第六章 対決
推理劇の舞台となったのは、杉並第三消防署の大会議室だった。そこには特別救助隊所属であのホテルに突入した隊員たちが全員集められていた。
南田芳和、雨笠豊範、古賀直沖、下杉龍太郎、時川敦人、神田裕次郎、浮島大樹……それぞれがなぜ自分たちが呼び出されたのかわからないと言った風に困惑気味に辺りを見回している。つい一時間ほど前に、一昨日ここで自分たちに話を聞いた東京消防庁本部の大塚が再びやってきて、前日の調査に関する結果を報告書にまとめたのでその最終確認に付き合ってほしいと要請してきたのだった。そう言われてしまえば従う他ない。
ただ、この中で唯一、南田だけはこの集まりが自分の依頼した榊原の要請によるものである事、そしてこの場で何か起こるかもしれないという事を薄々実感していた。そして、その予感は見事に的中する。集合してから十分後、会議室のドアが開き、大塚の後に続いて見慣れたスーツ姿の男が姿を見せたのだった。
「どうも、お忙しいところ申し訳ありません」
男……榊原恵一はそう言って頭を下げた。大塚はそのまま後ろの方へと下がって腕を組む。どうやら、この場は最初から榊原に任せるつもりらしく、口を挟む気は一切ないようだ。後に続いて入った瑞穂も、そのまま大塚の隣へと控えた。
準備は整った。そして、榊原は消防士たちを目の前にして、淡々と推理を開始した。
「さて、一昨日はどうもありがとうございました。改めまして、榊原恵一と申します。この度は、先日あなた方に聴取を行った高円寺のホテル火災における蒲生晴孝隊長の死に関し、一定程度の報告をまとめる事ができましたので、当事者であるあなた方にその報告に間違いがないかどうかを確認してもらうべく、こうしてお集まり頂きました。何分面倒ですが、お付き合いください」
「は、はぁ……」
代表して神田が何とも言えない返事をする。他の消防士たちも戸惑っている様子だったが、ひとまず話を先に進めようという事になったらしく、榊原に先を促した。
「それでは、まず問題のホテル火災、及び蒲生隊長の死に関して一度おさらいしておきましょう。一月十一日金曜日の午後十時前後、高円寺にあるホテル『ホテル・ミラージュ』九階で寝タバコを原因とする火災が発生し、午後十時にここ杉並第三消防署特別救助隊に出動命令が下りました。蒲生晴孝隊長以下八名が出動し、現場到着後即座に九階に突入。しかし、救助中に蒲生隊長の姿が見えなくなり、捜索したところ炎上中の九階の一室で亡くなっている蒲生隊長を発見した。これが一連の事件の流れです。そうですね?」
「は、はい。その通りです」
南田が緊張した様子で答える。
「私たちはこの蒲生隊長の死に関して調査を行いました。現役の救助隊隊長が火災現場で殉職したとなると、やはりそれなりの事実関係を把握する必要性があるからです。しかしながら、私はこの一件を調べる中で、東京消防庁としてはやや不本意な結論を導かざるを得なくなりました。今日は、その件についてお話をしたい」
「不本意な結果って……どういう意味ですか?」
古賀が不安そうに聞く。これに対し、榊原は何の前触れもなくいきなりズバリと切り込んだ。
「それは、蒲生隊長の死が、単なる事故死ではないのではないかという可能性です」
その言葉に、その場にいた誰もがギョッとした表情をした。それを尻目に、今まであくまで低姿勢で様子見をしていた榊原が本性を現していく。
「私はこの事件……あえて私は事件と呼びますが、とにかくこの事件がただの事故ではないと考え、この件に関して徹底した調査を行いました。そしてその結果、この事件のすべてを明らかにする事に成功したのです」
「真相って……事故じゃないって、どういう事でありますか!」
時川が上ずった声で問いただしてくる。それに関する榊原の答えは簡潔だった。
「端的に言えば、私はこの事件が殺人ではないかとい疑いを持っています」
「な……」
消防士たちは絶句した。直後、古賀が激昂して立ち上がった。
「な、何を言い出すんですか! あれはどう考えても事故だった! それをいきなり殺人だなんて、そんな……蒲生隊長の最後に泥を塗るつもりですか!」
「まさか。むしろ逆です。私は蒲生隊長の無念を晴らすためにこの場に立っているのです」
それは、榊原から消防士たちに対する宣戦布告だった。下手に出てからのいきなりの急展開に、消防士たちの表情が完全に思考停止状態に陥っている。瑞穂は、この緩急の付け方も榊原の作戦なのだと理解した。不意打ち気味に相手に宣戦布告する事で相手の思考をゴチャゴチャにし、その隙を逃さず一気に畳みかける。榊原のテクニックの一つだった。戦いはもう始まっているのである。
「さて、事情を理解してもらったところで、話を先に進めましょう。この事件が殺人であるとするなら、蒲生隊長はどのように殺害され、そして、誰が蒲生隊長を殺害したのか? そして、何を根拠に私が蒲生隊長の死を殺人と判断したのか。今からそれについて検証していきます」
その言葉に、消防士たちの顔が一気に緊張する。それは、普段現場に飛び込むときの緊張とは全く別物の緊張感だった。
「蒲生隊長が現場である九階に突入したのが記録では午後十時二十分。遺体発見はその二十五分後の午後十時四十五分。したがって、もし蒲生隊長の死が殺人だとするなら、犯行はこの二十五分間の間に燃え盛る火災現場の中で発生した事になります。事件当時、この九階には十人の宿泊客と突入した蒲生隊長を含める五人の救助隊員がいました。このうち、宿泊客の平良木敦美、甲嶋昭太郎、小堀秋奈の三名は蒲生隊長突入前にすでに死亡していた事が解剖記録から判明していますので犯人ではありえません。また、そもそも九階に突入していない南田副隊長、神田裕次郎さん、浮島大樹さんの三名は、容疑者から除外しても構わないでしょう」
そう言われて、南田、神田、浮島の三人がホッとした風に息を吐く。逆に、指名から漏れた四人は緊張の度合いを増していた。
「蒲生隊長の遺体は南東の廊下の一番奥にある九二〇号室の中で発見されました。死因は首を折った事によるもので、検視報告では降ってきた瓦礫か何かで頭を強打した事によるものではないかとされていましたが……私はこれを何者かに背後から殴られた事による撲殺ではないかと推察しています。いずれにせよ、蒲生隊長はかなりの重装備で、しかも現場は燃え盛る火災現場。それゆえ遺体を運ぶ作業自体かなり難しいと考え、私は殺害現場を少なくとも遺体発見現場の九二〇号室ないし南東の廊下のどこかと考察しています。つまり、蒲生隊長を殺害しようと思えば、犯人は必ず一度はこの南東エリアに足を踏み入れていなければならないのです。なおかつ殺害状況などから見て、おそらく八分から十分程度の時間は必要でしょう。これらを総合すれば、死亡推定時刻の二十五分間の間に、八分から十分間、南東のエリアに行く事ができた人間が有力な容疑者という事になります。では、九階にいた人間にそれが可能な人間は果たして存在するのでしょうか?」
榊原は一人一人の顔を見ながら推理を進めていく。
「この時点で容疑者から外れるのは宿泊客の平良木周平と、淀村伊織です。平良木周平は足が悪い上に現場とは真反対の北西エリアの部屋で倒れていました。このエリアは出火元に近いため火勢が強く、ろくな装備もない宿泊客が突っ切っていくのはたとえ健常者でも無理。犯行は不可能です。また、淀村伊織は火災発生直後から自室の窓から外へ向かって助けを求めており、その姿がテレビカメラで撮影されています。彼女は救助されるまでずっと窓から身を乗り出していたため、現場に行く事は不可能です。また、同じく宿泊客の静川優里亜は突入前の時点ですでにかなりの重傷を負っており、人を殺害する余力など残っていなかったと考えられています。彼女にも犯行は無理です」
次々と容疑者がいなくなっていく。消防士たちは、まるで自分たちが追いつめられているような錯覚に陥っていた。
「その上であなた方突入した消防士たちの動きを見ていきましょう。このホテルはエレベーターホールを中心に南北四つの廊下に分かれています。突入後、雨笠さんと下杉さんは北側、古賀さんと時川さんは南側の廊下に突入し、すぐさま雨笠さんは平良木周平を、古賀さんは淀村伊織を、そして時川さんはハンク・キャプランを救出。下杉さんは北東エリアに侵入すべく消火活動を行っています。さらに古賀さんと時川さんは立てつづけに立浪権之助と谷松慎太の救助に着手。雨笠さんと下杉さんは合流してようやく侵入できた北東エリアの捜索をしています。残念ながら、北側の廊下ではこれ以上の生存者は発見できなかったようですが……」
そう言いながら、榊原は雨笠と下杉を見やる。
「とにかく、さっきも言ったように犯人たりうる条件は蒲生隊長の突入から遺体発見までの二十五分の間に八分から十分間南東エリアに行く事ができた人間。あなた方の証言を検討してみると、突入から遺体発見までの間に八分以上一人でいる事ができて、なおかつ南東エリアに侵入できた人間は存在しないように見えます」
