第12話

「自信がないです……練習は頑張ってきましたけど、全力で頑張りますけど、満足して頂けるか……」

「あのね、千香。千香は花の蕾なの」

「え?」

唐突に言われて、間抜けに聞き返してしまった。美矢乃さまは片腕を私に絡めたまま、もう片方の手を伸ばして私の頬に触れた。密着してしまい、思わず逃げたくなる。なのに怖くない。これは、──どういうことだろう。

「ひとは誰でも心に花の蕾を眠らせているのよ。それは喜びの衝動で咲き誇るの。千香の胸にもあるわ。きっと咲く。私はそれを見たいの」

「美矢乃さま……」

美矢乃さまの言い回しは難しかったけれど、言いたいことはストレートに伝わってきた。

私の胸に眠っている花の蕾。それは、明日の舞台で咲くのだろうか? それとも、違う何かで? 分からないけれど、美矢乃さまとの舞台で咲き誇るのなら、どんな小さな花でも私は満足するような気がした。美矢乃さまも、きっと満足してくれるだろうと。

「ね、千香? だから精一杯演じましょう? この舞台には役者だけじゃない、色々なひとが関わって成功へ向けて頑張ってきたのよ。最後に笑顔になるために。それに、夢中になって演じて楽しかった、演じられてよかったと思えたら最高じゃない」

「……はい、そうですね。そうですよね」

私の緊張が意気込みに変わると、美矢乃さまは白薔薇のように笑ってくださった。棘のない、華やかな優しい白薔薇。

「……では、美矢乃さま、また明日」

「ええ。……毎日会えると分かっていても、名残惜しいものね。自分がどんどん欲張りになってゆくのが分かるわ。いっそ……いえ、千香を困らせるのはやめておきましょう。また明日ね、ごきげんよう。今夜はしっかり眠るのよ?」

「……ありがとうございます、美矢乃さま」

労わってくださって。気遣ってくださって。

美矢乃さまが無理に我を通さないように我慢していることには気づいていた。自分がそこに甘えていることにも。

──この穏やかなだけのときが、ずっと続けばいいのにと願う弱さが、今なぜか心臓を急き立てる。

とりあえず、部屋に戻ってシャワーを浴びよう。

ひとつ息をついて、寮の自室に帰ることにする。

「……あの、千香さま……」

遠慮がちな声に呼び止められたのは、寮に向かう銀杏並木を歩きだしたときだった。声の方を向いてみると、焦げ茶色の髪に同じ色の瞳の、小柄で華奢な一般人の生徒が胸の前に両手を組んで立っていた。今度は顔に見覚えがある。たしか、小道具班のひとだ。でも、小道具班のひとにしては珍しく美矢乃さまのファンクラブにも私のファンクラブにも属していなかった。記憶が確かなら、隣のクラスのひとだ。

「はい、明日の舞台のことで何かありましたか?」

「あ、いえ、あの……」

問いかけると、俯いて今にも泣き出しそうだ。ぎゅっと眉根に力を籠めて、肩が震えている。

「──どうしたの?」

こんなとき、美矢乃さまなら──私に対する美矢乃さまなら、どう接するだろう? そう考えながら想像のままに声をかけると、自分でも驚くほど柔らかい声が出た。

彼女は、その声に、はっと顔を上げて──すがるように口を開いた。

「……私、千香さまのことを、……お、お慕いしています……中等部の2年のときから……卒業公演で千香さまを拝見して、それで……」

「え……」

自分のファンクラブは、存在していることを黙認していても、騒がれることを受け流していても、こんなふうに真正面から告白されるのは──美矢乃さまを除けば初めてだった。

「こ、困らせてしまうつもりはなかったんです……でも、千香さまが美矢乃さまと親しくなってゆくのを見ていたら……いずれ、この気持ちの行き場を失くすのなら……玉砕しようと……」

彼女の瞳がみるみる潤んで、まばたきひとつで涙がこぼれた。

私はといえば、彼女の切迫した声と悲しい覚悟に、こちらまで胸がぎゅっと搾られた。

でも、応えられない。それがまた悲しい。

──それでも、せめて誠実な答えを伝えなければ。

「その気持ちは、本当に嬉しいです。ありがとう……私をずっと見ていてくれて、ありがとう。……あなたの想いに応えられなくて、ごめんなさい」

またひと粒、彼女の瞳から涙が落ちた。

「……いいえ……伝えられただけで……いえ、でも、もしも叶うなら、……ひとつだけお願いしてもよろしいでしょうか?」

彼女が顔を上げた。涙をたたえた瞳が美しいと思った。

「はい、私にできることなら」

だから、そっと促した。

彼女は数拍の間を置いて、逡巡しながら消え入りそうな声で言った。

「一度だけ……ぎゅって抱きしめてください……」

そうしたら、温かい思い出になりますから。──そう言われた気がした。

私は正直ためらった。美矢乃さまに腕を組まれることには慣れたけれど──瞼にくちづけされたときは理由も分からず心地よかったけれど──美矢乃さまの腕に飛び込んだときは?

あのときは、無我夢中だった。救いを求めていた。美矢乃さまは受けとめてくださって──私は、どう感じた?

心が、安らいだのだ。

「あ、ご、ごめんなさい……変なことを口走ってしまって……あの、」

私の沈黙を困惑と受け取ったらしい彼女が、慌てて引き下がるための何かを言おうとする。

「……一度、だけよ?」

「……え」

「いらっしゃい……可愛いことを言ってくれた、あなたにだけ特別です。──みんなには内緒ですよ?」

「ち、千香さまっ……」

今でも、触れられるのは怖い。逃げるのは簡単だ。当たり障りなく避けるのは。

嫌なことから目をそむけていれば、逃げていれば、何も変わらない自分、変えられない自分から動きださずに済む。それは簡単で狡いことだ。たとえば、ひとを傷つけても鈍感でいられる。

だけど今、真摯で必死な願いを口にした彼女を邪険にはしたくなかった。脳裡では美矢乃さまのありようが映っていた。

美矢乃さまなら──どうするだろう?

