九月に北へ立った五千のかんぐんは、十一月にはいって、疲れ傷ついて将を失った四百足らずの敗兵となってへんさい辿たどりついた。敗報はただちにえきでんをもってちようあんの都に達した。

 ていは思いのほか腹を立てなかった。本軍たるこうの大軍さえざんぱいしているのに、一支隊たる李陵のぐんにたいした期待のもてよう道理がなかったから。それに彼は、李陵が必ずや戦死しているに違いないとも思っていたのである。ただ、先ごろ李陵の使いとしてばくほくから、「戦線異状なし、士気すこぶるおうせい」の報をもたらしたちんらくだけは(彼は吉報の使者としてよみせられろうとなってそのまま都にとどまっていた)成行上どうしても自殺しなければならなかった。哀れではあったが、これはやむを得ない。

 翌、てんかん三年の春になって、りようは戦死したのではない。捕えられてに降ったのだという確報が届いた。武帝ははじめてかくした。即位後四十余年。帝はすでに六十に近かったが、気象のはげしさは壮時に超えている。しんせんの説を好みほうげきの類を信じた彼は、それまでにおのれの絶対に尊信する方士どもに幾度かあざむかれていた。漢の勢威の絶頂に当たって五十余年の間君臨したこの大皇帝は、その中年以後ずっと、霊魂の世界への不安な関心にしつようにつきまとわれていた。それだけに、その方面での失望は彼にとって大きな打撃となった。こうした打撃は、生来かつたつだった彼の心に、年とともに群臣への暗いさいを植えつけていった。さいせいかくちようしゆうと、じようしようたる者は相ついで死罪に行なわれた。現在の丞相たるこうそんのごとき、命を拝したときにおのが運命を恐れて帝の前で手離しで泣出したほどである。こうこつかんきゆうあんが退いた後は、帝を取巻くものは、ねいしんにあらずんばこくであった。

 さて、武帝は諸重臣を召して李陵の処置について計った。李陵の身体は都にはないが、その罪の決定によって、彼の妻子けんぞく家財などの処分が行なわれるのである。酷吏として聞こえた一ていが常に帝の顔色をうかがい合法的に法をげて帝の意を迎えることに巧みであった。ある人が法の権威を説いてこれをなじったところ、これに答えていう。前主のとするところこれがりつとなり、後主の是とするところこれがりようとなる。当時の君主の意のほかになんの法があろうぞと。群臣皆この廷尉の類であった。じようしようこうそんぎよたいしゆうたいじようちようてい以下、誰一人として、帝のしんを犯してまで陵のために弁じようとする者はない。口を極めて彼らは李陵の売国的行為をののしる。陵のごときへんせつかんと肩を比べてちように仕えていたことを思うといまさらながらずかしいと言出した。平生の陵の行為の一つ一つがすべて疑わしかったことに意見が一致した。陵の従弟いとこに当たるかんが太子のちようを頼んできようであることまでが、陵へのぼうの種子になった。口をかんして意見をらさぬ者が、結局陵に対して最大の好意をつものだったが、それも数えるほどしかいない。

 ただ一人、苦々しい顔をしてこれらを見守っている男がいた。今口を極めて李陵をざんしているのは、数か月前李陵が都を辞するときにさかずきをあげて、その行をさかんにした連中ではなかったか。ばくほくからの使者が来て李陵の軍の健在を伝えたとき、さすがは名将こうの孫と李陵の孤軍奮闘をたたえたのもまた同じ連中ではないのか。てんとして既往を忘れたふりのできるけんかん連や、彼らのてんを見破るほどにそうめいではありながらなお真実に耳を傾けることをきらう君主が、この男には不思議に思われた。いや、不思議ではない。人間がそういうものとは昔からいやになるほど知ってはいるのだが、それにしてもその不愉快さに変わりはないのである。たいの一人としてちようにつらなっていたために彼もまた下問を受けた。そのとき、この男はハッキリと李陵をめ上げた。言う。陵の平生を見るに、親につかえて孝、士と交わって信、常に奮って身を顧みずもって国家の急に殉ずるはまことに国士のふうありというべく、今不幸にして事一たび破れたが、身を全うし妻子をやすんずることをのみただ念願とする君側のねいじんばらが、この陵のいつしつを取上げてこれを誇大わいきよくしもってしようの聡明をおおおうとしているのは、かんこの上もない。そもそも陵の今回の軍たる、五千にも満たぬ歩卒を率いて深く敵地に入り、きよう数万の師をほんめいに疲れしめ、転戦千里、矢尽き道きわまるに至るもなお全軍くうを張り、はくじんを冒して死闘している。部下の心を得てこれに死力を尽くさしむること、いにしえの名将といえどもこれには過ぎまい。軍敗れたりとはいえ、その善戦のあとはまさに天下に顕彰するに足る。思うに、彼が死せずしてくだったというのも、ひそかにかの地にあって何事か漢に報いんと期してのことではあるまいか。……

