よく来たな勇者よ。吾輩は――
「るし・ふぁー」
不安そうな面持ちで、邪神様は吾輩の名を呼んだ。
吾輩と邪神様がいるのは、謁見の間――の、舞台袖だ。
謁見に来た者たちがひざまずく中、ここから吾輩が颯爽と現れ、数メル先に見える玉座に座る、という仕組みになっている。
普段はここに
薄暗い中、吾輩は腰を落として邪神様の瞳をのぞき込んだ。
「大丈夫です。必ず生きて戻ります」
「……約束だよ?」
「はい。約束です」
思えば、邪神様と出会った日から半年が過ぎようとしている。
最初の頃は色々あったが……今では、吾輩にとって邪神様は大切な存在のひとりだ。
悲しませないためにも、勝たなくてはいけない。
吾輩は笑顔を浮かべながら、邪神様の肩を軽く押した。
「そろそろ勇者が来ます。邪神様は、リリスたちの元で待っていてください」
「……うん。待ってる」
名残惜しそうに吾輩を見つめてから、邪神様は背中を向けた。
ててて、と小走りで角の向こうへと消えるのを見送って、ゆっくりと立ち上がる。
「……さて」
身にまとうマントを翻し、堂々たる歩みで玉座へと向かう。
金銀宝石で彩られた、お世辞にも座り心地がいいとは言えない玉座。
そこにドッカリと座ると、ガランとした謁見の間が眼前に広がる。
ここが、勇者と魔王の決戦の地だ。
吾輩が決めたのではなく、神々によってそう定められている。
勇者が用を足している最中に暗殺――なんてことができたら話が早くて楽なのだが、残念ながらそのようなことは許されていない。
この場所で、吾輩のみの力で、勇者に打ち勝たねばならない。
「ふぅ……」
細く息を吐いて、意識を集中させる。
大丈夫だ。やれることは全てやった。
あとは、自分の力を全て出し切るだけだ。
腰に吊り下げている御守――昨晩の激励会で貰った、城の皆が1針ずつ縫ったという木綿製の布玉――を握りしめる。
特別な力は籠もっていないはずだが、それを握っていると、力が湧き出てくるような気がした。
それから、四半刻ほど経った時だった。
「……来たか」
吾輩が呟くと同時に、奥に見える巨大な扉がひとりでに動き始めた。
扉と扉の隙間から、3人の人間が姿を表す。
黒髪黒目の平凡な容姿をした青年。
白い神官服で身を包んだ金髪碧眼の女性。
とんがり帽子の下から紫色の瞳を覗かせている女性。
彼らが警戒しつつ謁見の間に入ってくるのを待って、吾輩は口を開いた。
「よく来たな勇者よ。吾輩は、魔王るし・ふぁー。貴様らに絶望をもたらす者の名だ……よく覚えておくといい」
声を張り上げたわけではないが、巨大な謁見の間に、吾輩の声は大きく木霊した。
その迫力に勇者たちは少し怯んだようだった。
しかし――
「るし・ふぁーのやってきたことを許すわけにはいかない! 俺が、この手で倒す!」
勇者が剣を引き抜いた。
清浄な光が剣身から放たれている。
「ふん、やれるものなら、やってみるがいい」
低く笑いながら、吾輩は手のひらを持ち上げた。
「獅子は兎を狩るにも全力を尽くすもの。吾輩はよく、部下たちから獅子のようだと言われていてな。――初めから、全力で行かせてもらうぞ」
渾身の魔力を込めると、手のひらからどす黒い霧が吹き出した。
『
雲海のように広がる霧から、膨大な数の兎が出現する。
「ダイキ。私の後ろに」
魔術師は冷静にそう言うと、身体の正面に杖を構えた。
繊細に紡がれた魔力が、一点の狂いもなく杖――その先端に嵌め込まれた、紫色の魔石に収束していく。
『
魔術師の正面に、薄紫の氷壁が出現する。
……ふむ。情報通り、中々の練度だな。
さすがは、ヴィオレット家興隆以来の天才と呼ばれるだけのことはある。
だが――
ニヤリと笑った吾輩は、指先を軽く折り曲げた。
それに応じて、兎たちは直角に進路を変える。
その先にたたずんでいるのは、純白の神官服に身を包んだ少女。
「――っ!!」
吾輩の狙いに気付いた魔術師が、聖女の周りまで壁を広げようとしているが――もう遅い。
「あ……」
身動き1つ取れないまま、聖女は兎の波に飲み込まれた。
