リンデンヴェール

城間ようこ

第1話

 母のいない独りきりの夜、テレビをつけて、わざと電波の届かないチャンネルにする。

 砂嵐。うるさいほどの静寂が好きだった。

 膝を抱えて、モノクロの海を眺めていた。

 膝に顔をうずめると、音は優しくもない機械仕掛けの夢と無を心に満たした。

 けれど、その束の間の安らぎさえ長くは続かなかった。


『千香へ』

『ごめんなさい』

『これからは、ひとりで、がんばって生きてね』


 朝、空腹に耐えきれず目を醒ますと、家のなかは虚ろだった。

 いない──誰もいない。

 父ではない、私につらく当たる男の人と一緒にいることが多くなってからは、私を怒鳴って叩いてばかりだった母がいない。そんな母が甘えるようになった、その父ではない男の人もいない。あるのは、ただ紙きれ一枚の書き置きと、ちゃぶ台の上のラップに包まれたお握り二つだけだった。

 呆然としたまま、お握りを手にとる。

 まだ温かいと分かって、私は粗末な身なりのまま家を飛び出して走った。

 走って走って走って、せわしない息は渇き果て、足は重く鈍く痛むようになったとき、私は、まだ母が優しかった頃によく連れて来てくれた森林公園に辿り着き、大きな木の下で『眠れるお姫様』を見つけた──。


 そのお姫様は美しく、私と年齢はそんなに離れてはいないように見えた。大きな木の根元に力なく横たわり、芝生にばらけたプラチナブロンドの髪が日射しを受けてきらきらと輝いていた。着ている服も派手派手しさはないのに綺麗で艶やかで、擦り切れて色褪せた私のみすぼらしい服装とは大違いだった。

 私はお姫様の美しさと、一人きりで横たわっている違和感に驚いて、思わず歩み寄っていた。

 そうして、お姫様の傍らに膝をついて見下ろすと、彼女には頬に血の気がなく真っ白だという事に気づいた。

 いなくなっていた母を無我夢中で探し、極限に近い空腹のなかで走っていた自分が、どれほど追いつめられて切羽詰まっていたかも束の間忘れるほどに、お姫様の姿は私に衝撃を与えた。

 ──なぜ、このお姫様はこんな場所に寝ているのだろう?

 いや、違う。寝ているのではない。一目見て恵まれたおうちの子どもだと分かるほどの女の子が、こんなに力も血の気も感じさせずに眠っているのは、おかしい。

 私は辺りを見渡した。けれど、様子を見てくれそうな大人の姿はない。

 どうしたらいいのか。姿を消してしまった母を見つけるのが、すがりつくのが一番大事な事のはずなのに、それでもお姫様を放っておけない気がする。

 私はお姫様に声をかけようとしたところで──ある物に不意と気がついた。そして、それがお姫様の眠る姿の答えだと、まだ幼い子どもの僅かな知識でも、はっきりと分かった。

 このままでは、お姫様が──。

 そう悟った私は、お姫様に覆い被さるように顔を近づけて、後は必死になった。

 それが、未来どころか今置かれた現実、現在すら真っ暗な闇に呑まれている私の、闇の先の運命を変えることになるとも知らないままに。


──そうして、その出来事の後に、独りきりの家へ帰った私は、冷めたおにぎりを泣きじゃくりながら貪った。ひと口食べるごとに減ってゆく、お母さんがおそらく最後に残していってくれたおにぎり。本当に最後の心のおにぎりを。

美味しいのに、ひと口食べるごとに、心に残っていた優しいお母さんの思い出と、この先いつか取り戻せるかもしれないというお母さんのかつての優しさが虚しく減ってゆく。食べ終われば消える。

お母さんのことは、もう取り戻せないと幼心にも分かってしまっていた。だから惜しいのに、飢えた──この、幼さゆえの狭い世界で飢えきった私は食べることを止められなかった。

美味しい。悲しい。そのおにぎりは、紛れもなくお母さんの私を思う優しさで出来ていると分かるからこそ美味しさが悲しい。お母さんが残してくれた最後の優しさは、こんなにも美味しくて悲しいものなのか。渇望してきた優しさは、別れを伴っていた。

おにぎりを食べ終えて、私は空虚な部屋で声をあげて泣いた。お母さん、お母さん、と泣き叫んだ。


──その異常な泣き声に気づいたお隣のひとが様子を見に来て、起こってしまった事実を把握して、独り取り残された私が施設に入れるように助けてくれたのだった。そのひとは以前から私への虐待を疑っていたらしい。

──怖いひとは、もういないのよ。誰もあなたを怒鳴らない、叩かない。──そう慰められて私は枯れることも知らぬ涙を流した。こんな形で楽になることなど望んではいなかったから。怒鳴られてもいい、叩かれてもいい、私はお母さんの愛情をいつか取り戻せる日を信じて待ちたかったから。

けれど環境が変わり、時も経ってゆく。私は少しずつ成長して、やがて、さらに大きな環境の変化を迎えることになったのだった──。



 *  *  *



 仮想二十一世紀──。


 人間は『吸血鬼』と『一般人』に分かれ、共存している。

 吸血鬼は、おとぎ話のように日光に弱くない。ニンニクも十字架も恐れはしない。

 優れた身体能力と容姿と長寿をもち、社会に貢献することが義務づけられていた。

 一般人は、吸血鬼に血を提供することをもって成人とされる。一度吸血鬼に血を提供すると、その吸血鬼によって生涯を保障される。それは、吸血鬼の業に巻き込むからだと言われている。

 だからこそ、吸血鬼は相手を慎重に選ばなくてはならない。

 業に巻き込む──それは、『魂の契り』を結んだ一般人が、その瞬間から、吸血鬼と寿命を共有することになるからだ。

 若さは最適な状態に保たれ、吸血鬼が天寿をまっとうするときまで共に生き続ける。

 吸血鬼は十六歳の誕生日の後に初めて迎える満月まで吸血せずとも一般人のように暮らせるけれど、その後は血液を欲する。

 かといって、無差別に吸血してはならないと定められている。吸血鬼の始祖──『帝』が定めたのだ。

 帝は、魂の契りを結ぶ一般人を、ただ一人と定めた。


 吸血鬼と一般人は、一対一で結ばれて生涯を共に生きる。吸血鬼の寿命は個体差があるものの、一般人よりは遙かに長い。吸血鬼はその長い歳月、ただ一人だけを慈しむ。

 吸血鬼の寿命は短くて二百年。長ければ千年を超える。帝に近い血筋ほど寿命は長くなる。帝は三千年にわたって世に君臨したという。今なお、どこかで魂の契りを交わした相手と寄り添いながら生きているだろうと言う人もいる。

 そして、吸血鬼と一般人と分かれていれば、場合によって二種族の間に子供が生まれることもある。

 それは『ダンピール』と呼ばれていて、一割が吸血鬼となり、残りのほとんどは一般人となる。しかし、吸血鬼となったダンピールのなかには魂の契りを交わさずとも一般人の血を『味見』できてしまう輩もいる。そのダンピールの容姿は一般人と変わらないため、一般人に紛れているので厄介だ。


 魂の契りとは? 吸血鬼と一般人はどう生活しているのか?

 それは、これから語る物語だ。


独り残された少女と、そしてもうひとりの少女が時を経て、心に大切なものを抱いて生きてゆくことを選びとる過程と、その結末までの──綺麗事だけでは済まされない世界に、それでも自分の綺麗なものを壊されまいと生き抜く、厳しいけれど優しい物語だ。



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