「なら、自分たちの中に犯人はいないという事でありますね!」
時川が声を引きつらせながら言う。が、それに対する榊原の言葉は厳しいものだった。
「えぇ、そうでしょうね。もし、この証言がすべて真実だったとするなら、ですが」
その瞬間、その場が緊張感に包まれた。
「それは……どういう意味ですか?」
「この中に一人、証言の際に些細な嘘を言った人間がいます。些細ではありますが……その嘘こそが、誰が蒲生隊長を殺害したのかを明確に示す根拠になるのです」
「そんな馬鹿な……私たちの中に嘘をつく人間がいるなんて……」
雨笠が呻くように言う。一方、冷静に言葉を返したのは下杉だった。
「嘘、と言いましたが、部外者のあなたにそれを証明できるのですか? 当事者である我々でさえ立ち込める煙と炎で他人がどうしたかもわかっていないのに」
「そ、そうです! 何でそんな事があなたにわかるというのでありますか!」
時川も下杉の言葉に続くが、これに対して榊原は簡単に答えた。
「逆なんですよ」
「ぎゃ、逆?」
「内部にいた当事者たちでもわからないなら、いっその事外から物事を見てみればいい。それだけの事なんです」
そう言うと、榊原は持ち込んだアタッシュケースから何かを取り出した。それは、一台のノートパソコンだった。
「瑞穂ちゃん、ちょっと手伝ってほしい。例の火災のニュース動画をここに出してくれないか?」
「え、あ、はい」
いきなり呼ばれて瑞穂は一瞬戸惑ったが、すぐに榊原の傍に近づいてノートパソコンを立ち上げると、自分のパスワードで「ニコヤカ動画」のニュース映像にアクセスした。
「この映像は、問題の火災を撮影したテレビ局がネット上に公開しているものです。実のところ、私はこの映像を見た瞬間、犯人の見当がはっきりとついたのです」
「え、映像を見ただけで、ですか?」
雨笠がそう言って目を白黒させる。一方、瑞穂もパソコンを操作しながらも驚きを隠せなかった。この映像を見たとき、そんな様子は全くなかったはずなのだが。
「とにかく、まずはその映像を見てみましょう」
榊原の合図で、瑞穂が再生ボタンを押す。その瞬間、アナウンサーの緊迫した声が響いてきた。
『たった今、救助隊と思しき車両が現場に到着しました! 救助隊員たちが次々とホテルの中に突入していきます! ご覧ください! ホテルの窓からは黒煙が立ち上っており……あ! 今窓から誰かが身を乗り出して助けを求めています!』
それからしばらくは火災で煙が噴き出しているホテルの映像が移されていたが、不意に窓から身を乗り出していた女性の姿が消える。
『たった今、窓の女性が救助隊に救助された模様です! しかし、ホテルへの突入からすでにおよそ十分が経過していますが、未だに火の勢いが弱まる気配はありません! 消防隊の必死の放水をあざ笑うかのように、黒煙が夜空に舞い上がっています!』
「ここまででいい」
榊原の言葉に、瑞穂は慌てて映像を止めた。誰もが息を飲んでその映像を見つめているが、何がどうおかしいのかわかっていない様子である。やがて、代表で浮島が尋ねた。
「あの……これのどこがおかしいんですか? ごく普通のニュース映像だと思いますけど」
「そう、確かに普通のニュース映像です。現に、全国の視聴者がこれを見ても何も違和感がなかったようですし」
ですが、と榊原が続けた。
「この映像をあなた方の証言と突き合わせたとき、ある矛盾が顔を出すんです。そして、その矛盾は犯人にとってあまりにも致命的なものなんですよ」
誰もが榊原が何を言っているのか全く分からないという風に動画を見ていた。それは、ある意味当然の反応である。榊原と一緒にいたはずの瑞穂自身、よくわかっていないのだから。
だが、そんな中、明らかに顔色が変わった人物が一人だけ存在した。それを確認すると、榊原はこの時点ですでに顔を真っ青にしている「ある人物」に向かって、押し殺した声で語りかける。
「……どうやら、あなたには私が何を言おうとしているのかわかったようですね。まぁ、当然でしょう。あなたこそが、それがわかる立場にいる人間……つまり、犯人だからです」
次の瞬間、榊原は叩き告げるようにその名を告げた。
「そうですよね。蒲生隊長を火災現場で亡き者にした……古賀直沖さん!」
直後、殺人犯……消防士・古賀直沖は一瞬ピクリと何かを耐えるように肩を震わせると、榊原に向けて何とも形容しがたいものすごい形相を向けた。
瑞穂はその顔を見た瞬間はっきり悟った。この犯人は、そう簡単に罪を認めるような小心者ではない。榊原もそれをわかっているのか、間髪入れずにはっきり宣告する。
「あなたがあの日、火災現場で蒲生晴孝隊長を殺害した真犯人です!」
西日が窓から差し込む中、榊原と殺人犯……両者の命を懸けた論理の一騎打ちが始まった瞬間だった。
「古賀が……隊長を殺した犯人……」
榊原の告発に対し、依頼人である南田が呆然とした様子で古賀の方を見ている。他の消防士たちも似たり寄ったりの表情だ。が、肝心の古賀は無理やりにひきつらせた顔で榊原にぐっと顔を向けた。
「な……何を言っているんですか。自分が殺人犯って……そんなわけがないじゃないですか……」
予想通り、やはり簡単に認めるつもりはないらしい。榊原もそれは想定内だったのか、冷静に切り返す。
「私の考えは間違っていると?」
「当たり前じゃないですか。大体、自分は蒲生隊長の死が殺人だという事にも納得していません。あなたの証拠もありもしない空想に付き合うのはうんざりです。こんな馬鹿馬鹿しい話だったら、自分はすぐにでも勤務に戻らさせて……」
「残念ながらそうはいきません。実は、蒲生隊長の死が殺人だという明白な証拠がちゃんと存在するのです」
榊原の反撃……否、攻撃はそこから始まった。古賀は目を血走らせながら叫ぶ。
「嘘だ! そんなものがあるわけがない! あったら今頃警察が全力で捜査しているはず。それがないって事は、そんな証拠なんかないって事でしょう!」
「それは当然です。何しろ昨日になって私が自分で見つけた証拠ですからね」
その言葉に古賀が言葉に詰まるのを見計らって、榊原は最初にぶつけずあえてここまで隠し通し続けてきた「切り札」を叩きつけにかかった。
「まず、蒲生隊長の死因は瓦礫による頭部強打が原因の首の骨折。これは正式な解剖によって特定された事ですから今さら疑う余地はありません。さすがのあなたもこれを否定する事はできないはずです」
「それは……そうですけど、でもそれはあの部屋の天井の崩落に隊長が巻き込まれた結果であって……」
「確かに公式記録はそうなっています。そこで、それを確認するために現場で探しました。蒲生隊長の命を奪った瓦礫を」
その瞬間、古賀は息を飲んだ。
「わざわざ……調べたんですか?」
「それが仕事ですから。あの焼け落ちた九二〇号室に転がっていた瓦礫の中で、解剖記録の記述や写真に記載されている蒲生隊長の頭の傷が一致するものがないのかを、警視庁鑑識課の協力の元で徹底的に調査したんです」
一応、直接調べた圷に対する礼儀としてその事も付け加えておく。だが、古賀はこの程度では崩れなかった。
「そ、それで結果は?」
「えぇ、見つけましたよ。ベッドの脇に転がっていた瓦礫がそれだという事が警察の鑑識の手で公式に確認されました。言っておきますが、すでに警察の手を借りていますので、この調査で発見された事はすべて公式な証拠品として扱われているという事をお忘れなく」
だが、古賀は後半部分を聞いていないようだった。
「要するに、問題の瓦礫はちゃんとあの部屋にあったって事じゃないですか。それなら何の問題も……」
「えぇ、問題ないでしょうね。だから、さらに突っ込んで調べました。この凶器の瓦礫が崩落した九二〇号室の天井の瓦礫と一致するのかを」
「……は?」
その言葉に古賀は絶句したようだった。それを見て、榊原は言葉を続ける。
「問題の瓦礫は九二〇号室で発見され、また蒲生隊長の遺体も九二〇号室で見つかりました。もし、この事件が殺人でないとするなら、問題の瓦礫は間違いなくこの九二〇号室の天井から崩落したものであるはず。仮にそうでなかったとすれば、蒲生隊長の命を奪った瓦礫は部屋の外からやって来た事になってしまいます。当たり前ですが、いくら火災だからと言って瓦礫が自分で動くわけがありません。よって、もし崩壊した天井を復元して問題の瓦礫がどこにも一致しなければ、蒲生隊長の命を奪った瓦礫が何者かによって部屋の外から持ち込まれた可能性……つまり、殺人の可能性が非常に高くなるのです」
ここに至って、ようやく榊原が何を言いたいのか理解したらしい。古賀のみならず、この場にいる消防士たち全員が息を飲んだ。正直、まさかここまでやるとは思っていなかったのだろう。
「そ、それで、結果は?」