 並いる群臣は驚いた。こんなことのいえる男が世にいようとは考えなかったからである。彼らはこめかみをふるわせた武帝の顔を恐る恐る見上げた。それから、自分らをあえてくをまつとうしさいしをたもつの臣と呼んだこの男を待つものが何であるかを考えて、ニヤリとするのである。

 向こう見ずなその男──たいれいせんが君前を退くと、すぐに、「くをまつとうしさいしをたもつの臣」の一人が、せんりようとの親しい関係について武帝の耳に入れた。太史令はゆえあって将軍とげきあり、遷が陵をめるのは、それによって、今度、陵に先立ってしゆつさいして功のなかった弐師将軍をおとしいれんがためであると言う者も出てきた。ともかくも、たかがせいれきぼくつかさどるにすぎぬ太史令の身として、あまりにもそんな態度だというのが、一同の一致した意見である。おかしなことに、李陵の家族よりも司馬遷のほうが先に罪せられることになった。翌日、彼はていに下された。刑はきゆうと決まった。

 で昔から行なわれたにくけいおもなるものとして、けい(はなきる)、(あしきる)、きゆう、の四つがある。武帝の祖父・ぶんていのとき、この四つのうち三つまでは廃せられたが、きゆうけいのみはそのまま残された。宮刑とはもちろん、男を男でなくする奇怪な刑罰である。これを一にけいともいうのは、そのきずが腐臭を放つがゆえだともいい、あるいは、ぼくの実を生ぜざるがごとき男と成り果てるからだともいう。この刑を受けた者をえんじんと称し、宮廷のかんがんの大部分がこれであったことは言うまでもない。人もあろうにせんがこの刑にったのである。しかし、後代の我々がの作者として知っている司馬遷は大きな名前だが、当時のたいれい司馬遷はびようたる一文筆のにすぎない。頭脳のめいせきなことは確かとしてもその頭脳に自信をもちすぎた、人づき合いの悪い男、議論においてけっしてに負けない男、たかだか強情我慢のへんくつじんとしてしか知られていなかった。彼がけいったからとて別に驚く者はない。

 司馬氏はもとしゆうかんであった。後、しんに入り、しんに仕え、かんの代となってから四代目のたんが武帝に仕えてけんげん年間にたいれいをつとめた。この談が遷の父である。専門たるりつれきえきのほかにどうの教えにくわしくまたひろじゆぼくほうめいしよの説にも通じていたが、それらをすべて一家のけんをもってべて自己のものとしていた。おのれの頭脳や精神力についての自信の強さはそっくりそのままむすの遷にうけがれたところのものである。彼が、息子に施した最大の教育は、諸学の伝授を終えてのちに、かいだいの大旅行をさせたことであった。当時としては変わった教育法であったが、これが後年の歴史家司馬遷に資するところのすこぶる大であったことは、いうまでもない。

 げんぽう元年に武帝が東、たいざんに登って天を祭ったとき、たまたましゆうなんで病床にあったねつけつかんたんは、天子始めて漢家のほうを建つるめでたきときに、おのれ一人従ってゆくことのできぬのをなげき、憤を発してそのために死んだ。古今を一貫せるつうの編述こそは彼の一生の念願だったのだが、単に材料のしゆうしゆうのみで終わってしまったのである。そのりんじゆうの光景は息子・せんの筆によって詳しくの最後の章に描かれている。それによると司馬談は己のまたちがたきを知るや遷を呼びその手をって、ねんごろにしゆうの必要を説き、おのれたいとなりながらこのことに着手せず、賢君忠臣のせきむなしく地下に埋もれしめるなさをなげいて泣いた。「死せばなんじ必ず太史とならん。太史とならばわが論著せんと欲するところを忘るるなかれ」といい、これこそ己に対する孝の最大なものだとて、なんじそれおもえやと繰返したとき、遷はしゆりゆうていしてその命にそむかざるべきを誓ったのである。

