5話目 催花雨 ②


 お茶の支度を整え終わるや否や、レオネルから追い出されるように部屋を出されたアデライードは、図書室へと向かっていた。

 誰に分からぬとも顔が少し強張っているのは、主であるレオネルに断りもなく傍を離れている所為だと自身に言い聞かせるようにして廊下を進む。

 実のところ、擦れ違う者には優雅で揺るぎなく見える歩みとは裏腹に、アデライードの心の中は混濁としていたのである。従者であれば、いつ何時も主の傍に控えていなくてはならないというのに、居室内の小部屋に閉じ籠っていられず抜け出して来たことからも明らかだった。


 歩を進めながらアデライードは、一方的に押し付けられた従者としての職務を、おそらく再び同じように一方的に取り上げられることになるだろうと考えていた。

 常にレオネルの傍に控え、世話をしなくてはならない従者としての役目から解放されるのは、騎士としてありたいアデライードからすれば好都合のほかない。


 ……それなのに、何故こんなにも胸が苦しいのだろう。


 アデライードを強引に引き寄せる手が優しいことを、揶揄いを含んだレオネルの低い声が甘く響くことを、知ってしまったからなのかもしれない。

 何かが芽生え始めていたことに、自分自身、気づいていないわけではなかった。

 恐怖と憎悪に凍りついてしまった心を溶かす、暖かな光にも似た感情を齎したのは、他でもない、レオネルだったからである。


 仄暗い図書室の中へ入ると本の匂いに混じる雨の匂いが、アデライードの心を落ち着かせるように包み込んだ。

 暗がりに目が慣れる頃、扉の方に背を向け窓辺に立ち雨を眺める人影があることに気づく。姿を見る前から……いや、図書室に入る前から、アデライードはそこに誰か居るのだとしたらそれは、彼でしか有り得ないと分かっていた。

 

「……暫く会えないと言っていた」

「うん、そうだね?」


 震えまいとするアデライードの細い声を背中に受けたルフィノが、ゆっくりと振り返る。絹糸のように滑らかな銀色の髪が静かな室内で、さらと音を立てたように聞こえたのは気の所為だろうか。


「二人きりでは会えないとも……」

「覚えていてくれたんだね。嬉しいな」


 室内が暗いこともあり、離れたところに居るルフィノの表情はよく分からないが、唇が優美に弧を描いているのだろうことは間違いなかった。

 

「ねえ、アデリー。こっちにおいでよ。もっと良く顔が見たいな」


 少し迷うように差し伸べられた手とルフィノを交互に見た後、アデライードは扉の前から離れ窓の方へと歩き出した。

 足を止めたのは、ルフィノの伸ばした手が届かないところだった。


「……どうしたの?」


 姿形だけでなく首を傾げる角度もまた、アデライードの知るルカと同じ。

 それでも素直に、その手を取るのは躊躇われた。


「何故、ここに?」

「暇が出来たからね。もしかしたらアデリーに会えるかなあと思って……と言っても」


 この前とは違って本当に会えるとは思ってはいなかったのだけど、と邪気もなく笑うルフィノにアデライードの黄金色の瞳が揺れる。


「そんなに警戒しないでよ。僕がアデリーに危害を加えると思う?」


 過去を思い起こしてでもいるのか、僅かに眉を顰めたアデライードはやがて、ゆるゆると小さく首を横に振った。

 心許なく見えるそのアデライードの仕草にルフィノは思わず、といった様子で「ふは、」と声を出し顔を横に背けると、軽く握りしめた手で口元を押さえ、くつくつと笑うのだった。ローブに包まれたルフィノの肩が小刻みに揺れる。

 

「そこ、考えちゃうんだ。素直というか何というか……アデリーは、やっぱり可愛いなあ」


 笑いを収めた後で再びアデライードに向き直ったルフィノは、つと指先を空中に伸ばし何かを描きながら悪戯な笑みを浮かべた。

 見えない軌跡はやがて、淡く白い光となって複雑な魔法陣が現れる。

 術を行使するに必要な紋様を描く際にも魔石も何も必要としないルフィノの、魔力の強さを窺わせる一瞬でもあった。


「ねえ、覚えてる? アデリー。あの頃みたいに、二人で内緒のお茶会をしようよ」


 最後まで言い終えぬうちに、図書室の柔らかな絨毯の上に見慣れた敷布が現れた。続いて細く白い湯気の立ち昇るティーポットやカップなどの繊細な陶器で出来た茶器や、様々な種類の焼き菓子が敷布の上へ並ぶ。

