第58話 ユーリル⑤(最終話)

 昼食の頃合いになり、私と先輩は酒場に入った。夜は飲んだくれが溢れ返る場所だが、昼なら大衆食堂としての役目を果たしている。味が濃い肉料理が看板メニューだと言うので、私たちはそれを注文した。程無くして、橙色のソースがたっぷりと掛かった分厚い鶏肉が運ばれてきた。香ばしい匂いに空腹感を刺激されつつ、ナイフで切り分け口に入れる。甘辛い風味が口内を満たした。

 不意に、もしかして、と先輩は口を開いた。


「オルバート様とライシャ様は、俺たちに遊ばせるつもりだった?」

「今更気づいたんですか?」


 言えば、先輩は目を逸らした。誤魔化すように水を飲んだが、その困惑はありありと伝わってくる。


「休暇も正当な報酬ですよ。オルバート様とライシャ様には他の使用人が付いてるんですから、二人に甘えて楽しんだらどうですか?」

「俺は……冬に、結構休ませてもらったから」

「……」


 報酬ありきでオルバート様の側にいるのではないと言いかけたのだろうが、先輩は違う一言を口にした。私もライシャ様には感謝しているので、その気持ちが分からなくはない。しかし、それはそれとして報酬はもらいたいから、先輩とは相容れない。むしろ、報酬があるから私はライシャ様を裏切らない。暗殺者として当然のことだ。


 冬の間、先輩はまともに働けていなかった。一日中寝ているのは十日ほどで終わったが、その後もしばらくは朝に起きられない日々が続いた。これで風邪でも引こうものならどれほど悪化するか怖いという話になり、私も含めた周囲は可能な限り先輩の生活環境を整えた。ちなみに、至れり尽くせりの状況に先輩は引け目を感じていたようだ。俺は大丈夫です、すみません、とオルバート様とライシャ様にいつも言っていた。私には、オルバート様とライシャ様が困っている様子は無いかと聞いてきた。ユーリルも俺のことは気にしなくていいから、と言われたときは、さすがの私もかちんと来たものだ。私は身内を見殺しにするような人でなしではない。


「体はもういいんですか?」

「うん。心配掛けてごめん」

「なら、いいです」


 それでも、心配を掛けた自覚があるだけ成長しただろう。もうあのような無茶はしないことを祈るばかりだ。尤も、現在の私たちの仕事は主人のために命を賭すことだが。私も先輩も、生き延びるために己の命を旦那様に差し出した。それはオルバート様とライシャ様のために使われ、もはや私たちが好きにできるものではなくなっている。だが、それでも思う。できることなら、先輩にも死んでほしくない。


「ユーリルは大丈夫?」

「何がですか?」

「色々。体調とか、仕事とか。──何か悩んでない?」

「……」


 全く、と私が答えられなかったのは、図星だからだ。

 水で喉を潤す振りをして、時間を稼いだ。逡巡し、声を発する。このままでいていいわけはないと、冷静な自分は理解している。


「先輩は、生きてる誰かに死んだ誰かを重ねて見たことはありますか?」


 尋ねれば、先輩は真剣な表情で考え込んだ。きっと、先輩は私が過去に大切な存在を無くしたと察している。そのうえで、この人は何と答えるのだろうか。


「──あるよ」

「……」

「父親の影を、侍従長に重ねてる。……あの人は全然笑わなかったけど、褒めるときはちゃんと褒めてくれる人だった」

「……殺したこと、後悔してますか……?」

「してない。すごく自分勝手な話だけど……父親は、俺を生かすためにわざと殺されてくれたのかもしれないって思う。……ユーリルは違う?」

「……」


 今度は、私が考え込む番だった。先輩の問いを咀嚼し、嚥下する。兄さんのことを思い出す。私を襲った姉と相打ちになり、殺されるならユーリに殺されたい、と虫の息で私に願った。私がその首をかき切る間際、ユーリ、幸せにね、と優しい笑顔を見せた。

 思わず、私は服の上からペンダントに触れた。殺すか殺されるかの家庭環境で、兄さんだけは私を愛してくれていた。私も兄さんを愛していた。歪でも、不条理でも、私と兄さんは確かに家族だった。なればこそ、家族を生かすために自ら死を選ぶというのは、馬鹿馬鹿しいほど倫理に則った正義ではないのか。その清らかな死に、恨みつらみは似合わないのではないか。罪悪感を減らすためではなく、単なる事実としてそう思う。──兄さんは、私を幸せにするために死んだ。


「……いえ……そうかもしれません。私も、そうかもしれません……」


 私が半ば独り言として言葉を返すと、先輩は頷いた。


「誰かに誰かを重ねるのは、悪いことじゃないと思う。少なくとも、俺はやめてほしいと思わない。それで少しでも生きやすくなるなら、いくらでも代わりにしてもらっていい」


 それは、意外な答え。いつも自分一人を蚊帳の外に置いている先輩にしては、信じられないほど的確な回答だった。去年の秋にオルバート様から聞いた話では、先輩に当事者意識は存在しないようだった。いつの間に、他人にとっての自分の価値を見詰め直していたのだろうか。まだまだ自己を過小評価しているきらいはあるものの、殻に閉じこもるのはやめたようだ。


「……先輩、変わりましたね」

「……?うん。もう戻らないらしい」

「見た目の話じゃないですよ」


 ふ、と私はつい笑ってしまった。感心した途端にこれだ、鈍感と言うか、天然と言うか。一方、私の笑顔が余程珍しいのだろう、先輩はわずかに瞠目した。次いで、納得していなさそうに瞬く。大方、そんなに変わったつもりはないけど、とでも考えているのだろう。オルバート様が苦労するわけだ。先輩は、自身に関してあまりに疎い。


 その後はおまけの目的であるお使いを済ませ、私たちは無事にギアシュヴィール公爵邸へと帰った。荷物を侍女長に預け次第、私室に引っ込み着替えてから再び集合する。お互い、ギアシュヴィール公爵家のお仕着せ姿だ。灰色のそれに身を包み、サンルームでお茶をしているらしい主人二人のもとへ向かう。


 廊下から見える庭は、夕日に照らされまばゆく輝いていた。寂しげなその光景は、同時に明日への期待も内包している。今日を生き延びた証であり、次の日への道筋を示す光。かつての先輩が持っていた、何より、私の兄さんの色。きっと私は一生この色彩が好きで、先輩に兄さんを重ねて見ることもやめられない。しかし、それでいいのだと先輩は言った。生者を通して死者を見ることも、それで生きやすくなるなら構わないと先輩は許した。それならば、私も私を認めようと思う。今の幸せは、兄さんが死んだおかげで得られたものだ。それにも関わらずあの人を忘れて生きるというのは、それこそ人でなしがすることではないのか。


 ユーリル、と先輩は私を呼んだ。何かと私が問えば、今日はありがとう、と先輩は言った。いえ、と私は短く返した。こちらこそありがとうございました、と私は述べた。深くは語らない、最低限のやり取り。それでも、これだけで十分だ。私の隣にいるのが先輩であることに、あの日兄さんを殺したことに、私は何の後悔も抱いていない。負い目も感じていない。今の私は、決して揺らがない幸せの中で生きている。

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この世界のあなたに祝福の花束を 青伊藍 @Aoi_Ai

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