雄三【終章】
雄三が外に出ると、車にもたれかかった本宮が、タバコを吸っていた。この男、タバコなど吸っただろうかと思いながら近づいていく。
「やあ、金井社長。すみません突然」
「本宮さん、いったい何のつもりだ」
雄三が低く言うと、本宮はニヤリと笑った。今まで見た事のない、嫌な笑い方だった。
「そうですね、お忙しいでしょうから、単刀直入に言いましょう。金井建設の新社長と、あらためて契約を結びたい」
本宮は言った。
「契約? 契約って、何の契約だ」
「嫌だな、とぼけないでくださいよ」
本宮は唇を歪め、唇の端から煙を吐き出した。暗い空に灰色の煙が登っていく。
「とぼけてなんかいない、あんたと俺が、何の契約を結ぶっていうんだ」
「雄三さん、あなた、我々の協力なしに事業を進めていけるとでも思っているんですか」
「協力?」
「そうです。私たち警察は、町で揉め事があれば出張っていくし、ヤクザも押さえてる」
「それが何だ。警察の、普通の仕事じゃないか」
本宮は鼻で笑う。
「普通? ふふ、いいですか社長、ここは普通の町じゃない。ここは五葉町なんですよ」
「おい、さっきから一体何を言っているんだ。俺にはさっぱり……」
「不公平でしょ」
本宮が言った。
「警察官の給料なんて、微々たるもんです。我々は安月給でこき使われて、あんた方はガッポガッポ儲ける。我々がいなければビジネスは成り立たないというのに。不公平じゃないですか」
「何が言いたい」
「だから、言ったでしょう、あらためて契約するんです。あなたのお父上と、明日葉がそうしてたみたいに」
「なんだと」
「取り分は経常利益の十パーセントにまけておきます。明日葉の頃はこんなもんじゃなかったんだ。私は優しいでしょう?」
経常利益の十パーセント? バカな。そもそもなぜ警察に金を渡さねばならない。
「そんな契約、飲めるわけがない」
「いやいや、あなたは飲みます。いや、飲まざるを得ないと言った方がいい。だけれど私は、あなたとの友情に免じて直接お伝えしにきたんです。これ以上頑なな態度をとれば、あなたの方が後悔する事になりますよ」
「おい、本宮さん、何であんたがそんな事を言うんだ。あんた……少し前までは全然違ったじゃないか」
本宮は雄三の言葉を無視してタバコを落とすと、胸ポケットから茶封筒を取り出した。
「実は、こんな写真が手に入りましてね」
封筒の中に入っていたのは、写真の束だった。本宮はそれを目を細めて眺めた後、くるりと反転させて雄三に見せた。
「……まさか」
雄三は目を見張った。
「すごいですね、こんな事してるんですか」
それは、変態的な性行為に及んでいる沙織と雄三の写真だった。沙織の首には紐が巻きつけられ、それに跨った雄三の性器は硬く大きく隆起している。下手なポルノよりも卑猥で生々しいものだった。
「なんでそんなものが……」
あれは沙織が自ら巻きつけてくれ、そして強く締めあげてくれと望んだものだった。だがそんな経緯は写真からは分からない。角度のせいか、雄三の顔には笑みが浮かんでいるように見える。サディスティックな、凶悪な表情。
「こんな写真を見たら、あなたを社長と認めた皆さんも、どんな顔をするか」
「ちょっと待て、どこでこれを……」
雄三の言葉に、本宮は呆れた顔をした。
「そんな事はどうでもいい。問題は、五葉町を背負っていく人間がこんな変態だって事を知った皆さんが、何を思うかって事だ。そうでしょう?」
本宮はそして再び写真に目を落とし、やれやれというように首を振った。
「知らないんですか、ここの住人はこの手の話には滅法厳しいんですよ。過去にも町の名士と呼ばれた方が、色ごとが原因で失脚したケースもあるみたいだし」
「……俺を脅すのか」
「脅すだなんて。ただ、こういうものが警察に届けられましたよ、とご報告しただけで」
「クソ……どうしてだ、本宮さん。あんた、そんな人じゃなかっただろう」
雄三の言葉に、本宮は笑った。
「私はこういう人間ですよ、最初から」
「明日葉と同じ道を行くつもりか、あんたがやっとの事で倒した明日葉と」
雄三は真剣に訴えたが、本宮は耐え切れないといった感じで笑い出した。
「ふふ、雄三さん、何度も言いますが、私は最初からこういう人間だ」
「違う、あんたは立派な警官だった。正義感の塊みたいな男だったじゃないか。だから明日葉を許せなかった。そうだろ?」
本宮はため息をつくと、笑みを浮かべたまま、首を傾げるようにして雄三を見つめた。
「あなたは一つ大きな勘違いをしている。私は明日葉の人格に敵対したんじゃない、立場に敵対しただけです」
「……立場?」
「ええ、私は明日葉さんのようになりたかった。あの場所に行くために、必死にやってきた。一つ間違えば潰される世界で、覚悟を決めて、必死にね」
「そんな……俺は認めないぞ、なんでそんな……これからじゃないか、互いに協力して、五葉をもっといい街に……」
本宮は目を細め、首を振った。
「なんともまあ、牙が抜けちまって」
「……なんだと?」
「あんたは何も分かってない」
そう言うと、突然写真の束を夜空に向かってばら撒いた。
一枚一枚が違った曲線を描きながら離散する。その軌道を目で追うと、空に浮かぶ満月が見えた。
月明かりで照らされた地面に、数十枚の写真が散らばった。
その全てが沙織との性行為を撮影したものだ。こんなものが世間に知られたら……思わず拾い集めようと手を伸ばしかけて、ふと違和感を覚えた。
撮影?
