13-4狂恋(下)

 突如顕れた火龍のあぎとが燈吾を喰らう。

 御伽草子、あるいは神話じみた情景に瞠目する。 

 本来、ありえない炎の色、形、動き。なれど、灼け焦げる匂いと音と産毛を焦がす熱は本物だった。

 燈吾、悲鳴混じりに叫んだ。理解はできねど、身体は即座に反応した。

 羽織っていた外套を脱ぎ、火龍――龍を象った炎――へ打ち下ろすように叩き広げる。大兼に誂えさせた最高級の品だったが、迷いはなかった。裏地には使い込んでぼろと化す一歩手前の黒打掛を縫い付けた特注だ。

 炎に対する本能的な恐怖を押さえ伏せ、外套ごと燈吾を抱き締めて、雪が降り積もり始めた地面に転がり出る。蒸し焼きでもあるまいに、しゅうしゅうと蒸気をあげる燈吾にそそけ立って呼び掛けた。

 存外、炎はすぐに消えた。外套を剥ぎ、覗き込めば、燈吾は咳き込みながらも大事ないとふらり手を上げる。実際、彼はすぐに起き上がった。髪や袴の裾やら頬やら、ところどころ焦げていたものの。なれど、疲れ切って、頬は削げ、目の下には隈が浮いている。


 ――黒沼問い、安是と寒田の和合、死にたがりの狂女。そしてこのやり過ぎの見せびらかし。


 どうして今の今まで気付かなかったのだろう。鈍いにもほどがあった。

 怒りに震えがはしる。いかずちじみて感情がびりびりと放出される錯覚を覚えた。怒りの矛先は、頓馬な己ともう一人。


「……阿古ぉっ!」 


 叫びに呼応したように、虚空に真赤の鬼火が顕れ、徐々に像を結ぶ。今度は龍ではない。曲線を描くしなやかで優美なその裸身。

 死にたがりであり、実際に死んだ狂女。己が二度も手を下した母。安是の悪夢。

 見誤っていた。阿古は死にたがりなどではなかった。いや、嘘ではなかったのかもしれない。なれど、死そのものが目的ではなかった。

 〝今〟を起点に考えればよくわかる。

 川慈は言っていた、阿古が目と頭が良く、賭事を好まない。なればこの焔の異形こそ、女の望み。一度死に、オクダリサマとなった娘を利用して産まれ直すことこそが本願。いや、それすら、狂女の桁外れの欲望の通過点か。


 あたしに教えてくれた人がいたんですよ、あたしはその人をおしらさんと呼んでいました――小結の言葉は、幼き頃から己に纏わり付いていた白銀の糸を思い起こさせる。一切合切、気が遠くなるほど長い長い阿古のたくらみ。自分はともかく、寒田までも組み込まれていたなんて。

 殺す勢いで睨みつければ、焔の女は悠然と微笑を返す。生身にはあり得ない幽玄の美貌。現も、夢も、幻も往来し、超越し、圧倒する。なれど――


 許さない、許さない、許さない、絶対に許さない。


 もう、怺える必要はない。外套を剥いだ身から、野獣の唸りが具現されたように、暗紫紅の炎立つ。

 安是の女の光は、とどのつまり情動の顕れに過ぎない。感情の昂ぶりを安是女が都合よく恋心に結びつけ、落人の気を引いただけのこと。その引き換えとして、安是女は他の感情を圧殺せねばならなかったが。

 ここは黒山、己はオクダリ、黒山の排泄口。阿古の思惑で得た力ではあろうが、今、黒山の力を受け継ぐは他でもない己だ。母殺しの娘に力を与えたこと、とくと後悔させてやる。安逸の死をこいねがうほどに!


 是、是、是、是是、是是是是是――


 光が渦巻き、広がり、波及する。黒山に堆積する狂女らの怨念をも巻き込んで螺旋を描く。元より安是女らの悲願は阿古の滅び、抱き込むのは容易い。


 ――滅せよ、潰えよ、死にさらえ! 


