乱軍の中に気を失ったりようじゆうともじゆうふんいたぜんちようぼうの中で目を覚ましたとき、とつに彼は心を決めた。みずから首ねてはずかしめを免れるか、それとも今一応は敵に従っておいてそのうちに機を見て脱走する──敗軍の責をつぐなうに足る手柄を土産みやげとして──か、この二つのほかにみちはないのだが、李陵は、後者を選ぶことに心を決めたのである。

 ぜんは手ずから李陵のなわを解いた。その後の待遇もていちようを極めた。ていこう単于とて先代の単于の弟だが、こつかくたくましいきよがんしやぜんの中年のじようである。数代の単于に従ってかんと戦ってはきたが、まだ李陵ほどのごわい敵にったことはないと正直に語り、陵の祖父こうの名を引合いに出して陵の善戦をめた。とらかくさつしたり岩に矢を立てたりしたしようぐん李広のぎようめいは今もなおにまで語り伝えられている。陵が厚遇を受けるのは、彼が強き者の子孫でありまた彼自身も強かったからである。食をけるときも強壮者が美味をとり老弱者に余り物を与えるのがきようのふうであった。ここでは、強き者がはずかしめられることはけっしてない。降将李陵は一つのきゆうと数十人のしやとを与えられひんきやくの礼をもってぐうせられた。

 李陵にとって奇異な生活が始まった。家はじゆうちようきゆう、食物はせんにく、飲物はらく漿しようと獣乳とにゆうさくしゆ。着物はおおかみや羊やくまの皮をつづり合わせたせんきゅう。牧畜と狩猟とこうりゃくと、このほかに彼らの生活はない。いちぼうさいがいのない高原にも、しかし、河や湖や山々による境界があって、ぜんちよつかつのほかはけんおう右賢王ろくおう右谷蠡王以下の諸王侯の領地に分けられており、牧民の移住はおのおのその境界の中に限られているのである。城郭もなければ田畑もない国。村落はあっても、それが季節に従い水草をって土地を変える。

 李陵には土地は与えられない。単于の諸将とともにいつも単于に従っていた。すきがあったら単于の首でも、と李陵はねらっていたが、容易に機会が来ない。たとえ、単于を討果たしたとしても、その首を持って脱出することは、非常な機会に恵まれないかぎり、まず不可能であった。にあって単于と刺違えたのでは、きようおのれの不名誉をのうちに葬ってしまうことひつじようゆえ、おそらく漢に聞こえることはあるまい。李陵はしんぼうづよく、その不可能とも思われる機会の到来を待った。

 ぜんばつには、りようのほかにも漢のこうじんが幾人かいた。その中の一人、えいりつという男は軍人ではなかったが、ていれいおうの位をもらって最も重く単于に用いられている。その父はじんだが、ゆえあって衛律は漢の都で生まれ生長した。武帝に仕えていたのだが、先年きようりつえんねんの事にするのをおそれて、げてきようしたのである。血が血だけにふうになじむことも速く、相当の才物でもあり、常にていこうぜんあくに参じてすべての画策にあずかっていた。李陵はこの衛律を始め、かんじんくだって匈奴の中にあるものと、ほとんど口をきかなかった。彼の頭の中にある計画について事をともにすべき人物がいないと思われたのである。そういえば、他の漢人同士の間でもまた、互いに妙に気まずいものを感じるらしく、相互に親しく交わることがないようであった。

 一度単于は李陵を呼んで軍略上の示教をうたことがある。それはとうに対しての戦いだったので、陵は快くおのが意見を述べた。次に単于が同じような相談を持ちかけたとき、それは漢軍に対する策戦についてであった。李陵はハッキリといやな表情をしたまま口を開こうとしなかった。単于もいて返答を求めようとしなかった。それからだいぶ久しくたったころ、代・上郡をこうりやくする軍隊の一将として南行することを求められた。このときは、漢に対する戦いには出られない旨を言ってキッパリ断わった。、単于は陵にふたたびこうした要求をしなくなった。待遇は依然として変わらない。他に利用する目的はなく、ただ士を遇するために士を遇しているのだとしか思われない。とにかくこの単于はだと李陵は感じた。