 父が死んでから二年ののち、はたして、せんたいれいの職を継いだ。父のしゆうしゆうした資料と、宮廷所蔵の秘冊とを用いて、すぐにもそうでんの天職にとりかかりたかったのだが、任官後の彼にまず課せられたのは暦の改正という事業であった。この仕事に没頭することちょうど満四年。たいしよ元年にようやくこれを仕上げると、すぐに彼はへんさんに着手した。遷、ときに年四十二。

 腹案はとうにでき上がっていた。その腹案による史書の形式は従来の史書のどれにも似ていなかった。彼は道義的批判の規準を示すものとしてはしゆんじゆうを推したが、事実を伝える史書としてはなんとしてもあきたらなかった。もっと事実が欲しい。教訓よりも事実が。でんこくになると、なるほどはある。左伝の叙事の巧妙さに至っては感嘆のほかはない。しかし、その事実を作り上げる一人一人の人についての探求がない。事件の中における彼らの姿の描出はあざやかであっても、そうしたことをしでかすまでに至る彼ら一人一人のもと調べの欠けているのが、せんには不服だった。それに従来の史書はすべて、当代の者に既往をしらしめることが主眼となっていて、未来の者に当代を知らしめるためのものとしての用意があまりに欠けすぎているようである。要するに、司馬遷の欲するものは、在来の史には求めて得られなかった。どういう点で在来の史書があきたらぬかは、彼自身でも自ら欲するところを書上げてみてはじめて判然するていのものと思われた。彼の胸中にあるモヤモヤとうつせきしたものを書き現わすことの要求のほうが、在来の史書に対する批判より先に立った。いや、彼の批判は、自ら新しいものをつくるという形でしか現われないのである。自分が長い間頭の中でえがいてきた構想が、史といえるものか、彼には自信はなかった。しかし、史といえてもいえなくても、とにかくそういうものが最も書かれなければならないものだ(世人にとって、後代にとって、なかんずく己自身にとって)という点については、自信があった。彼もこうならって、述べて作らぬ方針をとったが、しかし、孔子のそれとはたぶんに内容をことにした述而のべて不作つくらずである、司馬遷にとって、単なる編年体の事件列挙はいまだ「述べる」の中にはいらぬものだったし、また、後世人の事実そのものを知ることを妨げるような、あまりにも道義的な断案は、むしろ「作る」の部類にはいるように思われた。

 漢が天下を定めてからすでに五代・百年、こうていの反文化政策によっていんめつしあるいはいんとくされていた書物がようやく世に行なわれはじめ、おこらんとする気運がうつぼつとして感じられた。漢の朝廷ばかりでなく、時代が、の出現を要求しているときであった。せん個人としては、父のしよくによる感激が学殖・観察眼・筆力の充実を伴ってようやくこんぜんたるものを生み出すべくはつこうしかけてきていた。彼の仕事は実に気持よく進んだ。むしろ快調に行きすぎて困るくらいであった。というのは、初めのていほんからいんしゆうしん本紀あたりまでは、彼も、材料をあんばいして記述の正確厳密を期する一人の技師に過ぎなかったのだが、始皇帝を経て、こう本紀にはいるころから、その技術家の冷静さが怪しくなってきた。ともすれば、項羽が彼に、あるいは彼が項羽にのり移りかねないのである。

 項王すなわチ夜起キテ帳中ニ飲ス。美人有リ。名ハ。常ニ幸セラレテ従フ。駿しゆん名ハすい、常ニこれニ騎ス。ここおいテ項王すなわチ悲歌こうがいシ自ラ詩ヲつくリテいわク「力山ヲ抜キ気世ヲおおフ、時利アラズ騅カズ、騅逝カズ奈何いかんスベキ、虞ヤ虞ヤなんじ奈何いかニセン」ト。歌フコト数けつ、美人之ニ和ス。項王なみだ数行下ル。左右皆泣キ、ク仰ギルモノシ……。