 地響きに共鳴して武者震いが走り、遙か上方から見下ろす感覚を得る。黒山全土を俯瞰する全能感。渦巻く暗紫紅に女らのとりどりの光が混ざり合い、複雑に織り込まれゆく。

 阿古は、黒沼から、修羅から、業火からも生き戻った。ならば、光の波で足止めさせて、黒山ごと崩落させ、生きながら埋葬する。もう二度と蘇らせない。

 刺し違えてでもという感傷はないが、阿古を生かしたままでは将来さきは見えない。単純に阿古を凌駕したい、そんな思いも否定しきれなく、その一切合切の感情煮える釜がごぼごぼ音を立てる。


 遠く下方で燈吾が叫んでいるが止まるつもりはない。これだけは譲れない。

 カスノミであろうが、オクルイとなろうが、阿古だけは許すまい。燈吾を真に解き放つ、燈吾だけは死んでも守る、そして自身の十八年の軛も破壊してみせる。


 ――是、是、是、是!


 黒山から湧き上がる怒号と歓喜と興奮。安是女の文字通り積年の怨みを晴らす。後押しされるように呪いじみた文言を口にする。


 我は黒山の排泄口、山姫を継ぎし者、我が意のままに門よ、開け――


 と。

 そのちっぽけな光は、本来、気に留めるべきものではなかった。

 いや、そも、光を放つものでもない。なにゆえ目に留まったのか、理不尽な思いを抱く。

 俯瞰した山の一点、里ですれ違った十に満たない娘が、黒沼の方へと山路を歩くのが見下ろせる。童女が抱く、喧しく泣き喚くその無明のともしびは。


 ……かがり。


 迷ったのは一瞬、その間に背後から抱き竦められ、全能感は霧散した。

 止めよ、首筋に落とされた囁きから身震いするほどの懐かしさ、愛おしさ、温かさが染み入ってくる。今、この時――母を滅ぼそうする時にまったくの不要だというのに。かすみ、かすみとあやすように呼ばれて鼻の奥が痛んだ。


「止めよ、抑えよ、怺えよ。今、黒山を荒らせば、槍玉に挙げられるのはお前ぞ。お前に叛心ある者は未だ多く、証拠や理屈があるなし関わらず、人は災いの因を求める!」


 かまいやしない、阿古を滅ぼし、あんたを解き放つことができるなら、火あぶり、水責め、磔と責はいっそ誉れとなろう。

 なんなら、安是も寒田も特使も道連れに――なれど、無明の灯が脳裏を過る。加えて、続く燈吾の言葉に集中は乱された。


「俺を理由にしてくれるな、俺は望んで母御と約束をした! 母御は俺を嗜めたまで」


「……やくそく?」


 何を言っているのか。意味がわからず繰り返したこちらには答えず、燈吾は自分を背後から抱き締めた――あるいは羽交い締めにした――まま、焔の女に向かって叫ぶ。


「母御の娘御は、母御の想像以上に、聡く、つよく、猛々しい。俺から説くゆえ、炎を沈められよ!」


 真赤の女は面白くもなさそうにこちらを眺めていたが。


「……母御がいては落ち着いて話しができぬ。約束は守るゆえ、二人きりにしてほしい」 


 燈吾の声音は穏やかだったが、有無を言わせない重みがあった。

 しばしの静寂の後。

 ふん、と鼻息めいた音が鳴り、真赤の焔は風雪に吹き攫われたごとく掻き消える。拍子抜けするほどに。


 再び、世界は降りしきる雪と黒沼の静寂に戻る。

 薄墨青の暮色に染まりつつある雪景色と漆黒の沼。

 後ろから腕を回され抱き竦められたまま眺めるその景観は美しかった。

 顔に落ちた赤黒毛を掻き分けて耳にかける指先は優しく、耳元に落とされる吐息は甘く、ぬくもりと重みは心安く、夏草の匂いは自分を酔わせる――だというのに。


「……どういうこと」

「浮気を問い詰める口調だな」


 自分の声音とは対照的に、燈吾は苦笑含みに軽い。

 回された腕の中、喉元に喰らいつく勢いで振り仰げば、降りしきる雪を肩に積もらせつつ燈吾は微笑んでいた。弛緩した、寛いだ、心地良さげな、ともすれば幸福そうな。刺されたとて構わない、むしろ待っている、そんな表情で。


