ドクター・ハミルトンの患者

雨宮羽音

ドクター・ハミルトンの患者

 私は医者として、〝特別な精神疾患〟を持った患者を診ている。


 ドクター・ハミルトンと言えば、業界ではそこそこ名の通る存在だ。

 そして今回受け持つことになった患者が、私の頭を非常に悩ませていた。



 彼の名前はジョン・プレト。16歳の青年で、本来ならば学校に通っている年頃だろう。

 だが彼は今、白い患者衣を身にまとって病室のベッドで横たわっている。


 目を見開いていて意識はあるように見えるが、話しかけても返答は一切返ってこない。俗に言う〝心神喪失状態〟というものに近い。

 心ここにあらずと言った様子で虚空を見つめている時間がほとんどだ。


 前任の担当医から聞いた話では、彼はこんな生活を3年間も続けているらしい。


「ジョン。これが何だかわかるかい?」


 私は彼の目に映るようにして一枚の白紙をチラつかせる。ついでに鉛筆も見せつけてから、ベッドの補助机をセットしてその上に並べた。


 ジョンは上体を起こして机に向き直ると、ニタリと不敵な笑みを浮かべて白紙に文字を書き始める。

 一心不乱に空白を埋めるその姿は、誰がどう見ても明らかに異常な行動だ。


「〝今の君〟には文字を書くことだけがすべてなんだね……」


 私が憐れむような視線をジョンに向けていると、「先生……」と看護婦から声がかけられた。

 廊下の窓ガラス越しに二人の女性。看護婦と彼女に連れられたジョンの母親だ。


 今日が面会の曜日だったことを、私はすっかりと忘れていた。



───────



 母親はジョンと二人きり、病室で一方通行な会話を繰り広げていた。

 私はそれを看護婦と一緒に外から眺めている。


「何年も看病に通って、息子さん想いのいいお母さんですね……」


「……どうだかな」


 看護師の柔らかい言葉に対して、私は怪訝な表情を浮かべた。

 その差も仕方のないことだ。彼女に比べたら、私は仕事の都合上で患者の情報をより多く知っているのだから。



 ジョンがこんな状態になってしまったのは父親の虐待が原因だ。

 昔から日常的に暴力を振るわれていたようだが、3年前に行き過ぎた虐待行為のせいでジョンは意識不明の重体になった。

 なんとか一命はとりとめたものの、その時ジョンは元の彼に戻ることは無かったのだ。


 母親は父親と離婚し、金銭の工面や息子に近づかない取り決めを裁判で勝ち取ったそうだ。


 事の発端になったのは確かに父親なのだろう。

 しかし私の見立てでは、母親も少なからずジョンに悪影響を与えていたと考えている。


 彼女は熱心なカルト教信者なのだ。

 父親との関係が円満なもので無かったのも、それが一因なのではないだろうか。

 担当医を引き継ぐ際に確認した資料からの情報がほとんどだが、彼女が確かに世間離れした感覚の持ち主だということは、何度か会話をしただけでも察することができた。


 特に印象に残っているのはジョンのことを〝神童〟だと話していたことだ。


「ジョン。あなたは選ばれし子なんだから、きっと大丈夫よ。お母さん、毎日お友達と5時間もお祈りしてるんだから──」


 病室からは熱心にジョンへ語り掛ける母親の声が聞こえてきた。

 彼が両親からどんな扱いを受けて育ってきたのか、仕事とはいえ正直なところあまり考えたくないというのが私の本音だ。



 ともかく、私はジョンの助けになれるかを判断するためにしばらく経過観察をしなければならない。

 目を通さなければならない資料は山ほどあるし、彼のことを実際に診続けなければわからないことも多いはずだ。


 今回の仕事は随分と長くなりそうだと考え、私は小さくため息を吐くのだった。



───────



 事は数日後に起こった。


「どうして目を放したりしたんだ!?」


「すいません! 本当にすいません!!」


 病院の廊下を走る。私が出張先で緊急連絡を受けたのが一時間前。


 看護師が車椅子でジョンを連れ出し中庭を散歩させていた最中の出来事。

 彼が突然走り出して車道に飛び出し、車に轢かれたとの電話を受けた。


「ジョンは大丈夫か!?」


 足早に病室へ入ると、ベッドの横に腰掛けた初老の医師が驚いた顔をして私達を迎えた。

 ほとんど面識は無いが、彼は確か脳神経外科の先生だ。


「そう慌てなさるな。外傷は無く、すでに診察を終えて安静にしておる。

 頭を打ったようだが脳に問題も無い。車がノロノロ走っていたようで運が良かったのう」


「ああ……まったく……」


 安らかな顔で眠っているジョンを見て、思わず安堵の吐息が漏れる。


「……しっかりしてくれよ君は! こういう事になりかねないのはわかっていただろう!!」


