双神黙示イマジナリー覚醒 〜夢読姫綺譚〜

愛野ニナ

第1話



 貴方の夢は何処をさまよっているの?

 昏く深い闇の中、共に眠り遠い世界の夢を漂っていた我が同胞。

 同じ魂をわけあって生まれたもうひとりの私よ。

 薄汚れた魂はいらない。

 欲しいのは貴方の美しい夢。

 私は銀のナイフを手首に当て切り裂いた。

 貴方の手首にも同じ傷を刻み、自らの傷と重ねる。

 聖痕のごとく十字に刻まれた傷口から、流れて絡み合う赤い血。

 かつてひとつであった同じ血を想い、私は恍惚としている。

 まるで、呼び合っているみたい。

 だから。

 早く起きて、愛しい者。

 私は貴方の寝顔に呼びかける。

 だけど。

 貴方は目覚めない。

 失望。諦め。

 そして、同時に安堵してもいる。



 ***  ****  ***

 


 深夜、玲奈は祖母と弟の寝顔を確認する。毎日毎晩、人の気も知らないで呑気なものだ。何はともあれ今夜も無事に眠ってくれた。やっと少し解放される。

 玲奈は眠っている二人を起こさないように、そっと自宅を抜け出した。

 別に行き先などない。

 虫が光に引き寄せられるようにコンビニの明かりを目指して歩く。

 見上げれば澄んだ冬空に星も煌めいてた。

 だが玲奈の気持ちは重い。

 いったいいつから、どうしてこんなことになってしまったのだろう。

 物心ついた頃、すでに両親はいなかった。その事情もおおよそ聞かされてはいたが、詳しくは知らない。玲奈は双子の弟の玲音と共に祖母の由紀子に引き取られ育てられた。玲音には知的障害があった。

 暮らしは貧しく収入は祖母の年金と僅かな手当のみで日々の生活にも困窮していたが、家族の誰もが無知ゆえに必要な支援や保護を申請する術を知らなかった。

 それでも祖母が元気な頃はまだ良かった。だが祖母が足を悪くしてしまって以来、玲奈は日中、家事や家族の世話に明け暮れ学校へもほとんど行けなくなった。中学はなんとか卒業したが、高校へ進学することはできなかった。その上この状況では、就職活動すらままならないのだった。

 やっぱりパパ活でもするしかないのかな、玲奈はため息とともに独りごちた。

 コンビニに来ても何かを買う余裕などない。食料はスーパーマーケットで買う方が安くつく。

 だが深夜のコンビニには、やる気のない店員だけしかいないので万引きするのは容易い。

 店内を歩きながら適当な菓子パンやカップ麺を数個、持ってきたトートバッグに無造作に押し込み、化粧雑貨のコーナーに移動する。リップクリームもそっと入れる。ついでにミニサイズの化粧水とネイル。ウエットテッシュもとれそうだ。

 その時ふと視線を感じた。

 見知らぬ少女が玲奈を見つめている。

 歳の頃は同じくらいか少し年上くらいだろうか、黒いゴシックドレスを着ている。ゆるやかに波打つ栗色の髪と透き通るように白い肌の美少女だった。

 深夜のコンビニにいるには違和感しかないが、近所で会ったということは同じ学区の子かもしれない。あまり学校へは行っていなかったので、玲奈は同級生の顔すらあまり覚えていないのだが。

「玲奈ちゃん」

 名前を呼ばれたのでやっぱり昔同じ学校にいた子だったのかなと思う。こんな美少女がいたら覚えていそうなものだが、残念ながら記憶になかった。

 この少女が誰であれ万引きを見られてしまったのは確かだ。しかし彼女は万引きのことは何も咎めなかった。

 ただじっと瞬きもせず玲奈を見ている。その目の色はごく薄く、何色だかよくわからない。光線の加減で紫色にも緑色にも金色にも見えた。

 彼女はその白い顔に微笑を浮かべて囁いた。

「ねえ、あなたの夢をきかせて」




 玲音は起きている時でさえ夢を見ている。

 昼間は祖母の由紀子とかみ合わない会話を時折交わしたり、何もない空間に笑いかけていたりする。

 玲音をとりまく時間だけがとても穏やかにゆっくりと過ぎている。玲奈にはそう思えてならない。

 晴れた日には玲音と共に祖母の車椅子を押し、散歩に出かけ近所の公園やショッピングモールのフードコートでくつろぐ。この暮らしもある意味では平和だといえるのかもしれない。

 でも、だからといって。

 こんなところでは、夢を見ることさえできない。

 思い描く未来の先に、何の希望も見出せやしない。

 だが、昨日のことは……?

