第7話

かつて、まだ優しかった母がよく絵本を読み聞かせてくれた大きな木の下で、お姫様のようなドレスを着た少女が横たわっていた。不自然に感じて駆け寄ると、顔色は真っ青で、死んでいるのかと思ったけれど、ふと辺りを見渡すと『マムシにちゅうい!』という手書きの看板があった。

マムシが毒蛇なのは知っていた。横たわる少女の腕に、何かに噛まれたような赤い傷跡を見つけて、マムシのせいだと分かった。胸が微かに上下しているのが見て取れて、まだ生きているとも分かった。

自分の傷を治せるなら、他の人の傷も治せると信じて疑わなかった幼い自分。相手は今まで見てきたどんな人とも違う容姿をしていて、波打ち輝く髪は金色がかった銀色、少し開いた口からは牙が見えた。肌の白さも、こんなに真っ白で白い花のような人は見たことがなかった。

──きゅうけつき。

知識としては知っていても、初めて見る存在だった。吸血鬼と一般人は違うことも知っていて、でもだから何だというのだと思った。

私は迷わず少女の腕を両手に掴み、傷口を吸った。毒を吸って吐き出し、舐める。それを繰り返した。

毒の嫌な感じは分かったから、それがなくなるまで吸っては吐き出した。

何度繰り返しただろう? 不意に、血が甘くなった。甘くて気持ちいい香りがして、私は飲み込んでしまった。血といえば自分の生臭い血しか知らなかったから、驚いて、でもあんまりにも甘くて美味しかったから吐き出せなかった。

すると、呼応するように少女の瞼が揺れて、飲み込んだ血より甘い蜜色の瞳が私を射抜いたのだ。

「よかった……だいじょうぶ……?」

なんて綺麗な瞳なんだろうと見入りながら、息をもらす。少女は私に腕を預けたまま、問いかけてきた。

「……あなたは誰?」

「あ、ごめんなさい、私……」

私は慌てて腕を離した。でも、少女の瞳に叱責の色はなかった。

「……何を謝っているの? 私を助けてくれたのでしょう? 私、蛇に噛まれて……この血は、蛇の毒を吸ってくれたのでしょう?」

少女の傍らには、吐き出した毒の混ざった血が落ちていた。私は恐る恐る頷いた。咄嗟に謝ってしまったのは、何をしても母に怒鳴られる日々でついた癖だった。

「そう、あなたが……素晴らしい夢を見たわ。きっとあれはお花畑ね。あら? でも、あなたからも夢で見たお花畑と同じ香りがするわ」

私は首を振って後ずさった。ろくにお風呂にも入らせてもらえない自分が、いい香りなんてしているわけがない。恥ずかしくなった。

すると、少女は私の手をそっと取った。

「行かないで。一緒にいてちょうだい。名前を教えて? 私も教えるわ。宮牙美矢乃というの。ねえ、あなたの名前は?」

「……ちか。いずみ、ちか」

「ちか……可愛い響きね。何て書くの?」

「漢字はまだ書けないけど……千の香りってママが言ってた……でも、もう……」

子供には残酷すぎる書き置きが、眼の裏にありありと蘇る。もう、きっと会えない。

「なぜ、そんなに泣いているの?

あなたは独りぼっちなの? 寂しいの?」

少女──美矢乃さまが手を伸ばして私の頬に触れる。私は自覚もないままに涙を流していた。

涙なんて、どれくらいぶりだろう?

殴られるのが怖くて、泣けずにいた。悲しみが強すぎて麻痺して泣けずにいた。母からの憎しみは強すぎる毒となって侵されていた。

美矢乃さまは半身を起こして、私に顔を近づけ、止まらない涙を舌で舐めとってくれた。

「ご、ごめん……なさ……」

「謝らなくていいのよ、泣くことはいいことなの。泣けるうちはまだ生きたいって思えてることなの。心が必死に頑張っているのよ、生きるために」

このとき、こんなにも温かい微笑を、私はずいぶん長らくの間見たことがなかった。

「あなたの涙が止まるまで、こうしていてあげる。……あら? あなたの口から私の匂いがするわ……なぜかしら?」

温かい言葉の後の弾劾に聞こえた。ああ、私は何てことをしてしまったのだろう。この美しいひとの優しさを失う。

「ごめんなさい……わたし、血をのんでしまって……ひとくち……すごく、あまくて……それで……」

固く目を閉じて懺悔する。自分以外の誰かの血を飲むなんて、きっと気持ち悪いと思われる。嫌がられる。怒られる。

私は今度こそ叱責を待った。その意に反して、美矢乃さまは静かに私を抱きしめたのだ。

「……そう、私の血は甘かったの。もっと飲みたい?」

「う、ううん……おなか、いっぱい」

戸惑いながら首を振る。空腹で目覚めたのが嘘のように、美矢乃さまの血を飲んでから満たされていた。

「そう、よかった。……千香ちゃん、あなた、大きくなったら、また私の血を飲んでくれるかしら?」

「……いいの?」

まさか、受け容れられるとは思わなかった。しかも、美矢乃さまは私を求めてくれているのが伝わってきて、今までの生傷を優しく包み込むようだった。

「ええ。あなたのなかには幸せなお花畑があるのよ。私はそれが大好き。それに、あなたは蛇に噛まれた私を真っ先に救ってくれたじゃない。もし千香ちゃんが大人を探しに行っていたら、その間に毒が回りきって死んでいたかもしれないわ。あなたは私の大事な人なの。約束してちょうだい。いつか、私にあなたを助けさせて」

優しい言葉が言霊となって、私を満たしてゆく。私は悲しみから救われるような心持ちで美矢乃さまの言葉を噛みしめた。美矢乃さまの言葉には、真摯で真っ直ぐで嘘のない、ぬくもりがあった。それは、母が一変してから希求してきたものだった。

「……うん、やくそくする……」

美矢乃さまの体は温かくて柔らかくて、強くも緩くもない抱擁は母のそれより心地よくて、誰かに触れられることを恐れていたはずなのに、私は夢見心地で頷いていた……。

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