 単于の長子・けんおうが妙に李陵に好意を示しはじめた。好意というより尊敬といったほうが近い。二十歳を越したばかりの・ではあるが勇気のあるな青年である。強き者へのさんが、実に純粋で強烈なのだ。初め李陵のところへ来てしやを教えてくれという。騎射といっても騎のほうは陵に劣らぬほどうまい。ことに、を駆る技術に至ってははるかに陵をしのいでいるので、李陵はただしやだけを教えることにした。けんおうは、熱心な弟子となった。陵の祖父こうの射におけるにゆうしんの技などを語るとき、ばんぞくの青年はひとみをかがやかせて熱心に聞入るのである。よく二人して狩猟に出かけた。ほんのわずかのともまわりを連れただけで二人は縦横にこうしつしてはきつねおおかみ羚羊かもしかおおとりなどを射た。あるときなど夕暮れ近くなって矢も尽きかけた二人が──二人の馬は供の者をはるかにかけいていたので──一群の狼に囲まれたことがある。馬にむちうち全速力で狼群の中を駈け抜けて逃れたが、そのとき、李陵の馬のしりに飛びかかった一匹を、後ろに駈けていた青年左賢王がわんとうをもってごとどうりにした。あとで調べると二人の馬は狼どもにみ裂かれて血だらけになっていた。そういう一日ののち、夜、てんまくの中で今日の獲物をあつものの中にぶちこんでフウフウ吹きながらすするとき、李陵はかげに顔をらせた若いばんおうの息子に、ふと友情のようなものをさえ感じることがあった。


 天漢三年の秋にきようがまたもやがんもんを犯した。これにむくいるとて、翌四年、漢は将軍こうに騎六万歩七万の大軍をさずけてさくほうを出でしめ、歩卒一万を率いたきようはくとくにこれをたすけしめた。ひいていん将軍こうそんごうは騎一万歩三万をもって雁門を、ゆうげき将軍かんせつは歩三万をもってげんを、それぞれ進発する。近来にない大ほくばつである。ぜんはこの報に接するや、ただちに婦女、老幼、畜群、資財の類をことごとくしよすい(ケルレン河)北方の地に移し、みずから十万の精騎を率いてこうはくとくの軍をすいなんの大草原にむかえ撃った。連戦十余日。漢軍はついに退くのやむなきに至った。りように師事する若きけんおうは、別に一隊を率いて東方に向かいいん将軍を迎えてさんざんにこれを破った。漢軍の左翼たるかんせつの軍もまた得るところなくして兵を引いた。北征は完全な失敗である。李陵は例によって漢との戦いには陣頭に現われず、水北に退いていたが、左賢王の戦績をひそかにづかっているおのれを発見してがくぜんとした。もちろん、全体としては漢軍の成功ときようの敗戦とを望んでいたには違いないが、どうやら左賢王だけは何か負けさせたくないと感じていたらしい。李陵はこれに気がついて激しく己を責めた。

 その左賢王に打破られたこうそんごうが都に帰り、士卒を多く失って功がなかったとのかどろうつながれたとき、妙な弁解をした。敵のりよが、匈奴軍の強いのは、漢からくだった将軍が常々兵を練り軍略を授けてもって漢軍に備えさせているからだと言ったというのである。だからといって自軍がけたことの弁解にはならないから、もちろん、いん将軍の罪は許されなかったが、これを聞いた武帝が、李陵に対し激怒したことは言うまでもない。一度許されて家に戻っていた陵の一族はふたたびごくに収められ、今度は、陵の老母から妻、子、弟に至るまでことごとく殺された。軽薄なる世人の常とて、当時ろう西せい(李陵の家は隴西の出である)のたいら皆李家を出したことを恥としたと記されている。

 この知らせが李陵の耳に入ったのは半年ほど後のこと、辺境からされた一かんそつの口からである。それを聞いたとき、李陵は立上がってその男のむなぐらをつかみ、荒々しくゆすぶりながら、事の真偽を今一度たしかめた。たしかにまちがいのないことを知ると、彼は歯をくいしばり、思わず力を両手にこめた。男は身をもがいて、もんうめきをらした。りようの手が無意識のうちにその男のいんこうやくしていたのである。陵が手を離すと、男はバッタリ地に倒れた。その姿に目もやらず、陵はちようぼうの外へ飛出した。

 めちゃくちゃに彼は野を歩いた。激しい憤りが頭の中でうずを巻いた。老母や幼児のことを考えると心はけるようであったが、涙は一滴も出ない。あまりに強い怒りは涙をかつさせてしまうのであろう。

 今度の場合には限らぬ。今まで我が一家はそもそも漢から、どのような扱いを受けてきたか? 彼は祖父のこうさいを思った。(陵の父、とうは、彼が生まれる数か月前に死んだ。陵はいわゆる、遺腹の児である。だから、少年時代までの彼を教育し鍛えあげたのは、有名なこの祖父であった。)名将李広は数次の北征に大功をてながら、君側のかんねいに妨げられて何一つ恩賞にあずからなかった。部下の諸将がつぎつぎにしやくほうこうを得て行くのに、れんけつな将軍だけは封侯はおろか、終始変わらぬせいひんに甘んじなければならなかった。最後に彼は大将軍えいせいと衝突した。さすがに衛青にはこの老将をいたわる気持はあったのだが、そのばつの一ぐんとらを借りて李広をはずかしめた。憤激した老名将はすぐその場で──陣営の中でみずから首ねたのである。祖父の死を聞いて声をあげてないた少年の日の自分を、陵はいまだにハッキリとおぼえている。……