 はたして、現実だったのか。

 玲奈の手には小さな丸い銀の円盤があった。コンビニで出会った黒いゴシックドレスの少女にもらったものだ。

 玲奈は昨夜の出来事を思い出した。

 自分には夢なんかあるわけないと、玲奈は少女に言ったのに。

「これは魔法の鏡。夢を現実にかなえてくれる。使い方は知らないけど、玲奈ちゃんにはできるかもね」

 それだけを言うと少女は去っていった。

 受け取った記憶はないのだが、玲奈は何故かその手鏡を持っている。

 魔法の鏡だというわりには何の変哲もない手鏡だ。子供の頃に見ていたアニメの魔法少女のキラキラした変身コンパクトとは似ても似つかない。

 まあ変身するわけでもなさそうだし使い方もわからないけどお守りみたいなものだと思えばいいのかな。

 そういえば、あの子の名前もきかなかった。不思議な雰囲気の女の子だった。雰囲気だけではない、あの子の目を見た時の奇妙な違和感……確かなはずのこの現実が、揺らいでいきそうな感覚……あれは何だったのだろう。でもなぜか、彼女とはまた近いうちに会えそうな気がするのだ。

 玲奈の傍らでは玲音が持参してきたノートブックに静かに絵を描いている。覗き込んではみたものの玲奈には玲音の描いた絵が何なのかまったくわからない。

 複雑な歯車を組み合わせた何かの機械のようにも、いくつかの動物が混ざり合った異形の生物のようにも見える。得体のしれない不安をかきたてる奇妙なモンスター。

「玲音、これは?」

 玲音は絵を描く手を止めて玲奈を見た。玲音の前髪が目の下まで伸びている。そろそろ髪切らなきゃなと思う。

「エゼキエル書の」

「……何だって?」

「天使」

 玲音の目に玲奈の姿が映っている。

 エゼキエル書の天使というのは知らないが、アニメか何かでこのようなものを見たのか、あるいは玲音の目には天使が見えているのかもしれない。こんな怪物のような姿に?これではまるで殺戮兵器だ。

 だとしたら、この私は、玲音の目にどのように見えているのだろう。

 世界もまた、玲音の目には違って見えているのだろうか。

 玲奈は思う。

 私の目に見える世界には、どうせ救いなどない。

 理屈ではわかる。世の中にはもっともっと辛い思いをしている人がたくさんいる。玲奈の環境はそれに比べたら辛いというほどでもないのかもしれない。だがそれほど達観するには玲奈はまだ幼過ぎた。

 玲音が描いた殺戮の天使、こいつが本当に現れて、すべてを燃やしてしまえばいいのに。

 そう、こんな世界なんて滅びればいい。

 それがたぶん、私の夢。




 月明かりに照らされて、黒いゴシックドレスを着た少女が佇んでいる。誰かと待ち合わせをしているふうでもあった。この裏側の駐車場まではコンビニのチープなネオンも届かない。

 少女の名をミヨミという。但し、この現世での名だ。真の名は未だ語られてはいない。

 上空から黒い大きな鳥が舞い降りてきて、ミヨミの華奢な肩にとまる。その姿はまるで、彼女自身に黒い羽でも生えているかのようにも見えた。

 鳥が二度三度とその黒い翼をはためかせると、ミヨミの中に別の意識が滑り込んでくる。

「本当に……彼女なのか?」

 ミヨミに語りかけてくる意識は、鳥であって鳥でない。彼の者に意識に対してミヨミは声で応じた。

「どうかな。目覚めなければそれまでだから」

「だが、あれが顕現してしまえばどうなるのか、考えが及ばぬわけでもあるまい」

「それはわかっているつもり。でも……」

 ミヨミはふと思う。

 もし夢を具現化させることができるとしても、彼女がそれを望むとは限らない。

 彼女……玲奈の本当の夢は?