「何がおかしいの」


 なまくら刃となった殺意は放り棄て、代わりに嫌味混じりの言葉で突き刺せば、お前と二人でいることが嬉しいのだと返されて渋面となる。いつものはぐらかす手に乗るまいと喰ってかかる寸前、


「母御と取引をした」


 呼吸を読んだかのように、燈吾はすうと白状した。

 取引――正気の沙汰ではない。

 確かに自分とて幾度か阿古と取引をしたし、縋りもした。しかれど、それは計略のうち。阿古に支払う代償は不当に高いと知らぬ燈吾でもなかろうに。


「お前の身を守るため」

「……守る?」


 思いがけない言葉に瞬く。


「母御は、〈妹の力〉から解き放たれた後、俺がお前を忘れた時・・・・の担保だった」 


 燈吾の言わんとしているところをおぼろげながら察する。

 安是女であるかすみは、寒田男に恋をして安是を裏切った(自分としては元より安是に対する帰属意識は全くないが)。その上、恋したはずの寒田男に捨てられたのならば、まったくの孤立無援となる。その時のための担保。 

 母御と取り交わしたのは祝言を挙げた翌日だと燈吾は言う。黒沼の対岸の木立で揺れていた赤い松明。あれは自分を見ていただけではなかったのか。

 二人きりの祝言を挙げたカツラの巨樹の下、幸福でありながら不安だった。狂った女オクルイとなったなら、燈吾に棄てられるのではないのかと。白く煙った風景は己の心情そのままを映しており、もしか、滲み出ていたのかもしれない。

 一方の燈吾は頭痛と発熱に苦しみながら、先々への手を打っていた。遅まきながらの理解に歯噛みする。


 夫に決意をさせたのは、黒沼問いで視た、妻である己の過去。


 ならば、取引の代償は。

 かすみ、呼ぶ声は柔らかく、肩に置かれた手は力強く、瞳は慈しみ深い。


「改めて言う。お前とは離縁だ」


 雪の一片ひとひらが二人の間のわずかな谷間を舞い落ちる。


「それが取引の代償だというの」

「ああ」 


 微笑みを崩さぬまま頷く夫に、胸に頭を押しつけ俯いて告げる。今の自分の顔を見せる度胸はなかった。


「燈吾は私を忘れなかったし、私をまだ好いているのでしょう? もう担保は必要ない。阿古への代償なぞ踏み倒せばいい」

「俺は只人に戻った。巨人の膂力、韋駄天の神速、天狗の跳力、すべて喪った」

「そんなの、」

「お前は安是に戻った。しかも安是を率いる立場となって。安是殺しの罪科を負う俺が傍にいれば、守るどころか危険にさらす」


 守る、というのなら――刹那。



「守ってきたふうに言わないで、今までだって守ってないじゃない、一番傍にいてほしかった時いなかったくせに、今更!」



 感情が燃え上がり、燈吾の胸ぐらを叩き、腕を振りほどく。

 生家で狂女の世話をしていた時も、娘宿で暮らしていた時も、寄合所で仕置きされた時も、佐合に組み伏せられた時も、誰も守ってくれなかった。子どもの時分からずっとずっとずっと。

