軌跡を味わう

大隅 スミヲ

軌跡を味わう 《警察庁特別捜査官》

 被害者は、味噌ラーメンにされていた。

 それだけを聞くと訳がわからないかもしれないが、実際にその現場を見てみると、そうとしか言えないということがわかる。



 警視庁第一機動捜査隊に所属する三嶋巡査部長は、キッチンにあった寸胴鍋でコトコトと煮込まれていた味噌ラーメンの汁を見た時、もう二度と味噌ラーメンは食べることはできないと悟った。


 現場に踏み込んだのは、三嶋巡査部長以下3名の刑事だった。

 全員が1機捜イッキソウの刑事であり、この地域で発生していた連続誘拐事件の犯人の部屋ヤサを突き止め、踏み込んだというわけだ。

 1機捜には捜査する時間が限られていた。時間内に解決することができなければ、捜査に関する情報を所轄署もしくは捜査一課に引き継がなければならない。1機捜は初動捜査のエキスパート集団であり、じっくりと事件解決を目指すような刑事たちとは役割が違っている。



 それは地域住民同士のトラブルだった。

 地域課の警官が対応にあたり、毎日のように異臭を放っている部屋を訪れたことが始まりだった。

 部屋から、出てきたのは灰色のスウェット上下を着た無精ひげの若い男だった。髪の毛はぼさぼさであり、何事にも無頓着そうな風貌をしていた。

 地域課の警官は近所から臭いに対する苦情が出ているので、何をしているのか教えてほしいと訪ねた。


「ラーメンですよ。味噌ラーメン。ウマいですよ。おまわりさんも食べますか?」

 男は人懐っこい笑顔を浮かべて警官に告げた。


 ちょうど昼前だったということもあり、警官は空腹感を覚えていた。

 中を覗くチャンスでもある。そう考えた警官は男の誘いに乗ってみることにした。

 特に危険そうな雰囲気はない。それに体格だって自分の方が勝っている。だから、大丈夫だ。そんな甘い考えが警官にはあったのだろう。


 玄関から入るとすぐにキッチンがあった。

 そこにあるガスコンロには寸胴鍋が置かれており、コトコトと何かが弱火で煮こまれていた。


「味噌ラーメンっていうけれど、この臭いは豚骨スープとかじゃないのかい」

 警官は男にそう言った。出来るだけフレンドリーに話しかけ、なにか情報を聞き出そうと思ったのだ。


「さすがはおまわりさん。わかっていますね。近所の奴らとは違うな。あいつらは何もわかっちゃいないんだ。だから、おれの味噌ラーメンの良さがわからない。おまわりさんは頭がいいですね。どこの大学出身ですか?」

「おれは〇〇大学だけど」

「おお! すばらしい」

 警官が口にした私立大学の名前を聞いた男は、にっこりと笑っていった。

「〇〇大学だと△△キャンパスとかですか」

「いや、おれは地方出身だから、△△じゃなくて●●の方なんだよ」

「なるほどね」

 一瞬、男の顔が曇ったかのように見えたが、男がすぐに笑顔に戻ったため警官は気にしないことにした。


「では、ラーメンの麺を打ちますので少々お待ちください」

 男はそういって、警官をダイニングテーブルに座らせると何やら準備をはじめた。

 麺まで自分で作っているようで、製麺機がキッチンの端に置かれている。


「少し時間がかかるので水でも飲んでいて待っていてください」

 コップに注がれた水。水自体はペットボトルのミネラルウォーターをコップに注いだものだった。


 警官は完全に気を許していた。

 喉が渇いていたということもあり、そのコップの水をひと口飲んだ。



 コトコトという鍋が煮える音がキッチンを支配していた。

 男は製麺機から取り出した麺を茹でる準備に取り掛かっている。

 このアパートは立て付けが悪いのだろうか。どこか歪んでいるように見える。



「さあ、準備は出来ていますよ。あとはおまわりさんだけです」

 何を言っているのかわからなかった。

 世界がグネグネと歪み、警官はそこで意識を失った。



 1機捜の刑事たちが持ち帰ったのは、ラーメンどんぶりだった。

 有名店のものらしく、そこには「完食おめでとう」と書かれている。


 大食漢たいしょくかんと呼ばれたその男は、現在も指名手配中の犯人となっているが、逮捕されてはいない。


 現在わかっているだけで男女5名を殺害。殺害後に彼らを寸胴鍋で煮込んで食している。

 被害者3名については、ゴミ箱の中に捨てられていた運転免許証などの身分証によって身元が判明した。男が3人、女が2人だった。5人の共通点は特に見当たらなかった。

 職業はバラバラで、弁護士、医師、囲碁棋士、外資系企業のサラリーマン、そして警察官だった。


 どこで彼らが犯人に拉致されて、殺害されたのかについても、よく分かってはいない。

 ただ犯人は被害者たちを自宅の風呂場で解体したということだけはわかっていた。


 ひとりだけ犯人に拉致されたわけではない被害者がいた。

 それが犯人の自宅を訪ねた地域課の警察官だった。

 彼は犯人と接触している。

 ただ、接触後の行方はわかっていなかった。


 彼の制服や地域課警察官の装備も見つかってはいない。それは犯人が持ち去ったということだろう。すなわち、警察手帳と手錠、拳銃の行方がわからなくなっているということだった。



