第38話 終幕
アリウ・フォルトナーの一日は、門限破りから始まる。
時告鳥よりも早く寝台を這い出し、蝋燭に火を灯して、音を立てないように竜騎士団の制服に着替える。
鏡を覗き込んで、ボサボサの髪を整える。隈は消えないが、血色は少し良くなっただろうか。
足を忍ばせて、寝静まった宿舎を抜け出した。
「おはよう、コガラシ」
暗い竜舎の戸を開けて囁けば、黄土色の光がふたつ瞬いて、のそのそと相棒が這い出してくる。
「怪我はもう大丈夫?」
「クェ!」
元気いっぱいの鳴き声が返事した。よし、と頷いて鞍をつけ、その上に跨がる。
コガラシがめいっぱいに翼を広げ、思い切り、地面に向けて振り下ろした。
突き上げる衝撃とともに身体が宙に浮き、暗く冷たい空へと舞い上がる。
王都は相変わらず眠っていた。
何事もなく、平和に。幸せな夢に包まれている。
見えない街並みから視線を引き剥がし、いつものように東に向かった。
黒竜の騒動から一週間が経過した。
人知れず赤竜丘陵で起きた戦闘はヴィオラがサフィールを人質に取ったことで、呆気なく終わりを迎えた。
アリウと別れてからのヴィオラは、いかにサフィールを欺くかだけを考えていたらしい。敢えて赤竜丘陵に向かう姿を目撃させて注意を引き、人知れず偽者と入れ替わって王都に舞い戻った。
恐らく大柄な女性が蹴り飛ばした先で、小柄な少年とマントを交換したのだろう。動転していたためアリウもすぐには気づけなかったが、それすら利用されたようで、そこだけは少し不満だ。どうやって協力を取り付けたのかと問えば、「このまま引き下がると壊され損だけど、協力すればドラゴンの血はやるぞって脅し——げふんげふん、説得した」だそうだ。
あれだけ大きな騒動を引き起こしておきながら、カトレイヒ帝国の目的は侵略ではなく、守護竜の血だったらしい。
ちなみにドラゴンの血はちゃんとサフィールからせしめて、帝国の間者に渡したのだそうだ。
ヴィオラはルヴィーダに自身の生存を隠しておきたかったようだが、結論から言えば、ルヴィーダは最初から彼女が生きていることを知っていた。というかそもそも、ヴィオラと王妃を口の中に隠し、人知れず逃したのがルヴィーダだったらしい。
王妃はなぜヴィオラが狙われたのか知っており、王国に留まれば今後も同じことが起こると考えて、ルヴィーダにふたりが生きていることを隠すよう頼んでいた。
ルヴィーダも犯人にも見当はついていたが、余計に国が荒れては困るからと静観していたという。
そのことでアリウは、ルヴィーダに大袈裟な謝罪を受ける羽目になった。衆目の中深々と頭を下げられ、慌てふためいたのは言うまでもない。アリウが酷く落ち込むのを心苦しく思いつつも、万が一を考えて漏らすわけにはいかなかったそうだ。
無理もない、とアリウも思う。アリウは隠し事の得意な質ではないようだし、ヴィオラの生存を聞けば露骨に立ち直って、サフィールに不審感を与えていたことだろう。
一時は反逆の罪に問われどうなることかと思ったが、意外にもアリウの日常は以前とあまり変わりなく、淡々と前に進んでいる。
サフィールは国王のまま。ヴィオラの生存には緘口令が敷かれ、アリウの行動に関しては『不審者に気づき真っ先に対処しようとして、少々乱暴な方法を取ってしまった』ということになった。アリウが無実となったのでそれを助けたハルニア、カルマ、ドリューも無実。ユニスとファニーは怒りが治まらない様子だったが、国王と直接の対話で折り合いをつけていた。部屋から出てきた姉妹はやけに満足げで気味が悪いほどだった。
どんな条件を出したのかは、怖いから聞かないでおこうと思う。
一方ベンジャミンは、ルビーラビットを連れて早々に王都を発った。イヴェットが真っ青になって引き止めるのも聞かず、『アリウが元気出したんなら騎士続ける理由もねえや』と当のアリウには別れも告げずに去ってしまった。『姉上とはしばらく離れてたほうがいいと思う』とも言っていたそうだが、イヴェットがアリウのせいだと考えて一晩中酒に付き合わせてきたのには辟易した。あの様子だと定期的に飲み会という名の愚痴会が開催されそうで、どうしたものかというのが目下の悩み事だ。