 陵の叔父(李広の次男)かんの最後はどうか。彼は父将軍のみじめな死について衛青をうらみ、自ら大将軍の邸におもむいてこれをはずかしめた。大将軍のおいにあたるひよう将軍かくきよへいがそれを憤って、かんせんきゆうの猟のときに李敢を射殺した。武帝はそれを知りながら、嫖騎将軍をかばわんがために、李敢は鹿しかの角に触れて死んだと発表させたのだ。……

 せんの場合と違って、李陵のほうは簡単であった。ふんがすべてであった。(無理でも、もう少し早くかねての計画──ぜんの首でも持ってを脱するという──を実行すればよかったという悔いを除いては、)ただそれをいかにして現わすかが問題であるにすぎない。彼は先刻の男の言葉「にあって李将軍が兵を教え漢に備えていると聞いて陛下が激怒されうんぬん」を思出した。ようやく思い当たったのである。もちろん彼自身にはそんな覚えはないが、同じ漢の降将にしよという者がある。元、さいがいとしてけいこうじようを守っていた男だが、これがきようくだってから常にぐんに軍略を授け兵を練っている。現に半年前の軍にも、単于に従って、(問題のこうそんごうの軍とではないが)漢軍と戦っている。これだとりようは思った。同じ将軍で、しよとまちがえられたに違いないのである。

 その晩、彼は単身、李緒のちようばくへとおもむいた。一言も言わぬ、一言も言わせぬ。ただの一刺しで李緒はたおれた。

 翌朝李陵は単于の前に出て事情を打明けた。心配はらぬと単于は言う。だが母のたいえん氏が少々うるさいから──というのは、相当の老齢でありながら、単于の母は李緒と醜関係があったらしい。単于はそれを承知していたのである。きようの風習によれば、父が死ぬと、長子たる者が、亡父のさいしようのすべてをそのまま引きついでおのが妻妾とするのだが、さすがに生母だけはこの中にはいらない。生みの母に対する尊敬だけは極端に男尊女卑の彼らでもっているのである──今しばらく北方へ隠れていてもらいたい、がさめたころに迎えをるから、とつけ加えた。その言葉に従って、李陵は一時従者どもをつれ、西北のとうかんざんがくりんたつぱんれい)のふもとに身を避けた。

 まもなく問題のたいえん氏が病死し、ぜんていに呼戻されたとき、りようは人間が変わったように見えた。というのは、今まで漢に対する軍略にだけは絶対にあずからなかった彼が、みずから進んでその相談に乗ろうと言出したからである。単于はこの変化を見て大いに喜んだ。彼は陵をこうおうに任じ、おのが娘の一人をめあわせた。娘を妻にという話は以前にもあったのだが、今まで断わりつづけてきた。それを今度はちゆうちよなく妻としたのである。ちょうどしゆせんちようえきの辺をこうりやくすべく南に出て行く一軍があり、陵は自ら請うてその軍に従った。しかし、西南へと取った進路がたまたましゆんけいざんふもとよぎったとき、さすがに陵の心は曇った。かつてこの地でおのれに従って死戦した部下どものことを考え、彼らの骨が埋められ彼らの血のみ込んだその砂の上を歩きながら、今の己が身の上を思うと、彼はもはや南行して漢兵と闘う勇気を失った。病と称して彼は独り北方へ馬を返した。


 翌、たい元年、ていこうぜんが死んで、陵と親しかったけんおうが後をいだ。鹿ろく単于というのがこれである。

 きようこうおうたるりようの心はいまだにハッキリしない。母妻子をぞくめつされたうらみはこつずいに徹しているものの、みずから兵を率いて漢と戦うことができないのは、先ごろの経験で明らかである。ふたたび漢の地を踏むまいとは誓ったが、この匈奴の俗に化して終生安んじていられるかどうかは、新単于への友情をもってしても、まださすがに自信がない。考えることのきらいな彼は、イライラしてくると、いつも独り駿しゆんを駆ってこうに飛び出す。しゆうてんいつぺきの下、かつかつひづめの音を響かせて草原となく丘陵となく狂気のように馬を駈けさせる。何十里かぶっとばした後、馬も人もようやく疲れてくると、高原の中の小川を求めてそのほとりに下り、馬にみずかう。それからおのれは草の上にあおけにねころんで快い疲労感にウットリと見上げるへきらくきよさ、高さ、広さ。ああ我もと天地間のいちりゆうのみ、なんぞまた漢ととあらんやとふとそんな気のすることもある。一しきり休むとまた馬にまたがり、がむしゃらにけ出す。終日乗り疲れこううんらつくんずるころになってようやく彼はばくえいに戻る。疲労だけが彼のただ一つの救いなのである。

