4話目 催花雨 ①



 窓の外、昨夜遅くから降り始めた様々な花を咲かせる春の柔らかな雨は、空からの一枚の薄布となって、大地を覆い尽くしていた。

 銀糸で織られたようなその雨は、溢れる音の全てに紗を掛け、耳に届くのは室内の微かな衣擦れと慎ましやかな陶器の触れ合う音だけである。


 エリアスは悟られぬように、これまで詰めていた息をひとつ、そっと吐き出すとテーブルの向こうで脚を組むレオネルを盗み見た。

 レオネルとアデライードの二人の様子が……いや、この場合レオネルの様子が、と言い換えるべきであろう……おかしいと気づいたのは今朝、顔を合わせて直ぐにのことだった。

 常ならばレオネルの甘さを含んだ視線の先には、どのような時にもアデライードの姿があるのだが、この日は姿を追うどころか目を合わせることもしていない。

 さらにはアデライードに向けた揶揄いを含んだ物言いは鳴りを潜め交わす言葉も最小限に、お茶の支度を命じた後は部屋を下がらせてもいるのだから、とうとう勢い余って手を出したのかとエリアスは勘繰りたくもなるというものだ。

 対してアデライードの方はどうなのかといえば、何ら変わりのないように見える。しかし、アデライードは表情を隠すのが上手く余り当てにならない。

 ともあれ目の前の様子からするに、何かあったのだとすれば疑問の余地もなく、レオネルにとって喜ばしい出来事ではなかったのだろうことは想像するに難くないのだった。


 テーブルの上へ茶器を置き、わざとらしくゆっくりと脚を組み替えたエリアスは、重ねた両手を膝にレオネルに向かって小さく首を傾げた。


「……さて、殿下。そろそろ何があったのかお聞かせ願えませんか。ただでさえ気鬱な雨の日に、室内まで湿っぽいのは勘弁して欲しいものです。まあ……お話になりたくないというのであれば、私は別に無理にとは申しませんが……アデルと何が?」


 睫毛を伏せ、カップを唇に寄せようとしていたレオネルの手が、つと止まり、くぐもった低い声が室内に響く。


「どうやっても俺から聞き出すつもりの癖に、またよく言ったものだな」

「まあ、そうですね。私としては聞いたところで何をして差し上げるつもりはない、というのが正直なところではあるのですが……」


 何かを探り、じっと見つめるエリアスの視線に気づかぬ振りをしたまま、レオネルは止めていた手を動かしカップを口に付けた。


「……何もない」


 琥珀色をした香り高い液体を、口の中でそっと、まろやかに転がすようにしたあと嚥下する。

 鼻腔を抜ける馥郁とした果実にも似た芳香を愉しむように両目蓋を閉じた。


「何も……? まさか、この長い付き合いの中で、レオネルの身体に黴が生えてくるのじゃないかってほどの鬱陶しい状態にあって『何も』と言われて、はい左様で御座いますかと納得すると思われているとは実に心外だよ。美しく積極的なクラリス嬢を前にしてもアデルが嫉妬の片鱗さえも感じさせなかった、などという単純なことで私の乳兄弟が拗ねている訳ではないくらいは分かっているのだけど、どうなんだい?」


 砕けた口調でエリアスは、レオネルの整った顔を呆れたように見ると背凭れに寄り掛かり、これ見よがしな溜め息をひとつ吐き出した後、一転して心配そうに眉を顰めてみせた。


「何があったのです?」

「……仕方がないだろう。のだから」

のが不満? まるで以前には何かあったような口振りですが、そもそも殿下とアデルとの間に、何もないのは殿下がではありませんか。全くもって情け無い。アデルを快く思わない私の所為にされては堪りませんが、嘆く暇があるのなら、さっさと何かしたらよいのでは? 良い歳をして遅れてきた思春期とは、笑えないどころか見るに耐えないものがありますね。これまでの女人に対する手練手管はどうなさったんです? なるほど、ああ、そうでした。殿下に言い寄る女人は枚挙にいとまがないこともあって、焦らすのはお上手ですが、焦らされるのは不慣れでいらっしゃいますからね。……それとも私の知らないだけで、アデルと少しは進展なさっていたのですか?」

