第30話 結婚


 私は先代院長の一人息子で、身長は百八十センチを優に越し、横にも大きく大柄の方に属した。見るからに外科医の体格ではあったが、根が大まかでずぼらな性格の上、甘やかされて育ったせいか、教授を頂点とする徒弟制度の中での初期修業は艱難辛苦の連続だった。

 研修が終わったら早速父の病院で働こうと思っていたが、熟達した外科医だった父は、研修医が終わったら、数年は市中病院に勤務して外科修業を積むようにとつれない言いつけだった。ところが、私が医者になって五年が過ぎたとき、父が胃癌であることが判明した。肝臓やリンパ節に転移していたほか、腹水があることが明らかになり、もはや根治治療を行うには手遅れだった。

 数ヵ月後、父は死んだ。そのため、医者としてまだ十分とは言えない経験しかないうちに、私は病院を継いで診療のみならず、経営にも当たらなければならなくなった。幸いにして、事務長はじめ、検査技師、放射線技師、看護婦も開院以来この病院で働いてきて、東京下町の貧民医療の中核を担ってきたことに愛着を持っていた。新しい院長を支えてこの病院を存続させることは、亡き前院長の遺志を継ぐことであり、自分たちも世話になった前院長に恩義を果たせると考えていた。

 三五歳の私が鳳病院長になったとき、息子の実務能力を客観的に判断していた母は、今後の病院経営に強い不安を抱き、前院長の人脈を使って息子のお嫁さん探しを始めた。しかし、私の相手は何人お見合いしてもなかなか決まらなかった。私自身の態度がぐずつかず、愛想を尽かされてしまうこともあれば、母の眼鏡に適わないこともあった。それゆえ、私は四十歳まで独身のままでいた。

 そこで佐和子が新しい結婚話を探してきて、勇を通して私に伝えたのである。


 勇は自分の武勇伝を終えると、思い出したように話し始めた。

「おっと、いけねぇ。先生、いつの間にか俺の昔のことを話こんじまったな。肝心な話をするのをすっかり忘れるところだっだ。ハッハッハッ、で、先生の嫁さんにどうかって女医さんのことだけどねぇ、なかなかのべっぴんで気立てもいいんだよ。どうだい、一度会ってみるかい。」

「麻酔科の先生とおしゃってましたよね。」

私は唐突な話には思ったが、快く承諾した。

見合いをする日曜、私はずっと袖を通してなかった仕立てのシャツとスーツを着て久しぶりにおめかしをして出かけた。

「先生、美人を待たせちゃだめだよ、五分遅刻!」

 老舗の喫茶店の扉を開けるなり、勇の威勢の良い声が耳に飛び込んできた。

私はすっかり顔が赤くほてり額に汗が出るのを感じながら、勇が手を振って座っている方へ向かった。テーブルには勇と佐和子、そしてその向かいに座る女性がこちらを見て微笑んでいた。

「やぁ、お待たせしました。久しぶりに慣れないおめかしをしたもんでね。星野雄一と申します。初めまして。」

「田中貴美子と申します。佐和子さんからは先生のお話を伺っています」

目鼻立ちが整ってきりっとした知的な雰囲気の女医であった。

「さ、先生、席を温めといてやったから、俺たちはこれでさっさとずらかるよ、後は任せたよ。貴美子さん、何でも先生にご馳走してもらいな、ここのカニコロッケ定食は懐かしの味でおすすめするよ。たまには懐メロみたいな茶店もいいだろ」

 勇はやにわに立ち上がり、佐和子と一緒に二人をテーブルに残して出て行った。ハンチング棒を斜めにかぶった後ろ姿の勇は粋でいなせないでたちだったので私は少々驚いた。

「どうぞお好きなものを頼んでください。僕はナポリタンと食後にコーヒーとあんみつにします」

「では、カニコロッケ定食と、私も食後にコーヒーとあんみつをいただきます。」

女医と院長のお見合いにしては、やけに庶民的な雰囲気の店だと思ったが、意外とリラックスできて二人の会話ははずんだ。

 田中貴美子は石川県出身だが親の仕事の関係で小学生の間はブラジルで過ごしたそうだ。リオのカーニバルが大好きというところから、私も江戸っ子のお祭りが大好きだという話に発展した。