神田が恐る恐る尋ねた。が、その結果はもう誰もがある程度予測できているはずである。もし何事もなかったというのなら、今この場で榊原が殺人の糾弾をしているはずがないからだ。そして、案の定榊原ははっきり言った。
「警視庁鑑識課が部屋の中にあったすべての瓦礫を回収して、それらを組み合わせて元の天井の板に復元できるのかを検証したそうです。その結果、蒲生隊長を死に至らしめた瓦礫のパーツだけがどこにも当てはまらなかったという事です。つまり、凶器の瓦礫はあの部屋のものではない。部屋の外で蒲生隊長を殴り、その遺体を凶器の瓦礫共々あの部屋に放り込んだ第三者がいた事は、証拠面から言っても疑いようのない事実なのです」
その瞬間、消防士たちは榊原がはったりで物を言っているのではないという事をはっきり理解した。だが、当の古賀だけは全く諦める様子もなく反論を続けた。
「た、確かに蒲生隊長の死は事故じゃなかったみたいです。でも、だからと言ってどうして自分が犯人になるんですか! さっきの動画のどこに、そんな矛盾があるというんですか! そんなものがあるわけない! 適当な事ばかり言っていると……」
「時間がおかしいんですよ」
苛立ったように反論しようとした古賀の言葉を遮るようにして榊原は断言した。
「じ、時間?」
「そう、時間です。そして、この時間の矛盾が、証言で不可能とされた犯行を可能とする事になるんです」
榊原は続く切り札を切りにかかった。
「古賀さん、あなたのアリバイをもう一度確認しましょう。あなたは九階に突入するとすぐに九一五号室にいた淀村伊織さんを救助。彼女を非常階段まで送り届けた際に時川さんから救援要請を受け、そのまま九一二号室での救助作業を行った。それがあなたの主なアリバイです。そうですね?」
「その通りです。つまり、自分には隊長を殺す時間的余裕もタイミングもなかった事になります。だからこそ、自分は犯人ではありえない!」
「本当にそうでしょうか?」
榊原は古賀の反論を容赦なく退けた。
「時間を少し戻し、あなた方特別救助隊が九階に突入するまでの流れを確認してみます。通報を受けたのが午後十時きっかりで、その十五分後に現場に到着。直後にホテルに突入し、その後ホテルの階段を駆け上がって実際に九階に突入したのは午後十時二十分。その二十五分後の午後十時四十五分に蒲生隊長の遺体は見つかっています。つまり古賀さん、あなたの証言が正しいとするなら、突入後すぐに救助をしたという淀村伊織の救助時刻は突入時刻とほぼ変わらない午後十時二十分前後という事になるはずです」
「それが何か……」
「あなたにももうわかっているんでしょう? さっきの動画に隠された、致命的な矛盾に」
そう言うと、榊原は動画を捜査してある場面を流した。それは、淀村伊織が救助されて窓から姿を消した時のアナウンサーの言葉だった。
『たった今、窓の女性が救助隊に救助された模様です! しかし、ホテルへの突入からすでにおよそ十分が経過していますが……』
「あ!」
その瞬間、瑞穂が思わず声を上げた。榊原が何を問題にしているのか、瑞穂にもわかったのである。他の消防士たちの視線が一斉に瑞穂の方を向いた。
「な、何だね?」
「……時間が合わない」
榊原と同じような事を言う瑞穂の言葉に、消防士たちはしばらく首を傾げていたが、やがてその顔色が変わった。
「どうやら、気付いたようですね。この奇妙な矛盾に」
「何が矛盾なんですか! 自分にはさっぱりわかりません!」
古賀が顔を真っ青にしながらも必死になって反論する。榊原はしっかりとした口調で推理を再開した。
「いいですか、この動画においてアナウンサーは淀村伊織が救助された時刻を『ホテルへの突入から十分後』と言っているんです。さっきも言ったようにあなた方がホテルへ突入したのは午後十時十五分。その十分後というのは午後十時二十五分です。つまり、これが淀村伊織の本当の救出時間という事になります。しかし、実際にあなた方が九階に突入したのはホテル突入の五分後である午後十時二十分。古賀さん、あなたの証言では、あなたは突入してすぐに淀村伊織を救助したという事ですよね。だとするなら、その救助時刻は十時二十分前後でなければならないはず。にもかかわらず、この画像では救助時刻は十時二十五分になっているんです」
「あ……あぁっ!」
ようやく合点のいった時川が思わず声を上げた。ここぞとばかりに榊原は古賀へたたみかける。
「もうわかったでしょう。あなたの証言における淀村伊織の救出時間と、この画像における淀村伊織の救出時間。この二つに、五分の時間差が存在する事になってしまうんです。つまり古賀さん、あなたには突入直後の五分間に空白の時間が存在する事になるんですよ!」
その告発に、古賀の表情がみるみる蒼ざめる。たかが五分、しかし彼の場合はされど五分である。それは、分単位で動いていたこの事件のアリバイに大きな穴が開いた瞬間だった。
だが、古賀はなおも見苦しく反論する。
「そ、そんなのアナウンサーの主観じゃないですか! 実際に十分だったかどうかはわかりませんよ!」
「確かにアナウンサー本人は主観で言っていたのかもしれませんが、この動画はあなたたちが突入してからのすべてを映像に収めているんです。だったら、この動画の尺を計れば実際にどれくらいの時間がかかったのかは容易に判別できます。この動画においてあなたたちがホテルの入口に消えてから淀村伊織の姿が窓の中に消えるまでの時間は、実際にストップウォッチを使って計測したところ十一分九秒。つまり、アナウンサーの言葉はほぼ信用できるのです」
「で、でも! 確かに自分はすぐとは言いましたが、それでもやっぱりドアを破ったり実際に救助したりするのに少し時間がかかっているはずです。その時間を考慮すれば実際は五分程度かかっていたかも……」
「それもあり得ません。昨日、私は問題の淀村伊織さん本人に直接話を聞きました。彼女の証言によれば問題の消防士は特に苦労をする事もなくドアを破り、そのまま比較的スムーズに非常階段まで誘導してくれたと言っています。要するに、救助作業そのものは五分どころか一分もかかっていないんですよ。この五分という空白時間は、あの現場ではあまりにも不自然すぎるんです」
「だけど! それを言うなら時川だって怪しいじゃないですか! 彼も突入後すぐに外国人を救助しているのに、自分よりも救助が遅かったはずです。実際、自分の助けた女性よりも時川の助けた外国人の方が救助の順番が後だったはず。自分だけ疑うのは筋違いです!」
「せ、先輩、何を……」
いきなりの古賀の言葉にうろたえる時川に対し、しかし榊原は平然としていた。
「いいえ、時川さんはそれに関してちゃんと説明をしています。時川さんは突入直後すぐに空室だった九一四号室を捜索し、続いて隣室の九一三号室を確認してハンク・キャプランを発見。大柄なハンク氏を背負って救助する事となり、しかも部屋を出たところで隣室の九一二号室から谷松慎太が飛び出してくるというアクシデントにも見舞われています。これらを踏まえれば、時川さんに関しては突入からハンク救出まで五分かかるのも仕方がない話だと判断できるのです。よって時川さんとあなたでは立場が全く違うんですよ」
反論を立て続けにつぶされ、古賀は一瞬息をつまらせる。
「そんなの……知りません。自分は何も関係ない」
「では、逆に聞きますが、問題の空白の五分間、あなたは一体どこで何をしていて、そして今までどうしてその存在を隠そうとしていたのですか? こうして証拠がそろっている以上、あなたに突入後の空白の五分間が存在した事は疑いようのない事実です。それを説明できない以上、あなたが疑われても当然だという気はしますがね」
「知りませんよ! もしかしてその五分間に自分が蒲生隊長を襲っていたとでも言うつもりなんですか? 無理です! あなたもさっき言っていたじゃないですか! この犯行には最低でも八分から十分程度はかかるって。確かに自分には五分程度の時間はあったのかもしれませんが、それだけで犯人扱いなんてあまりにも無茶苦茶です! 五分じゃ何もできません!」
「殺すだけならできるはずです」
思わぬ榊原の言葉に、その場の誰もがギョッとした。
「さっきの八分以上という推定は、犯人が殺害と遺体の隠蔽という作業を一気にやったとするなら、という前提で算出したものです。蒲生隊長の死因は撲殺。殺すだけなら一、二分で可能な犯行です」
「な、何を言って……」
「要するに、あなたは殺害行為と遺体の隠蔽行為を分割したんです」
その言葉に、瑞穂は思わず息を飲んだ。「困難の分割」……推理小説などによく出てくるマジック用語であり、簡単に意味を言えば「不可能だと思われる行為を分割する事で可能にしてしまう」という事だ。実際瑞穂自身、榊原と出会った立山高校における同時多発殺人事件の際にこの「困難の分割」の理念に散々に振り回された経験があるが、まさかここで再びその言葉を聞く事になろうとは思わなかった。