 事件を重く見た警察幹部は、警察庁特別捜査官の派遣を決定した。

 警察庁特別捜査官。それは、警察庁が警察に関係するすべての捜査に対する捜査権限を与えている捜査官だった。階級は無く、特別捜査官の肩書きのみであるが、久我は警察庁長官直属の捜査官という立場にあり、全国の警察官が彼の捜査権を認めなければならなかった。そして、その肩書きについては、警察官であれば知らない人間はいなかった。



 特別捜査官である久我くがそうは目の前にあるラーメンどんぶりを見つめながらため息をついていた。

 出来ることならやりたくはない仕事だった。

 いままで色々な事件を見てきたが、残虐性に富んだものや頭が狂っているとしか思えない犯人のものは見るだけで疲れるので、あまりやりたくはなかった。

 しかし、これも仕事だ。

 久我はもう一度だけため息をつくと、仕事に取り掛かることにした。



 すべてのものに記憶は宿る。たとえ、それが無機物であったとしても。

 ものの記憶。久我はそれを『残留ざんりゅう思念しねん』と呼んでいた。



 目の前に置かれているラーメンどんぶりを手に取ると、久我はゆっくりと目を閉じた。

 闇がやってくる。

 世界の音が消え、小さな明かりが遠くの方に見える。

 だんだんと音が甦ってくる。

 コトコトというその音は、鍋が煮える音だ。

 湯気が部屋に立ち込めていた。

 そこはキッチンだった。ひとりの男が寸胴鍋の前で鼻歌を歌いながら、鍋の様子を見ていた。

 鍋の中では、白濁した液体が沸騰しながら煮込まれている。

 時おり、骨のようなものや、ネットに入った野菜なども見える。


 ダイニングテーブルの方へ目を向けると、制服姿の警察官がいた。

 彼はテーブルの上に突っ伏すようにして倒れている。

 意識は無いようだ。


「さてさて、クッキングの時間ですよ」

 男が楽しそうにつぶやいた。


 なにがはじまるのかは、わかっていた。それは捜査報告書を読んだためだった。

 見たくは無かった。だが、見る以外の選択肢を持ち合わせてはいなかった。

 目をつぶりたいという欲求に駆られたが、この世界では目を閉じることは不可能だった。


 すべての処理が終わった。

 血まみれになった男はそのままシャワーを浴びると、元々警察官だったものを大きなビニール袋に詰めてキッチンへと戻ってきた。

 警察官が着ていた制服などは丁寧にたたまれて別の部屋に置かれている。

 男は元警察官だった物体を寸胴鍋の中に入れて煮込みはじめた。


「味噌もたまってきたことだし、今夜は味噌ラーメンかな」

 笑いながら男がいう。その顔には狂気が宿っていた。



 元の世界に戻ってきた久我は全身が汗まみれになっていた。

 心なしか、顔色も悪い。


「大丈夫か?」

 そんな久我の様子を心配した同僚が声を掛けてくる。


 久我は無言で首を縦に振り、いまは邪魔しないでくれといった目で同僚を見た。

 同僚もその辺は心得ているようで、すぐに久我のもとを離れていった。


 久我は机の上に置いてあったポラロイドカメラを手に取った。

 そのカメラを自分の額に当てて、写真を何枚か撮る。

 この様子を見た人がいれば、久我は頭がおかしくなってしまったのだと思うだろう。

 しかし、これも久我の能力のひとつなのだ。


 カメラから吐き出された写真用紙には、男の顔が写されていた。

 大食漢。そう呼ばれる犯人の姿だ。

 久我は地図を広げると、赤ペンで大きく丸をつけた。

 その場所が、いま現在男のいる場所だった。


「終わったよ」

 久我が同僚にそう告げると、同僚は久我の成果物である写真と地図を持って部屋を出て行った。成果物は刑事部に渡され、担当の捜査員たちが犯人を逮捕しに行くはずである。

 特別捜査官が直接犯人逮捕を行うということは、ほとんどない。

 犯人を逮捕するのは刑事の仕事であり、特別捜査官の仕事ではないと割り切っている。

 ただ、現場主義の刑事たちには嫌われていることは確かである。

 特に足を使った捜査を信条としているような刑事たちには。



 数日後、久我のもとに報告書のコピーが届いた。

 警察庁のデータベースのURLを教えてくれれば見れるものの、わざわざ紙の報告書のコピーを持ってくるという時点で、やはり刑事警察たちとは考え方が違うのだなと実感する。

 報告書には、大食漢と呼ばれた犯人が逮捕されたことが書かれていた。

 しかし、大食漢は逮捕時に拳銃で頭を撃ち抜かれて死亡したとも書かれている。

 大食漢は制服警官から奪った拳銃を使って抵抗をした。

 そのため犯人逮捕のために踏み込んだ刑事たちも拳銃を使わざる得なかったのだ。

 撃ったのは、殺された地域課の警察官の実兄だったそうだ。


 犯人が死亡したため、事件の真相を解き明かすことはできなくなってしまった。

 そう考えるのも一世代前の刑事たちの発想だ。

 いまは、 犯人が死んでしまったとしても、特別捜査官がいれば、事件の真相は解き明かすことができる。


 久我は捜査報告書の紙を裏にすると、ペンを持って何かを書きはじめた。


『犯人は軌跡を味わうことを目的としていた。脳を食すことによって、その軌跡がわかるのだと信じていたようだ』


 書き終えた久我はその捜査報告書をくしゃくしゃに丸めてゴミ箱へと放り込んだ。

 もうこの事件とは関わりたくはない。それが久我の本音だった。

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