 阿古の助力はあったかもしれない。なれどそれはたくらみのうち、無条件の甘やかしではない。小色は兄に守られてきたのに。

 吐き出して、はっと我に返る。

 嫉妬と怨みと憎悪。

 違う、嫉妬はともかく他の感情をぶつけるべくは夫ではない。

 どうして今この時、爆発させてしまったのか。見上げれば、夫はどこか寂しげなふうにこちらを見ていた。

 黒沼問いで自分の過去を知った燈吾が平気でいられるはずがない。

 背の君を傷つけた。一等大事にしたい、何より尊い、愛しているのに。



「……お前もまだ、許していないのだな」



 口に出されて、心の臓を掴まれたごとく胸の奥がぎゅうと痛む。

 違う、誤解だ、もう忘れた、私はあんたさえいればいい――否定の言葉は紡がれない。

 何も言えず、項垂れた。赤黒毛が顔を覆い隠し、いや、赤黒毛に埋もれ隠れて思う。


 突き詰めれば、そう、なの、だろう。


 燈吾に褒められようが、カスノミ様と敬われようが、新都で新たな暮らしを始めようが、きっと忘れられない。心の底に憎悪の川は流れ、覗き込む者を引きずり込み焼き尽くさんと煮え滾っている。

 安是も、芳野嫗も、古老も、佐合も、娘宿の同輩らも、阿古も、一切合切、自分を傷つけた者、軽んじた者、踏みつけにした者、全部を許せない。まだ疼く、燻る、燃え上がる、火種は残る。

 執念深い、過去に拘泥する、狭量な女。なれど、ありのままの己。

 降る雪は、醜い心根を覆うどころか、むしろ浮き上がらせた。

 カスノミはかすのみ。燈吾という良人を得たとて、変わるはずはない。新都赴き、豪奢な衣装で飾り立てたとしても。ただ、隠そうと無様に足掻いていただけ。

 夫の眼差しを真正面から受け止める勇気はなかった。俯いたまま、それでも、と思う。

 心根が理由で離縁されるというのなら、まだわからなくもない。赤黒毛の幕を下ろしたまま、呻くように問う。


「……阿古は何を考えているの。私たちが離縁したところで、なんの得にもならないでしょう」


 母御の考えは俺にも読み切れんが、と前置きして燈吾は言う。


「新都に強い執着心を持っているようだ。お前を新都に行かせたがっている」


 自分を新都へ?

 都の大火――遷都の起因。阿古の第一の里帰りと同時期に起きた災禍が過る。関わりのあったことなのか、まさかと思いつつも否定しきれなかった。全ての災厄の源、何をたくらんでいるのか。


「どうやら新都の貴人か資産家にお前を嫁がせんと目論んでいるらしい。それには俺が邪魔なのだろう」


 は、と。あまりに突拍子もない話に思わず顔を上げ、間の抜けた声を漏らす。


「母御もまた、見返したいと思うておるのかもしれん」


 ……見返す、里を?


 目をしばたかせるが、燈吾はそれ以上の説明を加えない。

 阿古にいたっては自業自得だ、見返すなんておこがましい、なにゆえ阿古の腹いせに付き合わねばならぬのか。そも、安是の赤黒毛の忌み子が貴人に嫁ぐ、誰が聞いても笑い話だ、莫迦げている――


「俺は母御の考えに賛同している」


 今度こそ、挙動も言葉も声も置き去りにされ、真白い息のみが漏れた。夫のひどく生真面目な面持ちが一瞬煙る。白雲が去ったのちもその表情は変わらなかった。変わらぬまま、続ける。


「先にも言ったが、お前はまだ己の立場を理解しきっておらん。新都から金と物と人を引き連れ戻ってきた。すなわち分不相応な権力を携えて。それがどれほど危ういか」


 吹き付ける風が強くなる。燈吾の口調も早さと強さを増す。口を挟む隙がない。


「お前におもねりおこぼれに預かろうとする者、お前が権力を持つことに納得いかぬ者、単純に以前からの怨みを抱く者。一つ何かを踏み外せば、吊し上げを喰らわせられる、そうでなくとも四六時中、足元を掬われないか注意せねばならん。新都に留まっていれば、少なくとも里人の脅威は避けられたものを。

