第七章 新たな依頼
消防士・古賀直沖の逮捕が警視庁により正式に発表されたのは翌一月十七日の事だった。容疑はひとまず蒲生晴孝、静川優里亜に対する殺人に限定され、パトリック・シェルダンと立浪権之助の死に関する責任は今後の捜査を待った上で罪状を決定し、改めて再逮捕という形になる見込みとなった。
何しろ消防士が意図的に見捨てる事で要救助者を死に追いやるという前代未聞の事態である。これが殺人に該当するのかどうかで警察や検察ではもめているらしく、罪状決定にはしばし時間がかかるようだ。とはいえ、何らかの罪に問われる事は間違いない。罪状はともかく、彼は四人の人間の命を奪った犯人として裁かれる事になるはずである。
同日、警視庁鑑識課は押収した古賀直沖及び蒲生晴孝の防火服からわずかながら部分指紋を発見する事に成功し、その部分指紋が静川優里亜のものである事を確認した。さすがに火災現場で火や水に晒されていた防火服だけあって何かが出るかどうかは賭けだったらしいが、そうした火や水の届かない隙間部分にわずかながら付着しているのを圷が執念の検証の末に発見したのである。さらに圷はそれだけで終わろうとせずに更なる検証を進め、古賀の防火服のつなぎ目の部分から返り血と思しき微量の血痕を採集する事に成功。一度の鑑定しかできないというギリギリの量だったが、DNA鑑定の結果、この血痕が他ならぬ静川優里亜の物である事が確認された。これにより、少なくとも古賀が火災現場で静川優里亜を殺害した事は、物的証拠面からも決定的なものとなったのである。警察はその後蒲生殺しに関する証拠の収集に力を入れる事になるが、こちらに関する決定的な証拠が出る物もはや時間の問題であった。
一方、東京消防庁も今回の一件で無傷というわけにはいかなかった。何しろ現役の消防士、それもエリート部隊である特別救助隊の人間が火災現場で要救助者の命を奪うという事態である。最終的な処分は、東京消防庁長官他幹部数名の減俸、直接の上司である杉並第三消防署署長及び現状での副責任者である南田の降格、さらに杉並第三消防署特別救助隊そのものの再編成となった。蒲生隊長も殺害されているという事情から辞職者こそ出なかったのだが、それでも東京消防庁からしてみれば大きな痛手である。南田は事務職へ降格となり、他の隊員はそれぞれ別部署や別の署へ異動。事件に関係ない消防士たちによって杉並第三消防署特別救助隊を再編成する事で、とりあえずこの件は手打ちとなった。
こうして各方面に多大な影響を与えたこの事件であったが、この火災現場という特殊な場所で起こった殺人事件の犯人に対し、逮捕からしばらくして誰が言い始めたのか本人も知らぬ間にある異名がつけられる事となった。その異名はネット上で大きく拡散し、やがてその名前は伝説の犯罪者として人々の記憶に残る事になった。彼らは事件の報道が流れるたびに、この事件の犯人……古賀直沖につけられたその異名を呟くのであった。
いわく、『業火の殺人者』と。
一月十七日木曜日。榊原が一騎打ちの末に古賀を陥落させた翌日。当の榊原は大騒ぎするテレビの画面を見つめながら、今回の事件の記録をまとめていた。
すでに古賀が警察に逮捕された時点で事件は榊原の手から離れている。もはやこの事件に関して榊原にできる事は何もなかった。あの後、警察からの簡単な事情聴取が終わると榊原と瑞穂は早々に消防署を辞し、そのまま帰途に就いたのである。今朝になって南田からはお礼の電話があり、近日中に依頼料を振り込むという申し出があった。聞けば他の署で事務職に就く事になったらしいが、本人は気が楽になったとどこか吹っ切った様子であった。また、大塚からも協力を感謝する旨の連絡があったが、こちらは軽く流して終わっていた。
「しかし、『業火の殺人者』とは、随分本人とかけ離れた異名が付いたものだ。まぁ、異名なんてそんなものかもしれないが」
榊原はそう呟きながら、テレビを消した。事務所に静けさが戻り、榊原のペンを動かす音だけが響く。
と、ちょうどそのとき、事務所のドアが遠慮がちにノックされた。瑞穂ではない。彼女だったらもっと遠慮なくドアをノックして返事も待たずに入ってくるはずだ。また、亜由美もこんなノックではない。
「どうぞ」
榊原が呼び掛けると、ドアが開き、その向こうから見覚えのある人間が顔を見せた。
「あなたは……」
「帰りに寄ると言っていたじゃないですか」
そう苦笑しながら彼女……淀村伊織は部屋の中に入ってきた。
「ニュースを見ました。あの火災にそんな裏事情があったんですね。ニュースだと警察が真相を暴いたみたいになっていましたけど、当然、榊原さんの仕事ですよね?」
「……想像に任せます。と言っても、話を聞いたあなたに隠す意味合いなどないんですが」
そう言いながら、榊原は記録を中断して伊織にソファを勧めた。伊織がソファに腰を下ろすと、榊原も反対側のソファに腰かけて対峙する。