「貴美子さん、良かったらもうすぐ朝顔市がはじまるので一緒に見に行きませんか?」

 初めのうちは緊張していたが、あんみつが出てくる頃にはお互いすっかり意気投合していることに気づいた。さっそくこの次のデートの約束をしたのであった。

 

 入谷の七月は朝顔市の季節である。日光街道と言問通りが交差する入谷の交差点は人ごみでごった返しており、「恐れ入谷の鬼子母神」の前から金杉通りに至るまで混み合っていた。着流しの男や浴衣の女性もいれば、Tシャツの若者も多い。鬼子母神が祀られる真源寺境内からは、もうもうたる線香の煙が周囲に流れ出しており、門前の道路沿いでは朝顔物色ついでにお参りする人々の流れが引きも切らない状態である。

 私は東京下町に住む者の心得、しきたりとして、下町の季節を告げる風物詩である市には毎年とは言わずとも時々出かける。浅草のほおずき市、羽子板市などとともに、入谷朝顔市はその定番だ。

 貴美子は背が百七十センチほどもある長身で、私はむしろやや恐いような印象を感じた。しかし、話してみるととても明るい性格で、箸が転がっても笑うタイプであることが分った。一方、初めて私を見た彼女は、私のそばに立つと自分が小さく見えることに感動したらしい。長身の自分は結婚相手が見つかりにくいかもと思って内心心配しているという。

 まず真源寺に入り、お参りをする。

 江戸時代の文人、太田蜀山人作の狂歌で知られる入谷 子母神は、日蓮上人の尊像とともに真源寺に祀られている。鬼子母神は鬼神般闍迦(はんしか)の妻でインド仏教上の女神のひとりであり、性質凶暴で子供を奪い取っては食べてしまう悪神であったが、釈迦は鬼子母神の末子を隠し、子を失う悲しみを実感させて改心させたという。それ以後、「小児の神」として児女を守る善神となり、安産・子育の守護神として信仰されるようになった。

 鬼子母神を出ると、私と貴美子は鬼子母神前の言問通り沿いに並んだ朝顔の棚を見ながら歩き、それから言問通りを反対側に渡って、夜店や屋台を巡り歩いた。杏飴やすもも飴や梅せんべいやソースせんべいの露店が続く。

 入谷近辺は明治時代までは通称「入谷たんぼ」といわれた江戸の郊外の地であり、植木を育てる十分な後背地があって朝顔や蓮の栽培に適していたため、江戸時代から中国から輸入された朝顔を栽培していた。朝顔市が入谷名物となったのは明治に入ってからであり、十数件の植木屋が朝顔を造り、鑑賞させたのがはじまりといわれる。

 鬼子母神周辺に朝顔の露店が約百二十店、通りの反対側にたこ焼きや綿アメなどの露店も約百二十店並んで、夜を徹して市が開かれ、二万鉢の朝顔が売られるのである。

 私は鉢植えの朝顔を買った。朝顔を買ってしまうと、重くもあるからあとは帰宅である。何か食べて帰ろうということになり、言問通りから金杉通りに曲がった。金杉通りを三ノ輪に向かってしばらく歩くと漸く人ごみがばらけてきた。季節外れではあるが、私と貴美子はその通りにある河豚料理屋に入った。相撲の力士がよく来る店で、力士たちの手形を捺した半紙が壁に並べて貼ってある。私は早速ひれ酒を頼み、河豚刺をつまみつつちびちびと飲んだ。

 その後も私たちはお付き合いを続けた。

 十一月下旬、鷲神社の三の酉の日のことだった。上野で待ち合わせると私私は下谷のフレンチ・レストランに連れて行った。この地域に昔からあって地元で知らぬ者はない店で、鵜飼家でも法事があるとその後の会食は大抵上野精養軒もしくはこの店だった。谷中や染井の墓地に近いこともそうした会で使われやすい理由であろう。

