貴様!! 吾輩を愚弄するのか!?



 まぶたを開けると、絹糸と金糸で彩られた天蓋が見えた。


 視線を動かし、足元へ声をかける。


「……吾輩は、どれくらい眠っていたのだ?」


 突然声をかけられて驚いたのだろう。ガタッと音を鳴らして、金髪の夢魔サキュバスが椅子から立ち上がった。


 大きな目を見開いていた夢魔は……腰の翼をはためかせて、寝台の近くまで飛んでくる。


「魔王るし・ふぁー様……お目覚めになったのですね!」


 瞳を潤ませながら、歓喜に満ちた声でそう言った。


「……リリス。今、なんと言った?」


「へ? そ、その、お目覚めになられて――」


「その前だ」


 吾輩の声に怒りが混じっているのを感じてだろう。リリスは困惑した表情を浮かべ……ためらいがちに言った。


「魔王るし・ふぁー様、と」


 バリン。


 寝台脇の机で、花瓶が割れた。


 黒曜石の床に水が滴り、赤色の花が水溜まりの上に散乱する。


 寝台から身体を起こした吾輩は、リリスを睨み付けた。


「貴様!! 吾輩を愚弄するのか!?」


「め、滅相もございませんッ!!」


 ブルブル震えながら、リリスは黒い床に平伏する。


「であれば、なぜ吾輩をその名で呼ぶ?」


「それは……」


 緊迫した空気の中、扉を叩く軽やかな音が響いた。


「……入れ」


 返事をすると、ゆっくりと扉が開いた。


 入ってきたのは、白髪の青年。


 濃緑色の服をキッチリと着こなし、背筋を真っ直ぐ伸ばしている。


 竜人ドラゴニュートのゲオルの見た目は、人間とほとんど変わらない。


 瞳孔が縦に割れていたり、耳の下に少しだけ鱗が生えているが、幻惑魔術を使えばそれらも完全に隠蔽することができる。


 そのため、ゲオルは敵地への潜入を主な任務としており……吾輩の記憶が正しければ、現在も人類の国で『ある』調査をしているはずだ。


 なぜゲオルがここにいるのか? 困惑しながら見ていると、ゲオルは寝台脇までやって来て、その場にひざまずいた。


「魔王るし・ふぁー様。お目覚めになられると信じておりました」


「……ゲオル」


 リリスに対しては、怒りで我を忘れてしまったが……ゲオルが淡々と『その名』を呼んだことで、吾輩の頭は冷えていた。


 嫌な予感を抱きながら、依然として平伏しているリリスに一瞬だけ目を向ける。


 それから、ゲオルのことを見下ろした。


「なぜ……吾輩を、その名で呼ぶのだ? 何か理由があるのだろう?」


「はい。そのことについてお知らせしたく、勝手ながら任務を中断し帰還いたしました」


 「これを」と言って、ゲオルは懐から紙束を取り出した。


 紙束を受け取って、そこに綴られている内容に目を通していく。


 どうやら、王国の機密文書のようだ。異界より召喚された勇者――ダイキ・サトゥーについて書かれている。


 聖剣を使役することに成功し、本格的に魔王るし・ふぁーの討伐に――


「なんだ、これは……!?」


 何度読んでも、そこには『るし・ふぁー』の文字が書かれていた。紙をめくり別の頁に目を通しても、同じ名前が書かれている。


「その文書だけではございません」


 ゲオルの声に、吾輩は視線を上げた。


 眉間にシワを寄せながら、沈痛な面持ちでゲオルは続ける。


「あらゆる文書に同じ御名前が刻まれております。その事実を確認した私は、一刻でも早くご報告せねばならないと考え、帰還いたしました」


 なん……だと。


 この、忌々しい名が……。


 文書に刻まれている『るし・ふぁー』を睨み付け、それが何を意味するのか、吾輩は思考を巡らせた。


「……まさか、世界に『この名』が刻まれているのか!?」


 信じがたいことだが、そうとしか考えられない。


 この名は、邪神様が付けられたものだ。邪神様の御力であれば、尋常ならざる現象が起こっても不思議なことでは……。


 そこまで考えた時、吾輩はあることに思い至った。


「もしや、ゲオルらが吾輩を『その名』で呼ぶのは、そう呼ばざるを得ないから、なのか?」


 否定してほしかった。


 だが……ゲオルは重々しく頷いた。


「はい。どれだけ耐えようとしても、耐えられないのです。お倒れになっている間に、どうにかしてこの呪縛から逃れようとしたのですが……」


 言いながら、ゲオルは1枚の羊皮紙を取り出した。


 4つに折り畳まれていたそれを広げ、吾輩に見せてくる。


『魔王るし・ふぁー様

 第四柱るし・ふぁー様

 四番目の災厄るし・ふぁー様

 魔王城の主るし・ふぁー様――』


 黒いインクで書かれた文字が、ズラリと並んでいる。


 ゲオルは真面目くさった顔で言った。


「明確に表そうとすると、それが声であれ、文字であれ、必ず御名前まで含んでしまうようです。一方で、複数の存在が該当する場合は、表すことができました」


 言いながら、ゲオルは羊皮紙の下の方を指で示す。


『ご主人様

 旦那様

 マスター

 主上

 お父様――』


 たしかに、あの眩暈めまいのするような文字は並んでいないが……。


「お前の表情を見る限り、結果は芳しくなかったようだな」


「……はい。魔王るし・ふぁー様のことを指して言おうとすると――」


 ゲオルは突如、苦しそうな様子で声を詰まらせた。


 何事かと思って注視していると――


「ごッ、ごしゅッ、ご……私の親愛なるご主人、るし・ふぁー様ッ!!」


 裏返った絶叫が、吾輩の肌を震わせた。


 唖然とする我輩をよそに、ゲオルは何事も無かったかのように続けた。


「……というふうに、必ず御名前と一緒にお呼びしてしまうようです。文字で書く際も、魔王るし・ふぁー様をお示しする文脈であれば、同じ現象が起こりました」


「……そうか」


 寝台に座ったまま、ほんの少しだけゲオルから距離を取る。


 その時ふと、床に平伏したままのリリスが目に付いた。


「――ああ、リリス。すまない。吾輩が悪かった」


 寝台から立ち上がって、リリスの傍に向かう。肩に両手を添えてやると、ようやく顔をあげた。


 夢魔の長たるリリスは、その立場に恥じず、非の打ち所のない美貌を持っている。


 けれど……床に擦り付けていたせいだろう。額がほんのりと赤く染まっていて、少しばかり間の抜けた印象を受ける。


「いえっ、全て私が悪いのです! 魔王るし・ふぁー様が……魔王るし・ふぁー様がどのようにお受け止めになるかを考えず、魔王るし・ふぁー様だなんてお呼びしてしまった私がっ――」


「いいのだ、リリス。事情を聞かずに怒りを向けてしまった吾輩が悪いのだ」


「魔王るし・ふぁー様っ……!!」


 リリスは歓喜に打ち震えている様子だが……馬鹿にしているわけではないよな?


 ……うむ。まあ、よい。


 リリスを立ち上がらせてから、ゲオルに目を向ける。


「ゲオルよ。状況は理解した。報告に感謝する。――して、邪神様がどこにいらっしゃるか、知っているか?」


 

 ○○○

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