:私たちという名の時代。

 ぼうと灯る蒼の焔にまかれて、追われて、八千草は狭い通路を駆け続けた。


 一度酸欠で意識が途絶えた頭はまだふらふらと平衡感覚を危うくしており、時折壁にぶつかりながら道を往く。黒ずくめの集団に出くわすたびに日輪を放ち、次第次第に逃げる先の区画へ回り込まれているのを自覚しながら、息を切らしてなお走る。


「……っは、はぁ、はっ……」


 たった一人で孤独に抗いながら、己より熟達した焔の使い手たちを相手に逃げまどう。


 それを可能としているのは、逃げねばならぬ原因であるところの、日輪の力だ。八千草は孤独でありながら、数十人より成る部隊と渡り合うことができている。使いこなせているわけではないが、彼らを退けている。皮肉なことに、この逃避のなかでさえ、日輪が狙われるにたる異能であると証明し続けていた。


 強大な異能。国の大事を左右するかもしれない、神域のちから。だがこれほど苛烈な他者への攻撃能力を持ったことで、より一層八千草は思うのだ。その思いはかつて、師より刀を与えられて剣術を仕込まれた際にも感じたこと。


 すなわち――他者を殺傷したくないとの、思い。


 他者を傷つける強い力を具体的に認識することで、八千草は自身の忌避感をさらに明確なものとした。……かつて八千という自我を抹消されたことにより、この身はその行いが持つ業の深さを知っているのかもしれない。だから広場での戦いにおいても、足場を崩す攻撃などで彼らの動きを止めることに執心してきた。


 けれど、もうそんなことも言っていられない状況になってきた。黒ずくめたちの追撃は執拗かつ柔軟で、忍び寄る魔の手から逃れるには加減した日輪、、、、、、では足りない。


 焼かねば、ならないのか。


 殺めねば、ならないのか。


「……はっ……は……」


 だめだ。


 追い詰められても、それだけはやってはいけない。


 これまで八千草は仕事の上で必要に迫られても、最後の最後はだれかに押し付けてきた。特に井澄に、止めを刺す役割を、押し付けてきた。


 頼んだわけではない。彼は常に自ら行いを成してきた。けれど、そうなることがうっすらと解り始めて以降は、未必の故意というものだろう。自分の手を汚すことを厭い、彼に殺しを押しつけた。そんな自分がいまさら、自分のために人を殺すなどあってはならない。


 それに殺してしまえば……井澄のような目をしたひとが、増えてしまう。世界を憎む闇色の目が、絶望の淵に淀むのだ。


 殺めず、生き残らなければならない。


「は……っと、」


 いままた、行く道の先に蒼い光の反射があった。慌てて道を引き返し、分岐を折れてぶつからないようにする。追われる身というのは、想像以上に体力を消耗した。どこから来るかわからないから常に気を引き締めて構えねばならず、神経が擦り減っていく。


 戦いがおそろしいものだということを、八千草は久々に思い出していた。もし、大きな戦乱に自身の存在が用いられるようになれば、このような苦しい思いを常に強いられることとなる。見知らぬだれかにも、強いることとなる。


 冗談じゃない。


「……はぁ……」


 薄暗く曲がりくねった道の先を少しでも見やすくなるよう、掌から放った焔で照らし出す。つづく道は、枝分かれしているが縦へ通る通風孔などは見受けられない。なんとかして地上へ逃れたいものだが、おそらく向こうも出入り口付近を固めるくらいはしているはずだ。


 となれば、選択すべきは奇襲か。相手に見つからないよう接近し、一撃離脱で突破する。そのあとは、湊波の追尾もなくなったことだ、島の避難所などを目指して身を潜めよう。じきに井澄たちと合流できればいい。


 生き残って、この先も、生きたい。過ぎた力のためにいくら大きな場へ駆りだされそうでも、八千草が求めているのはそれだけだった。ひとりの個人として、普通の生を歩みたい。……八千草としての意識が芽生えてすぐこんな島に来てしまったため、普通というものがよくわからないけれど。どこでだって構わない。


 だれかに役目や、あるいは死を求められることは、どうでもよかった。なぜなら彼らが見ているのは八千草ではなく、八千草の持つ力だけだ。力の責任。力持つだけで生じる責任。そんなもののために、八千草の人格は蔑ろにされている。


 八千草は自分が求めるもののために生きたかった。いままでずっと与えられた環境、与えられた緑風四権候代理という立場に生きてきた。だがもう、自分で考え、求め、選びとりたい。ほんの短い記憶のなかで唯一それだけが、抱いた希望であった。そして八千草の求めるものとは――自分を、自分という個人をこそ、必要としてくれた彼。


 井澄を支えて、彼に支えられて生きる。ささやかにそれだけで、よかった。


 ただ彼の方はどう考えているのか知らない。もし、彼の方が八千草の意図と異なる生き方を望んでいたらと思うと、わけがわからなくなりそうなくらいに怖い。


 それでも、前に進むと決めていた。想いに突き動かされるまま、選んで決めた。


「……いた」


 息を殺しながら、八千草はなるべく水面を波立たせないように進み、やっとそこへ辿り着く。


 角の先に蒼い焔群と、男たちの影が揺れる。動かないそぶりは、その地点で待ち伏せをする意味、必要があるということ。マンホウルへ通じる縦穴の下を、守っているからだろう。


 気配は四人。操作権の奪い合いになればもたつく。全員を吹き飛ばして、一時的に立ち上がれないようにするのが得策だ。距離をおいて威力を弱めた蒸気の発生で、角の先を薙ぎ払うことにする。


 機は一瞬。焔を構築し、気取られる前に制する。意識を集中し、瞬間的な火力を重視した視界内爆破を試みた。心の中で秒読みし、深く静かに熱を重ねた焔を思い浮かべる。


 じわりと意識の範囲が広がる、感覚を認めると同時。八千草は研ぎ澄ました戦意を解き放ち、角の向こうへ躍り出た。気配を消す必要はない。相手の意志をのみこんで、場を支配する。


 揺れる視界のなか、六間ほど先にいたのは予想通り四人。全員がすでにこちらを向いて、焔を携えた両腕を掲げている。その数の利、力量の差を、拍子一つ分を先んじた八千草が撃ち破った。放った焔の筋が彼らから距離をおいた水底へ潜り込み、沸騰の過程をわずかな時間の内に圧縮せしめる。


「食らえ」


 膨れ上がる大気の圧力が、狭い通路を震わした。八千草は耳を塞いでいたものの、なお耐えきれない轟音。たとえ蒸気を直接受けずとも、三半規管をやられて立つこともできまい。いまのうちだと、八千草はまだ熱い湯気の立ちこめる場へ踏み込んでいく。


 ――と、


 背後に、痛みを覚えさせる殺気を感じて、動きを止めた。


 振り返るまでで、耳が爆焔の響きを感じとった。見れば、焔を後方に放って加速し、低く蛇行してくる黒ずくめの影を見つける。闇にまぎれぬ短刀の輝きを抜き、腰だめに構えて突きこんでくるところだった。


 近すぎる。焔を、加減して使えない間合いまで滑りこんでいる。この拍子で襲い来る事実は、つまり八千草が気配を消して奇襲をかけるのも見透かされていたということ。八千草は己の失策を悟る。


「く――そ、」


 向こうはおそらく暗殺を生業とする者、それに対して気配を消しての戦術など、考えが甘すぎたのだ。迫る白刃は焔で止めることはできない。かといって湊波に刀を奪われた現状、無手で相手するのは剣呑に過ぎた。