「状況を整理しましょう。あなたは九階への突入直後、つまり問題の空白の五分間の間に南東エリアに向かった蒲生隊長をその場で撲殺した。現場はおそらく遺体発見現場ではなく廊下だったんでしょう。凶器の瓦礫の件がある以上、遺体発見現場の九二〇号室が現場とは思えませんし、だからといって他の南東エリアの部屋にはドアを破った形跡はありませんでしたから」
榊原の言葉に、古賀は唇を噛んで必死に耐えているようだった。榊原は気にする事なく言葉を繋いでいく。
「さて、いつ他の救助隊員たちがやって来るかわからない以上、このまま遺体を廊下に放置しておくわけにもいきませんが、だからと言ってこの場で遺体処理を始めてしまうと、あまりにも長時間救助作業から離れてしまう事になって後で怪しまれてしまう可能性が出てきます。そこで、あなたはいったん瓦礫か何かで蒲生隊長の遺体を隠して救助作業に戻り、その上で別の機会に隙を見て遺体の隠蔽をする事でアリバイを成立させようとしたんです」
「でたらめです。大体、そんな隙がどこにあったというんですか? 仮にその五分が私にとっての空白の時間だったとしても、それ以降において自分が遺体を処理する時間なんてどこにもなかったじゃないですか」
古賀はそう言い返すが、榊原は全く動じる様子はない。
「いいえ、あなたは淀村伊織を救助した後に、時川さんの要請で九一二号室の立浪権之助と谷松慎太の救助に携わっています。時川さんの話では、あなたは大柄な立浪権之助の救助を担当し、結果的に時川さんよりやや遅れて非常階段に到達しているという事でしたね?」
「それがどうしたというんですか! 救助に時間がかかる事などよくある話で……」
「消防士としてそのセリフを言うのはいかがなものかとは思いますが……それを置いておいても、ここに隙を差し込む余裕があります。例えば……この時立浪権之助を救助すると見せかけておいて、実は立浪を火災現場のどこかに放り出した上で蒲生隊長の遺体の処理に向かい、遺体の処理が終了した時点で再びとんぼ返りして立浪を非常階段に運んだ。そう考えればどうでしょうか?」
その発言に、誰もが絶句した。それは、消防士としてあってはならない話であった。
「そんな……ありえない……」
南田が代表してそうコメントする。
「確かにあってはならない話です。しかし、彼が犯人だとするなら隙はそこしかありません。現場は視界が煙で曇っていて他人がどう動いているのかわからない状況でした。ならばそういう荒業も充分可能だと考えますが、いかがですか?」
「それは……確かにあの煙ならうまくごまかせばできない事もないでしょうが……」
そう言いながらも、南田は未だに信じられない様子である。それだけ、古賀の行為は消防士の行為から外れすぎているものだったのだ。もっとも、だからこそ誰もこの考えを思いつかなかったのだろうが、榊原にそんなものは通用しなかった。
「この時古賀さんがするべき事は、九二〇号室のドアを破壊して重装備の蒲生さんの遺体をそこに放り込む事だけ。大きく見積もって三分程度でしょう。古賀さん、あなたは時川さんに先に行かせた上で立浪を放置し、そのまま南東エリアに侵入して遺体の処理工作を実施。即座に引き返して再び放置していた立浪を担いで非常階段へ向かい、あたかも時川さんのすぐ後に立浪を救助したように見せかけた。二人いる救助者のうち立浪を選んだのは、彼が室内にいてなおかつ大柄であり、ある程度非常階段にたどり着くまで時間がかかっても時川さんに怪しまれるリスクが少ないと判断したからでしょう。まさか時川さんも今まで一緒に救助活動をしていた人間が、そんな消防士の倫理に反するような行動をしていたとは考えません。これにより、あなたには実際には途中離脱をしていたにもかかわらず、時川さんと一緒に救助活動をしていたというアリバイを手に入れる事ができるのです」
そう言われて、アリバイ工作に利用された時川の表情も蒼ざめていた。
「確かにそう言われてみれば……いくら大柄な人を運んでいたとしても、あの時の古賀先輩の到着は少し遅かったような……」
だが、当の古賀は諦めなかった。
「騙されるな! 口車に乗せられないでくれ! 自分は……自分はそんな事をした覚えはありません! 大体……そう、大体、どうして自分が蒲生隊長を殺さないといけないんですか! そんな動機が自分には存在しません!」
その反論に、榊原は傾聴の構えを見せている。一方の古賀は勢いづいたようにさらに続けた。
「それに、百歩譲って自分に動機があったとしても、そんな火災発生中のホテルを現場に選んだりしません! どう考えても犯人側にも命のリスクがあるし、容疑者だって限られてしまう。そんなデメリットの方が大きい殺人事件なんて聞いた事がない!」
古賀の必死の反論を、榊原は相変わらず毅然とした表情で黙って聞いていた。その顔に動揺した様子はない。この反論は、この事件を調べる上で常に付きまとってきた問題である。こうして犯人との一騎打ちに挑んでいる以上、当然、榊原にもそれに関する解答はあるはずだった。
瑞穂がそう思って榊原を見つめていると、榊原はゆっくりと口を開いた。
「動機……そう、それこそがこの事件最大の肝と言えます。まさにあなたの言う通りなんですよ。常識的に考えて、ホテルが炎上中の瞬間を狙ってわざわざ殺人事件を起こす人間なんかいるわけがありません。仮に蒲生隊長に対する動機があったとしても、そんな奇抜な瞬間を狙って計画的な殺人を起こしたりする事はないでしょう。しかし、実際に犯人は火災の最中という常軌を逸したシチュエーションで殺人を実行した。そこには、必ず何らかの理由が存在するはずです」
榊原は指を立てて推論を進めていく。
「犯人が火災の最中に殺人を強行しなければならない理由……それを考える上で前提条件があります。まず、この殺人は犯人にとって不本意であるという事。さっきも言ったように、わざわざ好き好んで火災現場で殺人を引き起こそうとする人間は存在しません。あまりにもリスクとデメリットが大きすぎるからです。しかし、それでも犯人が火災現場で殺人を実行したとなれば、そのリスクとデメリットを考慮しても殺人を実行しなければならない何らかの事情が存在した事になる。それだけに、この殺人は犯人にとっては他に選択肢がないゆえに行われた不本意な殺人と考える事ができます」
榊原はさらに指を立てて条件を追加する。
「そして、この第一の条件が成立するなら、犯行が計画的でない事も一目瞭然です。何度も言うように、計画的な犯行ならそもそも火災現場を殺人現場に利用するなどという計画を立てるはずもないし、第一、今回はその火災そのものの発生が偶然です。今回の火災の原因が九〇五号室の寝タバコだという事はすでに公式認定されており、この寝タバコによる火災を犯人が意図的に起こしたとは考えられない。あくまで火災発生は偶然の産物なのです。この偶然起こった火災を考慮した殺人計画を立てるなんて、どう考えても不自然な話です。ここから、この犯行が突発的なものなのは明白極まりないものになります」
そこで榊原は古賀を見やった。
「つまり、犯人には火災現場で殺人を犯すリスクやデメリットを吹き飛ばすような突発的なアクシデントがあの火災の最中に発生した事になります。そして、そのアクシデントに蒲生隊長は巻き込まれ……そして殺される事になった。それが私の最終的な結論ですが、どう考えますか?」
「……何を言っているのかさっぱりわかりませんね。火災現場で殺人を起こさなければならない事情なんて、そんなものが存在するわけが……」
古賀が引きつった笑い声でそう反論するのを、榊原は無言で頭を振って止めた。
「それを証明する前に、一つ話しておかなければならないある奇妙な事実があります。浮島さん、あなたが一昨日にしたその話をもう一度ここでしてもらえますか?」
「え、あの話ですか? いや、でもあの程度の話をどうして……」
戸惑う浮島だったが、榊原にじっと睨まれて慌てた風に話した。
「いや、そんな大げさな事じゃないんです。ただ、鎮火後の遺体収容作業の際に、九一八号室に灰皿がなかっただけの事なんですけど……」
「九一八号室の灰皿?」
よくわからない話に、全員が首を傾げる。そもそも、なぜいきなりこんな話が出てきたのかさえわからない。
「あの、どういう事ですか? そもそもこの事件に九一八号室は関係ないんじゃ……」
「いいえ。九一八号室の消えた灰皿。それこそが、この事件を解決する大きなヒント……どころか、この事件そのものの核心だと私は考えているのです」
榊原はそう言うと、話を再開した。
「問題の九階の他の部屋も捜索しましたが、部屋に灰皿がないのは九一八号室のみでした。そこでホテル中を捜索したところ、一階のダストルーム……要するにごみ置き場のごみ袋の中から粉砕された灰皿と思しきガラスの欠片を発見しました。その欠片を警視庁鑑識課で調べてもらった結果、いくつかの事実が判明しています。まず、この欠片は間違いなくあのホテルで使用されている灰皿のものであるという事。鑑識が破片を一つ一つ組み合わせて復元したそうです。そしてもう一つ、この灰皿から少量ながらも血痕が検出されたという点です」