 せんりようのために弁じて罪をえたことを伝える者があった。李陵は別にありがたいとも気の毒だとも思わなかった。司馬遷とは互いに顔は知っているしあいさつをしたことはあっても、特に交を結んだというほどの間柄ではなかった。むしろ、いやに議論ばかりしてうるさいやつだくらいにしか感じていなかったのである。それに現在の李陵は、他人の不幸を実感するには、あまりに自分一個の苦しみとたたかうのに懸命であった。よけいな世話とまでは感じなかったにしても、特に済まないと感じることがなかったのは事実である。


 初め一概にこつけいとしかうつらなかったの風俗が、しかし、その地の実際の風土・気候等を背景として考えてみるとけっして野卑でも不合理でもないことが、しだいに李陵にのみこめてきた。厚い皮革製のふくでなければさくほくの冬はしのげないし、肉食でなければ胡地の寒冷にえるだけの精力をたくわえることができない。固定した家屋を築かないのも彼らの生活形態から来た必然で、頭から低級とけなし去るのは当たらない。漢人のふうをあくまでたもとうとするなら、胡地の自然の中での生活は一日といえども続けられないのである。

 かつて先代のていこうぜんの言った言葉をりようおぼえている。漢の人間が二言めには、おのが国を礼儀の国といい、きようの行ないをもってきんじゆうに近いとすことを難じて、単于は言った。漢人のいう礼儀とは何ぞ? 醜いことを表面だけ美しく飾り立てる虚飾のいいではないか。利を好み人をねたむこと、漢人とじんといずれかはなはだしき? 色にふけり財をむさぼること、またいずれかはなはだしき? うわべをぎ去ればひつきようなんらの違いはないはず。ただ漢人はこれをごまかし飾ることを知り、我々はそれを知らぬだけだ、と。漢初以来のこつにくあいむ内乱や功臣連のはいせきせいかんの跡を例に引いてこう言われたとき、李陵はほとんど返す言葉に窮した。実際、じんたる彼は今までにも、はんな礼のための礼に対して疑問を感じたことが一再ならずあったからである。たしかに、ぞくな正直さのほうが、美名の影に隠れた漢人の陰険さよりはるかに好ましい場合がしばしばあると思った。しよの俗を正しきもの、ぞくを卑しきものと頭から決めてかかるのは、あまりにも漢人的な偏見ではないかと、しだいに李陵にはそんな気がしてくる。たとえば今まで人間には名のほかにあざながなければならぬものと、ゆえもなく信じ切っていたが、考えてみれば字が絶対に必要だという理由はどこにもないのであった。

 彼の妻はすこぶる大人おとなしい女だった。いまだに主人の前に出るとおずおずしてに口もけない。しかし、彼らの間にできた男の児は、少しも父親を恐れないで、ヨチヨチと李陵のひざはいがって来る。その児の顔に見入りながら、数年前ちようあんに残してきた──そして結局母や祖母とともに殺されてしまった──子供のおもかげをふと思いうかべて李陵は我しらずぜんとするのであった。


 陵がきようくだるよりも早く、ちょうどその一年前から、漢のちゆうろうしように引留められていた。

 元来蘇武は平和の使節としてりよ交換のためにつかわされたのである。ところが、その副使某がたまたま匈奴のないふんに関係したために、使節団全員がとらえられることになってしまった。ぜんは彼らを殺そうとはしないで、死をもっておびやかしてこれをくだらしめた。ただ蘇武一人は降服をがえんじないばかりか、はずかしめを避けようとみずから剣を取っておのが胸を貫いた。こんとうした蘇武に対するの手当てというのがすこぶる変わっていた。地を掘ってあなをつくりうんを入れて、その上に傷者を寝かせその背中をんで血を出させたとかんじよにはしるされている。この荒療治のおかげで、不幸にも蘇武は半日こんぜつしたのちにまた息を吹返した。ていこう単于はすっかり彼にれ込んだ。数旬ののちようやく蘇武の身体がかいふくすると、例の近臣えいりつをやってまた熱心に降をすすめさせた。衛律は蘇武が鉄火のい、すっかり恥をかいて手を引いた。その後蘇武があなぐらの中にゆうへいされたときせんもうを雪に和してくらいもって飢えをしのいだ話や、ついにほつかい(バイカル湖)のほとり人なき所にうつされてひつじが乳を出さば帰るを許さんと言われた話は、せつ十九年の彼の名とともに、あまりにも有名だから、ここには述べない。とにかく、りようもんもんの余生をに埋めようとようやく決心せざるを得なくなったころ、蘇武は、すでに久しく北海のほとりで独り羊を牧していたのである。