 左下からの突き上げ。狙いは肝臓。肘で受けても貫かれる、退いて避けても二撃目はかわせず。絶命の窮地が、顔から血の気を下らせる。


 力が、あったせいで。力を、持ったせいで。


 こんな場面に、追い詰められた。


 しかし……その力がなければここまで逃げられなかったし、なにより、井澄に逢うことも……できなかったのだろう。


「う、」


 だから目を閉じない。目を背けない。辛く、怖く、寂しく、悲しく、さまざまな感情が去来しても、世界を見つめつづける。最期の一瞬まで目をそらさない。


 八千草は、


 井澄と出逢えたことだけで、


 この世界を、愛せるのだから。


「――井澄――」



「はい」



 耳鳴りがひどいなかにも、たしかに届いた返事のあと。


 襲撃者の手から短刀が弾け飛び、頭蓋が真後ろに反りかえった。首に縄を括って引きずり倒されたかのごとく、男の体が宙をめぐる。半回転して背から水底へ沈んで、起き上がることはなかった。


 そこで息の止まっていた自分に気づき、八千草はあわてて荒い呼吸を繰り返した。


 きん、と快い金物を弾く音が、背後より聞こえる。静かな足取りが、水を蹴る音として八千草の耳朶を打つ。


「……お呼びでしたか?」


 まだ立ちこめる白い水煙を切って、黒い三つ揃えが現れる。空へ浮かんだ硬貨幣をつかんだ。


 ずいぶんと服装はぼろぼろで、左手など骨が折れているのが見て取れる。歩き方も体幹かばう素振りがあるので、また無茶な戦いをしてきたのだろう。


 けれど、いつものように。


 いつも、当然のように。


 沢渡井澄は――どんな時でも八千草のもとに、来てくれる。うれしくて、楽しくて、わけがわからなくなりそうで、破顔しそうな顔を懸命にこらえ、八千草は唇を結ぶ。ここで表情を緩めたら、そのまま泣きだしてしまいそうな気がした。


 だから努めて平静に、普段の口調を取り繕った。


「……ああ。呼んだよ」


「到着が遅れて申し訳ありません」


「べつに、構わないさ」


 本当に大切なときは、いつだって間に合っているのだから。


 思うだけで言葉にはせず、八千草は手で口許をぬぐうふりをして、赤くなっているだろう頬と綻びそうな唇を押さえた。これには気づかぬ様子で、井澄はそうですか、と胸をなでおろしていた。……たまに、こいつ鈍いな、と八千草は思う。


「お前も、だいぶ大変だったようであるね」


「ええ、少々……っと、ああ、そうでした」


 言いながら眼鏡を戻すような所作を見せて、そこになにもないことを思い出したらしい。井澄はごしごしと眉間を人差し指でさすって、なにもない違和感を取り去ろうとしていると見えた。


「眼鏡、なくても大丈夫かい」


「ご存知でしょう、もともとあれは伊達ですよ。故に活動に支障はありません」


「ああ、そうか。そういえば目つきが悪いとだれかに言われて、無用な争いを生まないようにとかけはじめたのだっけ」


「ええ。ですから、あまりこちらを注視なさらぬよう。睨んでいると思われたくありませんので」


「ふうん……」


 言われると見たくなるのが心情で、八千草はひょこりと下から顔をのぞきこんでみた。井澄はあたふたとして、視線から逃れようとするも、八千草が半目になると観念したように肩を落とし向き合った。


 瞳は、黒く澄んでいた。淀んで底が見えないわけではなく、目の奥までしかとのぞきこめる。


 感情と目が一致している。かつての、笑っていても目の奥が冷めた、温度の無い色は存在していなかった。視線を外した八千草は、止められず笑みをこぼしながら、後ろ手を組んで彼から離れた。


「いいんじゃないかな」


「え」


「眼鏡がないほうが。なくても、もう大丈夫だと思うのだよ」


 きっと、変わったのだ。以前の無軌道な彼から、価値観やものの見方、色々なものが変わったのだ。


 八千草の指摘に釈然としない顔つきだったが、井澄は自分の頬を撫でつつはあ、と覇気の無い返事をする。飾り気のない語調は気が緩んでいるのか気を許されているのかわからないが、とにかく、いつもの調子を取り戻せてきたと八千草は思った。


 それから井澄は、頭上を見上げて重たいマンホウルが蓋をする縦穴を、すっと指差した。


「ではとりあえず、行きましょう」


「うん」


 水煙が失せて倒れ伏した男たちが目に入るが、気絶しているのみで全員息はある。この確認だけ済ませてひと息つくと、八千草は上につづく鉄梯子に手をかけた。まだ少し、周囲に蒸気を放った際の熱が残っているが、なんとかつかめる。左手は井澄同様に骨が折れているため遣いづらいが、力をこめて、体を引きあげた。


 すると三段のぼったところで、井澄が後続になることをはっと思い出す。気にしている場合ではないと思うものの、どうにも気恥ずかしい。思いながら下を見ると、井澄はこちらを向いていなかった。


 闇の向こうに目を凝らして、険のある表情でじり、と後ずさりしている。


「……八千草お急ぎを」


「なんだい?」


「どうやら他の区画に散っていた連中が、集いつつあります」


 つぶやいた途端、通路の奥でちり、と蒼の焔が浮かんだ。


 続けざま、火矢のごとくいくつもの火線がひかれ、井澄に届く寸前で八千草は日輪の焔壁を発して防ぐ。だが、縦穴に入りこんでしまえば、もう日輪も使えない。この力は視界内にしか作用しないのだ。


「井澄、」


「降りている暇はありません早く! 大丈夫です、私は奴らの狙いではありませんから!」


 焔壁が相殺して晴れると同時、井澄は指弾を撃ちこんで襲撃者の動きを止めている。これを見て八千草は気持ちを切り替え、即座に上りだした。


 一段一段が、長い。もどかしい思いで梯子を蹴りつけていくと、やっとのことで蓋するものへ辿り着く。八千草は、渾身の力で肩からぶつかり、蓋をずらして隙間をつくった。そこへ右手を突っ込み大きく外へ動かして、やっとのことで地上へ這い出る。


「井澄!」


 下をのぞきこむと、もう彼もすぐそこにいた。


 だが彼が手を伸ばす真下、先ほどまで八千草たちがいた場所に、鬼火の色がちらつく――八千草は伸ばされた手を、腕ごとつかんだ。自らへし折った指が軋みをあげて、痛覚が泣き叫ぶ。それでも無理して、井澄を引きあげた。彼の呆気にとられた顔が、印象的だった。


 しかし、非力な八千草の引きあげが、間に合うことはなく。


 上体はほぼ地上へ出たが、残る右足へ縦穴を這い上る焔の一閃が、食らいついた。



        #



 やる気のない銃声や掛け声がまだそこかしこでつづくものの、六層外区の戦闘はだいぶ沈静化していると見えた。赤火と青水の戦力差が懸念されていたが、蓋をあけてみれば青水がどのような用兵を行ったのか、双方被害はあまり大きくないまま終戦を迎えようとしている。


 下水の外でうまい空気を吸いながら、井澄と八千草は路地を抜けて安全な場所を探す。……湊波の黒死病が蔓延している街で、安全な場所があるかは甚だ疑問であったが。


「……っつぅ」


「だ、大丈夫かい、井澄」


「まあ……すぐ死ぬ、というわけでは。すみません、肩をお貸しいただいて」


「これくらいのことで、謝らずともよいよ」


 井澄は脂汗を流しながら彼女に肩を借り、のろのろとした歩みで市街地を進んでいた。


 右足は、ふくらはぎから先を酷く焼かれてしまっている。己の皮下脂肪が焼ける臭いは、なんとも生臭く胃がひっくり返りそうなものだった。つい先ほどまで下水にいた身でさえ、そう思った。


