喝采
夢月七海
喝采
ピアニストの自伝映画を見たことで火がついた母親によって、僕は十歳でピアノ教室に通うこととなった。
「同い年くらいの子はさ、ずっとレベルが高くて、カエルの歌を弾いたのがすごく恥ずかしかったよ」
初めてピアノ教室に行った後、自室で僕はそう愚痴を零していた。
その話を聞いて、窓枠にちょこんと腰掛けた彼女は、プラチナの長い髪の毛を風に揺らして、純白の羽をゆっくりと開閉させながら、青い瞳で優しく微笑んだ。
「いいじゃないの。楽しかったんでしょ?」
「うん。そうだけどさ……」
僕が物心ついた時から見守ってくれる、他の人には見えない彼女に対しては、母親にも言えないことも正直に話せてしまう。
母の前で言った「面白い、また行きたい」も嘘ではないけれど、あの時飲み込んだ不安があった。
「三週間後に、ピアノの発表会があるんだけど、先生とママは、僕も出ないかって。僕が頑張っても、猫ふんじゃったくらいしか弾けないのに」
「発表会には出たくないの?」
「うーん……」
机の前の椅子に座っていた僕は、膝を抱えて丸くなった。
必要以上のことを言わずに彼女は、いつも通りニコニコ笑っている。ただ、それだけでも、僕は心が安らぐようだった。
「お姉さんも、見に来てくれる?」
「もちろん。精一杯、応援するよ」
彼女はキリッと眉をあげて、小さくガッツポーズをしながらそう宣言してくれた。
僕はそれを聞いて単純なことに、「じゃあ、挑戦してみようかな」と思ってしまった。
△
発表会本番は、普段の教室ではなく、市民ホールで開かれる。それほど大きくないところだったけれど、ホールという場所に立つこと自体、僕には初めてのことだった。
礼式用半ズボンをサスペンダーで釣って、青色の蝶ネクタイを付けた僕は、ガチガチに緊張していた。舞台裏のテレビに映る参加者たちは、ベートヴェンやモーツァルトの曲をスイスイと軽やかに弾くので、余計に怖くなってしまう。
名前を呼ばれて、僕は「はいっ!」とひっくり返った声と共に立ち上がった。もうすでに恥ずかしい、このまま逃げてしまいたい。そんな気持ちのまま、硬くなった手足を必死に動かして、前へ進む。
舞台の上は眩しいライトに、全てが真っ白に塗りつぶされたようで、目の前がくらくらした。そこへ、たくさんの人の拍手が襲ってきて、気が遠くなりそうになる。
それを何とか立て直して、ピアノの椅子の前で、回れ右をした。ホールから刺さる大勢の目線。だけど、それ以上に目を引くものがあった。
椅子と椅子の間、縦に走る通路に、彼女が立っていた。ニコニコ笑いながら、「がんばれ!」と書かれた横断幕を持ち、大きく左右に揺れている。
一瞬、吹き出しそうになった。彼女のことは他の観客には見えていないようだけど、まさかこんなのを用意しているなんて。
僕がこっちを見ていることに気付いた彼女は、横断幕を背後において、パフパフを押すラッパを両手に持って、うるさいくらいに鳴らしていた。彼女の声と同様に、彼女が発する音も僕以外には聞こえないみたいで、周りが平然としているのが余計に可笑しい。
笑いをこらえながら、深く一礼をする。天啓のように、彼女のラッパの音が、「パフパフパフパフ」と降ってくる。
さすがに、僕が椅子に座ると、彼女は何も鳴らさなくなった。黒鍵に指を置いて、一音一音を刻むようにねこふんじゃったを弾く。緊張がどっか行ってしまったので、一度も間違えずに完奏できた。
椅子から降りた僕は、もう一度、客席と向き合った。今聞こえる盛大な拍手は、最初の頃とは異なり、温かくて優しいものに変わっていた。
それらに負けないくらいの大きな声で、彼女が「ブラボー!」と叫び、スタンディングオペレーションのように、頭の上に上げた両手を叩いている。それから、今度はでんでん太鼓を取り出すと、それをコロコロ回転させて、思いっきり鳴らしていた。
僕は、彼女を含めて観客の顔をゆっくりと見回した。舞台裏で待っていた時とは正反対に、穏やかで満たされた気持ちになって、満面の笑みを浮かべていた。
彼女は、場をわきまえず、両手を挙げて、ぴょんぴょんと跳ねている。そのたびに、でんでん太鼓が何回も響いていた。
△
結局、ピアノ教室は中学に上がる前に辞めてしまった。あまり向いていなかったので、僕が最後まで弾けるようになったのは、三曲だけだった。
だけど、大人になった今でも、僕は新しいことに挑戦する前には必ず思い出す。力いっぱい、僕のことを応援してくれた、あの時の彼女の姿を。
喝采 夢月七海 @yumetuki-773
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