魔術師は深い後悔のにじむ表情で兎の山を見やり……唇を噛んでいる。
その後ろで、勇者は困惑の表情を浮かべていた。
「スノー、どうしたんだ? 聖女に攻撃魔術は無効なんだろ?」
「……違う。そうじゃない」
魔術師の言葉に、勇者は余計に困惑した面持ちを浮かべ……黒い瞳を聖女の方へと向けた。
兎の山が徐々に小さくなり、聖女の姿が現れる。
「えっ、なんで……?」
勇者の視線の先で、聖女は床に座り込んでいた。
もこもこの兎たちに取り囲まれ、これ以上ないほどに幸せそうな表情を浮かべている。
「言ったであろう、初めから全力で行くと。初めから――つまり、貴様らが魔王城にたどり着く遥か前から、吾輩は全力で、この日のために準備を進めていたのだ」
笑いを堪えつつ、玉座から3人のことを
「聖女は動物好きだそうだな? 特に兎には目がないとか。自宅では5匹の兎を飼っていることも知っているぞ。なんなら、その5匹の名前もな」
魔術師が気味悪そうな表情を浮かべ、1歩後退るのが見えたが、気にすることはない。そもそも、この情報は吾輩ではなくゲオルが集めたものだしな。
「魔王城への旅は長く辛かったであろう。獰猛な獣ならいざ知らず、可愛らしい獣などいるはずもない。――さて。自らの身にまとわりつく兎たちを、聖女が拒めるかどうか……これは、見物だな」
「卑怯だぞ!!」
勇者が叫ぶ。
その声を聞いて、吾輩は堪らえ切れずに笑いを漏らしてしまった。
「……卑怯などと、幼稚なことを言うではない。勝つためならば、吾輩は何でもする。必ず勝つと、約束――」
『
短刀の形状をした氷が、吾輩の頭目掛けて飛んできた。
首を捻る。
カカカッ、と玉座に刺さる音が間近に聞こえた。
熱い感触を頬に感じて、指先で撫でてみると……赤いものが付着している。
「ダイキ、るし・ふぁーの言葉に乗せられちゃ駄目」
「……あ、ああ。そうだな」
熱を冷まされた勇者は、吾輩へと剣の切っ先を向けた。
……聖剣エクスカリバー。
この世界で唯一、魔王を殺すことのできる武器。
あれに首を搔き切られる悪夢を、何度見たことか……。
切っ先の輝きを目に捉えながら、吾輩は緊張を腹の奥へと飲み込んだ。
代わりに、堂々たる笑みを浮かべ、玉座からゆっくりと立ち上がる。
「……スノー・ヴィオレット。もちろん、貴様についても調べているぞ」
勇者と違い、吾輩との会話に付き合うつもりはないらしい。
氷のような表情を浮かべながら、怒涛の勢いで攻撃魔術を放ってくる。
『
『
『
それらを全て受け止めつつ、魔術師の脳髄へと言葉を注ぎ入れる。
「聖女と違い、貴様にはこれといった弱点は見当たらなかった。幼少の頃から、魔術の深淵を追い求めてきたその生き様、吾輩は嫌いではないぞ?」
「……うるさい」
魔術師が一言だけ呟いた。
「ほう? 吾輩が……聖女と同じことを言うのが、それほど不快か?」
魔術師の目が、大きく見開かれるのが見えた。
それは、吾輩が彼女の心の内を言い当てたから――だけではない。
「スノー、また怖い顔をしていますよ?」
魔術師のすぐ近くまで迫っていた聖女は、柔らかな表情でそう言った。
「……え? アリ、シア?」
両腕で兎を抱きしめ、場違いなことを言う聖女の姿を見て、魔術師は完全に混乱しているようだった。
そんな様子には構わず、聖女はノンビリとした足取りで魔術師の傍へと向かう。
「ねえ、スノー。この子、見てください。ショコラにそっくりだと思わないですか? クリっとした目元の辺りなんて特に」
「……今はそんなことより、ダイキに支援魔術をッ」
イラッとした様子の魔術師に、勇者も慌てた調子で言葉を重ねた。
「アリシアっ! 頼む! やっぱり、支援無しだと2人の戦いに付いていけない! スノーが耐えてくれてる間に、ありったけをかけてくれ!」
2人のピリピリした気にあてられた聖女は……ぷくーっと頬を膨らませた。
「そんなこと、だなんて酷いです! 2人とも、兎ちゃんたちにもっと敬意を払ってください!」
そう言って、聖女は兎たちがたくさんいる原っぱへと戻ってしまった。