 あの直後、八千草は蓋を戻して日輪の力を遣い、縦穴を溶接して塞いだ。どれほどの時間稼ぎになるかはわからないが、これくらいしか方法はなかった。それにつけても、足は痛む。


 しかし自身が攻撃の対象になるとは、思いもよらなかった。あの黒ずくめ、先ほどレインと戦闘を繰り広げた際には井澄など目もくれず、彼女の指示に従い去っていったというのに……もしやレインが、部隊に向かって井澄も殺害対象に含めよと作戦を変更したのだろうか? そんな想像が頭をよぎり、殺されないという確証がなくなったため井澄はその場に留まることかなわなくなった。八千草の足手まといとわかりつつ、共に離脱せざるを得なかった。


「どこか、無事な場所で少しでも手当をしよう」


「それなら、山井たちが逃れた方向ですかね……黄土の月見里さんと盗神と共に、この居留地から一区の方へ走るのが、最後に見た姿です」


「わかった。急ごう」


 泣きそうな顔で肩を貸し、八千草は井澄を引っ張ってゆく。正直言って満遍なく焼かれてしまったためわずかな手当てなどどれほどの意味を成すか、とも思えたが、他に助けを求められる宛てもないのだから仕方ない。


 ぜえと息を切らして、彼女に身を預けた。こんなときでもその身に触れられるのを役得と思える自分が、図々しくしぶといな、と思えた。肩に回した左手が無事なら、髪に触れていたところだ。


「そういえば、八千草。湊波は、どうしたのです」


「奴かい? 奴は……なぜか知らないが、隙ができてね。ちょうどそこでぼくは目を覚ましたものだから、逃げだしたのさ。とはいえ、倒せたわけではないのであろうね」


「いまだこの市街地も黒死病が蔓延しているでしょうしね……逃げる間も、そこは気をつけねば」


「まったくだ。明日から、少なくとも四つ葉の住民からは、湊波戸浪は人相書きの扱いとなるにちがいないね」


「明日から、ですか」


 鸚鵡返しにしてしまい、沈黙が落ちる。


 軽いつもりで八千草は明日と口にしたのだろうが、果たしてこの島の明日は、どうなるのか。井澄たちに訪れるのだろうか。訪れたとして、昨日までとはまったく異なる日々になるはず。


 政府まで絡んでこうも大々的に四つ葉を潰しにきたのだ。明日以降もひょっとしたら、残党狩りがつづくのかもしれない。そうでなくとも野放しにしてきた罪人たちを、鎖で封じて本土の牢獄に連れ戻すのかもわからない。


 いずれにせよ、あまり楽しい想像はできなかった。八千草を取り戻すことには成功したが、島抜けはもはやここまでだろう。


 それでも生き残りさえすれば、いい。生きていれば、大抵の物事はきっとどうにかなる。そう信じて、井澄はまだ足を止めない。


「ねえ、井澄」


「はい」


「ぼくは、疲れたよ……ぼくは、自分が疲れていることに、やっと気づけたみたいだ」


 身長差があるため、ほとんどおぶさるような形になっている下で、八千草がつぶやいた。眼光はまっすぐに正面を射抜いていて、井澄を引く腕は細いのに力強い。それは剣を振るい続けてきた腕だ。彼女がこの島を、生き抜いて結実させた力量の表れだ。


 その腕で、井澄を引き助けながら、八千草はぐっと感情を込めて言った。目の力が強くなる。


「だから決めた。ひとを殺める仕事は、やめにしよう」


「……明日から、ですか?」


「いいや。いま、ここから」


 井澄の視線が注がれているのには気づいただろうに、彼女の横顔はなにひとつ変わらない。


 本気、なのだと井澄は感じとった。彼女の肩に回した左腕の先で指を開いて閉じ、手首から落とされたカフス釦のことを思い返しながら、また横顔に目を戻す。


「大変ですよ、きっと」


「百も承知さ。ぼくは、戦うほかはあまり能がないし。難事であることは想像に難くない」


「でもやるのですか」


「そう」


 回した井澄の腕を担ぎ直しながら、八千草は凛とした声音で言った。


「いままでのぼくは、与えられた状況と役目のなかに生きてきた。でも今日からは、自らで、きちんとすべて選びとってゆきたい」


 ちらと横目で井澄を捉えて、歩く八千草は喉を鳴らした。


「お前は……どうなんだい」


「どう、とは」


「これから先、成したいこと。成すべきだと感じていることは、あるのかなと思ってね」


 そんなものは、いまも昔も大して変わりない。


 八千草の傍で、彼女を守り、彼女と共に生きる。ただ一心にそれだけだ。なんとも単純明快で、ともすれば幼く青いと断じられても仕方が無い。だが井澄は思う。青葉の茂ったあとにしか、実は残らない。それこそ非時香菓でもなければ。……だから老木になんと言われようと、最後は己の魂に問うて決める。


 わずかな記憶しかもたない沢渡井澄という人間は、そうしてここに出来ている。『せねばならない』『それしかない』『そこにしかない』そう感じるもの以外を取り除いて、前に進むこと。妥協できない道を選ぶこと。


「成したいことは、あります」


 力を込めたささやきに、八千草はきゅっと唇を結んだ顔をして、「そう」と理解を示す言葉を口にした。ただ、納得はないようだった。具体的な内容を、訊きたいのかもしれない。しかし、それは、八千との約束によって島を出たあとに告げることとなっている。


 べつに反故にしてもかまわない約束、だけれど。咎める当人もこの世にいないけれど。だからこそ、、、、、それを守ることが、これから先を新しくはじめるために必要なのだと思えた。


 ひとは容易く易きに流れる。水は低きに落ちる。妥協と堕落、その法則を意志の力で覆すことが――たぶん、きちんと生きるということなのだ。


 この想いを、いずれ八千草に語ろう。


「いずれ、お話します。それはあなたと、関係する話ですから」


「……わかった。いつか話してくれる日を、待っている」


 ふと足を止め、案じる顔をした八千草に「いましばしお待ちを」と返して、井澄は前を向く。


 いつだって、前に進むしかない。急な反転はできない。人は過去からの感情を帆に受けて走る船だ。……靖周が、いつかそんなことを言っていたのを思い出す。


 遠く離れても、見えなくなっても、過去は背後に存在している。時間をかけてもう一度めぐりあうことすらあるだろう、八千と井澄せいとがそうであったように。


 だからといって過去に縛られることはない。いまを踏みしめてゆけばいい。


 いこう。決意が足を動かした。


 阻むものが見えていてさえ、井澄は足を止めない。


「さあ。ではこれで、……最後です」


 居並ぶ黒ずくめの部隊が――行く道を遮っていても。言葉にして、己の意志を世に顕す。


 焼け崩れた裏通りには軍刀が突きたち、見覚えのある制帽と被外套が転がっていた。そのほかにも死屍累々、ここも戦闘区域としてかなりの激戦があったことが想像される。いま現在の戦況は通りを挟んで四人ずつ、頭上の建物の屋根にも五人ほど。


 敵に囲まれ、切迫した状況。


「――殺言権は確保。重要対象である日輪は此度こそ排除」


 無情な指示が飛び、彼らの手から焔が降りかかる。なんだ、まだ私は排除対象ではないのか……自分を油断させるための方便である可能性を疑いながらも、井澄は思った。


 瞬時に身を翻し、八千草の肩から左腕を離す。勢いにのせて糸を投げ放ち、反転して右手で彼女の手をつかむと、軍刀に絡んだ糸を左手で引き寄せて火の下を脱した。みしみしと、自ら砕いた骨が軋んだ。