「け、血痕?」
思わぬ単語の登場に、その場の全員が固まった。
「それって……灰皿から血が検出されたって事ですか!」
「その通りです。つまり、九一八号室の灰皿は少なくとも血に濡れた事があるという事になります。そうすると問題は、この血痕は誰のもので、さらに言えばなぜ九一八号室の灰皿に血がつくような事が発生したのか、そしてその灰皿がなぜ一階のダストルームから砕かれた状態で見つかったのかという点です」
そこで神田が恐ろしいものでも見るように呟いた。
「まさか……その灰皿が蒲生隊長を殺した本物の凶器という事ですか? つまり発見された瓦礫は本物の凶器を隠滅するために本当の傷口の上から再度殴りつけたもので、本当の凶器はこの灰皿だったと?」
「だとするなら、本当の現場は九一八号室という事ですか?」
雨笠が勢い込んで聞くが、榊原は首を振った。
「いいえ、それはないでしょう。いくら事故死判定でも、二度も殴られた跡があるとなれば解剖の時点で解剖医が気付かないはずがありません。凶器は間違いなく、今回発見された瓦礫という事で間違いないと思います」
「じゃ、じゃあ、問題の血の付いた灰皿というのは何なんですか!」
雨笠が叫ぶ。と、そこで下杉が口を挟んだ。
「血が付いていたという事が、即灰皿が凶器だという証拠にはならない。もしかしたら、殴られた時に飛び散った返り血が灰皿に付着したのかもしれない」
「な、なるほど。それなら納得できる」
雨笠がそう言うが、今度は古賀が勢い込んで反論した。
「だとしたら、自分は一切関係ありませんね! 浮島が灰皿のないのに気付いたのが鎮火後だとするなら、自分が灰皿を九階から持ち出すチャンスはありませんから!」
「どういう意味ですか?」
榊原は特に何の感情も交えないまま尋ねた。それに苛立ったように古賀が叫ぶ。
「とぼけるのはよしてください! いくらなんでも自分が火災現場から灰皿なんて持ち出したら誰も気付かないなどという事はありません! 防火服で完全武装していた自分には、灰皿を隠すなど不可能だからです! そんなものをもって非常階段を降りようとしたら間違いなく気付かれますし、第一自分はダストルームとやらにはあの火災当日に一歩たりとも近づいていない事はここにいる全員が証人です! つまり、もしその灰皿が事件に関係しているというのであれば、自分が事件に関与していないという決定的な証拠になるはずです!」
古賀の反論は思ったよりも筋が通っていた。そして、他の消防士たちも気まずそうにその言葉を補強する。
「確かに、古賀が非常階段から降りる時私たちも一緒でしたが、そんな目立つようなものを持っている様子はありませんでした」
「それに、ダストルームに近づいていないのも確かであります。九階を脱出した後、隊長が死んでショックを受けた自分たちは南田副隊長と神田さん、浮島の三人を残してそのまま署へ帰る事になりましたから。車内でも、古賀はそんなものを持っていなかったはずであります」
雨笠と時川が相次ぐ証言に、古賀は自信を取り返したかのように攻め立てた。
「要するに、あの火災現場で自分に灰皿をどうする事は出来ないという事ですよ! それでもあなたは灰皿が事件に関係しているというつもりですか!」
だが、その長髪に対する榊原の答えはシンプルだった。
「確かにそうでしょう。あの火災現場から火災発生中に灰皿を持ち出す事はあなたでなくてもまず不可能です」
「認めるとは随分物分かりがいいですね。つまり自分は……」
「ただし」
と、そこで榊原は鋭く古賀の言葉を遮って更なる切り札を叩き込んだ。
「火災発生前の段階、なら話は別ですがね」
「……え?」
古賀が思わず言葉を止める。その瞬間、榊原はこの事件の根幹を覆すような発言を叩きつけた。
「火災発生中に灰皿を持ち出す事は不可能。ならば話は簡単です。すなわち、この血に濡れた灰皿が九階から持ち出されたのは火災が発生するよりも前の話だった。要するに、今回の事件は火災発生前からすでに始まっていたという事なのです!」
誰もが、唖然とした様子でその言葉を聞いていた。
「は、灰皿が火災発生よりも前に九階から持ち出されていたって……どういう意味でありますか!」
重い沈黙を最初に破ったのは時川だった。それで我に返ったように雨笠が尋ねる。
「そ、そうですよ。大体、どうしてそんな事がわかるんですか?」
「わかるわけがない! そんなのただのはったりです! 何の証拠もありはしない!」
古賀が自分に言い聞かせるように言う。が、榊原には落ち着いた様子で容赦なく推理を突き付けた。
「そもそも、この灰皿から血の痕跡が出た時点で、この灰皿が火災発生現場になかった事は明白なんです。もしこの灰皿が火災現場に存在していたとすれば、灰皿そのものがかなりの高温にさらされていたのは確実です。そうなれば、たとえガラス材質の灰皿そのものが燃えなかったとしても、その表面についていた血痕などの痕跡は一つ残らずなくなるはず。つまり、こうして灰皿の表面から血痕が発見されたという事実そのものが、灰皿が火災発生当時にフロア全体が炎上状態だった九階に存在しなかったという何よりの決定的な証拠になるんです」
「あ、あぁぁっ!」
その事実に浮島が思わず叫んだ。言われてみれば確かにそうだ。
「そうなってくると事実は単純です。灰皿が九階から持ち出されてダストルームに遺棄されたのは火災が発生するよりも前……つまり、まだ九階がホテルとして機能している時間帯の事だった。そして、その灰皿にはわずかながら血痕の痕跡が見られ、その灰皿は九一八号室の物である事が確認されている。これらの事実から考えられる真実はただ一つ」
榊原はここぞとばかりに声を張り上げた。
「あの晩、火災発生前の九一八号室で何らかの流血沙汰が発生し、そして何者かが血の付いた灰皿をダストルームに処理して立ち去った。つまり、あのホテルの九階では、あなた方が駆け付ける前にすでに血が流れていたんです!」
「ば、馬鹿な……」
神田が呻き声を上げた。まさか、事が火災発生よりも前にまで及んでくるとは完全に想定外だったのだろう。だが、榊原は止まる様子もなく話を進めていく。
「そして、こうなるとその血を流した人間が誰だったのかという疑問には容易に答えが出せると思います。それは、問題の九一八号室に宿泊していた客であり、さらに遺体解剖所見の結果、体中に無数の打撲痕があって一酸化炭素中毒で死ぬ前にすでに瀕死状態だったと推察されている人物……」
「静川……優里亜……」
瑞穂は半ば放心状態でその名を呟いていた。
「その通り。あの晩、九一八号室の宿泊客・静川優里亜は、火災が発生する前にすでに頭から血を流して瀕死の状態だった。それが私の結論です」
蒲生の死にまつわる事件だと思っていたところにいきなり別の事件が出現し、誰もが混乱状態に陥っている中、榊原だけは淡々と推理を進めた。
「記録によれば、静川優里亜がチェックインしたのは午後八時頃。つまり、ここから火災発生までの二時間の間に問題の流血沙汰が起こったと思われます。凶器が現場備え付けの灰皿である点、その灰皿を持ち去っている点、そして何より被害者がこの時点ではあくまで瀕死であって生存している点などから見て、こちらの犯行も衝動的なものだったと推察するのが妥当でしょう」
誰も口を挟まない中、榊原の推理は進んでいく。
「いずれにせよ、この時間のどこかで何者かが静川優里亜の頭を殴りつけ、凶器の灰皿を持ち去って下のダストルームにその灰皿を破棄した。ダストルームに貼られていた予定表で見る限り、あのごみの収集は火災の翌日早朝。火災で燃えてしまって判別はできませんが、おそらく部屋のドアには『起こさないでください』の札がかけられていたはずです。そうすれば遺体発見時間は大幅に遅れ、問題の凶器はすでにゴミ収集車に回収されてしまっているという寸法です。もっとも、火災の発生でごみの回収は停止され、こうして証拠が残ってしまったわけですが」
その瞬間、榊原は目を光らせる。
「ですが、犯人にとってこんな誤算は些細な事だったでしょう。最大の誤算は、この時点で彼女が死んでいなかったという点です。犯人が凶器を隠滅している以上、犯人自身が彼女を死んだものと思っていたのは確実です。そして、この凶行が起こってからわずか一時間から二時間後、事態はとんでもない方向へと急展開しました。よりにもよって、同じホテルの九階の別室で寝タバコによる火災が発生してしまったのです。そして……何の因果か犯人がその現場に消防士として臨場する事になってしまった」
その瞬間、古賀の顔色が大きく変わった。そして、それは他の消防士たちも同様だった。
「ま、まさか……」