「……は?」
室内にいつの間にか原っぱが出現しているのを見て、勇者はぽかんと口を開けている。
だが、さすがは勇者と言うべきか、状況への適応が早い。疑問を脇に起き、問題の打開に動きはじめる。
「アリシア! ごめん! たしかにその子、かわいいと思うよ!」
声をかけられた聖女は、ちらりと上目遣いで勇者を見た。
「ほんとうに、そう思いますか?」
「本気も本気、大真面目だよ! 俺が嘘をついたことなんて無いだろ?」
「そうでもないと思いますけれど……分かりました。そこまで言うなら、試してあげます」
目付きを鋭くした聖女は、たくさんいる兎たちから、2匹の茶色い兎を呼び寄せた。
2匹を両手に抱え、青い瞳で勇者を貫く。
「私が先ほど2人に紹介したのは、どの子だと思いますか?」
「……」
勇者の顔には、分からない、と大きく書いてあった。
額に汗を浮かべ、目を左右に泳がせ……当てずっぽうで左側の兎を指差した。
「左、左だと思う!」
「その心は?」
「え? ああ、えっと……右は、ちょっと大きすぎるかなぁと思って」
聖女は顔をくもらせ、ぽつりと言った。
「さようなら」
「――池の傍にいる子」
魔術師の言葉に、背中を向けようとしていた聖女の足が止まった。
魔術師は今も吾輩へと魔術を打ち込み続けている。
顔をこちらに向けたまま、聖女へと話しかける。
「腕に持ってる子たちは、毛並みから色合いまで全く違う。ショコラに似てるのは、池の傍にいる子」
「……スノー!」
瞳に光を戻した聖女は、感激した様子で原っぱからこちらへと走ってきた。
勢いそのまま魔術師に抱きつく。
「――ッ! 邪魔!」
「スノーなら分かってくれると思っていました!」
「……あれくらい、当たり前」
「スノーも一緒に、兎ちゃんたちと遊びましょう? 他にもたくさん、紹介したい子たちがいるんです!」
魔術の勢いが目に見えて弱くなっている。
……もうひと押しだな。
吾輩は魔術を放ち、原っぱの領域を拡張した。
謁見の間のほぼ全てが、牧歌的な風景に覆われる。
心地よい日差しと、草の香りを含んだ穏やかな風。そして……人生で初めてできた、友と呼べる存在。
それら全ての力によって、スノー・ヴィオレットの心を覆っていた鎧は溶け落ちた。
ぎごち無い笑みを浮かべながら……聖女に手を引かれて、兎たちの園へと誘われていく。
あとに1人残されたのは――
「どうやら、既に勝敗は決したようだな。勇者よ、潔く吾輩の前に屈したらどうだ?」
「……まだ、俺は負けてない」
聖剣を構える勇者の目には、たしかにまだ光が灯っている。
「ふむ。そう思うのであれば、かかってくるがよい」
「死ねぇぇぇッ!!」
しかし、支援魔術が一切かかっておらず、横から茶々を入れてくる攻撃魔術もない勇者の剣など、もはや恐れるものではなかった。
指先で剣を摘み取り、間近から勇者に語りかける。
「勇者よ。貴様についても多くのことを調べているぞ」
勇者の顔が絶望に染まるのを楽しんで、吾輩は空いている方の手に魔力を込めた。
『
青色の
「湯加減はどうだ?」
「……くッ! こんなものに俺は負けないぞ!」
必死に自らを奮い立たせているようだが、先ほどまでの気合は感じられない。
吾輩は唇の端で笑い、粘体に指先を突き立てた。
『
――
こうして、勇者は魔王に破れてしまった。
もはや魔王の前に立ち塞がる存在はなく、世界の遍く国々が、魔王の手に落ちることとなった。
もふもふの小動物、色とりどりの甘いお菓子、あたたかいお日様の光に覆われることになった世界で……いつしか人々は、魔王のことをこう呼ぶようになった。
幸福の魔王『るし・ふぁー』、と。
幸福の魔王『るし・ふぁー』
―完―
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幸福の魔王『るし・ふぁー』 くるくる @Kurukuru_5
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