「聞いてはいたんですが……私が担当になってからは初めてで……」


 つい感情的になってしまう私に看護婦は何度も頭を下げた。

 涙を流すその姿を見て、声を荒げてしまったことを後悔し、できるだけ冷静に思考を巡らせようと試みる。



 ジョンは基本的にあまり動くということをしない。

 起きていてもどこかを見つめ続けるばかりで、〝特別な条件〟を満たさない限りは身じろぎ一つしないのだ。

 その特別な条件というのが〝今は〟白紙と鉛筆を与えることである。


 しかし時折、数か月に一度くらいの頻度で自発的に行動することがあるようだった。

 滅多に無いことなのでそういう時は大抵こちらが油断している場合が多く、今回のような事故に繋がったケースが何度も記録されている。


 実を言えば、ジョンはここ3年の間に8回も事故に遭遇しているのだ。

 すべて大事には至っていないが、下手をすれば死んでいてもおかしくない事故ばかりだ。


 ジョンの看護婦というポジションも、主治医の私と同じように担当を定期的に交代しているのだろう。それが油断に拍車をかけてしまうのだ。


 だからといって気を抜いていい理由には決してならない。注意するべき点はしっかりと資料に記載されているはずなのだから。


「頼むよ……二度と彼から目を離さないでくれ……」


「はい……本当にすいません……」


 泣きじゃくる看護婦は、顔を隠しながら足早に病室を出て行ってしまう。


「なにはともあれ、大事にならなくてよかったのう。私は仕事にもどるから、何かあったら遠慮なく呼びなさい」


 そういって初老の医師も部屋を後にする。


 残された私は上着を脱ぎ、ベッドの横にある椅子に沈み込むように腰かけた。

 短い時間の間にとてつもなく疲れた気がする。


 少し休もう。

 そう思った矢先だった。


「たっ……なねし……」


 信じられない声を耳にして、私は目を見開く。


「ジョンが……言葉を……」


「……ま。たえき……くかじも」


 ベッドで寝ていたはずのジョンは目を覚ましていた。

 相変わらずどこを見ているのかわからなかったが、信じられないことに彼は言葉を発している。ボソボソと呟いているのでよく聞き取れないが間違いない。


「誰か人をっ……いや待て。それよりもまずこれだ!」


 私はすぐさまポケットをまさぐり小型のレコーダーを録音に切り替える。

 ジョンの声がしっかり記録されるようマイクを近づけて、人を呼ぶためにナースコールを押した。


 私としたことが、事故の知らせで気が動転していて、大事なことが頭からすっぽ抜けてしまうところだった。

 これは過去の記録にも残っている現象だ。その時の音声も、データとして引き継いだ資料の中に存在していた。

 それがどんな内容だったか落ち着いて思い出すんだ──。


「……わくぼ……といなな……ろこ。すろ……だらか……ろこ。んに……」


 ジョンは何度も事故に合っている。

 そして昏睡状態になり目を覚ました後、決まって意味の分からない言葉を口にするのだ。


 さらにもう一つ特徴があった。

 私はそれを確認するために、ジョンの視界に入るよう白紙と鉛筆をぶら下げる。


「……てっらわ……み。いらわ。るて……いななし……でいな……ならわたつ……うど」


「……やはりだ。こいつには興味を示さなくなっている!」


 資料には確か、事故の後は必ず興味を示す対象が変わってしまうと記録されていたはずだった。



───────



 深夜。

 私は眠っているジョンの様子を一度だけ確認すると、病室を後にして自分のオフィスへ向かう。


 病院の中は気味が悪いほど静まり返り、明かりは足元を照らす非常灯とナースステーションから洩れる光だけだった。


 どこかに宿直の看護婦がいるはずだ。今日は私も泊まりになるだろう。



 自室に入り扉を閉める。

 窓の外では雨が降っていた。ガラスに当たる雨音からして結構な大雨のようだ。


 部屋の明かりは点けずに机の上のスタンドライトだけをオンにする。

 集中して作業したい時は、明るすぎない方が私は落ちつけるのだ。


「さてと……」


 机に向い立ち上げたパソコンを前にコーヒーを啜る。

 ジョンの一件でまだ確認していなかった過去の資料に興味がわいたため、それを見ながら考えをまとめたい。


 文書ファイルはすでにいくつか読み漁っていたが、動画や音声はあまり手を付けていなかった。

 ひとまずは動画を再生して内容を確認することにしてみる。



 ジョンがクレヨンを使って絵を描いている映像が流れる。

 楽しそうに笑みを浮かべて一心不乱に壁を汚していく。