 これだけ安是に長逗留していれば、油屋も気取る。きゃつらは東国全土に情報の網を張っている。お前を付け狙う者は倍増する」


 そして、燈吾もまた、はっと息を吐き、落とすように呟いた。


「繰り返すが、俺は安是者を斬った。傍にいれば仇となる」


 小結は安是と寒田の和合を目指していたが、安是女と結ばれるには安是男は全て滅ぼすべしと木偶の思考に落とされていたか。阿古の思惑が働いていた可能性もある。

 だが、安是殺しは〈妹の力〉の呪いゆえ、燈吾に悪意があったわけではない。少なくともそう言い張ることはできる。

 悔悟の響きに、咄嗟、出掛かった言葉を呑み込んだ。

 そんな慰めに意味はなく、ただの自己満足にしかならない。安是を殺した事実は消えず、殺された怨みとて同様。それは骨身に染みて知っている。


「お前には絶対の、盤石の、極星のごとき味方が必要だ」


 ……だから、阿古を絶対の味方に? 

 それこそ笑い話で、最初から蹴躓いている。なれど燈吾は笑うどころかいつもの軽口も吐かない。 


「お前を呼び寄せた新都の〝主〟とやらは、おそらく東の宮――弟帝だろう」


 甲高い声を上げる風雪に聞き違えたのだと思った。


「諸国を遊学していた頃、弟帝が洋行中だという噂を聞いた。大兼益二郎は、今は官僚だが、かつて弟帝の教育係をしていたはずだ」


 聞き違いでないのなら、法螺話か。だってどうして、そんな真剣な顔で考えつこう。

 かすみ、と続く言葉も厳かに紡がれる。


「〝主〟――弟帝をたらし込め」 


 音の咀嚼が追いつかず、訊き返した。


「今、何と言ったの」

「弟帝の情人となれ、と言った。実現可能かつ最短で盤石の味方を得るには、この手しかあるまい。安是女の光に並々ならぬ興味を持っているそうだな。現帝には子がおらず、弟帝が次期帝位に就く公算は大きい。暗紫紅の光をまとわせ、くゆらせ、からませ、虜にしろ」


 この男はいつもこうだ。真剣な話をすべき時に軽く、ふざけた話に重々しく、さも本気のような。

 面白くない冗談だと笑おうとした。なれど強張りながらもわななく唇は、意図するふうに動かない。

 凜々しく、雄々しく、熱っぽく、いつか閨で安是と寒田の融和を語ったのと同じく、いやそれ以上に真摯に。自分が恋した男そのままで、外道を語る。


「さすれば東国全土、もう誰もお前に手出しをしない、下に見る者もいない、里を立て直しながらも、今までの半生と帳尻を合わせられよう」

「……正気で言っているの」


 揺れる墨色の袖と薄暮の境界が曖昧になりつつある中、正気かどうかはわからねど本気よ、と男は嘯く。いや、嘯いてなどいない。まったくの素なのだ。


「あんたはそれでいいの。女房が他の男に抱かれて」


 意図せずして、縋る声音となった。

 いや、恋心が頭よりも早く算段した結果かもしれない。対して、燈吾の返答はごく短い。


「業火よの」


 業火に焼かれながら生き、欺き、守り、尽くした、老女の姿をした安是女を思い出す。残ったのは骨と皮と、光と恋。

 離れないで、傍にいて、怨みも責務も罪科も何もかも忘れて、二人で逃げよう――喉元まで出掛かった懇願は、なれど燈吾の諦観と決意と清々しさの入り交じった眼差しに押し止められる。どうして、そんなまっすぐに見るの。


「俺に執着して、お前は何一つ諦めるな」


 ――そんな無欲な女ではなかろう、言外に言われた気がした。


 欲しいものはただ一つ、燈吾、あんただけ。

 それは嘘、見透かされている。誰より強欲な自分自身。

 もっともっとと赤黒毛の小汚い童女が袖を引き、満足させてよと同じ髪色の半裸の女が背後から腕を絡ませてくる、そんな幻。

 幻影に挟まれ、呆然としながら問う。


「私が新都に行ったとして、燈吾はどうするの」


 言ったろう、燈吾は続ける。


「俺はお前を見果てる・・・・。どこにいても、なにをしていても、なにがあっても、最期まで」

「……そんなの、」


 きっとどうせ、小色のようなか弱い娘に言い寄られたなら悪い気はしないでしょう。ひどい裏切りだ。なれどその裏切りは、かすみ自身の気性に端を発している。自分が燈吾だけで満足できる可愛げのある性分だったなら。己の業。