「少し犯罪捜査理論の話をしましょうか。犯罪というものは必然と偶然が組み合わさる事でより複雑化します。『すべてが必然で起こった犯罪』というのは推理小説の常套句ですが、現実の事件ではどうしたところで必ず多少なりとも偶然の要素が入ってくる。私たちがしなければならないのは、何が必然で何が偶然かを見極める事です」
チラリと瑞穂の方を見ながらそう言うと、榊原はいよいよ事件の核心へと踏み込んでいく。
「今回の事件における偶然は、流血沙汰が起こった直後に同じ現場で火災が発生し、犯人が消防士としてこの現場に舞い戻る事になってしまったというこの二点です。そして、この条件下なら犯人の消防士が突入後に最初にする事は、おのずと限られます。犯人は現場に戻る。それの応用版と言ったところでしょうか」
「……現場の遺体を確認しに行く。そういう事ですね?」
瑞穂が答えを言った。榊原は頷いた。
「犯人の心理として、そうせざるを得ないだろう。少なくとも、この状況で他の消防士に最初に遺体を発見される事は避けようとするはずだ。火災現場という状況の中で現場そのものがどうなっているのかわからなくなっているだろうし、最初に自分が現場を確認しようとするのは人間の心理的に自然な行為だ。だが、そこで犯人の消防士が見たのは、想像以上に最悪の光景だった」
榊原は古賀を見ながら鋭く告げる。
「すなわち、自分が殺したはずの静川優里亜が、頭から血を流しながらも炎の中で消防士である自分に向かって助けを求めてくる光景、です」
「っ!」
誰もが息を飲んだ。
「これは犯人にとってあまりにも恐ろしい光景だったでしょう。自分が殺した人間が炎の中から血まみれで助けを求めてくるなんて、ちょっとした怪談話以上の恐怖体験です。悲鳴を上げたって誰も文句は言いません。しかし、静川優里亜からしてみれば問題の消防士は防火服を着ているわけで、その消防士が自分を殴った犯人だとは思いもしない。パニック状態に陥っている消防士に、さらなる悪夢がこの時襲い掛かったのです。そう、どういう事情かは知りませんが、蒲生隊長がやってきてしまったんですよ」
「あ……」
ここで、誰もがこの事件の結末を想像できた。それは、あまりにも残酷すぎる結末だった。
「当然、事情を知らない蒲生隊長は彼女を助けようとしたはずです。しかし、犯人の消防士からしてみれば、ここで彼女が助かる事だけは何としてもあってはならない話なんです。何しろ彼女が助かってしまえば、その瞬間彼女が自分に殴られたという事実がすぐにでも証言されてしまうからです。そうなれば彼の人生はお終いです。だから、その消防士にとって、静川優里亜は生きていてはならない存在……この場で死んでいなければならない存在だった。そして、消防士に残された手段はたった一つだけでした」
「ま、まさか……」
南田が絶句する中、榊原は容赦なくその答えを告げた。
「すなわち、彼女が救助される前に、この場でもう一度彼女を『消す』という事です。そう……彼女が生存している事を知ってしまった、蒲生隊長もろとも、ね」
その場がシンと静まり返る。想像を絶する話だった。と、同時に瑞穂にとっては納得のいく話でもあった。数々のデメリットやリスクを負ってまで火災現場で殺人を起こさなければならない理由。そんなもの、それと同じだけの罪……つまり『殺人』を隠す以外に存在しないではないか。
「だから……蒲生隊長は殺されたというんですか?」
「言ったでしょう。この犯行は計画性のない衝動的な犯行だと。動機が出ないのも当然です。蒲生隊長を殺害する動機は、まさにあの瞬間、あの火災現場の廊下で生まれたものだったからです。逆に言えば、あの時あの廊下に突入したのが蒲生隊長でなければ、他の人間が被害者になっていた可能性も捨てきれないという事ですよ」
その言葉に、古賀以外の消防士たちがゾッとした表情をする。自分が被害者になっていたのかもしれない……改めてそう言われると、とんでもない話だった。
「あとはさっき説明した通りです。消防士は蒲生隊長を殴り殺し、さらに助けを求めた静川優里亜ももう一度殴って、部屋の中に押し込んだ。彼女の死因は一酸化炭素中毒ですから、そのまま部屋の中で気絶した状態の時に煙を吸って亡くなったのでしょう。ですが、犯人にとって大きな問題がありました。もしこの場で蒲生隊長が発見されればこの部屋が事件に関係ある可能性を見抜かれてしまうかもしれないのです。だからこそ犯人は遺体を動かすしかなかった。犯人が遺体を九二〇号室に移動して隠蔽工作をしたのは、遺体と九一八号室を結び付けられたくないという思惑もあったんでしょう。捨てる部屋を九二〇号室にしたのは、隣室では心理的に不安が残るのと、九一六号室まで行ってしまうとホールに近すぎて誰かに見られる危険性が増すからでしょうね。いずれにせよ、消防士はいったん現場を離れて救助作業を行い、再び隙をついて遺体の傍に戻って九二〇号室にその遺体を放り込んだ。もちろん、その時に凶器の瓦礫も一緒に」
誰も何も言えない様子だった。それだけ榊原の推理は圧倒的なものだったのである。
「以上で、蒲生隊長がどうして火災現場で殺害されたのかという動機面は証明されました。そして、これを実行した犯人は、あなた以外にあり得ないんです。そうですね、古賀直沖さん」
再び呼びかけられて、古賀はぎこちなく榊原を見上げた。が、榊原はさらに古賀を追い詰めていく。
「このストーリーが成立するとした場合、犯人に当てはまる条件は二つです。一つは、その人物が消防士であるという事。もう一つは、火災前に確固たるアリバイが存在しない事。この時点で、宿泊客が犯人である可能性は完全に消去されます。また、消防士の中で事件前にアリバイがないのは、当日遅番で午後九時に出勤していたB班の人間だけ。ゆえに宿直組だったA班所属の下杉さんと時川さんは犯人候補から除外されます。よって容疑者として残るのは古賀さんと雨笠さんだけ。しかし、やり方次第で隙を作り出せたあなたと違い、雨笠さんに関してはそんな隙を見つける事は不可能です。南東エリアと真反対の北西エリアで平良木周平を救助し、その後は下杉さんと一緒にいたわけですからね。よってこの通り、消去法で考えると、残る容疑者はあなた一人しかいなくなるんですよ」
もはや真実は明白だった。だが、これだけ言われても古賀はなおも必死に抵抗する構えを見せていた。
「でたらめです……そんなのは、全部でたらめです! くだらない! 馬鹿げている! インチキだ! 何もかもがあなたの作り話です!」
「では、何がどうでたらめなのかしっかり反証してください! もっとも、私はそれに対して徹底的に応戦する覚悟ですが!」
その覚悟に対し、古賀は無謀にも真正面から榊原に挑みかかった。ここまでくると、もう誰にも口出しする事は出来ない。ここから先は榊原と古賀……探偵と犯人による一騎打ちである。
「反証……そう、例えば! 例えば、自分がその静川優里亜を殴ったって! そんな! その推理自体があなたの妄想じゃないですか! 自分は! そんな女は知らない! 自分がその女を殴った証拠なんてどこにもないんです!」
「いいえ、少なくともあの日、あなたが火災発生前にあのホテルいたこと自体は証明が可能です」
「でたらめです! そんな妄言、自分は信じない!」
「妄言ではなく証拠に基づいた反証です」
「証拠なんかあるわけがないっ!」
「ありますよ。指紋という立派な証拠が」
その言葉に、古賀が呻き声をあげる。
「指紋、ですって?」
「言った通り、最初の静川優里亜の殴打にせよ、蒲生隊長の殺しにせよ、すべてが衝動的な犯行です。だとすれば、指紋などに対する備えは想定していないとするべきでしょう。さすがに現場の九一八号室の指紋は拭いたと思いますが……いくらなんでも、ホテル中の指紋を拭いたわけじゃありませんよね?」
「あっ!」
瑞穂が声を上げた。
「ホテルの記録に残っていない以上、あなたはおそらくフロントなどを通らずにホテルに入ったと思います。が、指紋の痕跡を消す事はできません。来るときに殺人の事など考えずに行動していた以上、あのホテルには至る所にあなたの指紋が残っているはずです。しかもホテルは毎日清掃されるので当日以外の指紋は残っていない上に、なおかつ火災以来二階以上は清掃も含めて全面立ち入り禁止になっていますから、そこで発見される指紋は事件当日のものだとはっきり断定できるんですよ」
「そ、そんなの! 現場に臨場した時に付いたのかもしれない!」
「いいえ! あなたは臨場したとき防火服に身を包んでいて、署に帰るまでそれを脱いでいません。したがって、救助作業中にあなたの指紋がホテルに残るはずがないんです! もしホテルにあなたの指紋が残っていたとするなら、それは火災発生以前に付いたものと考えるしかありません。つまり、ホテルのどこか一ヶ所にでもあなたの指紋が確認されれば、事件当日にあなたが火災発生前にあのホテルにいた事が科学的にも証明されるんですよ」
「そ、それは……」