 はたして玲奈が選ぶのはどのような夢か。

「いずれにしても、見守るだけ。私はただの夢読だから」

 ミヨミのそれは誰かに語りかけているようでもあり、独り言のようでもあった。



 

 悪趣味な鏡張りの天井が映し出している。

 四肢を投げ出した玲奈とその裸体にまたがり腰を動かしている中年男の後ろ姿。

 行為が早く終わることだけを念じながら心を無にしようと努める。この苦痛を受けているのは私ではないと、自分の心にひたすら言い聞かせる。

 これは私ではない誰かの苦痛だ。私は何も感じない。感じたりしない。そう、これは私ではないのだから……。

 呪文のように繰り返しながら、自意識が次第に解離していくのを待つ。

 足が不自由な祖母に玲音をまかせて日中働きに出ることはできない。時間を自由に選べる仕事など無かった。

 玲奈はヤリモクといわれているマッチングアプリで日時と金額を交渉し、男と会う。パパ活で食事等をしながらゆっくりと交渉する暇はなく、ましてや風俗店で働くとなれば拘束時間が長くなる。結局、短時間で金を得るにはこの方法以外思いつかなかったのだ。

「若い女の子は楽でいいよな。気持ちよくなって金もらえるんだから」

 行為の後で金を渡しながら男は言った。

 まだこんなことを言う男がいたのかと、玲奈は呆れた。少しは感じているような演技の真似事もするが、好きでもない男に触れられて気持ちいいわけがない。死にたくなるほど気持ち悪い。身の毛もよだつような耐え難い不快感と嫌悪。

 ただひたすら汚らわしい。

 金で私を買う男も。そして金のために好きでもない男に抱かれる私も。表面上は自由や平等という綺麗事で平和を装ってはいても、こんなことをしないと生きられないこの世界も。

 男がスマートフォンで通話を始めた。何ごともなかったかのように、通話の相手と仕事らしき話をしている。

 金は受け取ったからもう帰ろう。

 服を着ようと起き上がろうとした時、天井の鏡に映る自分と目が合った。

 鏡の中の虚像の私。

 白痴のような薄笑いを浮かべている。

 いっそのこと本当に白痴であればよかったのかもしれない。

 だが、玲奈は知っている。

 奇跡は、救いようのない絶望の中でしか起こり得ないのだと。

 あと何回、この苦痛を繰り返したら……。この身にもいつか、奇跡が起こせるのだろうか。

 ふと指先に触れた冷たい感触が、玲奈の意識を呼び覚ます。

 ゴシックドレスの女の子がくれた小さな手鏡。

 夢を叶えてくれる魔法の鏡?

 その時、唐突に思い出した。

 そう、鏡はいつも扉だった。

 遠いどこかの世界、女神の鏡という名の泉の辺りで、一人たたずむ私。静寂の中、その水面に己の姿を映し、研ぎ澄ました心の内に古の女神の声をきく。

 何のために?

