元カノ、鬼になる

御角

元カノ、鬼になる

 地元が苦手だった。存在感のない地元が。田舎と都会の中間のような、出来損ないの地元が。

 僕は昔から、桃太郎の存在一つで成り立っている岡山地元が、どうにも好きになれなかった。

 だから大学受験もせずに、親の反対を振り切って、上京して。

 そうやって生まれ育ったこの土地を、過去を、いとも簡単に捨て去った。

 その、つもりだった。


「それでは、二年ぶりの再会を祝って〜? 乾杯!」

 会場のあちらこちらから一斉に、グラスを突き合わせる音が響く。しかし僕には残念ながら、それを奏でられるほど親しい相手がいなかった。どうやら僕との再会には、祝うような価値もないらしい。

「高校卒業以来だよね〜、会うの。どこ進学したんだっけ?」

「うちは大阪の私大。もう毎日食べ歩き放題って感じ! そういうそっちは?」

「俺は広島の大学だよ。毎日朝から晩まで勉強とバイトで……理系だから遊んでる暇もなくてさぁ」

 かつての同級生たちは、それぞれの充実した二年間を語り合い、思い出話に花を咲かせながら当時の距離感を取り戻していく。

 でも、僕は……。彼らと違って、スポンジのように空虚でつまらない毎日を送ってきた自分は、そこに加わることさえ出来ない。

 別世界の話をさかなに一人、グラスを煽る。二十歳になって初めて飲んだお酒は、舌が痺れるほどに苦くて、吐き出したくなるほど不味かった。


 高校生の頃は、東京に行けば何かが変わると信じて疑わなかった。とにかくこの窮屈な檻から抜け出したい。その一心だった。

 今思えば、本当に馬鹿な考えだったと思う。結局、都会に行ったところで僕は一つも垢抜けてはいない。

 夢もないし金もない。当然、学もない。今の僕は、ただ就職に失敗しただけのしがないフリーターでしかない。

 そんな時に来た高校の同窓会の案内に、僕はまた一筋の光を見出して、その現状がこれだ。

 何度同じことを繰り返せば気が済むのだろう。土地なんて関係ない。東京でも岡山でも、僕は居場所すら見つけられない根無草ねなしぐさだ。


「ミコト」

 不意に自分の名前が聞こえた気がして、思わず肩がピクリと跳ねる。

「久しぶり、ミコト」

 鼓膜に触れるその声は、決して気のせいなどではない。記憶にこびりついた、少しハスキーで鼻にかかった声。僕の高校時代の大半を彩る、忘れられるはずもない懐かしい声。

「う、ウララ……?」

 そこにいたのは、紛れもなく彼女だった。高校三年生の夏に行方をくらませて、それっきり自然消滅してしまった、僕の元恋人。

「ねえ。こんなつまらない会、抜け出してさ、久々に二人で話そうよ」

 あの頃の面影はそのままに、彼女は首をかしげて「ね、いいでしょう?」と無邪気に微笑ほほえむ。

 ああ、幻聴でも、幻覚でもいい。例え、一杯の酒が見せた白昼夢だとしても構わない。

「……そう、だね。うん、それがいい」

 僕は彼女の手を引いて、おぼつかない足取りで会場を後にした。


「……ねえねえ、あいつ大丈夫かな。なんか酔っ払って、一人でどっか行っちゃったみたいだけど」

「あー、いいんじゃね? 俺らには関係ないし。何、友達?」

「え? いや、うーん……まあ、いいか。うち、ちょっとおかわり取ってくる!」


 同窓会を抜け出したのはいいものの、行く当ても特にはなくて。僕らは学校近くの河川敷まで追いかけっこをして、へとへとになりながらも橋の下へと駆け込んだ。そこは、付き合っていた頃の思い出が染みついた、二人だけのかけがえのない場所。

 服が汚れることなどお構いなしに地べたへと座り込み、ただ心地よい風に吹かれる。砂埃に混じる汗の匂いが、甘い記憶を呼び起こす。それだけで、僕らが昔を取り戻すには十分じゅうぶんだった。

