第6話
「今日はここまで! 後は各自、今日の問題点をさらっておくように! 特に千香、宮牙さんの悪戯に過剰反応しないこと!」
「はい、すみません……! なるべく前向きに……善処いたします……」
口だけの政治家の言葉を転用すると、顧問にはしっかり伝わっていたらしい。きっと凄みを効かされ、縮こまった。
「千香、あなたはどこにいても舞台の上でのように堂々としなさい。逃げる理由を作ったら駄目よ」
「……はい、すみません」
「──お説教は終わったかしら?
千香、ほら途中まで一緒に帰りましょう」
「え?──わわっ!」
急に背後から声がしたかと思ったら、美矢乃さまにがっしりと腕を組まれた。というより、しがみつかれた。
「もう、千香ったら男役トップなのに何て色気のない反応……」
「今は舞台ではありません! 気配を消されれば誰でも驚くでしょう!」
「あらあら、消してないわ。勢いよく抱きついただけよ」
「なおのこと悪いです! とにかく、離してください!」
呆れる顧問の目の前で言い合っていると、あまりにもの美矢乃さまに対する遠慮のなさに顧問は手を叩いて「そうだわ」と言い出した。嫌な予感しかしない。
「千香、あなた毎日宮牙さんと帰りなさい。腕を組むか、最低でも手を繋ぐこと。要は慣れよ、特訓だと思って頑張りなさい」
「え、──えええっ?!」
貞操の危機だ……。
「文句ある? 舞台を成功させるためよ! 本番まで残り1ヶ月を切ってるんですからね、あなた本番で飛びすさったら台無しよ?」
「本番では逃げません! ですから、」
私は必死でとりすがった。しかし顧問も譲らない。
「命令です。舞台までの間、恋人になりきりなさい」
絶望だ。すると、隣で歓声が上がった。美矢乃さまだった。
「あら素敵、先生もいいこと言ってくださるじゃない。これから毎日楽しみだわ! ボルテージ上がるわ! よろしくね、千香!」
「あああああ……」
無理難題を押しつけられて、私は情けない声しか出なかった。一方、美矢乃さまは私を引きずってでも闊歩するかと思っていたら、私の重い足どりに合わせて一歩ずつゆっくりと歩き出した。
かと思うと、私の腕に顔をすりつけて軽やかな笑い声をこぼす。意味不明だ。
「どうしたんですか、美矢乃さま。せっかくのお美しい顔がにやけて台無しですよ」
嘘だ。本当は、あまりにも幸せそうな笑みで嫌悪感よりも上回る何かに心臓が跳ねている。それほどに、まろやかな笑みだった。
「まあひどい。でもいいの、こうしていると幼い頃を思い出せて幸せなんですもの」
「……幼い頃?」
「私達の出逢いよ、憶えているでしょう? ほら、あの……」
幼い頃といえば、優しかった母が男と付き合うようになってから一変して私を疎んじるようになってしまった。そのショックが強い。
それでも、当時は再び母に微笑んでもらえるように頑張っていた。できることなら何でもやった。ごみ捨て、食器洗い、洗濯、お風呂場とトイレの掃除。
でも、報われることはなかった。小学校低学年の私でもできると分かると、冷たい雑用がどんどん増えていった。少しでも失敗すると、怒鳴られて平手が飛んだ。
そのうち、男が入り浸るようになると、虐待はエスカレートした。口にできるものは学校の給食と、あれば夕飯の残り物だけになり、夜寝るにも布団は使わせてもらえず、けばだった毛布1枚を頼りに固い畳の上で丸くなって眠った。眠りのなかだけが逃げ道なのに、いい夢を見たことなど一度もなかった。優しい母の夢を何百回願ったことだろう。
衣服も、どんなに古びても新しいものは買ってもらえなかった。洗濯を繰り返して色褪せ、毛玉ができて擦り切れた服装で我慢していると、母は私のみすぼらしさに近づくことさえ禁じた。近づくときは、母に殴られるときだけだった。
そしてある日の夜、踏み台に乗って食器を洗っていて、 水気を切ろうとしたときに手を滑らせてお皿を落とし、割ってしまった。
私は鋭い音にびっくりして、怖くなって、すぐに破片を拾おうとして──破片で指を切った。
「痛っ……」
血が丸く膨らみ、盛り上がり、滴る。
「ちょっと何やってんのよアンタ! 皿1枚まともに洗えないの! 弁償もできないくせに何様のつもり?!」
焦りのなかでの母からの怒号に、心臓は潰れそうに搾られた。私は泣けば殴られると知っていたから、泣けなかった。代わりに、自分を慰めるように傷ついた指先を口に含んだ。
生臭い血の味がどろりと口のなかに広がり、顔をしかめる。
けれど、次の瞬間、傷の痛みが消えたのだ。
私は指を抜いて見てみた。血は止まり、傷痕も残っていなかった。
そこで、私は傷ついても舐めれば治ることを知った。それは唯一の救いになった。たとえ誰が慰めてくれなくとも、私は私を慰めることができる。私は破片を1つポケットに忍ばせて、悲しいことがあると、母が男と出ている間に指や腕を破片で切って舐めて癒した。
だが、母はだんだんと家に寄りつかなくなり──挙げ句の果ての、男との失踪だ。
あの朝、私は衝撃のあまり泣くことさえできずに走った。まだ優しかった母が連れて行ってくれた場所を、思い出せる限り走り回って、母を捜した。
そして、最後に、森林公園の母のお気に入りの場所で──。
「……あ……」
そこで、ある記憶が合致した。
「眠れる、お姫様……?」
「思い出してくれた?」
美矢乃さまが正面から向き直って私の両手をおし包む。押しつけることのない笑顔は優しくて、蓮華の花のようだった。
「菩提樹の下で、毒蛇に噛まれて倒れていた私を千香が助けてくれたのよ。あのときの心地よさ、香り、私が目覚めたときに見せてくれた安堵の眼差し……あれほどの幸福を、私は知らなかったの」
「そんな、美矢乃さまは裕福なお家で育ったのでしょう? 大袈裟です」
過ぎた賛辞に、うまく出ない声を押し出す。美矢乃さまは、しみじみと回顧する様子で、けれど譲らなかった。
「ええ、私は父に愛されて育ったわ。それでも、それよりも幸せだと感じてしまったの」
美矢乃さまの手が、舞台の上では無視していたのかと思うほど、初めて知る温かさで私の手をぬくもらせる。
私は、毒蛇に噛まれていた『眠れるお姫様』を助けたことを、母からの仕打ちにほとんどを占められていた記憶から、ようやく思い出しながら振り返っていた。
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