「折れた手でよくやるものだよ」


「あなたも先刻してくれたでしょう」


 ばつの悪そうな顔で目をそらし、いや焦点を黒ずくめたちに合わせたのだろう。八千草の日輪が唸りをあげて、彼らを押し返す焔を顕現させる。


 対する彼らは連携した焔の放射でこれをいなし、鋭く鞭を振り薙ぐように火線を伸ばした。すぐさま八千草は相手の焔を操作し、先端のしなりを上へ向けてすぐ、下から噴き上げる爆風を生じさせ突き離す。距離と共に空いた時間の隙へ、井澄が指弾と羅漢銭で追撃を仕掛ける。かわされ、弾かれ、また攻防。繰り返す。


 活かさず殺さぬ、互いを詰むための戦い。


 領域を時間を奪い合い、拍子ひとつで傾く戦い。


 ……八千草の焔術は、黒ずくめの連中に比べるとまだ熟達の域に達しないものだ。術などには疎い井澄だが、見ていてそれくらいは感じとる。けれど自由に、相手に拍子を握られぬようにしながら彼女は動く。井澄はその補助を成し、死地を抜けるのみである。


 策などなく、行動の根底はたったそれだけ。勝ち目があるのかどうかすら、よくわからないままに井澄と八千草は戦いつづけた。


 かたや十数人から成る部隊、かたや手負いの二人。


 結末は正に、火を見るより明らかと思えた……だが井澄と八千草は生きつづけた。閉ざされた焔獄を、怪我も感じさせぬ動きで生き続ける。井澄の右足は重く引きつっている。八千草の手も痛みに震えている。


 だというのにどうしてこのような結果を得るのか、実際に動いている自分でもよくわからなかった。周りがよく見えているのか、互いがよく動けているのか、相手がよく見えていないだけか。


 集中していたとも思えない。ただ平然と自然な流れとして、現状が在った。


 生きる、生きる、生きている。生の実感が、井澄たちを駆り立てる。


 それでも――――潰えるときは、来る。


「ああ……」


 焔を掻い潜り、八千草と共に次なる一歩を踏み出したとき。


 視界の端に、黒光りする銃が転がるのが、見えた。おそらくここで戦っていた何某が用いたのだろうエンピールの長銃が、こちらを向いて口を開いていた。


 黒ずくめの放った蒼の焔が、そこへ、覆いかぶさろうとする。


 暴発の未来が、井澄の想像から膨れ上がり、現実へ滲みでようとする。


「……ちっくしょう」


 毒づいて、井澄は八千草の手を引いた。彼女は、引かれるままに井澄の胸へとからだを預けた。最後に見た顔は、なににも満足していない、焦燥感と飢えに満ちた面相だった。


 井澄もたぶん、同じような顔をしていたろう。死を受容するなど、到底できはしない。認められるたしかな終わりなど、この世のどこにも存在しない。わかっていたことなのに再度恐怖して、事実と実感が胸に沁み入ろうとしてくる。


 だが意志と意識に関係なく時は、刻まれ――かくして。



 耳に届いた銃声に、すべては塞がれ暗転した。



        #



   明治蒸気幻想パンク・ノスタルヂア




   :私たちという名の時代。



        #



「――では、本日の議は終了とする。解散せよ」


 薄暗い部屋の奥へ長机が、どこまでもつづくような広間。


 日本国術法統合協会列席会議の隠し部屋で、今日もひとつの会議が終わる。真っ先に腰をあげた村上は、周囲からの刺々しい視線もなんのその、悠々と部屋をあとにする。


「……御苦労様、村上君」


「ああはい、お疲れ様です」


 位階が上の男からかけられた中身の無い労いへ敬意なく返しながら、まだ癒えぬ腹の傷へ響かせぬよう早歩きで扉を出る。決めた合言葉で扉の先を己の執務室へ替えて、つづく男の言葉から逃れた。


 後ろ手に閉じた扉が、面倒な上下関係の空気も断ち切ってくれた。静かなこの部屋に戻ってくるのも、ずいぶんと久方ぶりだ。


 往涯の反撃によって風穴をあけられた腹は予想以上に治療に時間がかかり――というのも、村上は代償で治癒力も落ちているためなのだが――滞った仕事も病床でやるほかなく、また今日も二カ月ぶりの復帰だというのに、執務室より先に会議へ出ることとなってしまったからだ。


「やれやれ……煙草も久々ですね」


 敷嶋の紙巻煙草を懐から取り出し、火をつける。ぷかりと煙を浮かべながらデスクへ移動し、机に乗る灰皿へ、深い一喫みで燃えた灰を落とす。


 ふと視線を、デスクの前に並ぶソファへやって、次にその正面に配したロウテエブルに乗る灰皿に移す。さすがに掃除されてもう跡形もないが、数カ月前に往涯はたしかにそこで、煙管をふかしていた。


 ……あれから。


 玉木往涯という、実質的に統合協会を支配していた男が消えても、さほど村上たち列席会議の活動には影響が出なかった。そも、直接的な死因はともかくとして、殺害を行ったのが村上であることは事実なのに。


 気味が悪いほど平常に、列席会議は運営された。往涯の死について触れたのは、会議の冒頭で往涯の傀儡こと勘解由小路かでのこうじ主席により発された「玉木往涯次席が逝去されました、黙祷」との一言のみである。まるで彼の存在など大したことがなかったかのように、すべてはつつがなく、いつも通りに、互いの腹のうちを探り合って、終わった。


「腹のうち、ね」


 まだ鈍痛うったえる腹部を片手でさすり、村上は半分ほど喫んだ煙草を、灰皿に押し付けて消した。ちなみにこの怪我の位置は、奇しくもかつて己がレインの腹部を刺したときとまったく同じ位置だった。因果はめぐるということか、と自嘲する。


 それからしばし、村上はデスクの上にたまった書類を、端から片づけていった。なんとも身が入らず気の乗らない内容のものばかりであったが、目を通しては印を捺し、訂正し、改めるよう注意書きを添えて送り直す。


 機械的に業務を進めて、在りし日の常態へ埋没していった。そう、これが、いまの彼にとっての常だった。




 そして最後の書類をデスクから持ちあげたとき、その下に挟まった封筒を、見つけた。


 宛名も差出人も書かれておらず、質素な茶封筒であった。そのわりに封はきちんと蝋で留めており、固まる前に印章を捺した痕跡があった。


 蝋に刻まれた溝は、三つ足の烏を象っている。


 まさか、とやはり、が心中入り乱れた。すぐに紙切り刃を引き出しから取って、すっと封を開ける。なかには便箋が三枚、どれも字をいっぱいに押し込まれていた。


 ――最初から最後まで読み、二度、読み返した。さらに一度、最後の一枚を熟読した。


 村上は、しばし頭を抱え、ひとしきり綴られた文面と頭のなかで格闘した。


 だが結論は出ない。この文面の投げかけた言葉には数年、あるいは十数年先の村上にしか答えは出せない。いまのこの時点では、どうにもできはしない。


「……あの、男は」


 村上は書の末尾に名を記した差出主を思い描き、その最期を浮かべる。


 彼は死んだ。たしかにレインが殺した。


 玉木往涯は、死んだのだ。しかし――奴の論で言うならば、死んだところで同じ考えを持った者が、いずれ必ず現れる。そうして多様性が軸を常に揺るがすことで、絶え間ない進化が人類につづくと、彼は言った。それをこそ望んでいるのだ、と。