「そしてお前が弟帝――次期帝の寵愛を得て揺るぎない地位を得た暁には、攫いに行く」


 やはり燈吾は至極真面目な顔をしていた。


「この手しかあるまい。お前が真に満たされ、俺はお前を諦めず、母御を出し抜くには」


 呆け、見つめた。妻に帝の愛人になれとのたまい、同じ口でお前を攫うと宣し、阿古を出し抜くと言う。

 まさしく正気なのか、この男は。 

 できるわけない、と声が掠れる。まずもってして、


「私が、弟帝に見染められると本気で思うの」

「無論」

「……あんたはもう〈寒田の兄〉じゃない、〈妹の力〉を喪っている、どうやって攫うというの」

「お前の協力と知恵と情が必要だ。勘定に入れてある」


 しゃあしゃあと言われ、まさしく開いた口が塞がらない。

 そうして突っ立っていると、汚れた顔を袖口でごしごしと拭われた。野菜を洗う手つきにも似て、無遠慮な手でこねられているうちに、口が動かせるようになる。


「私が嫌だと言ったら? あんたを忘れたら? 帝の情人なんてさぞかし贅沢し放題でしょう。心移りするかもしれない」

「変わらんよ、俺はお前を見果てる。俺を思い出すまで、贅沢に飽きるまで、あるいは帝が死ぬまで待って、迎えに行く」


 ――業火に焼かれながら。


 燈吾の青味を帯びたまなこにほの昏い焔が燃え立つのが見えた気がした。

 幾度となく過ぎった幻視。黄金原ごと燈吾を呑み込んだあの炎は、あるいは安是の光ではなく、夫自身の激情だったか。

 惚れた女が他の男に抱かれるのを見続け、待ち続け、焼かれ続ける。女の飢えを満たすため。

 この男は、狂っている。正気のまま、狂っている。狂気が男の常なのか。

 顔を拭き終え、袖を伸ばしながら、なれど、そう長くはかかるまいと託宣じみて厳かに紡ぐ。


「お前の弱いところを知り尽くしているゆえ」


 重々しいその言葉に、ふ、と息が漏れた。

 一つ吐き出すとふ、ふふ、一つ二つと止まらない。

 ふ、ふふ、ふふ、は、はははと止めどなく笑いの波が押し寄せる。しまいには腰を折り、腹を抱え、涙を滲ませて。

 違いなかった。

 所詮、かすのみ、好き者、色狂い、あんたにだけは。

 発作じみた笑いが落ち着けば、久方ぶりに見たなと頬から口元にかけて手を添えられた。そう、皮肉ではない笑いはいつぶりだったろうか。

 お前は眠る時もしかめ面ゆえ、笑顔は稀なのだと言う。眠った顔は確かめようがなく、しかめ面とは随分な言われようだった。

 反論しようと開きかけた口に、母指の腹が押し当てられ、紅を刷くようになぞられた。

 わずかに唇をずらして指先を噛んだ瞬間、火花が散った気がした。

 かすかな火花は誘い火。導火線に火を灯し、堪えに堪えてきた暗紫紅の光が湧き立つ。無数の手が男を絡め取り、逃がすまいと意志持つごとく。今、光り燃やしては、安是にも寒田にも大兼らにも不審に思われる。ああ、なれど――

