
いちばん外と適応できたのは末子のアンだ。芸術的感性の固まりのような姉二人とは異なり、羊のようにおとなしく、平凡ながら容姿も悪くなく、アンはうまく世の中に溶け込んだ。
忍耐づよくて優しいアンは、家庭教師として赴任した先の一家からも愛された。アンが去っても屋敷の子どもたちはアンを慕い、馬車を仕立ててわざわざ辺境の牧師館にアン先生を訪ねている。
アンも小説を書いたが、まったく知られていない。姉二人の輝かしい作品に比べて、アンの小説はすっかり忘れさられている。凡庸な性格そのままに、何の独自性もない凡作しかアンは書くことができなかった。手厳しいシャーロットなどは「アンは無です」と云い捨てている。
秀でた才のないアンはもの静かで、善良で、二十九歳で死ぬ最後の瞬間まで、ひっそりとした妹だった。
アンは死ぬ。他のきょうだいも死ぬ。
順番としては最初に母がわりだった伯母が死に、長男ブランウェルが三十一歳で死に、同年エミリが三十歳で死に、翌年にアンが死に、最後に残った長女シャーロットがアンの死の六年後に三十八歳で死ぬ。
ブロンテきょうだいは誰一人として子孫を残さず、最後に老父パトリックが八十代で死んで、死に絶える。
なんとしても自活しなければならぬ。
経済的自立を目指して奮闘していたのは姉シャーロットだけだった。シャーロットは長女としての責任感から行動をおこしては、手酷く火傷を負い、傷心を抱えて牧師館に戻ってきては、また奮い立ち、まったく不向きで相容れない世の中に頭から突撃していっては、毎回のように失敗に終わっていた。
その間、エミリは牧師館でゴンダル王国を書き続けていた。書くよりも多く荒野に出かけていった。荒野に重ね合わせた心の中の王国こそエミリの現実だった。
ブロンテ姉妹の肖像画が残されている。描いたのは長男ブランウェルだ。「柱の肖像画」と名付けられたこの画はとても稚拙だ。
だが片田舎で、唯一の男子として父から甘やかされて育ったブランウェルは、実力と自意識の釣り合いが取れていなかった。我こそは天才画家だと想いこんだまま倫敦に出て行き、周囲のレベルの高さに打ち負かされて、すぐに戻ってきてしまう。家庭教師に出てみればその屋敷のご婦人と不倫関係になって追い出される。
崩れ落ちていくように現実放棄したブランウェルはただの酔いどれと成り果てる。 「柱の肖像画」にはかき消された箇所がある。そこにはブランウェルがいた。彼が自身の手で自分の姿を消し去ったのだ。
女子には許されぬ可能性を独り占めしながらも無残な敗残者となった弟に対してシャーロットは激怒したが、エミリは兄に同情的だった。外の世界を厭うていたエミリにはブランウェルの気持ちが分かったからだろう。酒に溺れて憔悴していく男の惨めな様子は、「嵐が丘」の中に取り入れられている。
姉シャーロットの涙ぐましいまでの自活への挑戦を他人事のように眺めながら、エミリは牧師館で隠者生活を送っていた。
最低限の家事を終えると、エミリは牧師館の外に飛び出す。荒野に行くのだ。
吹き付ける大風と船団のように押し寄せる白雲。エミリはゴンダル王国の女王となり、女王に仕える男たちとなり、無人の荒野を踏みしめて、何時間でも愛犬と共に歩き回っていた。
或る日、シャーロットが隠してあったエミリの原稿を見つけることからブロンテ姉妹の運命は動き出す。
シャーロットが胸を突かれるほどの、霊的な詩がそこにはあった。
勝手に原稿を見たことに怒るエミリを説き伏せ、姉妹は詩集を自費出版する。これはまったく売れずに、一冊も現存していない。
しかしシャーロットは諦めなかった。
ブランウェルはすでに当てにできない。家庭教師もうまくいかない。わたしたちが生きる術がもしあるとすれば、それは文学に他ならない。生きていく道はこれしかもう残されてはいない。
三姉妹は小説を書き始める。書いた原稿は回し読みをして修正を加え、完成した小説を出版社に送り付けた。
当時女性が小説を書くことは歓迎されることではなかった。日本とても例外ではなく、戦後もながい間、「文学は男がするものぞ」と女性の書いたものは一切認めない男性作家が大勢いたほどだ。
女というだけで中身を読んでもらえないかもしれない。シャーロットたちは、出版社に送る前にそれぞれの作品の著者名を男性の名に変えておいた。
ロマンスにミステリー要素を加えた「ジェーン・エア」は大評判となる。文学界は惜しみない賛辞を寄せた。それまでの女性が書くものといえば、お伽話の延長のような恋物語が多かった。しかしこの小説のジェーンは美しくない。そして男も美男子ではない。醜怪で、魅力的だが薄暗い過去を持った、風変りな変人なのだ。
「ジェーン・エア」は売れた。出版の打診が来た際に、わたしたちは男性ではなく姉妹だと明らかにした。シャーロットは一躍、大都会の社交界から引っ張りだことなる。小説は大成功をおさめるのだ。
末子アンの書いた小説も、姉の七光りながらも、女性向けの家庭小説として好意的に受け入れられた。エミリの「嵐が丘」のみ事情が違った。
「嵐が丘」を読んだ人々は、この作品をひどく気分の悪くなる、怖ろしい小説としてしか見做さなかった。
無理もない。「嵐が丘」は愛憎と復讐と狂気の物語だ。男性作家が書いたとしても難色を示されるところを、書いたのが女性とあっては、ヴィクトリア王朝時代の人々が顔を背ける理由としては充分すぎた。
