第4話
「──ストーップ! 和泉、何でそこで飛びすさるの?! ここは一歩だけ後ずさるところでしょうが!」
演技の緊張から現実に戻される。実は最後のところで別の緊張が生まれていたのだけど、それについては考えたくない。──トラウマなのだ。
「すみませんっ……って、何で本当に唇噛み切ってるんですか美矢乃さま!」
赤い花の正体は真っ赤な鮮血だった。下唇を染めている。
「あら、くちづけるんでしょう?
千香に私の血を受け取って欲しくて 」
冗談めいているが、実際、美矢乃さまは本当に私に迫っている。どうして私なのか皆目見当がつかないが、私が男役トップを務めるようになった元凶は美矢乃さまだ。理不尽なことに、中等部の卒業公演でヒロインをやることが決まっていた美矢乃さまが、「相手は千香でなければ嫌よ」と言い放ったのだ。
吸血鬼は帝の直系を頂点とするピラミッド社会だから、顧問でさえも美矢乃さまには逆らえない。結局、私は猛特訓を受けて泣きたくなりながら男役トップのデビューを果たした。それ以降、ずっと美矢乃さまの相手をさせられている。
美矢乃さまは演技に関しては素晴らしくて尊敬しているけれど、だけれども、それとこれとは話が別だ。私は肩を落としながら叫んだ。
「実際にはくちづけません! 真似だけです!」
「こらーっ、宮牙さん! あなた女優の顔を何だと思ってるの?!
早く治しなさい!」
怒号が飛ぶが、美矢乃さまは涼しい顔をしている。唇の血を拭おうともしない。
「あら先生、私、自分の傷は治せませんの」
──そう、美矢乃さまは吸血鬼だから唾液には治癒能力があるはずなのに、どんな場面でも使ったことがない。美矢乃さま七不思議のうちのひとつだ。
「──ああもうっ、救護班すぐに消毒薬! うんとしみるやつ!」
「嫌だわ、先生。千香に舐めてもらえば済むではありませんか」
……これは、非常に不本意だけれど和泉千香七不思議と言われているうちのひとつで、一般人でしかない私の唾液には治癒能力がある。でも、髪の色は茶色だし、瞳の色も茶色だ。日焼け止めはしているけれど、特別色白なわけでもない。それにしても、美矢乃さまの相手役というだけでファンクラブなんかを結成されて七不思議まで作られるとは。私は自分のことで精一杯なのに、周りに気を取られて疲弊する。
「絶対嫌です! 先生、液体絆創膏を!」
「ひどいわ、千香。あれって、ものすごくしみるじゃない。唇に使ってはいけないし」
わざとらしく傷ついた表情をしてみせる美矢乃さまに、相手が一応先輩だということを忘れた。
「知ったことではありません!
自業自得です!」
ここで、顧問が天井をあおいだ。
「あああ……もう、休憩! 宮牙さんの出血が止まったら再開!」
……どうやら、私への制止でもあったらしい。申し訳ない。
感情的になってしまったことを反省しながら舞台のソデに行ってタオルで汗を拭っていると、にこにこと愛想よく美矢乃さまがやって来た。吸血鬼に尻尾があったとしたら、パタパタと振っているに違いない。
「はい、千香。台詞が多くて喉が渇いたでしょう。特製スポーツドリンクよ」
高貴なお家の特製と聞いて、セレブな材料が使われているのかと思ったものの、見てみると何だかおかしい。
「ありがたいのですが……何かスポドリにあるまじき赤色なのですが……」
「だって、私の血が入っているもの」
……繰り返し言うが、冗談めいているけれど──いや、もう言いたくない。
「美・矢・乃・さ・ま! あなたは何でいつもそう……! 毎週の朝礼だってそうです! 一般人の生徒を惑わせて何が楽しいんですかっ!」
「もう、千香ったら朝礼のときも手を振り返してくれないし、冷たいんだから。でも諦めないから大丈夫よ。逃げられると追いたくなるって、よくあるでしょう?」
「大丈夫って何がですか! 私は誰とも契りません!」
「誰とも?」
「はい!」
力いっぱい頷くと、なぜか美矢乃さまは朗らかに笑った。
「あらよかった。では誰にも千香を盗られないで済むわね」
「……疲れたので一人で休ませてください……さっさと消毒してもらいに行ってください、傷から出血してるままじゃないですか……」
「あらあら、アタックしすぎてしまったかしら。ごめんなさいね、でもまあ諦めないけれど」
いえいえさっさと諦めてください、と言おうとしたものの、それより早くに身を翻して美矢乃さまは救護班がやきもきしているところへ行ってしまった。深くため息をついたところで、小道具係の人達の声が聞こえてきた。この人達は美矢乃さまのファンクラブ会員と、不本意ながら私のファンクラブ会員とで成り立っている。
「あら、もう終わりなの? 宮牙さまと千香さんがじゃれあっているお姿は至高な娯楽なのに、もったいない」
「それにしても、あの宮牙さまに真っ向から言い返せるなんて千香さんくらいよねえ。もう私、楽しくて楽しくて。すっかり演劇部の目の保養よねえ。千香さんも中等部で大抜擢されたときには、どうなるかと思ったけれど……身長もよく伸びて、あの痩せぎすだった頃が嘘みたい」
「ちょっと、聞こえるわよ」
そう、全て聞こえている。なにしろ、ほとんど背後で喋られているようなものなのだから。
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