「もしホテルで指紋が見つかったら説明できますか? あなたが火災発生前のホテルで何をしていたのか、その理由を詳細かつ理論立てて!」
だが、ここまで追い詰められながらも古賀はしぶとかった。
「た、たとえ指紋が見つかっても、それは自分が火災前にホテルにいた証明にしかなりません! 自分がその女を殴った証拠にはならないはずです!」
「ホテルに行った事は認めるんですか?」
「仮に指紋が出たらの話です! 自分はあくまで現時点ではそれを否定します! 結局のところ、自分がその静川という女性や蒲生隊長を殺害した直接的な証拠はないという事じゃないですか! あるなら見せてくださいよ! 自分が蒲生隊長を殺害したという、決定的な証拠を!」
もはや狂乱状態の古賀であったが、榊原はどこまでも冷静だった。
「いいでしょう。ならば、そろそろ時間も遅くなってきた事ですし……決着をつけましょうか、この茶番に」
そう言うと、榊原は最後の手札を突き付けにかかった。
「この事件、あなたが犯人だという事を決定的に証明するには、あなたと静川優里亜と蒲生晴孝の三者が火災現場で出会っていた証拠さえあれば充分なんです。もしあなたが火災現場で二人に出会っていたのであれば、静川優里亜が実際に九一八号室の室内で死んでいる以上、あなたが現場で出会ったはずの静川優里亜を再び部屋に押し戻して見殺しにした事を証明できますからね。そこに蒲生隊長も一緒にいたとなれば、あなたの容疑は決定的なものとなるでしょう。この理屈は理解できますか?」
「そ、それが! それがどうしたっていうんですか! いくらわめいても、そんな事が証明できるはずがない!」
わめいているのはあなたでしょう、と瑞穂は思わず突っ込みそうになったが、ここは口を挟まないでおく。それだけ古賀も必死なのだ。榊原もそんな古賀の思いを正面から受け止めた上で、古賀に対する最後の糾弾に移る。
「それができる、と言ったらどうでしょうか?」
「何だと!」
「いいですか。あのホテルにおいて、消防士たちはオートロック式のドアの中にいる宿泊客を助けるためにドアを破りながらの救助作業を余儀なくされました。しかし、問題の九一八号室のドアは破られていません。先程の推理が正しければ、静川優里亜は駆けつけた消防士に助けを求めたはずですから、ドアは破られていなければならないはずなんです。それが破られていなかったという事は、可能性は一つ。あのドアは、助けを求める彼女が自分で内側から開けたという事に他ならないんです」
「何が言いたいんですか!」
古賀が狂ったように叫ぶ。それに答えるように、榊原の声はますます鋭さを増した。
「静川優里亜は自分でドアを開けて瀕死の重傷のまま部屋の外に逃げ出そうとした。そして、そこで消防士の姿を見つけた。さて、そのような状況下で、静川優里亜はどういう行動に出るでしょうか?」
「どうって、それは……」
「とにかく、その消防士の体にすがるのではないでしょうか?」
その言葉に、誰もが息を飲んだ。
「彼女は瀕死だった。つまり、歩くこと自体精一杯の状況だったわけです。そんな状況で消防士を見つけたら、必死になって消防士の体に縋り付いて助けを求めるでしょう。となれば、彼女は当然消防士の防火服に触る事になります」
「だから! それがいったい何だと……」
そこまで言いかけて、古賀の目が大きく見開かれた。そして、次の瞬間、彼は大声で絶叫していた。
「あ……ああああぁぁぁぁぁぁっ!」
「気付いたようですね」
榊原は文字通りの決定的な証拠を叩き込んだ。
「もし、この推理が正しければ、あなたが事件当夜に着ていた防火服から検出されるはずです。他でもない、静川優里亜の指紋がね! それこそが、あなたが火災発生当日に静川優里亜と火災現場で接触したという何よりもの証拠になるんです!」
「こんな……こんな事を認められるか!」
古賀はそう言って頭を抱えながら首を振るが、なおも榊原は止まらない。
「それだけじゃない。もし事件の経緯が私の推理通りの状況なら、あなたは助けを求める静川優里亜をその場で拒絶したはずです。そうなれば、駆けつけた蒲生隊長が代わりに静川優里亜の体を支える程度の事はしたはず。だとするなら、現在保管されている蒲生隊長の防火服からも、静川優里亜の指紋その他の痕跡が検出される可能性が高いんです。つまり、あなたと蒲生隊長双方の防火服から静川優里亜の痕跡が検出される事で、あなたたち三人が火災現場で一緒にいた事、さらにはあなたが二人を見殺しにして堂々とこの場に居座っている事が、白日の下に晒されるんです!」
もはや古賀はイヤイヤと首を振りながらまともに話を聞いていないようだった。だが、それでもなお最後の反論を仕向けてくる。
「そ、そんなもの……そんなもの、実際に検査してみないとわかるわけが……」
「えぇ、もちろんわかりません。ですが、検査をする価値はあります。だから、あなたには選択をしてもらいましょう」
「せ、選択?」
「もし、あなたが無罪だというなら、今この場であなたの防火服を警察に提出してください。その検査でどんな結果が出るのかはわかりませんが、無実なら防火服から何が出ようがあなたには関係ないはず。ですが、もしあなたが犯人なら……それで、この事件はすべて解決すると私は確信しています。そして、防火服を提出しないとなれば、それはあなたがこの事件の犯人だと自ら認めた事になりますね」
「っ!」
「私の話はここまでです。最後はあなたが決めてください。防火服を提出するかしないか……二つに一つ、決めるのはあなた自身です」
そして、榊原はとどめの一言を震える古賀に叩きつける。
「さぁ……どうしますか!」
古賀の顔が顔面蒼白になり、その場でガタガタ震え始めた。同時に瑞穂は榊原が古賀に対して一か八かの罠を仕込んだ事を悟った。
これは榊原お得意の心理戦である。もし古賀が犯人なら、実際には防火服に何の痕跡が残っていなかったとしても、この検査に同意する事は心理的に絶対に出来ない。そんな事をすれば、犯行につながる何が出てくるか自分でもわからず、それこそ決定的な証拠を警察につかまれることにつながりかねないからだ。そんな危険なものを万が一の可能性にかけて提出するわけにはいかない。古賀が犯人だとするなら、その恐れがわずかにでもある限り、実際の結果に関係なく、防火服の提出は心理的に不可能なのである。
そして、古賀はものの見事にこの榊原の罠にはまった。
「あ……ああ……あああ……」
次の瞬間、古賀は一瞬そう呻くと、直後に大絶叫を上げた。
「アアアアァァァァァァァァァァァァァァァッ!」
その聞き苦しい絶叫に、榊原はそっと顔をそむけて目を閉じる。同時に、窓の外から夕日を差し込ませていた太陽が沈み、部屋の中を闇が包み込んだ。
それは、古賀直沖という犯罪者の心の炎が、今まさに消え去ったのを象徴しているように瑞穂には思えたのだった。
あの日、午後八時頃、ホテル・ミラージュ九階九一八号室にて……。
「わ、別れるって……どういう意味ですか! 優里亜さん!」
一人の長身の男が、部屋の中で女性に詰め寄っていた。一方、優里亜と呼ばれた女性は悲しそうな顔で男を見つめている。
「ごめんなさい……でも、私たち、もう終わりだと思うの」
「ちゃんと理由を説明してください! どうしてですか! どうしてこんな急に……」
「あなたが嘘をつくからよ!」
女性は少し涙を浮かべながら言った。
「じ、自分が嘘を?」
「とぼけないで! 私、見たのよ……。この間渋谷で、あなたが他の女の人と笑いながら歩いているのを! 私しかいないとか言っていたくせに!」
「そ、それは……」
「興信所に頼んで調べてもらったわ。あの人、幼馴染なんですってね。しかも、結構いい仲だったみたいだし」
「ま、待ってください! 確かに彼女と再会して一時期その……そういう関係になっていたかもしれませんけど、でもすぐに後悔して、あなたの事を思い返して別れて……」
「そんな事はどうでもいいの! あなたが私というものがありながら別の女性と一時期でも付き合うような人間だった事が許せないの! もう、あなたと付き合う事なんかできない!」
「そ、そんな……」
そう言うと、優里亜は涙ぐんだ。
「私……今度お見合いする事になったの」
「え……」
「実家の勧めで強引に……でも、あなたがいるから断るつもりでいた。だけど……こんな裏切り方をされて今まで通りなんてできない!」
「な、何を……」
「私、そのお見合いを受ける事にしたわ。もう、あなたとは会わない。そのお見合い相手と正式にお付き合いさせてもらうつもり。わかった? わかったら、さっさと出て行ってよ!」
男の顔は顔面蒼白になっていた。
「そんな……自分を裏切るんですか!」
「最初に裏切ったのはあなたでしょう! 出て行ってよ、この女たらし! その不細工な顔を、二度と私に見せないでぇっ!」
その瞬間、男の頭の中で何かが切れた。
「こ、このアマぁぁぁぁぁぁっ!」
