雄三【終章】
事件後、沙織の状態は芳しくなかった。
心の傷が原因か、退院はしたものの以前にも増して無口になり、塞ぎこむようになった。社長就任後の忙しさの中で、あまり沙織との時間が取れなかった事も影響していたのかもしれない。
結局、沙織を襲ったのが美作なのか別の人間なのか、はっきりした事は分からなかった。明日葉は沙織を襲うような指示は出していないと供述したらしいが、美作は死亡しており、真偽の程は確かめようがない。
沙織の状態は日に日に悪化していった。突然叫んで喚き散らしたり、茶碗や皿を壁に投げつけたりと、攻撃的な行動が目立つようになった。
だが一方で、夜は執拗なほどに雄三を求めるのだ。
行為の内容はほとんど変態的と言ってもいいほどで、紐で首を絞めるよう求め、嘔吐するほど深くまで性器を咥え、血が出るまで皮膚を噛んでくれと懇願した。
沙織がこうなってしまったのは自分のせいだと雄三は思っていた。犯人が誰であろうが、自分の女を守れなかったのは確かだ。
沙織の奇行は、雄三に振るわれる鞭のようなものだった。心に振り下ろされる鞭。その痛みの分だけ、沙織の傷が癒えているのなら、と祈った。要求に応える事が沙織の回復につながると信じていた。
沙織の心の傷が癒えるまで、どれだけの時間がかかるのかはわからない。だが、どれだけかかるのだとしても、雄三は沙織を支えたいと思った。
社長就任パーティーから一ヶ月ほど経ったある夜。
雄三は運転手に言って
「今日はもう戻っていい」
運転手に告げると、父親から譲り受けた黒塗りのセンチュリーが、Uターンして坂を下っていった。
雄三はポケットの中に手を差し込み、そこに小さな箱がある事を確認した。微かな緊張を覚えながら玄関に近づき、チャイムを押す。
扉の外でぼんやりと待った。
二、三分してやっと鍵の外れる音がして、青白い顔をした沙織が顔を出した。以前に増して外出する機会が減り、その肌は病的なほどに白い。夜にはこれが反転するように頬を紅潮させて乱れるのだが、そうでない時間、沙織は見るからに問題を抱えた病人だった。
「結婚しよう」
部屋に入るなり、雄三は言った。
「俺がお前を支える。妻として、俺のそばにいてくれ」
そしてポケットから、柔らかく起毛した青い箱を取り出した。沙織の方を向けて、蓋を開ける。銀色の指輪。シンプルだが微かなカーブと装飾を備えた、美しい指輪だった。
「これ……私に?」
驚きなのか、あるいは喜びか、沙織は目を見開いて、指輪を見た。「そうだ。受け取ってくれ」雄三は頷いた。
「どうして……」
沙織は呟いて、それからふっと視線を逸らした。指輪には手を付けず、立ち上がる。
喜びではない。その顔には明らかな戸惑いが浮かんでいた。雄三を見ずに呆然とキッチンに向かう。
「おい……沙織……」
まだ早かったのだろうか。喜んでくれると思っていた。好意を明確に示す事で、結婚してくれと言葉にする事で、沙織は安心し、精神状態も少しは落ち着くはずだと。
それに、雄三自身も沙織を強く求めていた。金井建設の社長として、これから訪れるだろう様々な困難に立ち向かうため、そばにいてくれる存在が必要だった。
「何とか言ってくれ、沙織」
雄三も立ち上がり、沙織を追った。その細い背中に手を回し、抱き締める。
「いまは不安かもしれない。でも、きっとうまくいく。俺と一緒になってくれ」
だが、沙織は、拒絶するように身体を捻らせると、「できないわ」と低く答えた。
「え?」
「あなたと結婚なんてできない。できるはずがないわ」
その言葉に、雄三は微かな卑屈を感じ取ってハッとした。もしかしたら、金井建設の社長になった雄三に対し、必要のない気後れを感じているのか。
「俺の立場の事を気にしているのか? つまらない事を考えてるんじゃないだろうな」
「つまらない事?」
沙織は振り返った。その表情が思いの外冷静だった事に雄三は驚いた。
「どんな立場になろうが、お前との関係は変わらない。なあ、わかるだろ」
雄三の、いささか荒い口調に、沙織はなぜか微笑んだ。だが、その笑みはどこか歪んだ、雄三を軽蔑するような笑みだった。
「何を笑ってる」
「私はむしろ、あなたが金井建設の社長になる事を、望んでいたわ」
「え?」
「会った時からずっと、この時を待っていたの」
「会った時からずっと?」
訳が分からず聞き返したが、沙織は何も答えなかった。その代わりとでも言うように、ポケットの中の携帯電話が震え始めた。
「おい、何とか言えよ、沙織。待っていたんなら、なんで断るんだ」
無視して言ったが、「電話、鳴ってるわよ」と雄三の下腹部を指さした沙織は、一人キッチンを出て、リビングに戻っていった。
「クソ、なんなんだ」
苛立ちながらも、自分の立場を思い出して心を鎮めた。
俺はもう、あの頃のチンピラじゃない。金井建設の社長なのだ。これからたくさんの人間と関わる事になる。そして、五葉町を背負っていく。
深呼吸をして、ポケットから電話を取り出した。画面には知らない番号が表示されている。
「はい、金井です」
平静を装って言った。すると、「やあ、これはこれは、金井社長」と、どこかで聞いた声が言った。
「パーティー以来ですね。お変わりないですか」
肩の緊張がふっと緩んだ。
「ああ、本宮さんか。どうしたんだ」
「いやだな、約束の事ですよ。じっくり話そうっていう」
「ああ、もちろんだ。近々予定を組んで、飲みに行こう」
雄三はそう答えながら、スケジュール帳をどこにやったかと部屋の中に視線を移動させた。沙織は既にコタツにあたり、ぼんやりとテレビを見ている。その時、カーテンの向こう側で、何かが発光するのが見えた。それから、乱暴なエンジン音。タイヤが落ち葉を踏みしめている。
窓際まで近づいてカーテンを開けた。そこに、見覚えある白いSUVが停車していた。
「おい……どういう事なんだ、本宮さん」
雄三は口調を変えた。嫌な予感がした。
「話はこちらでしましょう。なに、ほんの五分で済みますから」
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