 鷲神社を出ると、国際通りを風が吹きぬける。その日は赤城降しの空っ風がそのまま東京までやってきたような風の強く吹く寒い日だった。彼女の実家の館林では関東平野を吹き降ろす空っ風はさぞかし身に沁みるだろうと言うと、立って歩くことができませんとの答え。看護師長の佐和子と同郷ではないか。俺で大丈夫かなと思っていると、またも冷たい風がひゅうっと吹き抜けた。

 貴美子はコートの襟を立てた。寒いですねと言う彼女に私は言った。

「僕の後ろに入れば暖かいですよ」

 彼女はこの台詞を覚えていてその後も何かと思い出しては口にするのだった。


 話は順調にまとまり、月が師走に替わった頃、私と貴美子は館林の彼女の実家に挨拶に行った。こうして母の懸案だった私の嫁探しは院長就任後、五年を経て漸く解決した。貴美子は母が睨んだ通りのしっかり者で、薬剤師業務のみならず実務的な経営にも手腕を発揮して爆弾息子を抱えた母を安心させてくれそうだ。


 二人で相談した結果、結婚式は親族と親しい友達を招いて海外でして、そのままハネムーンもそこですることに決めた。最初はブラジルにしようか、等と言っていたが、あまり遠いと招かれる方も大変であることを考慮して、ラバウル島ですることになった。私の心の中で勇の昔の衝撃的な話が相当強く影響していて冒険心を掻き立てていたに違いない。かくして、私達はかつて勇が特攻隊員として飛び出して行ったラバウル島で挙式をした。

 リゾート地周辺には当時の戦争の面影はほとんど見当たらなかった。

 挙式の翌日、昼近くになってから遅い朝食をとった後、ホテルからすぐ前に広がるビーチに出て二人で砂浜に並べられた長椅子に座ってゆっくりしていた。少し遠くのヤシの木々の横の辺りにふと目をやると、白ブリにランニングシャツ姿であおむけに大の字になって寝転んでいる男の姿に気が付いた。

 しばらく眠っていたようだが、がばっと起き上がった。年はとっているが昔ボクサーをやっていただけあって筋骨隆々の体格をしている。手を振っているこちらの方にようやく気が付いたようで手を振り返し、立ち上がってこちらにやってきた。よく陽に焼け皺で一杯の笑顔が眩しくみえた。

「やぁ、新婚さん、昨日はほんとにいい式だったよ。おっと、気が利かなくてわりぃな」

 勇は私達を二人だけにした方がいいと思ったらしく退散しようとした。

「勇さん、しばらくここで一緒に日光浴でもしましょうよ」

 空はどこまでも高く高く真っ青に抜けていた。そして果てしなく茫洋と広がるエメラルドグリーンの海。いつまでもここで何もせずにこうして三人でぼーっとしていたいようであった。

 すると、どこからともなく小さな飛行機がやってきて高い空をゆっくりと通り過ぎていった。勇はしばらく呆然と空を見上げその飛行機を目で追いかけていた。突然、その目から一筋の涙が頬をつたわった。そして、節くれだった手で顔を覆うといきなりむせぶように泣き出した。

 びっくりした私は勇を思わず自分の肩に引き寄せた。過去にあれほど強いパンチを繰り出していた男がまるで小さな少年のように肩を震わせて泣いている。

「すまんな、こんなめでたい時に泣きっ面見せちまって、ガキの頃からの昔のことが全部走馬灯のように頭の中に浮かんできちまった。」

 少しして感情がおさまったらしく、赤い目をしながらも満面の笑みを見せた。

 午後は勇と貴美子と三人で太平洋戦争跡地巡りをした。勇の解説付きで破壊されたゼロ戦等を見学するのは感慨深かった。

「あんた達の結婚式で招いてくれなければ二度とラバウル島に来ることはなかった、本当にありがとよ。この浪川勇もう思い残すことはねぇ」

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