 窓の外に目を向ければ、あの時と同じような柔らかな雨が降っている。

 覚えているかとルフィノに聞かれたアデライードの胸が、懐かしさに痛んだ。


「さあ座って、アデリー。こうしてよく、お茶をしたよね? 床の上に敷布を広げて……図書室、庭園の片隅、森の中の湖の畔や、山の中の自然に出来た岩の露台。騎士になりたいと言った君が反対されて落ち込んでいる時とか、第四王女の酷い嫌がらせの後や、ようやく騎士見習いになれてからの自身の不甲斐なさに心を荒らしている時とか……今のように僕には告げたくない理由で塞ぎ込んでいる時も」


 ……忘れる筈もない。


 始まりは、兄とルフィノと三人で約束していた野遊びが雨で出来なくなったことを残念がるアデライードを宥めようとして、兄たちと始めた他愛のないお茶会だった。

 行儀作法など気にせず床の上に座り、周囲の目から隠れたそれは、アデライードが歳を重ねるにつれ、いつしかルフィノと二人だけの秘密の逢瀬に変わってゆく。

 初めて指を絡めたのも。

 頬や額に優しく落とされていた唇が、違う場所に落とされるようになったのも。


 一度として忘れたことなど、なかった。


 思い出を前に立ち竦むアデライードを横目で窺いながらルフィノは、呪術師の纏う長いローブを背後に払うようにして絨毯の上に敷かれた布に座ると、慣れた手つきでお茶を淹れ始めた。


「何があったのかは、聞かないよ? 僕が聞きたくないからね。だから、さあ座って? あの頃と同じように温かいお茶を飲もう」


 そろそろと、向かいあったところに腰を下ろしたアデライードに、どうぞ、とルフィノから差し出されたお茶は懐かしい香りがする。

 カップを寄せ、立ち昇る香りに誘われるように、そっとひと口含む。アデライードは忽ち目を見張った。


「……この、お茶」

「うん。アデリーが好きだったお茶。懐かしいでしょ? どんなときも『僕』が君のために用意してた。遥か北の山脈の麓の一部に紫色の小花を乾燥させたものが茶葉に混ぜてあるんだけど……知らなかったでしょう? そういえば、花束にして贈ったこともあったね。あの可憐な小さな花は、残念ながら今はもう存在していない。このお茶は、過去から取り寄せたものなんだよ」


 いとも簡単に人智を超えたことを平然としてみせたルフィノは、驚くアデライードに軽く微笑みを返すと、同じようにカップに唇を寄せた。充分に香りを楽しんだあとで、ゆっくりとひと口含む。

 飲み込んだ後、暫し香りの余韻に酔いしれるように目蓋を閉じた。

 ややあって閉じていた目蓋が持ち上がり、燦く菫色の瞳でアデライードをひたと見据えたルフィノはおもむろに口を開く。


「香りは記憶を呼び覚まし、記憶は時を凌駕し、時は悠久の中では一瞬にしか過ぎない。そして僕は一瞬毎の君を永遠に愛している」


 カップを置き傍へ追いやると唇に優美な微笑みを浮かべ、アデライードを見つめるルフィノの菫色の瞳の奥にあるのは、紛れもなく欲望だった。

 強く絡められた視線から逃れようと、アデライードは必死に目を逸らす。


「……アデリー」


 不意にアデライードの耳元に顔を寄せたルフィノは、甘く掠れた吐息まじりの声で囁いた。


「僕はね、アデリー。君の心の中を掻き乱す存在すべてが赦せない。ねえ、知っているでしょう? 『僕』が、どんなに君を愛しているか。忘れてしまったなら、何度だって思い出させてあげる。君の感情を揺らすのは『僕』以外の誰であっては駄目だ」


 決して逃すまいとするルフィノの手が、アデライードの頬に添えられた。


「会いたかった。さあ、顔をよく見せて?」


 菫色の瞳が、再びアデライードを絡め取る。

 ルフィノの指先が、そっとアデライードのまなじりに触れた。やがて指先は顔の輪郭を確かめるように優しく頬に下ろされ、おとがいを軽く持ち上げる。


「……ルフィ、ノ?」

「うん?」

「やめて欲しい。お願いだから……そのような目で見てくれるな」


 ぎゅっと目を瞑れば、目の前のルフィノを追い出せるとでもいうように、アデライードは眉根を寄せ固く目を閉じた。


「どうして?」

「……私は……私はもう、ルカの……ルフィノの知る私ではない」


 ルフィノが、何を言っているのかと尋ねようと口を開く前に、僅かな沈黙さえも怖いとアデライードは息つく間もなく喋り続ける。


「この身体のことにしても、そうだ。どれほど身体を綺麗に洗っても、たとえ何度となく皮膚を剥いだとしても、この汚れきった身体は元には戻らぬ。穢れているのだ。心の中まで蹂躙され、闇に喰われて真っ黒になってしまった……。不死は自ら望んだことなのに死ねぬ身体になったことでルカを……憎んだこともあった。それでも憎みきれなかった。また会えると知っていたなら。そしたら私は、きっと…………っふ、……んん」


