第8話 もう一つの道-2
「去年留萌を出ようと思った事があったんだ」
紐を結び終えても身体を起こさずに、珠美が言う。京介は驚き、小さな声を上げた。
「悪いこと、しちゃってさ」
珠美の長い髪が、はらりと肩から落ちた。
「上司と不倫して、子供が出来てさ。堕ろしたんだよ。誰にも知られないように、わざわざ札幌の病院に行ったのに、やっぱり噂になってさ。上司は稚内まで飛ばされた。私も銀行辞めようと思ったけど、お母さんに止められたの。職場変えても噂される事に変わりは無い。だったら今の安定した仕事捨てるなって。ああ、一生後ろ指さされるんだと思ったら、誰も知らない所に行きたくなっちゃった。でも、京ちゃんみたいに誰も知らない所に身を置く勇気、持てなかったさ」
「……俺には、残る方が勇気がいる事だと思う」
どこか少しずつ形が違う珠美のクローンが町を彷徨う姿を思い浮かべて吐き気がした。思わず立ち上がると、足元で猫がニャーと不満げな声を上げた。慌てて抱き上げる。ふわふわとして軽いけれど、温かい熱が生きていることを主張している。本当に加代の生まれ変わりだったら良い。そう思いながら猫を胸に抱いた。
「ごめん、俺、帰るわ」
居たたまれない気持ちになり、実家の戸をくぐる勇気は消え失せてしまった。一分でも早く名無しの権兵衛に戻りたかった。髪を掻き上げてから、珠美も立ち上がった。
「その猫、連れて帰るの?」
珠美に懐を指さされ、狼狽える。勿論アパートではペットの飼育は禁止されている。でも、このまま放り出す事など出来ない。
「家で飼うよ」
意外な申し出に驚いて、珠美の顔を見る。珠美は何もかも分かっているような顔で頷いた。
「大事に飼うよ。だから、会いに来て。あんたのタイミングで良いからさ」
珠美は両手を伸ばし、京介の手から大切な物を受け取るように猫を引き取っていった。猫は一瞬不服そうな顔を京介に向けたが、珠美の顔を見上げ目を瞑った。ゴロゴロと小さな音を立てる。
京介は寂しさを紛らわすように溜息をついた。
「……そん時こそ、刺身買って行く」
「うん」
珠美は大きく頷いた。
「京介は、言ったことを絶対に守るもんね。生真面目なのは、お父さん譲り。変に気を遣うのは、お母さん譲り」
「え……?」
戸惑う声に、珠美は笑い声を被せた。
「血が繋がらなくても、家族は似るもんなんだよ」
訳が分からないほど心臓が熱くなって、口をへの字結ぶ。涙が溢れそうになるのを、堪えるためだった。
「帰るか帰らないかは別として、拠り所が必要でしょ。生きて行くのにさ。あんたの家族はずっとここにいるから、いつでも帰っておいで。山を通れば、案外近いと思うから」
京介は頷いた。ニャーと、猫が珠美の懐で鳴く。その頭を一撫でし、背を向けた。
「その山道、通ってみるわ」
珠美にそう伝えて、顔を上げた。秋のひんやりと冷たい空気が頬を撫でる。
今海に問われても、きっと答えは見つからない。だから暫く、海には近付かない。
それでも、故郷へ帰ることは、出来るらしいから。
了
海よ、俺はまだその答えを知らない 堀井菖蒲 @holyayame
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