「……あなたが、あなたと幸せになれるひとと出逢えることを私は信じていますから……」

それが、私ではなくても。

彼女が、ことんと私の胸に顔をうずめる。

私は彼女の背中にそっと腕を回して抱きとめた。泣きじゃくる彼女の背中をさすり、繰り返し「ありがとう、ごめんなさい」「どうか、ここから幸せに向かって歩きだして」と心のなかで囁き続けた。

──これで、よかったのでしょうか? 美矢乃さま。

心のなかで美矢乃さまが微笑んだ気がした。

そっと体を離す。彼女はまだ涙まじりだったけれど、泣き笑いの笑顔だった。

「ありがとうございます、千香さま……不毛な恋だって、分かってたんです。断られるだけだと……でも、千香さまは大切な思い出にできる恋に変えてくださった。きっと私は、次に誰かを好きになるとき臆病にならずに済みます」

「よかった……私こそ、こんな私を好きになってくれて本当にありがとうね」

「文化祭の公演、頑張ってください。応援しています」

「ええ、精一杯頑張るわ。ありがとう」

「……では、ごきげんよう、千香さま」

「……ごきげんよう」

彼女は深々と頭を下げて、寮への道を歩きだした。私は、その姿が見えなくなるまで見送った。彼女は一度も俯かなかった。

──明日は、全力以上で演じよう。

美矢乃さまとの悲しい恋の物語を。

──生身の感情は舞台の礎になるの。

顧問の言葉を思い出す。これは、舞台だけでなく、すべてにおいて言えることなのかもしれないと思った。

感情の積み重ねは人生の礎になる。私の場合、負の感情の積み重ねが美矢乃さまと出逢うまでの礎だった。

今は──違う、だろうか?

思い返すと、美矢乃さまとのやり取り、美矢乃さまから頂いた言葉ばかりだ。

……何か、お返しできたらいいのに。

ふと、そう思った。

そのとき、秋風が花弁のように木の葉を舞わせた。私も早く帰って明日に備えなければ。




* * *





──結局、万全を期すために早めにベッドに入ったものの、気持ちが昂っていて、ほとんど眠れなかった。なのに眠くない。目が冴えて、雀のさえずりが聞こえると同時に起きだした。

シャワーを浴びて、肌のお手入れをして、制服に腕を通す。時計を見ると、まだ登校するには早かったけれど、校門は開いているだろう。部室で精神統一でもしようと、部屋を出て食堂で軽いものを食べて寮をあとにした。

多分、部室にはまだ誰もいない──そう思っていたのに、ドアを開けると美矢乃さまがいて、こちらを見つけるなり持っていた台本をテーブルに置いて小走りに寄ってきた。

「あら、千香ったら早いのね。もっとも、千香のことだから眠れずにすごして一番乗りで部室に来るだろうと踏んでいたのだけれど」

完全に読まれている。──いや、その前に、もっと大事なことが美矢乃さまの身に起きている。

私は間近で美矢乃さまのお顔を見て、半ば叫んだ。

「美矢乃さまっ! その唇はどうなさったのですか?!」

美矢乃さまの唇が、がさがさに荒れていたのだ。舞台は今日だというのに。

「そうなのよねえ、昨日の帰り道でね、とても人懐っこい犬に出会ったの。撫でていたら、ペロペロと私にキスしてくれたのよ!

嬉しそうにね。吸血鬼に懐く動物は珍しいから、私も嬉しくなってしまったの。けれど、今朝起きてみたら……やっぱり目立つかしら?」

「美矢乃さま、動物に口を舐めさせてはいけません! 犬に口を舐められた一般人が亡くなったケースもあるほどです!──あああっ、無理に皮を剥がそうとしないでください、悪化してしまいます! とにかく、今リップクリームを出しますから、たっぷり塗ってしばらくそのままにしてください。馴染んだらティッシュに化粧水を含ませたもので拭き取りますので!」

言いながら学生鞄をあさる。リップクリームとポケットティッシュと、小さなボトルに入れた化粧水を取り出した。リップクリームも化粧水も、美矢乃さまに使わせるには申し訳ない値段のものだし、本当はティッシュよりコットンの方がいいのだけれど、他の部員が来る前に何とかしたかったから、構っている場合ではない。

「さ、リップを塗ってください。安いものですけど品質はいいですから」

矢継ぎ早に言ってリップクリームを手渡すと、美矢乃さまは素直に受け取ってキャップを外した。──しかし。

「ありがとうね。……塗って、待っている間はどうすればいいのかしら? 退屈なのだけれど」

「黙っていてください」

ぴしゃりと返すと、予想通り美矢乃さまはリップクリームを塗る手を止めて唇を尖らせた。

「そんな……せっかく千香とふたりきりだというのに何もできないの?」

「そういう意味深になりそうなお言葉は控えてください! 前にも言いましたが自業自得です! とにかく早く塗ってください!」

「千香が構ってくれるというのなら急ぐわ。少しお喋りするくらい、いいでしょう?」

ここで首を縦に振らなかったら、美矢乃さまは──間に合わなかったときのことなど考えたくもない。顧問の怒声が響き渡るであろうことは目に見えているだけに。

ひとが誰かを叱責している姿は見ていて気持ちがいいものではないし、ましてや美矢乃さまが責められているお姿は……見たくないと考えてしまうのは、私は、美矢乃さまに懐柔されてしまっているのだろうか? いつの間にか。

それに何より、今日の舞台は何が何でも成功させたい。

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