 カメラはその絵を映すのだが、とても意味がある絵には見えなかった。無造作に色を塗りたくったラクガキだ。

 無我夢中になっているという意味では、文字を書き殴っていた時と似たような様子である。


 次の動画でジョンは自分のベッドを磨いていた。

 シーツを雑巾のかわりに見立てて、一生懸命にパイプや机をこすっている。

 最初から真っ白なベッドなのに、彼には何か汚れのようなものが見えているのだろうか──。

 こちらもやはり楽しそうにしていて、熱中している様子で延々と同じ行為を繰り返している。


 その次は彫刻をしていた。

 刃物をジョンに持たせていることに驚いたが、今更何を言っても仕方がない。


 さらには二本の棒きれで耳障りなリズムを刻む姿。演奏しているつもりのようだ。


 キーボードを差し出され適当にタイプしている映像もある。



 それらすべての映像はジョンの事故後に撮影されたものだった。

 昏睡状態になった後で目覚めると、彼は決まって興味の対象を別のものに変える。

 白紙と鉛筆に反応しなくなったのも、つまりはそういうことだろう。新しい興味が何に向けられているのか、明日から色々と試してみなければならない。


 ふと、手元にあるジョンの脳波をMRIで検査した画像に目を落とす。

 私は脳の専門家では無いが、事故後の検査結果を見てみると活性化している脳の部位がそれぞれ異なっていることが素人目に見てもよくわかる。


 事故の後遺症が脳に変化を及ぼすことで、彼の精神疾患が現れているのだろうか。

 だとしたら私一人の手には負えなくなる。今日会った脳神経外科の医師に相談してみた方がよいのかもしれない。



「ニャー」


 突然の猫撫で声に集中していた私の意識が途切れてしまう。


 鳴き声は部屋の外から。

 まさか院内に猫がいるはずも無い。では一体どこからだろうと思い窓の方へと視線を向ける。


 雨に濡れた黒猫が、窓の外縁からこちらを覗いていた。


「おいおい、ここ3階だぞ」


 慌てて窓を開けると、黒猫は警戒する素振りも見せずに部屋の中へと入りこんで来た。

 身震いをして水滴を辺りにまき散らし、何食わぬ顔でちょこんと床に座り込んでいる。


「……猫って、ミルクあげても平気なんだっけか?」


 私は呟きながら、コーヒーカップの受け皿にミルクのポーションをいくつか注いで来客に差し出す。

 しかし黒猫は全く興味を示さずに、私の顔をじっと見つめているままだった。


「お気に召さないか。まあいい。雨が止むまでなら居てもいいぞ。ただしこの部屋からは出ちゃだめだからな」


 首を傾げた黒猫を横目に、私は再び机に向った。


 気を取り直して、今度は音声データを確認し始める。

 こちらはジョンが言葉を発した際に録音されたものがほとんどだ。


 とりあえず古めのデータを選び再生してみる。


[でいな。けすた。だ。やいうも。いしほ。だらかたま。るてみ。とひのつべ──]


 今日録音した音声もそうだったが、何を言っているのかさっぱりわからない。

 適当に発声しているだけなのだろうか。

 しかし事故直後しか声を発さないメカニズムには何かしら理由があるはずだ。正しく言葉に出来ていないだけで、ジョンには伝えたいことがあるような気がしてならない。


[いならわたつ。ばとこのくぼ。りぱっや。だめだ]


 別のデータを再生してみるが、やはり理解できない言葉だ。


 もしかすると私達が気が付いていないだけで、どこか遠い国の言語だったりはしないだろうか。ある日知らないはずの言語が喋れるようになるという、眉唾だがそういったオカルトチックな話を聞いたことがある。


 またはアナグラムになっているとかではないか。そう思い、聞き取れる範囲で文字に起こしてはみるが、なんだか馬鹿らしくなって途中でやめてしまう。

 こんな考えが浮かんできてしまうのは推理小説の読みすぎだろう。



 やはり、私の考えすぎなのかもしれない。

 ジョンが口にする言葉に意味など無く、事故後の後遺症で言語野が刺激され、反射的に呟いているだけの可能性も十分にある。


「もっと大きな病院に移して、大々的に検査してみた方がいいのかもしれないな……」


 私が独り言を漏らした時だった。

 部屋の中を徘徊していた黒猫が、不意に机の上へと飛び上がった。

 私の目の前に自身の存在をアピールしようとしているのか、キーボードを踏みつけてディスプレイと私の視線との間を遮る。


「こら! 仕事の邪魔をしないでくれよ……」


 黒猫を持ち上げて床に下ろす。


 途端、私の耳には〝意味を持った〟音声が入り込んで来た。


[だめだ。やっぱり。ボクのコトバ。つたわらない]