「それで?」
「と、言いますと?」
「おとぼけはなしにしましょう。あなたは私に話があると言っていました。当然、思い出話というわけではないはずですね」
その言葉に、伊織は微笑む。
「わかりますか?」
「あなたは仕事とプライベートをきっちり分ける人だというのが十二年前の事件における私の印象です。ならば、一昨日言っていた『話』というのはビジネス……すなわち弁護士としてのあなたに関係する事だと判断したまでです」
「相変わらずの推理力ですね」
そう言って少し笑うと、伊織は少し真面目な顔になった。
「実は、榊原さんにお願いしたい仕事があります。もちろん、これは正式な依頼ですから、ちゃんと依頼料はお支払いします」
「何か事件ですか?」
「それが少し複雑なんです。でも、榊原さんなら解決してくれるかもしれないと思っています。聞いてもらえますか?」
榊原は一瞬考え込んだようだが、すぐにその目が真剣なものになった。
「いいでしょう。ひとまず話をお聞かせください。受けるか受けないかはそれからです」
「わかりました。それでは……」
伊織がぽつぽつと話し始める中、榊原の思考はすでに新たな依頼へと切り替えられていた。
同時刻、東京都立立山高校。深町瑞穂は大きなため息をつきながら友人二人と昼食をとっていた。登校してみたら、案の定、昨日のスーツ姿が学校中で噂になってしまっていたのである。級友たちからはからかわれ、担任からは「何か悩み事でもあるんだったら相談に乗るぞ」と真剣な表情で言われる始末。瑞穂は正直疲れ果てていた。
「そりゃ、確かにスーツ何て紛らわしい格好をしていた私が悪いのはわかっているんだけど……ちょっとみんな噂し過ぎじゃないのかなぁ」
「まぁまぁ、正直私もびっくりしたし、このくらいですんでよかったじゃない。下手したら職員室に呼び出されていたよ」
落ち込む瑞穂をバスケ部所属の友人・磯川さつきが慰める。
「あの……それで、結局どうしてスーツなんか着ていたんですか?」
もう一人の友人で一年生ながら文芸部部長を務めている西ノ森美穂が控えめに、しかしそれでいて結構直球で尋ねた。
「えーっと、あれは……まぁ、ちょっとミス研の活動でね」
「ミス研の活動って……まさかまた殺人事件に巻き込まれたとか? って、あはは、さすがにそんなわけないか」
さつきがそう言って笑うが、微妙に当たっているだけに瑞穂は曖昧に顔を引きつらせながら笑うしかなかった。
「でもまぁ、実際スーツの瑞穂ってなんか似合ってたよ。どこかのOLさんって感じで」
「そうなんですかぁ。私も見てみたかったです」
「美穂ちゃんまでやめてよ……。あとさつき、それ以上からかわないで。正直、これ以上耐えきれる自信がない……」
「はーい、反省してまーす」
さつきはおどけ気味に頭を下げる。瑞穂はもう一度ため息をつくと、弁当の中のタコさんウィンナーをやけくそ気味に口の中に放り込んだ。
「何だろう……事件の時より学校の方が疲れるってどういう事なのかな……」
瑞穂が二人に聞こえないように小声で呟く。と、ちょうどその時だった。
急に瑞穂の携帯電話が鳴った。慌てて取り出すと、画面には『榊原恵一』の名前が浮かんでいる。
「あれ? 電話をかけてくるなんて珍しい」
瑞穂はそう小声で言いながら、すぐに電話に出た。
「はい、瑞穂です」
『私だ』
「いや、そりゃわかっていますけど」
『実は瑞穂ちゃん、君に急遽手伝ってもらいたい事ができた。すまないが、今日の放課後空いているかね?』
「まぁ、ミス研の部員は私しかいませんから、私の気分次第で部活なんてどうにでもなりますけど」
コメントしづらい瑞穂の答えに、榊原は苦笑気味に続けた。
『助かる。じゃあ、放課後事務所に来てくれ。そこで少し打ち合わせをしたい。少々複雑な依頼を受けたものでね』
「わかりました。じゃあ、また」
電話を切ると、目の前の友人二人が興味津々と言った風に見つめていた。
「もしかして、例の探偵さん?」
「まぁ、そうだけど。手伝ってもらいたい事があるんだって」
ちなみにさつきと美穂は六月にこの高校で起こった殺人事件の際に榊原に出会っている。また、瑞穂が普段から榊原の事務所に入り浸っているのも知っていた。
「でも、あの探偵さんが瑞穂さんに助けを求めるなんて、珍しいんじゃないですか?」
「確かにそうなのよね。何だろう、普段から自分で助手だって言ってはいるけど、いざ頼られると何か不気味ね」
何とも理不尽な言い草である。
「ま、いっか。一年生もあと少しだし、頼まれたからには全力でやらないとね」
それが榊原の教えだから、と瑞穂は心の中で言い添え、お弁当の最後のおかずを口の中に放り込んで飲み込んだのだった。
業火の殺人者 奥田光治 @3322233
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