 これでいいのか? と司馬遷は疑う。こんな熱に浮かされたような書きっぷりでいいものだろうか? 彼は「作ル」ことを極度に警戒した。自分の仕事は「述ベル」ことに尽きる。事実、彼は述べただけであった。しかしなんと生気潑剌はつらつたる述べ方であったか? 異常な想像的視覚をった者でなければとうてい不能な記述であった。彼は、ときに「作ル」ことを恐れるのあまり、すでに書いた部分を読返してみて、それあるがために史上の人物が現実の人物のごとくに躍動すると思われる字句を削る。すると確かにその人物はハツラツたる呼吸をめる。これで、「作ル」ことになる心配はないわけである。しかし、(と司馬遷が思うに)これではこうが項羽でなくなるではないか。項羽もこうていそうおうもみな同じ人間になってしまう。違った人間を同じ人間として記述することが、何が「述べる」だ? 「述べる」とは、違った人間は違った人間として述べることではないか。そう考えてくると、やはり彼は削った字句をふたたび生かさないわけにはいかない。元どおりに直して、さて一読してみて、彼はやっと落ちつく。いや、彼ばかりではない。そこにかかれた史上の人物が、項羽やはんかいはんぞうが、みんなようやく安心してそれぞれの場所に落ちつくように思われる。

 調子のよいときのていまことこうまいかつたつな・理解ある文教の保護者だったし、たいれいという職が地味な特殊な技能を要するものだったために、官界につきもののほうとうしゆうせいかんざんによる地位(あるいは生命)の不安定からも免れることができた。

 数年の間、司馬遷は充実した・幸福といっていい日々を送った。(当時の人間の考える幸福とは、現代人のそれと、ひどく内容の違うものだったが、それを求めることに変わりはない。)妥協性はなかったが、どこまでも陽性で、よく論じよく怒りよく笑いなかんずく論敵をかんなきまでに説破することを最も得意としていた。

 さて、そうした数年ののち、突然、このわざわいくだったのである。


 薄暗いさんしつの中で──けい施術後当分の間は風に当たることを避けねばならぬので、中に火をおこして暖かに保った・密閉した暗室を作り、そこに施術後の受刑者を数日の間入れて、身体を養わせる。暖かく暗いところが蚕を飼う部屋に似ているとて、それを蚕室と名づけるのである。──言語を絶した混乱のあまり彼はぼうぜんと壁によりかかった。憤激よりも先に、驚きのようなものさえ感じていた。ざんうこと、死をたまうことに対してなら、彼にはもとより平生から覚悟ができている。刑死するおのれの姿なら想像してみることもできるし、武帝の気に逆らってりようめ上げたときもまかりまちがえば死を賜うようなことになるかもしれぬくらいのねんは自分にもあったのである。ところが、刑罰も数ある中で、よりによって最もしゆうろうきゆうけいにあおうとは! かつといえば迂闊だが、(というのは、死刑を予期するくらいなら当然、他のあらゆる刑罰も予期しなければならないわけだから)彼は自分の運命の中に、不測の死が待受けているかもしれぬとは考えていたけれども、このような醜いものが突然現われようとは、全然、頭から考えもしなかったのである。常々、彼は、人間にはそれぞれその人間にふさわしい事件しか起こらないのだという一種の確信のようなものをっていた。これは長い間史実を扱っているうちに自然に養われた考えであった。同じ逆境にしても、こうがいの士には激しい痛烈な苦しみが、軟弱のには緩慢なじめじめした醜い苦しみが、というふうにである。たとえ始めは一見ふさわしくないように見えても、少なくともその後の対処のし方によってその運命はその人間にふさわしいことがわかってくるのだと。せんは自分をだと信じていた。文筆のではあっても当代のいかなるじんよりも男であることを確信していた。自分でばかりではない。このことだけは、いかに彼に好意を寄せぬ者でも認めないわけにはいかないようであった。それゆえ、彼は自らの持論に従って、くるまざきの刑なら自分の行く手に思いえがくことができたのである。それがよわい五十に近い身で、このはずかしめにあおうとは! 彼は、今自分がさんしつの中にいるということが夢のような気がした。夢だと思いたかった。しかし、壁によって閉じていた目を開くと、うす暗い中に、生気のない・魂までが抜けたような顔をした男が三、四人、だらしなく横たわったりすわったりしているのが目にはいった。あの姿が、つまり今の己なのだと思ったとき、えつともごうともつかない叫びが彼のを破った。

