第31話 エピローグ

「あなた、はやく支度してちょうだい。タクシーも到着して待たせているわ」

 私は仏壇の前で線香を上げリンを鳴らし手を合わせた。奥にはごちゃごちゃと先祖たちの写真が並ぶ中に、日に焼けてしわくちゃの笑顔の勇のもあった。もうあれから十三年もたったのか。私は梨子と結婚後、二人の子供を授かった。勇はまるで孫のように子供達をかわいがってくれた。そして子供達も良く懐いて、毎日のように一緒に荒川の土手で自転車こぎをしたり、キャッチボールをしたりして遊んでもらった。

 一度家庭を持つと月日の経つのは飛ぶようで、その子供達ももうすっかり大きくなった。姉のほうは小さい頃から、パパやママみたいにお医者ちゃんになりたい、と言っていたが、今は研修生として忙しく働いている。そして下の息子と言えば、思春期を迎えた頃は反抗期で大変だったが、子供の時から演劇好きの母親に毎週のように劇場に連れて行かれた影響か、ある日突然、俺は役者になる、と言って家を飛び出して劇団に入り、下っ端として働いているようである。

 勇の晩年は穏やかなもので、一緒に庭仕事をした翌日家をたずねると亡くなっていた。老衰だった。子供達が中学生の時だった。

 いつだったか、フランス映画で「人生は長く静かな河」を梨子と見に行ったことがあった。私の二代目院長としての人生は勇の波乱万丈な生き方と比べたら、家庭では二人の子供を持つ凡庸な父でまさに映画のタイトルのごとくだと思っていた。だが映画の中身と同様に、やはり皮肉にも自分の人生もそのタイトル通りではないと思い知らされる出来事が中高年となった今に至るまでいろいろあった。

 大変なことに遭遇する度、なぜか夜寝ている間、夢の中に、決まって浪川勇が登場するのである。そして、思いっきり私の背中をバーンと叩いて、なぁに、そんなこと俺に比べりゃてぇしたことじゃねぇ、後ろで俺が守護神様みてぃに見守ってやってるから心配すんな、ラバウルで夜一緒に見上げた星空を思い出しな、と言って豪傑笑いをするのである。勇さん、星空ですか、と言いかけてがっちりしたその肩に手で触れようとした瞬間、はっと目を覚ますのだ。

「ねぇ、さっきから何度も呼んでるのに仏壇の前でいったい、どうしたんですか。運転手さんを待たせちゃだめよ。」

 梨子の声ではっと我に返った。そう、今日は浪川勇の十三回忌の日で、染井の墓地の隅っこに眠る勇の墓参りにこれから行くのだ。そこには美千代と貞一郎も一緒に納骨されていた。

 今日は四月の初めで、染井墓地の見事に満開になった桜もそろそろ終わりかけていた。はらはらと桜の花びらが風に舞いながら散って行く。手のひらを広げてかざしてみると、白に近い桃色の透けた花びらが何枚か乗り、人の人生もいつかは桜の花びらのようにはかなく散ってゆくものだなぁ、と感慨深く眺めた。桜の木の下で空を見上げると花曇りの間に水色の空がのぞいていた。目をつぶるとその雲の中に勇と美千代と貞一郎がいて、微笑んでいる。

 私達もそうだったけれど、あなた達もどんなことがあっても諦めずに強く生きてくださいね。

 そうでも言っているかのようだった。

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千住武闘伝 松浦泉 @matsuuraizumi

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