 ……しばらく考え込んだあと、村上は燐寸を擦り、灰皿の上に畳んだ便箋をすべて燃やした。


 いくら燃やしたところで記憶の中から消えはしないが、だれかにこれを読まれたらと考えるだけでも嫌だった。燃える焔にもう一本取り出した紙巻煙草を挿し、一服してから村上は目をやる。


 まだ、最後の一枚が、ところどころに穴をあけながら燃えていた。


『最後となっ  この託宣に  、俺は死を自ら選  とにした あとの処理、列席会議はうまく    く。 来る戦乱が国  わす大事となり、貴君と周   変化 うながす。……   して 貴君こそが、次の〝玉木往涯〟となる ろう』


 恐るべき、最後の託宣が燃えていく。おそらくは生前、最後に奴がこの部屋を訪れたとき。村上がレインからの電報を受け取りに部屋を離れた隙に、これを仕込んだのだ。


 もちろんこれをただの戯言、くだらない意趣返しだと判ずることはできる。


 けれど奴が前線に出張った理由。村上に接触し続けた理由。今日の列席会議でさほど彼の死が騒がれなかった理由。いやもしかしたら井澄や橘八千草のことまですべてが一切合財、彼の託宣の上で、村上を次なる〝玉木往涯〟とするための布石だったとしたら?


 馬鹿げた、妄想に近い考えだが、村上は取りつかれた。仕方のないことではある。つい先ほどまで機械的に、、、、業務を進め、それこそ機構の歯車として己に働きを任じていたのだ。


 特段なにも考えずに。意志のないまま、大衆に流されるような、動きをしていた。


「私が……なるのか?」


 かろんと舌下に転がる刺飾金を感じ、思考錯誤によって嘘だと自分に信じ込ませようかと考えた。


 だがその力すら、往涯によって生まれた力を盗みだしたに過ぎない。奴の手が入ったものを用いて、奴の作ろうとする運命を捻じ曲げられるとは思えなかった。……うつむいて、デスクに置いた腕の間に顔をうずめる。そのとき扉がノックされ、村上は顔を上げた。


 扉の向こうには、賀茂がいた。片手でなんとか抱え切れるだけの書類を携えて、届けに来た様子だった。


「村上様、こちら本日分の書類でございます」


「……ああ」


 受け取ってロウテエブルへ下ろし、かわりに片づけたほうの書類を持っていってもらう。


 ばたんと閉じた扉の内側、ひとり静けさに戻された村上は、紙束の山を前にして思案に暮れた。


 届いた書類は『四ツ葉再建ニ際シテノ残留島民掃討計画』『新造情報部〝鶺鴒〟ノ実戦投入案件ゐ号』『眠レル獅子トノ戦、、、、、、、、ニ於ケル艦隊艤装ノ経過報告』などがあった。


 未来は、往涯の託宣通りに進んでいこうとしている。


「……なりませんよ。ああなって、たまるものか」


 決断をひとりごちて。村上は、書類を睨みつけた。


 彼の戦いは、まだ、終わらない。



        #



 口にくわえた伊達煙管を上下させつつぼんやりと、足下に広がる街並みと、その向こうに広がる海原を眺めた。夕闇時、横浜の街を見下ろすこの高台には、平穏な喧騒が寄せて返す波のように、耳へ届いていた。


 仕事帰りにこの景色を目にする生活も二カ月ほど経ったが、いまだに陽光明るいこの状況にはあまり慣れない。直射日光のない四つ葉最奥での暮らしが、懐かしかった。


 きびすを返して継ぎ接ぎの羽織を翻し、煙管を腰元に納めた彼はまなじり下がる目で背後にあった墓地を見据える。別段、墓に用事はない。ただ墓の近くにある家が安かったため、そこに暮らしているだけだ。


木島きじま様」


 と、背後から声をかけられる。木島は振り返り、声の主に対面した。


 こんな場には似つかわしくない、派手な身なりの女だった。衣服こそ地味に見えるよう設えているが、簪で飾り立てた頭髪の結い方には商売の色が強く香る。顔には邪気なく、ただいろんなひとの感情の通り道と化した感が滲んでいた。


「おう。久方ぶりだな、篠奴しのやっこ


「ええ、本当に」


 気安く木島が呼びかけると、わずか申し訳なさそうな顔をしながら、彼女は頭を下げる。


 と、下げる途中で、視線が木島の向こうを見た。振り向こうとして、自分の位置から、木島はそこになにがあったかを思い出す。


「ああ、あれか」


 上を振り仰いで木島は言う。篠奴は、なんとも言葉にならない様子で木島を見ていた。


 そこにあるのは、石碑のようなものだった。


「……一応、骨だからよ。その辺にばらまくよりかは、墓場の近くで静かに眠らせてやろうと思ったんだ」


「木島様……」


「手でも合わせてくか?」


 背後を指すが、篠奴は首を横に振った。そうか、と言いながら木島は目を反らし、自分があつらえた膝丈ほどの小さな石に、向き合う。


 表面には、山井翔と刻まれている。花こそ添えられていないが、静かにたたずむ様はたしかに墓石然としていた。つかつかと近づいて屈みこみ、木島は目を閉じる。特別の感慨は湧いてこなかったが、それでも心は落ち着いた。


 ややあって、篠奴がなんだか言いづらそうに口を開いた。


「木島様」


「ん、ああ、なんだ」


「……あの、本日の用件なのですが」


「おう、なんだ」


 立ち上がりつつ振り返ると、大層恐縮した様子で彼女は手指をもじもじと絡める。それから伏し目がちに、木島へ言った。


「ええと、その……山井様、、、から、お呼び出しです。二名一緒に――『木島泰明きじまやすあき』『木島夕季乃きじまゆきの』としてでなく、『三船靖周』『三船小雪路』として、歓楽街まで出向くようにと」


 ちらちらと墓石然とした物体に目をやりながら、篠奴はつぶやいた。


 あーそう、と返しながら、木島――もとい、靖周は首を傾け、かりかりと頭を掻いた。そして篠奴にそこで待つよう伝えてから、墓場の奥にある自宅へ、妹を呼びに行く。たしか今日は仕事もなく日がな寝ていたはずだ。


 小屋と形容するほうが正しそうな、しかしかつて住んでいたぼろ長屋に比べればずいぶんとましな家の戸を、靖周は開ける。炊事場を横切り三和土からあがると、狭い一間の隅でつづらや行李の間に置かれた、ひとつだけの布団にくるまって眠る彼女を見つけた。


 乱れ流れる長い髪は色が薄く、ところどころ跳ねている。毛先から視線で辿ると、あどけない表情の小雪路が、すうすうと寝息をたてて壁の方を向いていた。近づいた靖周は、ちょっと髪に触れて持ちあげ、指の間に通してから、溜め息をついて布団を剥ぎ取った。しどけなく寝崩れた朽葉色の浴衣から、あられもない様子で肢体がのびている。


 ぶるっと獣のように震えて、小雪路はからだを丸めた。裾からにじり出た太腿が露わになったので、靖周は布団を少し戻してやった。


「おい小雪路。起きろ」


「んー……んぅ、もう朝?」


「むしろ逆だ日暮れだよ」


「……じゃあ寝る時間なんね」


「今日いちにち寝てたんだろうが。山井から呼び出しだ、歓楽街行くぞ」


「え、歓楽街」


 がばっと起き上がった小雪路は、寝ぼけているのか半ば閉じたまなこで靖周を睨んだ。急に語調がはきはきとして、布団から這い出て靖周に詰め寄った。


「なんで歓楽街行くん。もう行かんでほしい、ってうち言ったのに」


「その言葉の直前は聞こえてなかったのかよ。山井から呼び出しだっての」


「へ? ああ。なんだ……」


 疑問が誤りと気づいて氷解したか、またとろんとした目付きに戻った。それでも布団から出たため起きることにしたのか、名残惜しそうに足先を外へ出して、両腕をかかげた伸びをした。