 何のためでもない。そのように生まれたからだ。

 私は、虚ろ。

 私は、私であるがゆえに、虚ろでなければならなかった。

 そう、あのこも、同じ女神に仕えていた巫女だった。自らは夢を見ないかわりに、他者の夢に感応する。他者に感応しやすい心、それが巫女の資質でもある。

 だけど、私は違った。眷属で唯一の、女神の意思を直に受ける器。

 神託の巫女、それが私。

 交信するのは女神と。

 そして、もう一人の私だけ。

 魂の片割れ、愛しい半身。それゆえに、私の弟は女神の供犠とされたのだ。

 供犠を沈めた泉…女神の鏡より蜃気楼のごとき幻影の塔がゆらめきながら立ち昇る。

 願いを叶えるのは魔法の鏡ではない。

 鏡の国つまり虚数空間に封じられているという我等が母なる女神。

 夢を具現化する力。

 あってはならないもの。

 それは。

「ミュ…」

 全身から力が抜けていく。もう到底立ってなどいられない。

 薄れゆく意識の中、玲奈を抱き止める力強い腕を確かに感じた。

 欠けていた部分が重なり合って行くように、全ての歯車が一致した。

 宿命が動き出す。

 覚醒するイマジナリー。

 遠ざかる自我の彼方で、懐かしい声を聴いた。

「もういいんだ玲奈。これからは僕が、玲奈とおばあちゃんと守る」




 コンビニの駐車場の前、通りすぎていく玲奈を呼び止める者があった。

 夢読の巫女、現世の名をミヨミ。

 生まれ変わって出会ったここが因縁の地だとでもいうのか。なんとも陳腐であると思う。

「思い出した?聖体の巫女様。女神を宿すその身を自ら汚してしまうなんて、おかしいね」

 ミヨミがくすくす笑う。その言葉の意味するところも今の玲奈にはわからなくもない。

 かつての世界では神託の巫女であった私と、同じ眷属の位無き夢読の巫女。名前や属する世界が変わってもその魂に課せられた宿命は変わらない。

 しかし。

 玲奈は静かに答える。

「私はあなたとは違う。あなたのようにはならない」

 女神の鏡たる泉はとうに枯れている。もう永遠に何も映さない。あの時も、最期の巫女となった私は、滅びゆく神殿を見つめながら誓ったのだ。私自身と最愛の者に。

 呪われた宿命は断ち切ってみせる。

 女神の憑座としてではなく、辛くとも自分の意思でこの現世を生きるために。

 ましてやそんな大昔の女神のそれも虚数空間の亡霊なんかに、最愛の者をもう二度と奪われてたまるものか。

「私を石の呪いに堕としたのはあなたではなくて?あなたの宿業は私よりもずっと深いよ?逃れられるとでも?ねえ、あなたの意志は本当にあなたの意志なのかな?何かがまた宿っているとかね。例えば、私達の女神様…」

 ミヨミは惑わす。だが、玲奈は迷わなかった。

「私の夢、あなたには渡さない。始めから何も無かったことにするから」

 玲奈はポケットから小さな手鏡を取り出すと、躊躇なく地面に叩きつけた。

 砕け散った鏡のカケラは、月と星とコンビニの明かりを反射して煌めいた。

 ミヨミがそれをうっとりと見つめている。

「きれい……星屑みたい」

 砕けた夢のカケラ。

 叶わなかった夢ではなく、始めから望まなかった夢のカケラ。

 玲奈は夢を見なかった……そういうことにしておこう。

「彼女、行ってしまったな」

 黒い鳥の形をした者の意識がミヨミの内に流れ込む。

「でも、うまくいけばおもしろいものが見られそう。ねえ、きこえるでしょう」

 ミヨミは耳をすます仕草をした。

 遠く雷鳴のごとき轟音がきこえてくるような気がした。鏡のカケラが反射する光は、次第にオーロラのようなはためきとなって夜空を染めあげる。もうすぐやって来る複雑な形象をしたそれは、いつか玲音がノートブックに描いた殺戮の天使に似ているのだろうか。

「太古の預言者とやらが幻視したという古文書の中の怪異か。かつて我々を邪神扱いして追いやった奴らの妄想が、具現化するとなればまた皮肉なものだな」

「ちょっと残念。玲奈ちゃんと一緒に見てみたかったのに」

 ミヨミは少しも残念そうではなかった。むしろどこかうれしそうな様子であった。


 

 ***  ****  ***



 必要とされたかった。

 誰かに。

 否、誰でもない。

 貴方だけに。

 世界がどんなに汚れていようと、この身がどれほど穢れようとも、かまわない。

 玲音が必要としてくれるなら、それだけでじゅうぶん。もう虚ろではない。私は満たされていた。

 ひとりでは何もできない何の力もない玲音。私がいないと生きていけない、愛しい存在。

 彼をそのようにしたのは、この私だ。

 それは、私の罪。

 私の望みを知っていたからこそ、玲音の意識は深く眠っていたのだ。

 こうしてずっと一緒にいたかった。

 優しい闇に包まれたこの、私の罪の楽園で。

 でも、その夢はもう叶わなくなった。

 玲音が目覚めてしまったから。

 其処へはもう戻れない。

 私は時間を確かめる。誓いのように刻んだ手首の傷は、腕時計のベルトに隠れて見えなかった。

 私はもう大丈夫。

 これから夜行バスに乗って上京するのだ。

 自分で決めたとはいえやっぱり少し寂しくもあったが、とにかく進んでみるしかない。何が最良の選択なのか、先のことなどいくら考えてみてもどうせわかるはずもないのだから。

 振りあおいだ夜空には、白く明るい満月が祝福さながらに輝いている。

 呪縛はすでに断ち切れたのだ。そう信じよう。信じるだけでいい。きっといつかは希望に変わるだろう。

 私はここにはいない愛しい者の名を呼ぶ。

「玲音…」

 おばあちゃんをよろしくね。

 さよなら。




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