考え事を巡らせている間に東の空が白み、それにつれて魔龍山脈の稜線が近づく。
赤竜丘陵は先日の戦闘で随分と荒れ果ててしまっていたが、ワイバーンやカーバンクルを始めとする動物たちは森に戻って、今までと同じ日常を再開している。
馴染みの空を辿って木々の切れ目に着地すると、そこは通い慣れた墓地の入り口だ。
いつものように門を開けようとして、手を止めた。
門は少しだけ開いていた。
予感を覚えて押し開ければ、ずっと焦がれていた姿が目に入る。
流れるような銀髪を朝日に煌めかせて、少女が墓石の上に座っている。
ゆっくりと歩み寄れば、彼女は振り向いて「よう」と笑った。
「おれはもう、この下にいないぞ」
自分の足元を指で差す。
〈アンスラクス・エリスロース・ヴィオラ
——八九三年一二月一八日没〉
飾り気のない石に、そう彫られている。
『ヴィオラ』の文字だけやけに削れているのは、心の拠り所を求めて、アリウが何度もなぞったせい。けれどそこにヴィオラがいないことを、アリウはもう知っている。
「うん。だけど、会えるかなって思って」
そう答えれば、ヴィオラは目元を緩ませて隣の墓石を見た。
ヴィオラがサフィールに対し要求したことは、もうひとつある。
ひと月前に遠い異国の地で亡くなった王妃殿下の遺灰を、先王陛下の横に埋葬することだった。そもそもそのために戻ってきたのだと、彼女は言った。
竜血病の進行が早かったのだという。
それでも慣れない地で女手ひとつで、家事もろくにしたことがなかった深窓の令嬢だったにもかかわらず、ヴィオラを育ててくれたのだと、寂しそうに瓶に詰めた灰を見ていた。
その姿を見て忘れていたことを思い出し、慌てて制服の内をまさぐる。
「これ、ヴィオが持ってきたものだよね。ごめん、拾っちゃって」
内側で潰れて押し花となった白と赤のパンジーを取り出した。
ヴィオラはそれを見て目を瞬かせたと思うと、ふっと吹き出した。
「ふっ、あはは。いいよ、花くらい。どうせならそのまま持っていて」
「……いいの?」
「おう。そのぶんおまえが供えてくれてたんだろ」
そういうつもりではなかったのだが、まあ、いいかと懐にしまい直す。枯れた花を供え直すのも、失礼だろうし。また今度、新鮮なパンジーを持ってこよう。
柔らかな沈黙が流れた。
惜しむような、懐かしむような。
やがて、風に揺れる白銀を眺めてながら、声がこぼれた。
「……行くの?」
ルビーの瞳が振り向いて、アリウを正面から見つめた。
日の光を浴びて燦然と輝く赤に、やはり綺麗だなあと感嘆の息をこぼした。
ヴィオラが小さく首を傾げる。
「おまえも来るか?」
考えない、わけではなかった申し出に、それでも心が揺らいで、思わず息を飲んだ。
そうできたら、どんなに素敵だろう。ふたりで見知らぬ土地を旅して、ふたりで美味しいものを食べ、ふたりで生きて、ふたりで死ぬのだ。想像だけで心が躍る。
けれどアリウはヴィオラの目を見て、しっかりと首を振った。
「ううん、まだやらなきゃいけないことが残ってるから」
ヴィオラは引き止めなかった。
「だけど、それが終わったら会いに行くよ。待っていてくれるか?」
「ハッ」
鼻で笑う音が乾いた空気に響いた。
声とは裏腹に、ヴィオラの顔は心底楽しげに笑っていた。
「待たないから追ってこい」
「……うん!」
ひとしきり笑いあった後、暴風がふたりの髪を巻き上げた。
巨大な影が落ち、地響きとともに、ルヴィーダが墓地の外に着地する。
「お迎え?」
「うん、赤竜丘陵の北端まで送ってくれるって」
「……そっか」
アリウは胸の底に悲しみを押し隠して、口元に笑みを浮かべた。
「泣いてもいいぞ?」
「っ、泣かないよ」
見透かされ、耳まで真っ赤になる。
ヴィオラはころころと玉のような笑い声を上げると、右手を挙げ、さっさと歩いていってしまった。
赤いドラゴンと焦茶のワイバーンが青空に舞う。
別れは言わない。
必ず、再会するから。
今度は僕から会いにいくよ、と心の中で呟いて。
二頭の竜は、それぞれ別の空に駆け上がった。
〈完〉
アンスラクス・アトラクト 帆風 錨 @hokazeikari
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