 察したのか燈吾が身を離した。あっさりと熱は逃げ、風雪が火照った身体を冷ます。

 と、ばさりと布が広がる音を聞く。燈吾が拾い上げた外套を被せてきたのだ。暗くなった刹那、口を吸われた。

 暗闇の中、断りもなく、性急に、喰らうような勢いで。息をするのももどかしく、互いに絡め、舐め取り、溶かし合う。

 項へ、肩へ、胸元へ、唇が降って吸われる。血潮が満ちては引き、引いては満ち、快楽なのか寒気なのか気狂う感覚が駆け巡る。

 荒れ狂う海の小舟のごとく互いに翻弄されている。助けを求めるように背へ腕を回し、喰らい付くように爪を立てた。

 即席の暗幕は暗紫紅の光と青白の蛍火に満たされ、泣き出しそうな夫の顔が照らされる。さっき色仕掛けしてきた男とはまるで別人、否、同一人物だからこそ惑わされる。泣いてくれるなと囁かれ、自身もまた同じ顔をしているのだと知る。


 どうか、お願い、もう少し――


 ――カスノミさまぁ、


 遠く届いた童女の声には心当たりがあった。先ほど天から見下ろした、赤子を抱き山路を歩く安是娘。

 外套の下、かがり、と呟きが漏れる。

 視線が交錯した。なぜだか、ばつの悪い気持ちが膨れ上がる。なれど、夫は満足げに微笑んだ。


 どうして―― 


 問う間もなく外套の幕が取り払われ、肩に掛け直される。


 ――カスノミさまぁ、カスノミさまぁ、いずこにおわしますか、


 叫びは繰り返され、黒沼の水面を揺らす。


 ――カスノミさまぁ、かがりが泣き止まないんです、すごく熱いの、病かも、


 寝入りばな、あの子の体は熱くなる、病ではない。そも、病ならば大兼やその付き人らの方が適切な処置をできるものを、なぜ自分を呼ぶのか。私は、あの子の母親を。


「〝カスノミ様〟と呼ばせているのか」


 つい先ほどまで情交の最中だったとは思えぬほどしれとした声音だった。なかなか皮肉が効いていると人の悪い笑みを浮かべる。


「……そうよ。オクダリサマオクダリサマとうるさかったから、二度と呼ぶなと厳命したわ。そしたらどう呼べば良いかと訊いてくるから、昔と同じにしろと言ってやった」


 その時の、川慈の表情は傑作だった。

 里と大兼ら新都の特使との橋渡しとなったかすみを、今まで通り〝かすのみ〟と呼ぶ。元々〝滓の実〟〝幽の身〟という蔑称と知る一定の年齢以上の里人は気まずい思いをしているだろう。

 さらに当初、かすみを〝安是殿〟と呼んでいた大兼らが、里人に倣い〝カスノミ殿〟と呼び始めたため、いつ由来を訊かれるのではないかと恐々としているに違いなかった。

 里人に忘れさせるつもりはなかった。見下していた者から施しを受ける屈辱、引け目、いたたまれなさを自分たち自身の声で何度でも思い出させてやる。忘れるなど許さない。

 そう、自分はまったく許していない。燈吾にはお見通しだった。この飢えを、乾きを、怨みを癒やさねば、背の君と添うたとて満たされない。さあれど――


「歩けるか」


 燈吾はかいがいしく外套の釦を留めながら訊いてくる。切り落とされた小指の先が痛々しかった。


此度こたびは腰が抜けておらぬか」


 火を放った〈白木の屋形〉に燈吾が迎えに来た折り、接吻だけで腰が抜けたことを受けたからかいだった。

 同時に、最後の甘やかしなのだと理解する。燈吾の眼差しはこの上なく優しい。

 歩けないとごねたならばこのまま自分と添うてくれよう、ねだったならば里を捨てて共に逃げてくれよう、もしかしたなら一緒に死んでくれるかもしれない。

 物の怪のくせに、外道のくせに、狂っているくせに甘い。帯を結び、黒打掛を繕い、蛍火で山路を照らす。自らこの甘露を手放すなぞ、正気の沙汰ではない。だのに。


「燈吾こそ、ついてこれるの」


 口を突いたのは挑むような台詞だった。


「世の果てまでも」


 間髪入れずの返答。丁々発止と打ち合うように。


「行き着く先は、焼け野が原かもしれない」

「一面の暗紫紅の海、さぞかし美しかろう」


 瞳の奥に昏い炎が燃え上がる。

 男の心裡か、それとも、将来の地獄絵図を映し出しているのか。互いの眼を覗き込み、同時に逸らした。


「行くか」

「行くわ」


 降りしきる雪の中、背を向け歩き出す。

 早く行かねば、童女とかがりが凍えてしまう。里の采配も気にかかった。知識階層の大兼と、生粋の里人である川慈の言い合いが始まる頃合いだ。寒田へ送った特使も報告にやってくる。娘宿の憤懣も限界近く、対処せねば。〝主〟を虜にするなら、新都風の行儀見習いか、西つ国の言葉を学ぶべきか――