そこから先の男の記憶はない。気づいた瞬間、優里亜は床に倒れこんでおり、男の手には血にまみれた灰皿が握られていた。
「え……あ……」
直後、男……否、古賀直沖は全身をガタガタ震わせ、思わずか細い声で悲鳴を上げた。
「自分じゃない……自分は悪くない! こっ、この女が……」
その数分後、古賀は血の付いた灰皿をもってそのまま部屋を脱出した。まさかそのわずか二時間後に、すっかり変わり果てたこの部屋に再び舞い戻るなど思いもせずに……。
……古賀直沖の告白を、その場にいる誰もが重い表情で聞いていた。すでに外は暗くなっており、部屋には電気が点けられている。そして、すっかり憔悴しきった古賀の周りを他の関係者たちが取り囲むようにしていた。
すでに榊原の推理によって古賀が陥落してから三十分以上が経過している。あれだけ抵抗していた古賀もようやく落ち着きを取り戻し、まるで憑き物が落ちたかのように事のすべてを淡々と告白していた。徹底的に榊原に追い詰められて、もはや防火服の証拠が出るまでもなくすっかり観念している様子である。
「すべては、榊原の言った通りなのか?」
大塚の問いに、古賀は緩慢な動作で頷いた。
「何で……何で現場にいなかったあなたが、あんな見てきたかのように当時の状況を話す事ができるんですか? 自分にはそっちの方が不気味です」
「それがこの榊原という男だ。こいつに睨まれたのがお前の運のつきだったな」
大塚がやや同情気味に言う。依頼人の南田は、気まずそうに古賀を見つめていた。そんな中、榊原は淡々とした口調で事実の確認を進める。
「確認します。古賀さん、あなたは九階に突入した後、淀村伊織のいた九一五号室ではなく真っ先に九一八号室に向かった。そして、あなたはそこで自分が殺したはずの静川優里亜が助けを求めてくる光景に出くわした。そうですね?」
「自分は……こんな悪夢のような偶然があるのかと内心恐怖に怯えていました。だって、そうじゃないですか! 自分が殺人を起こしたあのホテルが二時間もしないうちに大火災になって、しかもそこに自分が臨場する事になるなんて……」
古賀は恨みがましい視線を榊原に向けた。
「突入した時、自分の頭の中にあったのは、九一八号室の死体を蒲生隊長たちに見られてはならないという事でした。だから、自分はすぐに九一八号室へ向かって誰よりも早く彼女の死体を確認し、そのまま誰かに見られる前に『彼女はすでに死亡している』と報告しようとしたんです。それで、いざ中に入ろうとドアを破ろうとしたら……」
その瞬間、古賀の目が恐怖で見開かれる。
「自分が何もしていないのにドアが開いて、中から……あの女が! 血まみれになって呻きながら、炎の中からまるでゾンビみたいにこちらへ向かって! じ、自分は、思わず悲鳴を上げてしまって!」
「もしかして、その悲鳴に蒲生隊長が気付いた?」
榊原の言葉に、古賀は力なく頷いた。
「自分が腰を抜かしていると、蒲生隊長がこっちにやってきて……見られてしまったんです! あの女が頭から血を流して助けを求めている光景を。蒲生隊長はすぐに助けようとしましたが……自分にとっては絶望でしたよ。このままだと、この女の口から自分が人を殺そうとしたことがばれてしまう。そうなったら、自分は破滅です! だから……だから、自分は! 咄嗟に近くに落ちていた瓦礫を掴んで……」
その後は言わずもがなだった。
「我に返って確かめたら、蒲生隊長は打ち所が悪かったのか息がありませんでした。あの女の方はまだ息があったので、そのまま九一八号室の中へ押し込んでドアを閉めました。そのまま死んでくれればいいと思ったんです。でも、その時にはもう蒲生隊長の遺体を処理する時間がなくて……仕方がないので遺体を瓦礫で隠した上で一度現場に戻る事にしました」
「そして、あなたは蒲生隊長の遺体を処理できる隙を伺ったんですね」
榊原の問いに、古賀は小さく頷く。
「時川に救助作業の手伝いを頼まれた時、チャンスだと思いました。うまくいけば、アリバイを作りながら遺体の処理ができると思って……。自分は時川に先に行かせると、自分が担当した要救助者をなるだけ煙の少ない場所に置いて、そのまま蒲生隊長の遺体の場所へ戻りました。そして、九二〇号室のドアを破って、蒲生隊長の遺体と凶器の瓦礫を放り込んで……すぐに要救助者のいる場所に戻ったんです。自分がしたのは……それがすべてです」
古賀はそう言って項垂れる。だが、榊原は最後の最後に厳しい視線でこう追求した。
「事情はよくわかりました。ですが、私は最後にあなたに対してとても残酷な質問をしなければなりません」
「な、何ですか?」
「他でもありません。あなたが遺体を投げ込んだ九二〇号室。そこには宿泊客のパトリック・シェルダンがいたはずです。彼の遺体も九二〇号室から発見されています」
そして、榊原は自分で言ったように残酷な質問を投げかけた。
「単刀直入に聞きます。あなたが突入した時、彼は……パトリック・シェルダンは生きていましたか?」
その言葉に、誰もが緊張した様子で息を飲んだ。古賀は一瞬何か言い訳使用とするそぶりを見せたが、榊原の厳しい視線を見ると途端にうろたえ始め、そのまましばらくして振り絞るような声で、歯を食いしばりながらはっきりと宣告した。
「……生きて……いました……」
その瞬間、その場を鋭い緊張が駆け抜けた。が、榊原は恐ろしいくらいに冷静なまま事実を確認していく。
「つまり、あなたはパトリック氏が生きているにもかかわらず、それを見て見ぬふりをして蒲生隊長の遺体を放棄した、と」
「仕方がなかったんです! 彼には蒲生隊長の遺体を運んでいるところを見られてしまっていましたし、それに南西エリアで救助活動をしているというアリバイ工作をしていた自分がこのエリアの人間を救助する事なんてできなかった。自分は、彼を見殺しにするしかなかったんです……」
「ちょ、ちょっと待て!」
と、ここで南田が突然割り込んだ。今の証言には明らかに見過ごせない部分があったのである。
「その言い方だともしかして……パトリック氏にはその時意識があったのか! お前は、意識があって助けを求めている人間をあっさり見殺しにしたというのか!」
その南田の言葉に、古賀は苦しそうな表情をしながらやがて小さく頷いた。南田は顔を歪めながら、怒りで顔を真っ赤にして吐き捨てる。
「この……大馬鹿野郎が! お前は消防士の風上にも置けない人間だ!」
そう言われても、古賀には何も言い返せない様子だった。だが、榊原はさらに続ける。
「そして、あなたは放置していた立浪権之助の元へ戻った。そこでもう一つの質問です。あなたが遺体処理から戻ったこの瞬間、立浪権之助はまだ生きていたのですか? 時川さんの話では、救助時点ではまだ息があったという事ですが」
これに関しても、古賀は泣きそうになりながら振り絞るように言った。
「……自分が戻った時……要救助者には……い、息が、なかったように思います」
「お、お前っ……!」
もはや、呆れるしかない話に、消防士たちの顔は真っ赤になっている。これが本当なら、立浪は古賀が救助を放棄して彼を火災現場に放置したがゆえに死んでしまったという事ではないか。同じ部屋で救助された谷松が生きている以上、その可能性が大きく上がってしまうのである。もはやそれは、消防士としてあってはならない話だった。
自分たちの仕事を穢された……。顔を真っ赤にして古賀を見下ろしている消防士たちはそう感じているのかもしれないと、瑞穂は人知れずそう思っていた。
「つまり、あなたは本来助かるかもしれなかったはずの要救助者を放置して遺体処理工作を行い、結果、その要救助者を死に追いやった、という事ですね。言うまでもない事ですが、あなたのやった事は消防士の行為から大きく外れたものであり、同時に明確な犯罪行為でもあります。直接手を下した蒲生隊長、静川優里亜の件だけでなく、このパトリックと立浪の件に関しても、あなたは裁かれる事になるでしょうね」
榊原の鋭い言葉に、古賀はもう答える事もなく頭を抱えていた。ここに至って、瑞穂は古賀がなぜあれだけ抵抗したのかをはっきり悟っていた。何という事はない、古賀は蒲生隊長だけを殺したのではなく、あの火災現場で四人もの人間の命を奪っていたのだ。こんな事がばれたら捕まるだけでは済まない。法律には疎い瑞穂だが、最悪死刑の可能性だってありうることは何となくわかる。そう、古賀にとってこの榊原との論戦は、冗談でも誇張でもなんでもなく、まさに自分の命を懸けた一騎打ち……言い換えればすべてを賭けた決闘だったのである。
そして、古賀はその決闘に敗れ去った。もはや古賀を守るものは何も存在しない。他の人間が白い目を向ける中、古賀はもう何も言わずただ項垂れる他ないようだった。
榊原が通報した警察が駆け付け、古賀が正式に殺人容疑で逮捕されたのは、このわずか十五分後の事だった。
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