 りようにとっては二十年来の友であった。かつて時を同じゅうしてちゆうを勤めていたこともある。片意地でさばけないところはあるにせよ、確かにまれに見る硬骨の士であることは疑いないと陵は思っていた。天漢元年に蘇武が北へ立ってからまもなく、武の老母が病死したときも、陵はようりようまでその葬を送った。蘇武の妻が良人おつとのふたたび帰る見込みなしと知って、去って他家にしたうわさを聞いたのは、陵の北征出発直前のことであった。そのとき、陵は友のためにその妻の浮薄をいたく憤った。

 しかし、はからずも自分がきようくだるようになってからのちは、もはや蘇武に会いたいとは思わなかった。武がはるか北方にうつされていて顔を合わせずに済むことをむしろ助かったと感じていた。ことに、おのれの家族がりくせられてふたたび漢に戻る気持を失ってからは、いっそうこの「漢節を持した牧羊者」との面接を避けたかった。

 鹿ろくぜんが父のあといでから数年後、一時蘇武が生死不明とのうわさが伝わった。父単于がついに降服させることのできなかったこの不屈の漢使の存在を思出した狐鹿姑単于は、蘇武の安否を確かめるとともに、もし健在ならば今一度降服を勧告するよう、李陵に頼んだ。陵が武の友人であることを聞いていたのである。やむを得ず陵は北へ向かった。

 じよすいを北にさかのぼしつきよすいとの合流点からさらに西北に森林地帯を突切る。また所々に雪の残っている川岸を進むこと数日、ようやくほつかいあおい水が森と野との向こうに見え出したころ、この地方の住民なるていれいぞくの案内人は李陵の一行を一軒の哀れな丸太へと導いた。小舎の住人が珍しい人声に驚かされて、弓矢を手に表へ出て来た。頭から毛皮をかぶったひげぼうぼうのくまのような山男の顔の中に、李陵がかつてのちゆうきゆうかんけいおもかげを見出してからも、先方がこのふくの大官をさきしようけいと認めるまでにはなおしばらくの時間が必要であった。のほうでは陵がきようつかえていることも全然聞いていなかったのである。

 感動が、陵の内にって今まで武との会見を避けさせていたを一瞬圧倒し去った。二人とも初めほとんどものが言えなかった。

 陵のともまわりどものきゆうがいくつか、あたりに組立てられ、無人の境が急ににぎやかになった。用意してきた酒食がさっそくに運び入れられ、夜は珍しい歓笑の声が森の鳥獣を驚かせた。滞在は数日にわたった。

 おのが胡服をまとうに至った事情を話すことは、さすがにつらかった。しかし、李陵は少しも弁解の調子を交えずに事実だけを語った。蘇武がさりげなく語るその数年間の生活はまったくさんたんたるものであったらしい。何年か以前に匈奴のけんおうが猟をするとてたまたまここを過ぎ蘇武に同情して、三年間つづけて衣服食料等を給してくれたが、その於けん王の死後は、てついた大地からねずみを掘出して、飢えをしのがなければならない始末だと言う。彼の生死不明のうわさは彼の養っていた畜群がひようとうどものために一匹残らずさらわれてしまったことのでんらしい。陵は蘇武の母の死んだことだけは告げたが、妻が子をてて他家へ行ったことはさすがに言えなかった。