 雑多な考えで頭の中を埋め尽くした。でなくては、脚が止まる。二度と動かせない。全身全霊、燈吾を求めているのに、自ら離れるという愚行。まさしく狂っている、なれど。


〝俺に執着して、お前は何一つ諦めるな〟


 それは鼓舞であり、煽りであり、許しであった。

 妥協するな、屈服させよ、知らしめよ。一切合切、強欲に手に入れろ、お前にはその価値と権利と意義がある。他の誰でもなく、黒沼問いで全てを知られた夫にだからこそ、疑いなく。

 黒沼の水際に沿って歩く。背中に見送る視線を感じ続けて。だからこそ、俯かず、振り返らず、止まらず、背筋を伸ばしていられる。

 そうして、歪曲する黒沼の対岸へと辿り着く。ここから先は、黒沼を外れて山路へ入る。燈吾の眼差しはもう届かない。見果てる、と言ったところで四六時中見ていてくれるわけではない。事を為さねば、攫いに来てくれない。行かなけりゃ、行けるだろうか、行くのか――


 ああ、見事だ、と。どこか感極まった声が雪と共に零れ落ちるのを聴く。


 考える前に身体は振り向き、自身、息を呑んだ。

 光は堪えていた。実際、前を向く視界には入ってきていなかった。それが後ろを見やれば、黒沼のきわを辿り、長い長い打掛の裾を引くように暗紫紅の炎が燃え立っていた。

 黒打掛を裏地とした外套に覆われた箇所からは漏れ出なかったが、その分、滴り落ち、描き出した焔の道。

 大粒の雪が暗紫紅に照らし出されて、さらに黒沼の水面に映し出され、何倍にも膨れ上がる。満開の桜の散り際にも、大火の火の粉にも似て、光は中空で舞い踊る。冬越えの木々の枝には光を吸った雪がそこかしこ降り積もり花を咲かせていた。

 自らたなびかせた光で対岸にいるはずの燈吾はおぼろな影しか見通せない。常ならば飛ばしてくれていた青白の蛍火も見当たらない。未練になると燈吾も堪えたのか、暗紫紅に掻き消されたか。


 ふいに、大変な思い違いをしていたと知る。


 どれほど厭い、疎もうと、己は安是の女。

 ならばこそ、恋の行く末は、暗紫紅の光が照らし示すものだと考えていた。なれど、今、山路の先は暗く、空は分厚い雪雲に覆われ、星は見えない。光は自分の背後を燃やし、退路を断つ。

 道は前にしか敷かれず、将来さきは暗闇、光も誰も何も示されない。今更ながらに肩が震え、脚が竦み、息が詰まる。燈吾――

 


 ――君が征く かすみ燃え立つ 後ろ背の 焼け野が原よ 吾は見果てむ

 


 どれだけ眼を凝らしても、視界は滲み、歪み、霞み、背の君の姿は見えぬ。

 なれど、黒沼の彼岸、炎幕の向こう、暗紫紅の吹雪を超えて、こんな絶歌が届いたなら。征け、と背を押されたなら。焼け野が原すら見果てると言うなら。

 黒外套、暗紫紅の光、赤黒毛の髪を背にたなびかせ、ただ一人、夜に沈みゆく黒山へと踏み出した。〈かすみ燃ゆ序・了〉





Specialthanks to Oya Ichigen

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かすみ燃ゆ ~炎情官能伝奇譚~ 坂水 @sakamizu

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