第7話 もう一つの道-1
「昼ご飯のおかず買いに行っといて、自分だけ海鮮丼食べてる」
子猫を凝視していたら、頭上で声がした。驚く間もなく、珠美が横に座った。京介は声にならない声を上げ、思わず海鮮丼をレジ袋で隠した。
「いいよ。食べな。今じゃ中々手に入らない海鮮丼だよ。良く味わって食べなよ」
「……すいません」
京介は頭を下げて、マグロの下に隠れていた帆立を頬張る。
「ブリとマグロ、留萌産だって。海水温が上がってさ、捕れる魚変わったよね」
珠美の言葉に、無言で頷く。早く食べてもう一度刺身を仕入れに行かなければと焦る。
「ゆっくり食べなよ」
その焦りを察したのか、珠美が笑った。ごちそうさまでしたと甲高い女児の声が聞こえた。四人家族は席を立ち、笑いながら駅を出て行く。のれんの影から年老いた店主が現われて、丼を片付けていく。
「加代ちゃんの事、聞いた?」
珠美は琢郎が話をしたいのは加代のことだと知っていたようだ。そうだ、この町は全部筒抜けだから、当たり前だ。
「残念だよね。あんな可愛い子。まだ若いのにさ」
嫌に年よりじみた口調で、珠美が言う。京介は無言で頷いた。
こんな風に何もかもとろりととろけて消えてしまえば良い。そんな概念が沸き起こり微かな苦みと共にウニを飲み込む。珠美が猫を見付け手を伸ばしたが、京介の足の影に隠れてしまった。
「オロロンライン通ってきたの?」
「うん」
日本海を稚内に向かって北上する道を「オロロンライン」と呼ぶ。キラキラと輝く海を彷彿とさせる良い名だと思う。海と山とゆったりと回る風力発電がある風景は、北海道の観光資源の一つだ。外からやってくる人にとっては魅力的な場所なのだろう。
「山通った方が早いって知ってた?」
「山?」
意外な言葉に顔を上げると、珠美は得意げな笑みを浮かべていた。
「そ。国道233で峠を越えて
「そんな道、あったんだ。よく知ってるね」
「まあね」
珠美は曖昧に笑った。京介は最後の米を口へ放り込み、丼をレジ袋に入れた。地面にはマグロの切れ端が残されていた。猫はもう満足したようで、京介の靴の上で身体を丸め、眠たそうに目を細めている。食べ残しの切り身を箸で摘まみ、袋の中に入れた。
「札幌の生活は、どう?」
珠美の質問に一番適切な応えは何だろうと逡巡する。意味も無くぐるぐるとレジ袋の持ち手を捻りながら答えた。
「居心地、いいかな。いつでも何でも手に入るし、皆名無しの権兵衛だし」
沢山人がいるけれど、誰も自分の事を知らない。アパートの隣人でさえも。だから、気が楽だ。
「名無しの権兵衛か……」
珠美は溜息交じりに呟いた。
「名無しの権兵衛になる勇気、持てなかったな……」
鼻歌を歌うような口調でそう言いながら、身体を前に折り曲げる。そのまま足元に手を伸ばした。青いスニーカーの靴紐が解けている。珠美の白い指がゆっくり紐を結んでいく。
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