「ミコト、少し大人っぽくなったね」

「……そういうウララは、あんまり変わってない」

「そう? 結構変わったよ、私も」

 穏やかな沈黙が、僕達二人を包み込む。

 聞きたかった。どうしてあの夏、一緒にお祭りに行く約束を破って、彼女がいなくなってしまったのか。どうして僕の前から消えておいて、今になって戻ってきたのか。

「あのさ……」

 けれど、いざ口に出そうとすると怖くて。せっかく戻ってきてくれた彼女を傷つけはしないかと不安で。それ以上は喉を空気が通り過ぎるばかりだった。


「私ね……もしかしたら、鬼になっちゃったのかもしれない」

 それは唐突だった。思わず自分の耳を疑う。彼女はさも世間話をするかのように、頓狂とんきょうなことを口にした。

「えっ?」

「ミコトは温羅うらって鬼の話、知ってる? 桃太郎の、退治された鬼のお話」

 それは、この地元岡山ではかなり有名な話。一説によると、鬼として退治された温羅は製鉄技術など鉄文化の発展に貢献して吉備に繁栄をもたらし、その豊かな土地を狙って桃太郎一行が派遣されたのだという。

 そのため岡山では、桃太郎に加えて温羅も同じくらい大切にまつられており、毎年夏には、この温羅伝説を基にした「うらじゃ」というお祭りまでもよおされるのだ。

「知ってるけど……それが何? 鬼になったって、そういう冗談か何かだよね?」

 彼女は何も答えずに、長い髪を手櫛てぐしでそっと掻き分ける。黒髪の隙間から覗く何かが、傾きかけた日差しをキラリと反射した。

「これで、冗談じゃないって信じてもらえる……?」

 目の前に差し出された、小ぶりな二本の突起。それは人間の頭には不釣り合いな、鬼のツノ以外の何者でもなかった。


「自分なりに少し考えたんだけどね、私にその、さっき話した温羅の魂が取り憑いてるんじゃないかと思うの。ぶっ飛んでると思うかもしれないけど、それくらいの理由しか頭に浮かばなくて。ここ最近の記憶もあやふやで、いつこれが生えたのかはわからないんだけど……それも、もしかしたらこのツノのせいなのかも」

 彼女の細い指が、僕の手を絡め取る。その導きに従って、鈍く光るツノの存在を確かめるように、撫でる。

 瞬間、てのひらから脳内に、膨大な情報の濁流が押し寄せたような衝撃が走る。アルコールよりも熱く、速く、脳細胞の隅々まで侵されるような電気信号。それは恐らく、他人の……いや、彼女の中に眠る記憶だった。


『ウララ、お出かけかい?』

『うん、これからミコト……あっ、彼氏とお祭り行くんだ!』

『そうか、なら父さんが車で送ってあげるよ』

『本当に!? ありがとう、お父さん!』


『ウララ……ごめんな、お祭りに連れて行くなんて嘘をついて……。最初は夜逃げするつもりだったんだ。でも逃げたところで、あいつらは父さんたちを絶対に逃さない。もう……もう、こうするしか……』

『ん……お、父さん……?』

『大丈夫だ、母さんも向こうで待ってるから。父さんも、一緒、だから……』

 沈む。朦朧もうろうとする意識の中、深い底なし沼へと飲み込まれていく。いくらもがいたところで鉄の箱はびくともしない。酸素を求めて彷徨さまよう手はやがて、限界を迎えて流されるままに揺らめいて。


 そこで耐えきれず手を離した。周囲の景色が、音が、段々と戻ってくる。

「ぷはっ、ハァ、ハァ……は……」

 肺が新鮮な空気に触れたことで、初めて自分が息を止めていたのだと気がついた。

 何だよ。何なんだよ、今の。これじゃあ……これじゃ、まるで。

「だ、大丈夫? 具合悪いの?」

「……ごめん。さっき調子に乗って、ちょっと飲みすぎたみたい」

「お水いる?」

「いや、いいよ。ありがとう」

 僕の気持ちも知らないで、彼女は楽しそうな表情を崩さないまま、ツノを触ったり引っ張ったりしている。

「それで、さっきの話の続きなんだけど……」

 信じられない、否、信じたくない。

「ちょうど明日、うらじゃのお祭りがあるでしょう? その中でも、最後に総踊そうおどりっていって観客も巻き込んでみんなで踊るやつ……あれに参加したいなって。あれって温羅の魂を天に返すためにやるんだって。知ってた?」