 危うい印象ではだける前を見て、靖周はやれやれと腰を上げると背後のつづらから適当に彼女の衣服を取り出して放る。顔面にかぶさったか、わぷ、と妙な声がした。


「そらそら、とっとと着替えて顔洗って出て来い。俺ぁ先に出て待ってるぞ」


「はぁい。あー、でもにいちゃん」


 さっさと小雪路の横を通り過ぎて部屋をあとにしようとしたところ、頭から衣類をふり落とした彼女がちょいちょいと手招きした。何の用かと近づいて屈むと、にやっと笑って招いた手を陽に向け、靖周の顎に触れた。どこで身に付けたか、しなだれかかるような仕草だった。


「……あんま女の人に、近づきすぎんでよ?」


 目が笑っていない。すん、と嗅ぐように息吸う音がした。


 どうやら、わずかうつった白粉おしろいの匂いか何かによって、外で待つ篠奴の存在を察したらしい。


「はいはい、わかってるよ」


「ていうか外におるひと、前に兄ちゃん刺そうとした人なんね」


「うお、そこまでわかるのか……」


「わかる。匂いで」


 大きな澄んだ瞳で靖周を見つめ、さも当たり前のように小雪路は言った。


 あのときは篠奴も状況に追い詰められて仕方なくだったのだろうが、いまだ彼女は刃向けたことを悔いているらしく、先ほどのように会う際もいまいち距離がある。そして小雪路も小雪路で靖周に殺意向けた彼女への敵意を消し去っていないらしく、他の女に対するよりなお過敏に、その存在を警戒しているのだった。


「心配すんなよ、もう刺されたりしねーって」


「そうは言っても気になるん」


「信用ねぇのな俺」


「信用とかじゃなくて、なんだろ。うちは――そう、いま幸せだから。それがどうにかなっちゃわんかと、いっつも心配なんよ」


 小首をかしげて、顔にかかった髪を払いながら彼女は言った。まっすぐな言葉に背中がむず痒くなり、靖周はこみ上げた変な笑みをかみ殺すのに、ひどく苦労した。


 だがそういうことなら、靖周にもよく理解はできた。


「心配かけて、悪ぃな」


「くふ。でもうちもきっと、兄ちゃんに心配かけとるよね」


「そりゃあな」


「じゃ、お互い様なん」





 からころと下駄を鳴らしながら、篠奴が先導するかたちで二人して歓楽街へ辿り着く。日が落ち、闇の幕が下ろされた通りには、ぼんやりとした灯篭や提灯の明かりによって客を招く玄関口が、大口あけて鎮座する。


 都市部の端で港へ注ぐ川沿いに並ぶこの街路は、許可を受けて経営されるひとつの商売の場だ。そこかしこ行きかう男も女も、互いにわずか擦れ違ういとまに顔を見合い、値踏みするように歩いていく。


 からん、と赤い鼻緒の下駄を鳴らして、黒の長足袋を穿くすらりとした脚を見せつける小雪路も、そんな好奇の視線に晒されていた。洋風のシャツの上から緋色の着物を羽織り、紅の紐で頭髪をひとまとめに括った髪型は、商売のため歩く女のそれとは明らかに異なった雰囲気をふりまき目立つ。


 靖周は一歩遅れて彼女のあとを歩くために、周囲の視線がよく見えた。


 やがて、二人は通りの中でもっとも目立つ外装の、門扉構える館の前へ着く。柵のような門をぎいと押しあけ前庭を通ると、二階建ての威容ある屋根づくりが、近づくにつれ降ってきそうな感覚を認めた。


 そのように他を威圧する場に住むのは、他でもない。上がり框を踏んで脱いだ下駄を揃えていると、靖周の背後で廊下の奥が軋んだ。


「久方ぶりね」


 黒の留袖の裾から視線を上げていくと、相変わらず白衣をまとっており、片手には七星の紙巻煙草がある。もう片手は人頭杖を持ち、床についてからだを支える。


 ぴしりとした襟元から細い喉、丸みのない頤を辿れば、紫煙吐き出す口許が見える。切創が縦に片目を潰す彼女――山井翔は、額を広く出して後ろで団子に結った髪が重いかのように首を後ろへ反らしつつ、靖周と小雪路を見下ろしていた。


「お久しぶりなん、山井さん。調子はどう?」


「体調はそこそこ。仕事は、やっとまともに往診はじめたとこ。やだわ、治りが遅くて」


「二カ月足らずでそんだけ回復すりゃ充分だろ……一時は生死の境目行ったり来たりだったじゃねぇか」


「まあね。おかげさまで、こうなったけど」


 煙草を口にくわえ、片手で着物の裾を払う。そこには木製の義足がのぞいており、山井は動きづらそうに逆の足へ重心を傾けていた。


「左足は無事だったし、両手がありゃ仕事はできる。アイツ相手に立ち回ってこんだけで済んだのは運がよかったわ」


「運じゃねぇよ。あんたの、力量のおかげだろ」


「そう?」


 たいして偉業とも思っていない様子で、山井は首をかしげた。あの湊波戸浪を討滅したことも、彼女にとっては普段の仕事の延長に過ぎないのだろう。だれかを助けるか、だれかを傷つけるか。自分にとって必要なことならば、山井はそのどちらも選ぶ。


 と、そこでふっとあることを思い出したのか、彼女は目の端を吊り上げて杖先を靖周の眉間に突きつけた。


「ところで靖周、アタシ最近たまに幽霊扱いされることあるんだけど、なんか心当たりない?」


「え? いや知らんけど。俺ァ縁起悪いって言うから預かったあんたの足の骨の始末に困っただけだけど」


「ほー……どこに預かってくれてんのよ」


「土の下なんよ。そんで場所がわかるようにいい石見つけて、上に置いとった。名前付きで」


「やっぱアンタか」


「ちょっとした茶目っけのつもりだったんだよ、ンな怒ることねぇだろ」


「本物の木島泰明と同じく『突然に失踪』しないよう、夜道にゃ気をつけることね」


「おっかねぇなぁ」


 杖に突かれ、呼ばれて来たのに追い返されそうになりながら、靖周はあせあせと客間へ逃げた。


 ――ずいぶん前になるが笹島と呼ばれた地が四つ葉と名を変えたとき、靖周たちはすでに戸籍を失っていた。そこでいまは木島という見知らぬ夫婦……まあ、夫婦だ。仕方が無い。そこは選べるものじゃない。ともかく、そいつらが食うに困って売り払った戸籍を買い取り、偽名のもとに墓の傍で生活を営んでいる。