 この男は何を目あてに生きているのかと李陵は怪しんだ。いまだに漢に帰れる日を待ち望んでいるのだろうか。蘇武の口うらから察すれば、いまさらそんな期待は少しももっていないようである。それではなんのためにこうしたさんたんたる日々をたえ忍んでいるのか? ぜんに降服を申出れば重く用いられることはうけいだが、それをするでないことは初めから分り切っている。陵の怪しむのは、なぜ早くみずから生命を絶たないのかという意味であった。りよう自身が希望のない生活を自らの手で断ち切りえないのは、いつのまにかこの地に根をおろしてしまった数々の恩愛や義理のためであり、またいまさら死んでも格別漢のために義を立てることにもならないからである。蘇武の場合は違う。彼にはこの地でのけいるいもない。漢朝に対する忠信という点から考えるなら、いつまでもせつぼうを持してこうに飢えるのと、ただちに節旄を焼いてのち自ら首ねるのとの間に、別に差異はなさそうに思われる。はじめ捕えられたとき、いきなり自分の胸を刺した蘇武に、今となって急に死を恐れる心がきざしたとは考えられない。李陵は、若いころの蘇武の片意地を──こつけいなくらい強情なやせまんを思出した。ぜんは栄華をに極度のこんきゆうの中から蘇武をろうと試みる。餌につられるのはもとより、苦難にええずして自ら殺すこともまた、単于に(あるいはそれによって象徴される運命に)負けることになる。蘇武はそう考えているのではなかろうか。運命と意地の張合いをしているような蘇武の姿が、しかし、李陵には滑稽やしようには見えなかった。想像を絶した困苦・欠乏・酷寒・孤独を、(しかもこれから死に至るまでの長い間を)平然と笑殺していかせるものが、意地だとすれば、この意地こそはまことすさまじくも壮大なものと言わねばならぬ。昔の多少は大人おとなげなく見えた蘇武のやせまんが、かかる大我慢にまで成長しているのを見て李陵は驚嘆した。しかもこの男は自分の行ないが漢にまで知られることを予期していない。自分がふたたび漢に迎えられることはもとより、自分がかかる無人の地で困苦と戦いつつあることを漢はおろかきようの単于にさえ伝えてくれる人間の出て来ることをも期待していなかった。誰にもみとられずに独り死んでいくに違いないその最後の日に、みずから顧みて最後まで運命を笑殺しえたことに満足して死んでいこうというのだ。誰一人おのせきを知ってくれなくともさしつかえないというのである。りようは、かつて先代ぜんの首をねらいながら、その目的を果たすとも、自分がそれをもってきようの地を脱走しえなければ、せっかくの行為がむなしく、漢にまで聞こえないであろうことを恐れて、ついに決行の機を見出しえなかった。人に知られざることを憂えぬを前にして、彼はひそかに冷汗の出る思いであった。


 最初の感動が過ぎ、二日三日とたつうちに、李陵の中にやはり一種のこだわりができてくるのをどうすることもできなかった。何を語るにつけても、おのれの過去と蘇武のそれとの対比がいちいちひっかかってくる。蘇武はじん、自分はばいこくと、それほどハッキリ考えはしないけれども、森と野と水との沈黙によって多年の間鍛え上げられた蘇武のきびしさの前には己の行為に対する唯一の弁明であった今までのわが苦悩のごときはひとたまりもなく圧倒されるのを感じないわけにいかない。それに、気のせいか、にちが立つにつれ、蘇武の己に対する態度の中に、何か富者が貧者に対するときのような──己の優越を知ったうえで相手に寛大であろうとする者の態度を感じはじめた。どことハッキリはいえないが、どうかしたひようにひょいとそういうものの感じられることがある。繿をまとうた蘇武の目の中に、ときとして浮かぶかすかなれんびんの色を、ごうしやちようきゆうをまとうたこうおうりようはなによりも恐れた。

 十日ばかり滞在したのち、李陵は旧友に別れて、しようぜんと南へ去った。食糧衣服の類は充分に森の丸木に残してきた。

 李陵はぜんからのしよくたる降服勧告についてはとうとう口を切らなかった、の答えは問うまでもなく明らかであるものを、何もいまさらそんな勧告によって蘇武をも自分をもはずかしめるには当たらないと思ったからである。

 南に帰ってからも、蘇武の存在は一日も彼の頭から去らなかった。離れて考えるとき、蘇武の姿はかえっていっそうきびしく彼の前にそびえているように思われる。

 李陵自身、きようへの降服というおのれの行為をよしとしているわけではないが、自分の故国につくした跡と、それに対して故国の己にむくいたところとを考えるなら、いかに無情な批判者といえども、なお、その「やむを得なかった」ことを認めるだろうとは信じていた。ところが、ここに一人の男があって、いかに「やむを得ない」と思われる事情を前にしても、断じて、自らにそれは「やむを得ぬのだ」という考えかたを許そうとしないのである。

 飢餓も寒苦も孤独の苦しみも、祖国の冷淡も、己の苦節がついになんぴとにも知られないだろうというほとんど確定的な事実も、この男にとって、平生の節義を改めなければならぬほどのやむを得ぬ事情ではないのだ。

 蘇武の存在は彼にとって、崇高なくんかいでもあり、いらだたしい悪夢でもあった。ときどき彼は人をつかわして蘇武の安否を問わせ、食品、牛羊、じゆうせんを贈った。蘇武をみたい気持と避けたい気持とが彼の中で常に闘っていた。