 僕は絶対に信じない。彼女は、ウララは

「……僕も、一緒に行きたい。二年前のリベンジも、きちんとしたいから」

「もちろんそのつもり! ……あれ、二年前も行ったんだっけ? ごめんね、記憶力悪くて——」


「いた! 吉野よしのっ!」

 突然、二人きりの空気を切り裂くように芯の通った声が響く。

「吉野、しっかりしてよ……! あんた、川に飛び込む気!?」

「……あ、う、ウララ、は」

 気がついた時には辺り一面真っ暗で、乾いていたはずの僕の足元まで水面が押し寄せていた。目の前にいたはずのウララは、川に呑まれてどこにもいなかった。


「……少しは落ち着いた?」

 道路の方まで僕を引きずり、水を差し出したのは、あの時、恐らく同窓会で周りと談笑していたうちの一人だった。

「……いいの? 同窓会の方は」

「ウケる、もうとっくに終わってるし」

 押し付けられたペットボトルを嫌々受け取る。

「フ……ぬるい」

 気がくとは言いがたかったけれど、それでも不思議と優しさを感じた。


「ねえ、こんなこと、あまり言いたくないんだけどさ……今の吉野には、鬼がいてると思う」

「……鬼」

「鬼っていうか、悪霊、みたいな? うち、そういうのちょっとわかるからさ。多分そいつが、吉野を道連れにしようとしてるんだよ」

 そう言って、元クラスメイトの彼女は地面に何かを描き出す。

「ほら、魂って『鬼ト云フ』って書くでしょ? 未練が積もりに積もって暴走してる奴らを、うちは鬼って呼んでる」

 魂。つまりさっきのは、ウララの魂が見せた夢なのか。だとしたらウララはもう、この世には、いないのか。

「ま、信じるか信じないかは吉野次第だけど、信じるならおはらいしてあげても……」

「どっちでもいい」

「——は?」

「ウララが僕を殺したいなら、僕は喜んで川に飛び込むよ。元々僕なんて、岡山でも東京でも空気みたいなものだったんだ。今更いなくなったところで何も変わらない。ウララのいないこの世界に、もう僕の居場所はない」


「それ、本気で言ってんの?」

 優しかった雰囲気が一転して、彼女の目つきが鋭さを増す。

 その刹那せつな、視界がとどろくほどの破裂音がして——頬にじわっと熱が広がり、遅れて痛みがやってきた。

「バッカじゃないの!? あんたは居場所がないんじゃなくて、ただ探そうとしてないだけじゃろうが! ちゃんと話もしてないくせに、何も変わらないなんて知ったふうな口ばーばっかり聞いて、恥ずかしくないん?」

「そ、そっちこそ、知ったようなことを……!」

「じゃあ元クラスメイトの名前、一人ずつ言える? うちの名前、ちゃんと覚えとる?」

「そ、れは……」

「ほらやっぱり、言えないんじゃが」

 勝ち誇ったように、けれどどこか寂しそうに彼女は呟く。僕はもう何も言い返せなかった。

 図星だった。唯一心を許していたウララがいなくなって、これ以上誰かに期待を裏切られるのが怖くて、いつしか自分から関わることを諦めていた。

 いや、そうじゃない。これはただの言い訳でしかない。僕はこれまでずっと、人と向き合う努力をおこたっていただけなんだ。

「……ごめん」

 口が何かに押さえつけられたかのように重い。上手く言葉を紡げない。それでも、かろうじてその一言だけがこぼれ落ちた。

「ごめん、確かに君の言うとおりだった。軽率な発言だった」

「うん」

「でも、お祓いは待ってほしい。彼女が鬼になってしまったのは、きっと僕のせいだ。二年間も約束で縛って、未練を残させたまま放置し続けた僕のせいなんだ。だから僕が、彼女の未練をなくして……それでもダメだったらその時は、天国に送ってあげてほしい」

 一度 あふれたら最後、せきを切ったように言葉がつらつらと流れ出す。全てを吐き出しきったところで、鼻の奥に溜まっていた涙が、ゆっくりと喉を滑り落ちていった。

「……津田つだ

「え?」

「君じゃなくて、津田。うちの名前」

 電話番号のメモをぶっきらぼうに押し付けて、彼女はおもむろに立ち上がる。

「とりあえず信じてくれたみたいだし……吉野の覚悟、きちんと伝わったし。終わったら、その時また連絡して」

 じゃあ、とだけ言い残して、津田は夜の闇に消えた。

 一瞬、今年は中止になったらしい打ち上げ花火の音が、はるか遠くで聞こえた気がした。


 翌日のお祭り。人混みから少し離れて、彼女は、ウララはそこにいた。

「ミコト……来てくれたんだ……」

「約束、したから。そっちこそ、来ないかと思った」

 はぐれてしまわないようにその手を強く、強く握りしめて。祭囃子が響く大通りへと、二人で駆けていく。

 見上げるほどの大きなトラック。その後ろに続くように並び、路上一面に広がって踊り狂う鬼の子達。その気迫が、歩道を行く人々にまで伝播でんぱして、心を熱く震わせる。その音楽が、振り付けが、魂まで深く刻まれた岡山の血を呼び起こす。

 久しぶりに見た圧巻のうらじゃ踊りに、僕は涙が出そうだった。泣きそうな僕とは対照的に、鬼のツノを生やした彼女は満面の笑みで、愉快そうにリズムに乗ってはしゃいでいた。