「なんだと!?」


 私は目を疑った。否、自身の耳を疑った。


[それでも。なんとか。しないと。ボクが。ボクであるあいだに]


「どういうことだっ……!?」


 スピーカーから再生されている音声は確かに理解できる言葉になっている。

 何が起きているのか理解できない私は、血眼になって画面の中を見回した。


「これは……逆再生か!!」


 黒猫に踏みつけられたキーが、偶然にもデータを逆再生させていた。


 私は背筋に悪寒が走るのを感じた。

 同時に、謎解きの解を得たかのようなワクワクとした気持ちも湧き上がってくる。額を冷や汗が流れ始めていた。


 今再生しているデータを閉じて一番古いものを開くと、終わりから逆再生してみる。

 その日付から、入院し始めて最初の事故にあった後に録音されたものだとわかる。


[ボクのなか。えをかく。ヒトがいなくなった。うごかない。ボクの。からだなのに。うごかない]


 私は生唾を飲み込み、手元のメモ用紙にジョンが語る言葉を殴り書きしていく。


[ちがうヒト。みてる。ボクみてる。おそうじ。おそうじしなくちゃ。だめなんだって。からだが。ほしいって]


 そのデータはそこで終わりだった。急いで次のデータを逆再生する。


[ボクのコトバ。つたわらない。タスケて。けずる。けずる。けずる。ずっとボクを。みてる。からだほしい。コワイよ]


「何を言ってるんだ。クソッ、端的すぎて意味がよくわからない……」


 言葉が理解できるようになった途端、一つのデータ内容が短すぎると感じるようになった。

 私は続けざまに他のデータも開いていく。


[けずるヒト。いなくなった。ボクがしのう。したから。べつのヒト。みてる。またからだ。ほしい。もういや。だ。たすけ。ないで]


[どれくらい。たった。またしね。ない。かった。だれ。だれ。だれ? ボクをみてるのだれ。……ころして]


[だめだ。やっぱり。ボクのコトバ。つたわらない。それでも。なんとか。しないと。ボクが。ボクであるあいだに]


 他にも続くデータを再生し終えて、私はメモを読み返して少し情報を整理する。


 誰かが見ている。そしてそれに恐怖を抱いているようだ。

 誰かとは私達医師のことだろうか。だが体が欲しいとはどういう意味なのだろう。


 それから〝えをかくヒト〟、〝おそうじ〟、〝けずる〟という単語。どれもジョンが興味を示していたものと関係のあるワードだ。

 さらに気になるのは彼が死にたいと言っている部分。

 〝ころして〟。そのままの意味で捕らえるならば殺して欲しいという意思表示に思えるのだが、ジョンは何を見て、怖がり、死にたいと思っているのだろうか。


「もっと古いデータは無いのか……父親に暴行された後、入院して最初に目覚めた時も何か言っていたんじゃないのか!?」


 仮にそうだったとして、おそらくその時の言葉にこそ一番重要なキーワードが含まれていたに違いない。

 だが他のフォルダーを漁っても、古い音声データは見つからない。


 残る音声データは一つ。今日私が録音したものだけになってしまった。


 私は恐る恐るそのデータを逆再生する。


[どうせ。つたわラない。でも。とめないで。ボクは。しなナいと。みてる。わらい。みてる。わらっテル──]


 音声はまだ続いているが、背後で扉の開く音がする。


 しまった、半開きになっていたのだろうか。黒猫の奴が廊下に出ていったようだ。院内に動物を徘徊させるのは非常にまずい。


 それはわかっているのだが、再生されるジョンの言葉を最後まで聞きたい気持ちが強すぎる。


[ごニン。ころした。わらっテる。からだ。よこせ。ころす。ころす。ころス!! しなナいと。ボクは……]


 ジョンの言葉は今までの物と比べて語気が強いものになっていた。

〝ころす〟という物騒な発言が連呼され、私が感じていた寒気がさらに強いものへと変わっていく。



 瞬間。

 背後に人の気配を感じた。

 そして呟きが、少年の声で耳元をくすぐる。


「──よいな。くたしろこ」


 私にはその言葉の意味が理解できなかった。





ドクター・ハミルトンの患者・完



─作者のひとこと─


 音声データの逆再生は、実際だと母音と子音も逆になるため文字起こし出来ないんじゃないかと思います。

 そこは文字媒体の創作として、暖かい目でスルーしてやってください。

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ドクター・ハミルトンの患者 雨宮羽音 @HaotoAmamiya

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