……こんな近距離から、いったい誰が撮影したんだ?
ゆっくりと視線を上げた。本宮の顎が見えた。何かを見ている。雄三ではない。
その視線の先を追って、振り返った。
「沙織……?」
窓の向こうに、沙織が立っていた。こちらを無表情に見つめている。
ハッとした。こんな写真を見られるわけにはいかない。雄三は今度こそ這いつくばって写真をかき集めた。一枚たりとも、見られてはいけない。自分と沙織はこれからだ。これから一緒になって、共に支えながら頑張っていく。
十枚、二十枚と集めた。そして、その中の一枚に目を留めた。
沙織の、アップの写真だった。顔を正面から捉えている。その顔には、どこか恍惚とした表情が浮かんでいる。
あなたと結婚なんてできない。できるはずがないわ。先ほどの言葉が浮かんだ。
背後で扉の開く音がした。ゆっくりと振り返った。目を細め、薄笑いを浮かべた沙織が出てくる。
「沙織……お前……」
ゆっくりと近づいてくる。どこか操られているような、不安定な足取り。雄三は立ち上がって、沙織を待った。だが沙織は、雄三の顔を一瞥もする事なく通り過ぎていった。
「沙織?」
その横顔を、後ろ姿を、呆然と追った。その先に本宮の顔があった。歪んだ笑み。沙織は本宮に向かってまっすぐに歩いていく。
「ちょっと待て……まさか……」
沙織は本宮の傍まで行くと、足を割り、本宮の体に絡みついた。唇の隙間から覗く舌先で、その首筋を舐め上げる。
絶句する雄三に、本宮は言った。
「こいつは本当に変態でね、真性のマゾなんです」
沙織が本宮の手を握り、自分の胸元に誘導した。ぴったりしたセーターを着ているせいで、その稜線がはっきり見える。本宮は沙織の胸を掴むと、力を入れて握った。その瞬間、沙織が高い、いやらしい喘ぎ声を上げた。
「こいつは虐められる事で興奮するんです。だけど今回の事はさすがに堪えたと見える」
息が苦しい。目の前で起こっている事が信じられない。これは、夢なのか。
「……今回の事って、何だ」
「だから」
本宮は乱暴に沙織を突き飛ばすとしゃがみこみ、残っていた写真の一枚を取り上げた。
「これですよ。好きでもない男に抱かれるってのは、なかなかの虐めだと思いませんか」
沙織は健気にも立ち上がり、本宮に覆いかぶさるように抱きつく。本宮はその頬を思い切り張った。
「このアバズレが」
そして頭を掴んで唇を奪った。沙織は発情した猿のように、本宮の舌を激しく吸った。
何かが崩れていく。膝の力が抜ける。両手で身体を抱く。記憶の中で、何かが激しく点滅している。
まさか――
ずっと持ったままだった疑問。解けなかった謎。
「嘘なのか? あの、沙織が襲われたって話」
本宮はキスを中断すると、顔をこわばらせ、「まさか、本当ですよ」と言う。
そして悪戯っぽく付け加える。
「もっとも、レイプしたのは、美作じゃなくて私ですけどね。私に本気で殴られてこいつはむしろ興奮した、もっと殴ってくれってせがまれてね。さすがに引きましたよ」
ははは、と笑い、本宮は立ち上がった。立っているのがやっとの雄三に向かって、同情的な笑みを漏らす。
「政治ってのは複雑なんです、雄三さん。だが、私はあなたに感謝しているんだ」
「……感謝、だと?」
「ええ、あなたはよく働いてくれました。あなたが私の思い通りに動いてくれたから、明日葉を倒せたんだ。本当に、感謝してますよ」
強烈な無力感が襲ってきて、雄三は膝から崩れ落ちた。
「そんな……そんな事が……」
本宮が近づいてきて、雄三の傍にしゃがみこんだ。
「ね、さっきの話ですが、飲んでくれますか。……まあ、飲むしかないんだが」
笑う本宮の顔を見上げた。
その向こう側、黒い空の真ん中で、月が輝いていた。
(了)
輪廻の月 @roukodama
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