 言葉を無理矢理に封じるべく、噛みつかれんばかりの勢いでルフィノに唇を塞がれる。


「ル、ルフィノ……なッ……ふ……ん……んっ……ま、待っ、…………ん」

「待たない。聞きたくないから黙って」


 突然のことに驚き、目を開けたアデライードがルフィノの唇から逃れようと身体を捻り胸を叩くも、吐息さえも逃さないというように、深い口付けが繰り返される。

 顔を背けようとするアデライードの顎を掴むルフィノの手は、容赦がない。

 ようやく唇を離されたと思えば、アデライードの視界いっぱいにルフィノの菫色の瞳があった。

 アデライードの身体が震える。


「……アデリー。僕は最初に、君の憂いを聞かないと言ったよね? 聞きたくない。あの頃と同じようにアデリーは『僕』のものだ」

「穢れたのは身体だけじゃない。私は……」

「駄目だよ。聞いて? 君は変わらない。『僕』の愛するアデリーは、少しも変わらないし穢れたりもしない」


 ルフィノに対する違和感が分かり、アデライードに乾いた笑いが込み上げてくる。


「……幻想だ。ルフィノ殿は私に幻想を見ているのだ。あれからどのくらいの時が経った? ……綺麗? 確かに外見は変わらぬだろう。不老不死なのだから。だが、最早あの頃と同じ、何ひとつ変わらぬ私など何処にも存在したりはせぬ。私は死ぬこともなければ生まれ変わることもないからといって、いつまでも同じ私である筈もない」

「……君は何を言っているの?」

「死なずとも時が人を変える。ルカに対する想いは変わらぬ。だが、私はもうあの頃のルカが知る私と同じではない」

 

 銀色の睫毛が菫色の瞳に影を落とす。ルフィノの細められた目は、アデライードをひたと見据えていた。


「どうやら待たせ過ぎてしまったみたいだね? ねえ、アデリー。変わるって何? 僕が君のことで知らないことがある筈ないでしょう? 僕を怒らせたいの? 君を愛することが出来るのも、君を穢すことが出来るのも、君を変えることが出来るのも『僕』だけ、なんだよ」


 黯く翳る眼差しのまま、ルフィノは口元だけで微笑んだ。

 酷く美しい笑みは、だが貼り付けたようでアデライードの肌が粟立つのが分かった。

 ルフィノの奇妙に抑制の効いた声が静かな図書室に、ぽつりと落ちる。


「アデリーの浮かない顔は、あいつレオネルの所為だって分かっていたけど……」

「……違う」


 反射的に言い返してしまったアデライードは、自分が口にした言葉に気づくと思わず口元を押さえた。

 信じられないとばかりに瞠目したのはルフィノである。

 

「違う? 酷いなアデリー。あいつレオネルを庇うなんて」


 口元を押さえていたアデライードの指を、ルフィノが剥がす。そのまま動かぬようにきつく手を封じ込めた。ルフィノのもう一方の手が持ち上がり、指先がアデライードの唇の縁を辿る。触れるか触れないかの強さで、ゆっくりと這うように動くたびにアデライードの背筋は、ぞくぞくと甘く痺れた。


「赦せないな」


 怒りに赤く染まるルフィノの目元が、過去にあった艶かしいことをアデライードに思い出させ、危うい官能を呼び覚ます。

 唇をなぞっていた指先が、首筋に降りてくると、知らずアデライードの息が跳ねた。


「ねえ、アデリー? 僕が赦してあげるのは一度だけ。だって、僕も君を待たせ過ぎてしまったからね? でも次に同じことをしたら」


 封じ込めていた手を乱暴に引き寄せると、ルフィノはアデライードの瞳を覗き込み囁いた。


「僕も、君を閉じ込めてしまうからね?」






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黯い月に愁うは君の横顔 《カクコン8長編》 石濱ウミ @ashika21

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