 数年後、今一度李陵はほつかいのほとりの丸木たずねた。そのとき途中でうんちゆうの北方をまもえいへいらに会い、彼らの口から、近ごろ漢の辺境ではたいしゆ以下みんが皆白服をつけていることを聞いた。人民がことごとく服を白くしているとあれば天子のに相違ない。李陵はていほうじたのを知った。北海のほとりいたってこのことを告げたとき、は南に向かってごうこくした。どうこく数日、ついに血をくに至った。その有様を見ながら、李陵はしだいに暗く沈んだ気持になっていった。彼はもちろん蘇武の慟哭のしんさを疑うものではない。その純粋なはげしい悲嘆には心を動かされずにはいられない。だが、自分には今一滴の涙もうかんでこないのである。蘇武は、李陵のように一族をりくせられることこそなかったが、それでも彼の兄は天子の行列にさいしてちょっとした交通事故を起こしたために、また、彼の弟はある犯罪者を捕ええなかったことのために、ともに責を負うて自殺させられている。どう考えても漢のちようから厚遇されていたとは称しがたいのである。それを知ってのうえで、今目の前に蘇武の純粋なつうこくを見ているうちに、以前にはただ蘇武の強烈な意地とのみ見えたものの底に、実は、たとえようもなくせいれつな純粋な漢の国土への愛情(それは義とか節とかいう外から押しつけられたものではなく、おさえようとして抑えられぬ、こんこんと常にわきる最も親身な自然な愛情)がたたえられていることを、李陵ははじめて発見した。

 李陵はおのれと友とを隔てる根本的なものにぶつかっていやでもおのれ自身に対する暗い懐疑に追いやられざるをえないのである。


 の所から南へ帰って来ると、ちょうど、漢からの使者が到着したところであった。ていの死としようていの即位とを報じてかたがた当分の友好関係を──常に一年とは続いたことのない友好関係だったが──結ぶための平和の使節である。その使いとしてやって来たのが、はからずもりようろう西せいじんりつせいら三人であった。

 その年の二月武帝が崩じて、わずか八歳の太子ふつりようが位をぐや、じようによってちゆうほうしやかくこうだい大将軍としてまつりごとたすけることになった。霍光はもと、李陵と親しかったし、左将軍となったじようかんけつもまた陵の故人であった。この二人の間に陵を呼返そうとの相談ができ上がったのである。今度の使いにわざわざ陵の昔の友人が選ばれたのはそのためであった。

 ぜんの前で使者の表向きの用が済むと、盛んな酒宴が張られる。いつもはえいりつがそうした場合の接待役を引受けるのだが、今度は李陵の友人が来た場合とて彼も引張り出されて宴につらなった。任立政は陵を見たが、きようの大官連の並んでいる前で、漢に帰れとは言えない。席を隔てて李陵を見ては目配せをし、しばしばおのれとうかんでて暗にその意を伝えようとした。陵はそれを見た。先方の伝えんとするところもほぼ察した。しかし、いかなるしぐさをもってこたえるべきかを知らない。

 公式の宴が終わった後で、李陵・衛律らばかりが残って牛酒とばくとをもって漢使をもてなした。そのとき任立政が陵に向かって言う。漢ではいまやたいしやれいが降り万民は太平のじんせいを楽しんでいる。新帝はいまだ幼少のこととて君が故旧たるかくもうじようかんしようしゆくが主上をたすけて天下の事を用いることとなったと。立政は、えいりつをもって完全にじんになり切ったものと見做みなして──事実それに違いなかったが──その前では明らさまに陵に説くのをはばかった。ただかくこうじようかんけつとの名をげて陵の心をこうとしたのである。陵はもくして答えない。しばらくりつせいを熟視してから、おのが髪をでた。その髪もついけいとてすでに中国のふうではない。ややあって衛律が服をえるために座を退いた。初めて隔てのない調子で立政が陵のあざなを呼んだ。しようけいよ、多年の苦しみはいかばかりだったか。かくもうじようかんしようしゆくからよろしくとのことであったと。その二人の安否を問返す陵のよそよそしい言葉におっかぶせるようにして立政がふたたび言った。少卿よ、帰ってくれ。ふうなどは言うに足りぬではないか。どうか何もいわずに帰ってくれ。の所から戻ったばかりのこととて李陵も友の切なる言葉に心が動かぬではない。しかし、考えてみるまでもなく、それはもはやどうにもならぬことであった。「帰るのはやすい。だが、またはずかしめを見るだけのことではないか? 如何いかん?」言葉半ばにして衛律が座にかえってきた。二人は口をつぐんだ。

 会が散じて別れ去るとき、任立政はさりげなく陵のそばに寄ると、低声で、ついに帰るに意なきやを今一度尋ねた。陵は頭を横にふった。じようふたたび辱めらるるあたわずと答えた。その言葉がひどく元気のなかったのは、衛律に聞こえることをおそれたためではない。