 痛憤とはんもんとの数日のうちには、ときに、学者としての彼の習慣からくる思索が──反省が来た。いったい、今度の出来事の中で、何が──誰が──誰のどういうところが、悪かったのだという考えである。日本の君臣道とはこんていから異なったの国のこととて、当然、彼はまず、武帝をうらんだ。一時はそのえんまんだけで、いっさい他を顧みる余裕はなかったというのが実際であった。しかし、しばらくの狂乱の時期の過ぎたあとには、歴史家としての彼が、目覚めてきた。じゆしやと違って、先王の価値にも歴史家的な割引をすることを知っていた彼は、後王たる武帝の評価の上にも、えんのために狂いを来たさせることはなかった。なんといっても武帝は大君主である、そのあらゆる欠点にもかかわらず、この君がある限り、漢の天下は微動だもしない。高祖はしばらくくとするも、じんくんぶんていも名君けいていも、この君に比べれば、やはり小さい。ただ大きいものは、その欠点までが大きく写ってくるのは、これはやむを得ない。せんは極度のふんえんのうちにあってもこのことを忘れてはいない。今度のことは要するに天のせる疾風暴雨へきれきに見舞われたものと思うほかはないという考えが、彼をいっそう絶望的ないきどおりへとったが、また一方、逆にていかんへも向かわせようとする。えんこんが長く君主に向かい得ないとなると、勢い、君側のかんしんに向けられる。彼らが悪い。たしかにそうだ。しかし、この悪さは、すこぶるな悪さである。それに、きようしんの高い彼にとって、彼らしようじんはいは、怨恨の対象としてさえ物足りない気がする。彼は、今度ほどというものへの腹立ちを感じたことはない。これはかんしんこくよりも始末が悪い。少なくともかたわらから見ていて腹が立つ。良心的に安っぽく安心しており、他にも安心させるだけ、いっそうしからぬのだ。弁護もしなければはんばくもせぬ。心中、反省もなければ自責もない。じようしようこうそんのごとき、その代表的なものだ。同じげいごうを事としても、しゆう(最近この男は前任者おうけいを陥れてまんまとぎよたいとなりおおせた)のようなやつは自らそれと知っているに違いないがこのお人好しの丞相ときた日には、その自覚さえない。自分にくをまつとうしさいしをたもつの臣といわれても、こういう手合いは、腹も立てないのだろう。こんな手合いは恨みを向けるだけの値打ちさえもない。

 司馬遷は最後に忿ふんまんの持って行きどころを自分に求めようとする。実際、何ものかに対して腹を立てなければならぬとすれば、結局それは自分自身に対してのほかはなかったのである。だが、自分のどこが悪かったのか? りようのために弁じたこと、これはいかに考えてみてもまちがっていたとは思えない。方法的にも格別まずかったとは考えぬ。するに甘んじないかぎり、あれはあれでどうしようもない。それでは、自ら顧みてやましくなければ、そのやましくない行為が、どのような結果を来たそうとも、士たる者はそれをかんじゆしなければならないはずだ。なるほどそれは一応そうに違いない。だから自分もかいされようとようざんにあおうと、そういうものなら甘んじて受けるつもりなのだ。しかし、このきゆうけいは──その結果かく成り果てたわが身の有様というものは、──これはまた別だ。同じ不具でも足を切られたり鼻を切られたりするのとは全然違った種類のものだ。士たる者の加えられるべき刑ではない。こればかりは、身体のこういう状態というものは、どういう角度から見ても、完全な悪だ。しよくげんの余地はない。そうして、心の傷だけならば時とともにえることもあろうが、おのが身体のこの醜悪な現実は死に至るまでつづくのだ。動機がどうあろうと、このような結果を招くものは、結局「悪かった」といわなければならぬ。しかし、どこが悪かった? おのれのどこが? どこも悪くなかった。己は正しいことしかしなかった。いていえば、ただ、「我あり」という事実だけが悪かったのである。

 ぼうぜんとしたきよだつの状態ですわっていたかと思うと、突然飛上り、傷ついた獣のごとくうめきながら暗く暖かい室の中を歩きまわる。そうしたしぐさを無意識に繰返しつつ、彼の考えもまた、いつも同じ所をぐるぐる廻ってばかりいて帰結するところを知らないのである。

 我を忘れ壁に頭を打ちつけて血を流したその数回を除けば、彼は自らを殺そうと試みなかった。死にたかった。死ねたらどんなによかろう。それよりも数等恐ろしい恥辱が追立てるのだから死をおそれる気持は全然なかった。なぜ死ねなかったのか? 獄舎の中に、自らを殺すべき道具のなかったことにもよろう。しかし、それ以外に何かが内から彼をとめる。はじめ、彼はそれがなんであるかに気づかなかった。ただ狂乱とふんまんとの中で、たえずほつ的に死への誘惑を感じたにもかかわらず、一方彼の気持を自殺のほうへ向けさせたがらないものがあるのをばくぜんと感じていた。何を忘れたのかはハッキリしないながら、とにかく何か忘れものをしたような気のすることがある。ちょうどそんなぐあいであった。