 対して山井翔は本土に残していた戸籍通りに、山井翔としてふたたび生活をはじめていた。職はもちろん、四つ葉にいたころと変わりない。


「結局、手に職あると強ぇってのはここにきてよくわかったな」


「ま、そうそうなくなるもんじゃないからね。身に付けたものは」


 テエブルを挟んで客間にて向き合った山井は、急須を傾けながらぼやいた。小雪路はお茶うけに出されたせんべいを齧りつつ、遠くを眺めるように天井のしみを見ていた。


「うちらも仕事はあるんけど、でも山井さんほど安定はできんよね」


「結局なんの仕事してるのよアンタら」


「なんとも言えねぇな。書き物を訳すときもありゃ、飛脚のまねごとするときもあるし、ぼろ屋敷を掃除したこともあったか。まー要するに諸雑事請負業」


「節操無いわね」


「これでも選んどるんよ。官憲につかまらん仕事だけを」


 郷に入りては、だ。靖周も小雪路も、いまでは人を不必要に傷つける職務を避けていた。これを耳に入れて頬杖ついた山井は、ひとこと「んじゃアタシの仕事は増えそうにないわね」と不穏なことを言った。聞かなかったことにした。おそらくは冗談だろう。


「とりあえず働けてるなら、安心したわ。今日呼んだ理由のひとつとしては、食いっぱぐれて死にそうだったら御馳走してあげようとの思いがあったんだけどね」


「おやおや、気が楽になる話だな。俺ァまた骨でもあずかれ、と言われるんじゃないのかと内心ビビりつつきたのによ。タダ飯の御相伴なら喜んであずかるぜ」


「いや稼げてるやつにおごる気はないわよ。その辺で蕎麦、、でも食べてきたら」


「山井さん変なことけしかけるとうち怒るんよ」


「……冗談よ」


 黄土は嘉田屋でよく用いられる『娼枝を買う際の隠語』をつぶやいた山井を、小雪路が鋭くたしなめた。最近、とみにこういう話題に対して過敏になってきたなと、先ほど家を出る前にあったやりとりを靖周は思い返した。なんだかわからないが何かを急かされているような気がしないでもない。


「そういやいまみたいな隠語とか、この街でも通じるようになってきてんのか?」


「いんや、広くは浸透してないわ。ここに黄土の人間がなだれこんだって言っても所詮一部だし、吉原に行ったやつ郷里に帰ったやつ色々だし。移り住んだのは黄土全体の一割にも満たないわよ」


「はん……月見里の婆さんも苦労してそうだな」


「大丈夫でしょ。盗神も横についてるし」


 つい最近も会っただろうに懐かしそうに目を細め、山井は七星の紙巻煙草を取り出す。燐寸で火をともして紫煙をくゆらせて、彼女はかつてに思いを馳せているようだった。過去というにはまだ浅く、先日というには深すぎる、少し前の出来ごと。


 およそ二カ月前、大きく揺れ動き状況を変えた、四つ葉という島。


 四権候と四天神。


 彼らが話題にのぼれば、当然靖周たちの意識もそちらへ逸れる。


「盗神で思い出したが、あの怪神その他も、ずいぶん元気らしいぜ」


「青水連中が?」


「一回、用心棒の仕事受けたらあのひととまた戦いそうになって、無駄に緊張したんよ……」


「アンタでも緊張なんてするのね」


「もーいや。二度と会わんといいな」


 ぐだーとテエブルに突っ伏した小雪路は、桜桃のことを思い出したくもないのかふるふるとかぶりを振って頭から記憶を追い出そうとしているように見えた。靖周も、彼女に蹴られた古傷が、少しばかりいたむ気がした。


 いたみに引きずられるように、靖周の記憶は四つ葉について辿っていく。



 ……あれから。


 満身創痍の山井を担いで下水から出てきた靖周と小雪路が目にしたのは、港へ静かに着いた、一隻の戦艦だった。


 降りてきたのは唯一人。


 右半身から手足と顔の肉を失い、それでもなお平然と歩む、瀬川進之亟。そして彼があとにした船の――といっても見る影もないほど形を砕かれ、廃船と呼んだほうがよさそうなものだったが――甲板には、両のかいなと膝から先を喪失し、胸に鉄片を突き立てられて絶命した亡骸があった。


 たったひとりの単騎突撃によって、瀬川はたしかに戦況を変えてしまった。遠く海原に漂う残りの戦艦も動く様子なく、赤火の頼みの綱は瀬川の一刀で断ち切られていた。


 ほどなくして、頭目と大戦力を同時に奪われた事実が伝わり、赤火は九十九美加登の右腕であった長樂重三によって降伏を宣言する運びとなった。


 おそらく赤火の内部にもさまざまな思惑でもってこれに反対する者はいたろうが、少なくとも瀬川進之亟の常軌を逸した戦闘結果を目の当たりにした者は、だれひとり降伏に異を唱えなかったという。


 戦いは終わった。青水と赤火による四つ葉の覇権を争う戦乱は、終わった。


 しかしそれはついでのおまけで付随してきた結果に過ぎない。


 この戦の本当の目的。十四年の歳月をかけて島を操っていた、統合協会及び明治政府による暗躍は、まだ終わっていなかった。湊波戸浪の戦局介入が山井の働きによって帳消しとされても、それですべて片付いたわけではない。


 次なる大戦へむけた戦時デマゴギイの伝達および用兵の情報戦術実験。そして錬金術研究により錬成された銀・建造された戦艦の引き渡し。政府の仕掛けたさまざまな企図は止まることなく、所詮四つ葉の内部抗争に過ぎない両葉閥の意図をのみこんで、またたく間に侵行・進行していった。


 四つ葉は――ひと月も経たぬうち解体された。そもそもが政府の目こぼし(という虚偽の情報)によって生み出された環境である。本気になった政府の動きには、どの葉閥も耐えることかなわない。


 赤火は、貿易に利する能力があると考えられかつ政府に恭順する者が引き抜かれ、残りは蜘蛛の子を散らすように逃げだした。


 緑風は、そもそもが技術者の集いである。極めて反政府的な人間など一部の危険思想の持ち主を除いては、税を搾りつつ本土への帰還を命じた。


 黄土は、嘉田屋という娼館の存在が広く本土でも知られていたため、公的に存在する商売の場へほとんどそのまま取り込まれた。


 そして瀬川進之亟率いる青水は、四つ葉設立の建前として在った〝賭博犯処分規則〟に抵触する博徒や侠客ばかりの葉閥である。島の興亡まで十四年が経過しているとはいえ、政府も簡単に野に放つわけにはいかなかった。だがあの瀬川が、おとなしく鎖に巻かれるはずもない。九十九との戦闘によって大怪我を負ったはずの体で、彼は己の首を狙いに来た者どもを次々と斬り伏せていった。


 自ら率いた青水の人間たちが、島から逃げおおせるまで。たったひとりで、政府の送りこんだ梟首機関の軍勢に刃向かった。……彼の生死は、いまだ不明である。故にこそ、怪神・桜桃はいずれ頭が戻る日を待ち、本土でも侠客としての集いを組織していた。


 結果として先日、仕事の都合上回避できずに靖周たちはぶつかる羽目になったのである。



「……ふうん、にしても用心棒の仕事、ね」


「なんか問題でもあったか? 防衛以上のことはしてねぇぞ」


 どうしたものかという風に肩をすくめた山井に、回顧から帰ってきた靖周は言う。すると山井はそこじゃなくて、と前置きしてから二人をかわるがわる見つめた。


「実は今日呼んだのは、用心棒の仕事頼もうと思ってたのよ」


「ほう。だれを守れってんだ」


「アタシ」


 親指を立てて自分を指す。は、とあごが外れたように言葉を止めた靖周を見て、山井はむっとした態度になった。


「ちょっと危ないかもわからない場所だし、アタシは足がコレでだいぶ戦闘力落ちてるしさ。いやならいいのよ、ほかの奴に頼むだけ」


「いやいや、嫌なんて言わねえよ。でもなんの用で行くんだ」


「んー……半分は仕事。買い付けのためにちょっとね。そんでもう半分は」


 言葉を切って、山井は袂を探ると一枚の封筒を取り出す。宛先はずいぶんと大雑把で、『娼枝街に住まう隻眼の医者へ』となっていた。


 靖周と小雪路が文面をのぞきこみ、表情を変えたのを見計らって、彼女はつづけた。


「あいつらに、会いに」



        #



 二カ月の時が流れても、レイン・エンフィールドはまだ四つ葉のなかにいた。


 島民のほとんどを追い出し廃墟の島と化したこの場に、留まる理由はさほどないのだが。広大な敷地が静寂に包まれるこの島は、ひとり物思いにふけるにはうってつけだったのだ。