 後五年、昭帝のげん六年の夏、このまま人に知られず北方にきゆうすると思われたが偶然にも漢に帰れることになった。漢の天子がじようりんえん中で得たかりの足に蘇武のはくしよがついていたうんぬんというあの有名な話は、もちろん、の死を主張するぜんを説破するためのでたらめである。十九年前蘇武に従ってに来たじようけいという者が漢使にって蘇武の生存を知らせ、このうそをもってすくいすように教えたのであった。さっそくほつかいの上に使いが飛び、蘇武は単于のていにつれ出された。りようの心はさすがに動揺した。ふたたび漢に戻れようと戻れまいと蘇武の偉大さに変わりはなく、したがって陵の心のしもとたるに変わりはないに違いないが、しかし、天はやっぱり見ていたのだという考えが李陵をいたく打った。見ていないようでいて、やっぱり天は見ている。彼はしゆくぜんとしておそれた。今でも、おのれの過去をけっして非なりとは思わないけれども、なおここに蘇武という男があって、無理ではなかったはずの己の過去をも恥ずかしく思わせることを堂々とやってのけ、しかも、その跡が今や天下にけんしようされることになったという事実は、なんとしても李陵には。胸をかきむしられるような女々めめしい己の気持がせんぼうではないかと、李陵は極度におそれた。

 別れに臨んで李陵は友のために宴を張った。いいたいことは山ほどあった。しかし結局それは、くだったときのおのれの志がへんにあったかということ。その志を行なう前に故国の一族がりくせられて、もはや帰るに由なくなった事情とに尽きる。それを言えばになってしまう。彼は一言もそれについてはいわなかった。ただ、宴たけなわにして堪えかねて立上がり、舞いかつ歌うた。


径万ばんりを里兮ゆきすぎさばく沙幕をわたる

きみのためしようとなってきようどにふるう

みちきゆうぜつししじんだけ

士衆ししゆう滅兮名ほろびなすでにおつ

ろうぼすでにしすおんにむくいんとほつするもまたいずくにかかえらん


 歌っているうちに、声がふるえ涙がほおを伝わった。しいぞとみずかしかりながら、どうしようもなかった。

 は十九年ぶりで祖国に帰って行った。


 せんはその後もとして書き続けた。

 この世に生きることをやめた彼は書中の人物としてのみきていた。現実の生活ではふたたび開かれることのなくなった彼の口が、ちゆうれんぜつたんを借りてはじめてれつれつと火を噴くのである。あるいはしよとなっておのが眼をえぐらしめ、あるいはりんしようじよとなってしんおうしつし、あるいはたいたんとなって泣いてけいを送った。くつげんうつぷんを叙して、そのまさにべきに身を投ぜんとして作るところのかいを長々と引用したとき、司馬遷にはその賦がどうしてもおのれ自身の作品のごとき気がしてしかたがなかった。

 稿を起こしてから十四年、けいわざわいってから八年。都ではの獄が起こりれいたいの悲劇が行なわれていたころ、そうでんのこの著述がだいたい最初の構想どおりのつうがひととおりでき上がった。これに増補かいさんすいこうを加えているうちにまた数年がたった。百三十巻、五十二万六千五百字が完成したのは、すでにていほうぎよに近いころであった。

 れつでん第七十たいこう自序の最後の筆をいたとき、司馬遷はったままぼうぜんとした。深いためいきが腹の底から出た。目は庭前のえんじゆの茂みに向かってしばらくはいたが、実は何ものをも見ていなかった。うつろな耳で、それでも彼は庭のどこからか聞こえてくる一匹のせみの声に耳をすましているようにみえた。よろこびがあるはずなのに気の抜けたばくぜんとした寂しさ、不安のほうが先に来た。

 完成した著作を官に納め、父の墓前にその報告をするまではそれでもまだ気が張っていたが、それらが終わると急にひどい虚脱の状態が来た。ひようの去ったしやのように、身も心もぐったりとくずおれ、また六十を出たばかりの彼が急に十年も年をとったようにけた。武帝のほうぎよも昭帝の即位もかつてのさきのたいれいせんぬけがらにとってはもはやなんの意味ももたないように見えた。

 前に述べたじんりつせいらがりようたずねて、ふたたび都に戻って来たころは、司馬遷はすでにこの世にかった。


 と別れた後の李陵については、何一つ正確な記録は残されていない。げんぺい元年にで死んだということのほかは。

 すでに早く、彼と親しかった鹿ろくぜんは死に、その子えんてい単于の代となっていたが、その即位にからんでけんおうろくおうの内紛があり、えんえいりつらと対抗して李陵も心ならずも、その紛争にまきこまれたろうことは想像にかたくない。

 かんじよきようでんには、その後、李陵の胡地でもうけた子がせきを立てて単于とし、かんぜんに対抗してついに失敗した旨が記されている。せんていほう二年のことだから、李陵が死んでからちょうど十八年めにあたる。李陵の子とあるだけで、名前は記されていない。


※文中の「けんおう」の「けん」は、正しくは「革+于」と表記します。

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李陵 中島敦/カクヨム近代文学館 @Kotenbu_official

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