 許されて自宅に帰り、そこできんしんするようになってから、はじめて、彼は、自分がこのひと月狂乱にとりまぎれておのひつせいの事業たるしゆうのことを忘れ果てていたこと、しかし、表面は忘れていたにもかかわらず、その仕事への無意識の関心が彼を自殺からはばむ役目をいんいんのうちにつとめていたことに気がついた。

 十年前りんじゆうとこで自分の手をとり泣いてめいした父のそくそくたる言葉は、今なおていにある。しかし、今しつつうさんたんきわめた彼の心の中にってなお修史の仕事を思い絶たしめないものは、その父の言葉ばかりではなかった。それは何よりも、その仕事そのものであった。仕事の魅力とか仕事への情熱とかいうたのていのものではない。修史という使命の自覚には違いないとしてもさらにこうぜんとして自らをする自覚ではない。恐ろしくの強い男だったが、今度のことで、おのれのいかにとるに足らぬものだったかをしみじみと考えさせられた。理想の抱負のとってみたところで、しよせん己は牛にふみつぶされるみちばたの虫けらのごときものにすぎなかったのだ。「」はみじめに踏みつぶされたが、修史という仕事の意義は疑えなかった。このような浅ましい身と成り果て、自信もも失いつくしたのち、それでもなお世にながらえてこの仕事に従うということは、どう考えてもたのしいわけはなかった。それはほとんど、いかにいとわしくとも最後までその関係を絶つことの許されない人間同士のような宿命的ないんねんに近いものと、彼自身には感じられた。とにかくこの仕事のために自分は自らを殺すことができぬのだ(それも義務感からではなく、もっと肉体的な、この仕事とのつながりによってである)ということだけはハッキリしてきた。

 当座の盲目的な獣のうめき苦しみに代わって、意識的な・の苦しみが始まった。困ったことに、自殺できないことが明らかになるにつれ、自殺によってのほかに苦悩と恥辱とから逃れるみちのないことがますます明らかになってきた。一個のじようたるたいれいせんてんかん三年の春に死んだ、そして、そののちに、彼の書残した史をつづける者は、知覚も意識もない一つの書写機械にすぎぬ、──自らそう思い込む以外にみちはなかった。無理でも、彼はそう思おうとした。修史の仕事は必ず続けられねばならぬ。これは彼にとって絶対であった。修史の仕事のつづけられるためには、いかにたえがたくとも生きながらえねばならぬ。生きながらえるためには、どうしても、完全に身をきものと思い込む必要があったのである。

 いつ月ののち、司馬遷はふたたび筆をった。よろこびもこうふんもない・ただ仕事の完成への意志だけにむちたれて、傷ついた脚をひきりながら目的地へ向かう旅人のように、とぼとぼと稿を継いでいく。もはや太史令の役は免ぜられていた。いささか後悔した武帝が、しばらく後に彼をちゆうしよれいに取立てたが、官職のちゆつちよくのごときは、彼にとってもうなんの意味もない。以前の論客司馬遷は、一切口を開かずなった。笑うことも怒ることもない。しかし、けっしてしようぜんたる姿ではなかった。むしろ、何かあくりようにでも取りかれているようなを、人々はかんもくせる彼のふうぼうの中に見て取った。夜眠る時間をも惜しんで彼は仕事をつづけた。一刻も早く仕事を完成し、そのうえで早く自殺の自由を得たいとあせっているもののように、家人らには思われた。

 せいさんな努力を一年ばかり続けたのち、ようやく、生きることのよろこびを失いつくしたのちもなお表現することの歓びだけは生残りうるものだということを、彼は発見した。しかし、そのころになってもまだ、彼の完全な沈黙は破られなかったし、ふうぼうの中のすさまじさも全然やわらげられはしない。稿をつづけていくうちに、かんじやとかえんとかいう文字を書かなければならぬところに来ると、彼は覚えずうめき声を発した。独り居室にいるときでも、夜、しようじように横になったときでも、ふとこの屈辱の思いがきざしてくると、たちまちカーッと、やきごてをあてられるような熱いうずくものが全身をけめぐる。

 彼は思わず飛上り、奇声を発し、呻きつつ四辺あたりを歩きまわり、さてしばらくしてから歯をくいしばっておのれを落ちつけようと努めるのである。

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