 屋台を回って、少し高い飲み物とたこ焼きを分け合いながら、失われた時間を少しずつ埋めていく。今だけは何もかも忘れて、くした青春を噛みしめる。

「楽しいね」

 そうだね。僕も、楽しい。

「お祭りって、こんなに楽しかったんだね」

 そうだよ。二年前も、こうして一緒に楽しむつもりだったんだ。

「この時間が、永遠に続けばいいのに」

 僕も……僕も、ずっとそう思っていた。


 楽しい時間は、本当にという間に過ぎていく。太陽は既に落ち、流れる音楽もロックなものから三味線のような軽快なものへと移りゆく。

 いよいよ、祭りのフィナーレ。総踊りの、始まりだ。

「ウララ……僕と一緒に、踊ってくれますか?」

「ふふ、何それ……。うむ、苦しゅうない」

 繋いだ手をゆっくりと離して、すみで二人、手拍子を打つ。

 パパン、パン。パパン、パン。

 流れる音に合わせて両手を振り上げ、揺らめかせて、足は左右にステップして。

 うろ覚えだったせいか、左右を間違えて彼女にぶつかり、思わず顔を見合わせて吹き出す。

 再び手を繋いで大きな輪の一部となり、前へ後ろへと足踏みする。と言っても、僕は彼女と、彼女は僕としか繋がっていないのだけれど。

 彼女の感触が、踊るたびに薄くなっていくのを感じる。生えていたツノも、次第に小さく目立たなくなっていって、ついには全てちりと化す。

「なあ、ウララ」

「……なぁに」

「僕たち、もう一度、やり直せないかな」

 彼女はわずかに目を伏せて、困ったように微笑んだ。

「わかってるくせに。ズルイよ、そういうの」

 もう、掌には何も感じない。そこにはむなしい冷たさしか残っていない。

「踊ってくれて、送ってくれてありがとう。約束、守ってくれて……本当に、ありがとう」

 嫌だ。一人にしないでくれ。ずっとここに、僕の隣にいてくれよ。

「待ってるよ。私、いつまでも向こうで待ってるから。お祭りのたびに、空からミコトを探すから……だからその時は、また一緒に踊ってくれますか?」

 しゃくり上げながら必死にうなずく僕の頭を、そよ風がふわりと撫で上げた。

「苦しゅうない、苦しゅうない」

 きっと彼女は笑っていた。だから僕も、涙で顔をグシャグシャにしながらも最高の笑顔で天を仰ぐ。

 そうやって祭りが終わるまで、僕は一人で踊り続けた。狂ったように全身を空に捧げて、失恋の涙が乾くまでは決して止まらなかった。

 僕はようやく、自分の恋にきちんと終止符を打てた。


「……終わったよ。成仏、したみたい」

『ふーん。今どこ?』

「……イオンモール前、だけど」

『なんだ、近いじゃん。ちょい待ち』

 通話の向こうでカツカツと、靴が地面を打ち鳴らす音がこだまする。

「よっ! お疲れ」

 いきなり軽く背中を叩かれ、慌てて振り返ると、そこには携帯を掲げてニヤリと笑う津田がいた。

「大丈夫? 顔ヤバめだけど」

「……ほっとけ」

「あはは、言うじゃん。でもさ」

 彼女はポケットティッシュを取り出して、僕の手に無理矢理握らせた。

「スッキリして、いい顔になったよ」

 ティッシュには、既に終わった祭りの広告が入っていた。気を抜いたら、また涙腺が緩んでしまいそうだ。

「あー……しんみりするのもいいけどさ、今日はパーっと忘れて飲もうよ! ほら、同窓会の二次会ってことで」

「……そうだね。それもいいかも」

「え、マジ? やった!」

 元気が有り余った様子で「行こ行こ!」と強引に腕を引っ張る彼女に、ふと顔がほころぶ。

 なんだ、見落としていただけで、ちゃんとあるじゃないか。僕がいても許される場所が。いるじゃないか、ここに。僕を気にかけてくれる温かい友達が。


「東京とか大阪とか、都会も滅茶苦茶いいけどさ、久々に来ると地元も意外とイケてるかも。ねえ、そう思わない?」

 ずっと苦手だった。パッとしない地元が。駅周辺だけでほとんど完結してしまう地元が。

 桃太郎像につけたイルミネーションが、冬、唯一の見どころになってしまう岡山地元が。

 それでも、それでも今なら。

「確かに……思ったより、悪くない、かも」

 今更だけど、ほんの少しだけ。昔よりも好きになれたような、そんな気がするんだ。

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