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※未読の方むけ「嵐が丘」あらすじ。
捨て子のヒースクリフは荒野に建つ或る家に拾われる。ヒースクリフはその家の娘キャサリンと恋仲になるが、主が死ぬと、新しく主人になったキャシーの兄ヒンドリーはヒースクリフを捨て子にふさわしい身分に落として、襤褸衣を着せ、下男としてこき使う。
キャシーとヒースクリフは兄ヒンドリーの眼を盗んで荒野で遊ぶことをやめない。二人は強く愛しあっている。しかし成長したキャサリンには若い娘らしい俗な野心があった。お屋敷に住んで美しく着飾って奥方さまと呼ばれて裕福に暮らしたい。
その夢をかなえる紳士が近くに現われる。
紳士は美しいキャシーに魅せられてキャシーに求婚する。
野性味あふれるヒースクリフと優雅な紳士。二人の男の間で揺れ動きながらも、キャシーは紳士と結婚することを決意し恋人ヒースクリフを捨てる。キャシーは胸の底から吐き出すようにヒースクリフへの変わらぬ愛を口にするが、ヒースクリフは屋敷から失踪しており、それを聴くことはない。
数年後、財を築いたヒースクリフが故郷に戻って来る。ヒースクリフはヒンドリーの家を乗っ取り、かつての主人であるヒンドリーを酒浸りにさせて飼い殺す。
見違えるように立派になったヒースクリフは、キャシーの前に現われる。
ヒースクリフはキャシーへの報復として、夫君の妹イザベラを誘惑する。キャシーは義妹を必死で止めるが、義妹イザベラは兄から勘当されるのと引き換えにヒースクリフの許に去っていく。
男を信じて身一つで家出してきたイザベラをヒースクリフは冷淡にあつかい、それまでの態度を一変させて憎いキャサリンの代わりに虐待する。イザベラは夫ヒースクリフを呪いながら姿を消し、後に男児を産み落とす。
キャシーが病で余命いくばくもないとの知らせが入る。
ヒースクリフは無理やり愛するキャシーに逢いに行く。ヒースクリフはお前を殺すのは俺だ、俺を恨み俺のもとに幽霊となって出てこいと叫ぶ。
キャシーはヒースクリフの腕の中でヒースクリフに愛を告げ、ほどなくして死ぬ。
(ここまでで半分)
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前半の筋立てとしてはこんな感じだが、時系列が入り組んでおり、小説はキャシーが死んで数年経ったところから始まる上に、二世にも同じ名前がついていて分かりにくい。
「嵐が丘」は売れ行きも芳しくなく、読者を不愉快にし、書評も酷評に近い気まずいものばかりだった。女の作家に期待されるものは婦徳を説くあたたかな家庭向けの小説か、夢物語のような恋愛小説だった。ぎらつく眼をした粗野な男と、夫がいながら他の男への激情を抱く女の物語など、到底受け入れられるわけがない。
「嵐が丘」への書評をエミリは牧師館のなかで軽蔑したような薄笑いを浮かべてきいていた。
荒野の物語はエミリだけが理解していた。道徳的に受け入れてもらえないことは、エミリにとっては承知のことだったのだ。
小説「嵐が丘」は、エミリが姉シャーロットに促されて仕方なく書いたものでしかない。しかし題名どおり、嵐が丘とは、牧師館の裏手に広がるあの荒野がモデルなのだ。
「地下室でじゃがいもの芽を育てているみたい」
これは少女時代のシャーロットが、きょうだいで秘密の物語を創っていると想い切って打ち明けた時に、親友から云われた無情な言葉だ。シャーロットは深く傷つくが、エミリならば嗤うだけであったろう。エミリは心の地下室で育てていた作品のほとんどを焼き捨てた。それはエミリだけが知る、エミリの中にだけ存在した、まぼろしの王国の物語なのだ。
空想の中に自我を解き放っていたエミリは、その死後、世界中の本屋に自作が並ぶことになる未来など露ぞしらぬまま結核におかされ、牧師館の長椅子の上で死ぬ。
エミリは荒野から離れられなかった。荒野から離れることは死を意味していた。姉シャーロットは愛するエミリに「ラヴィーニア」という愛称をつけていたが、ラヴィーニアですら姉の許に留まろうとはしなかった。
シャーロットの成功で一躍有名になったブロンテ姉妹。
幾度となく倫敦に招待されても、俗世界のもてなしを享受したのは姉シャーロットと妹アンだけで、エミリは牧師館からついに出なかった。
青空の広がる春も、花咲く夏も、ハワースの荒野は決して心地のよい処ではない。強い風に枝を曲げた低木がひねこびて生え、野生の鳥が飛び、足許からは泥土の黒い水が滲み出す寂寞とした気の滅入る荒れ地だ。航海者のような魂をもった者だけが、人間界から離れたそこを愛する。
エミリは今も教区の裏手の荒野を歩いている。風となり光となり、薄紫のヒースの花が咲く、美しく野蛮なゴンダルの国を。
《わたしが一番厭なのはこの壊れた牢獄のような自分の肉体なのよ。こんなものに閉じ込められているのはもう飽きてしまったわ。わたしは早くあの輝かしい世界へ逃げていきたいの。涙を通してぼんやりとそれを見たり、傷む心の壁ごしにそれに憧れたりするんじゃなしに、ほんとうにそこへ行きたいの。その中へ入りたいの。(「嵐が丘」)》
[了]
地下室の芽 朝吹 @asabuki
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