「…………進展?」

 

 長広舌をふるうエリアスに思わず苦笑した後で、不意にアデライードの浮かべた屈託のない笑顔を思い出した。と、同時に、昨夜レオネルの唇が触れるのを拒むように添えられた口元の白く細い指先も、また。

 アデライードに少しは受け入れられたのではないかと自惚れていた後での、あの拒絶。

 閉じた目蓋の裏に、銀色の髪と菫色の瞳がちらつく。忌々しい残像を振り払うように目を開けると眉根を寄せ、手に持つカップを受け皿に戻せば、触れ合う陶器がやけに耳障りな高い音を立てた。


 アデライードが、とうの昔に失った筈であった愛しい男と同じであるとするルフィノ。

 また、あの男ルフィノが言ったように、何の因果かレオネルはロランド王と同じ姿形をしているのである。


 黙り込んでしまったレオネルを眺め、エリアスはやれやれと首を横に振った。


「辛気臭い顔はやめてください。せっかく王宮に戻って来ているのですし、この際、宮廷の呪術師とやらに会って気になっていた解呪の方法のお伺いでも立ててみては? 誠意を尽くしているのを知って嫌な顔をする女人はいないでしょう」


 宮廷の呪術師と聞いてレオネルの肩が僅かに揺れたのをエリアスは目敏く見て取ると、さてはと、心の中で独りごちる。

 ……この短い間に、既に顔を合わせたというのだろうか?

 偶然にしては出来過ぎた回合である。

 エリアスは一度だけ見たことのある呪術師の姿を思い出していた。

 銀色の髪に菫色の瞳を持つ美麗な呪術師は、遠く先祖は北の国の民であり、その地に遥か昔より細々と続く不思議な一族の出であるとされている。

 確かアデライードに呪を掛けた人物も、同じ特徴を持っていた筈だ。

 

「つまり殿下は、私の預かり知らぬところで既に呪術師にお会いになったのですね? 解呪を断られた? そこで諦めたのですか? それともアデルの解呪は無理だと知った? 私とすれば殿下とアデルとの仲を取り持つ気は、さらさらありませんのでどちらでも構いませんが……そのじめじめと鬱陶しい原因はアデルだけではなく、呪術師の方にもありそうですね」


 エリアスをじろりと睨んだ後でレオネルは、宮殿に着いたその日の夜遅く、図書室にルフィノという宮廷の呪術師がアデライードの前に現れた一件を話して聞かせた。

 

「おやおや。私の預かり知らぬところで、まさかそのようなことになっていたとは。幼い頃にした約束を忘れてしまいましたか?」

「……隠していたわけではない。話さなかっただけだ」

「そうですか。たった二人で王宮内の魑魅魍魎に立ち向かう為に、相手を思うのであればこそ、どのようなことであっても互いに隠し事をしないと誓った何の力もなかったあの幼い頃は遠くなりましたからね。尋ねられなかったから話さないのは隠したことと同じにはならないとおっしゃって頂けて、私も安堵致しました」


 澄まして曰うエリアスに、幼い頃の姿が重なる。それまで険しかったレオネルの顔が、ふっと緩んだ。


「ふうん? そうやって俺には訊かれたくない隠し事が数え切れぬほどあると白状するだけしておいて、お前の方は肝心なことは言わずに済まそうとするとは、実にどうしてエリアスらしい」

「訊かれたくないとは申しておりません。お尋ねになれば、何でも話すのですから隠し事でもありませんでしょう?」

「…………」


 エリアスもまた誰かを想って多くの感情に翻弄され、途方に暮れることがあるのか、と尋ねようとしてレオネルはやめた。

 知られまいとしている心の裡さえも、訊いたらエリアスは答えるに違いない。

 ……今ならば、レオネルの為だけに。


 あの男ルフィノには、誰にも打ち明けられぬ隠し事が沢山ありそうだと思いながら椅子から立ち上がるとレオネルは、窓の外、柔らかな雨が紗を掛ける樹々の向こうを眺めた。










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