 今日も、簡素な食事を済ませて、珈琲を淹れながら一日の予定をゆっくりと立てていた。もはや特別に彼女を縛るものは、なにもない。羽織るジャケツに戴いていた晴明紋の肩章もない。


 消えたところでさして困る地位があったわけでもないレインは、統合協会の職を辞していた。


「さて、今は何時か……」


 直接に日が差し込むことのないこの場所は、ひどく時間の流れもあいまいで、静謐すぎる空気がひとり言や溜め息の音さえ拒む。五層三区、かつて湊波に与えられた黒死病を癒したこの部屋で、レインはひっそりと息を繋いでいた。


 やがて、いつも通りの予定を立て、家を出る。


 使いもしない銃を磨き、ふらりと出掛け、島の裏に広がる山間部や海辺でその日の糧を得る。気が向けば廃墟の街を散策し、適当な本などを失敬して、仮宿の家に持ち帰って読みふける。ランプが尽きれば眠る。


 時折統合協会や政府筋の人間とも出くわすが、まだレインの辞職が伝わっていないのか、なにか言われたことはない。けれどさすがに二カ月だ、本格的な四つ葉の掃討・解体により鉄材などを持ちだす準備も整いつつある。身分を疑われる前には島を出なければならない。


 しかし――出たところで特にあてもないのだ。


 レインは、物思いにふける自分を自覚しながらこの島での孤独を愉しんでいたが、けれど物足りないことには気づいていた。いくら目を背けても、喪失がそこに在った。


 言い知れない虚脱感のうちに、レインは日々を怠惰に過ごす。


 繰り返すのは、生存に直結した行動と、思い出すことのみ。


 最後にかわした井澄とのやりとり。記憶を殺されるまでのわずかな時間。


 でも、それを、思い出すことはできている。……そう。あの最後の殺言で、井澄は、レインからすべての記憶を奪うことはしなかった。


「……井澄いすみ


 そう呼んだからだ、と彼は語った。


 たったそれだけのことが、レインの記憶を首の皮一枚で繋いだままとした。



        #



 喪失の恐怖に耐えかねて泣きながら、レインは最後の瞬間を待った。


 しかし、思い描いていたような、現状と過去の認識のずれによる恐慌状態はくることがなかった。……まさかこうも穏やかに、なにも感じさせぬまま消されるのかと、レインはむしろ恐ろしくなった。


 だが思考には余裕が残っていた。考える余地があった。井澄のことを――まだ、覚えていた。


「……いす、み?」


「そうです。それが、私の名」


 毅然として言い放ち、彼はぶらりと両腕を下ろした。肩の力を抜いて、眼前のレインへ、優しくさえある視線を向けた。


 目の奥まで、しっかりと見通すことができた。


「……最初から、普通にそう呼んでいまの私を認めてくれれば、それでよかったんです。亘理井澄という在り方はもうできませんし、するつもりもありません。そうある自己を、個人としてきちんと認めてほしかった」


 ふうとため息をついて、井澄は苦笑いを浮かべた。村上の皮肉ったような笑みともちがう、険のある目付きの彼が昔よくしていた、あの笑い方だった。


 いや。似ているだけで、ちがうのか。


 ちがうことを――気づいていながら、


「……ああ」


 見ないふりを、していただけだ。


「ならば、仕方がないな」


 やっと、わかった。先ほども口にした言葉を、先ほどとはまったく異なる思いの中で語る。


 なんということはない。レインは目の前にいる彼と、真剣に向き合っていなかった。


 過去を見据えていまに背を向け、背面に声だけをとばしている。そんな状態で、だれかに真に気持ちが伝わることなど、有り得るだろうか。そう気づいたレインの前で屈みこみ、井澄は内心を見抜いたようなことを言った。含蓄のある、重みがともなっていた。


「死人の残響みたいな扱いをされては、かないません」


「そう、だな……その通りだ」


「はい。昔のレイン・エンフィールドをよく知るただの一人だと、そのような接し方をしてください。そうしてくれれば……私も、亘理井澄という個人をよく知るただの一人だと、そのように接します」


 とてもありふれた、ごく当然の答えを、彼は噛みしめるように言った。


 なんということはない。レインは彼を、彼の変化を――受け入れることが、できていなかっただけだ。頭の中の理屈では理解したつもりでいたが、そこでレインは止まってしまった。理解したなら、思いやり慮ることが必要だったのに。どうしても納得できずに、レインは現状の彼を否定するやり方で立ちふさがった。


 現状の彼の否定は、いまは居ない亘理井澄の遺したものをも否定することだったのに。


 自分に都合の悪い面は、理解したふりの内に排そうとした。


「お前を、お前の存在意義を、わたしは……殺そうとしていたのだな。なのに、お前はわたしの言葉を、殺さなかった」


 許すことには大きな痛みが生じるだろうに。彼の大事なひとを失わせたレインを、井澄は殺さずにおいた。どれほどの苦しみを乗り越えてか、彼はいばらの道を選んでくれた。


 しかし井澄はレインの言葉に、ゆっくりと首を横に振る。舌を突きだし、彼は刺飾金に宿した力の発動を、匂わせた。


「いいえ。どうしても私がゆるせなかった言葉だけは、たしかにいま殺しました」


「……え? いや、わたしの記憶は、消えてなど」


「ほんのわずかでささいな一言です。だがそれは個人を個人と認めない、断絶の意味を孕む。この世界から個人を切り離し、異物として扱う。あなたが言ったのは、本当にひどい、そういう意味の言葉でした。ただ一言――単語ひとつ。それを、私は殺したのです」


 ひとかけら。


 いくつも重ねた彼との会話に横たわる、踏みつけ重ねてきた言葉のうちのたったひとつを、彼は消したのだという。ところが思い返して記憶を顧みても、どこにも違和感はない。前後の文脈から喪失箇所を導き出すことができないかと考えたが、それしきでは見つけられないほどに、ちいさな一言であったらしい。


 困惑するレインを尻目に井澄は舌をしまい、彼女を制する言葉を紡いだ。


「もし次にあなたがその言葉を使えば、今度こそ私はあなたの記憶の息の根を止めます」


「……!」


「それだけは、どうか御覚悟を。言葉は一度放てば二度とかえらない……その因果を捻じ曲げ、一度だけ与えた機です。どうかその自覚を」


 ひと息に言い切った彼の澄んだ瞳の奥に、どうしても消えない揺らぎを、レインは感じとった。彼女の言葉が、彼のなかにその揺らぎを生んでいる。


 けれどレインのなかから、答えは永久に失われている。もう自分の発した『ひどい言葉』がなんであったか、永遠にわかることはない。


 それでも井澄は覚えている。傷つき、自ら心の奥に棘を残したまま、痛みに耐えて血を流している。


 かくして、共有は拒まれた。彼は顔を背け場をあとにした。望む者のもとへ、参じるべく。


「――手帖に残る亘理井澄は、たしかにあなたを尊敬し、家族のように、愛していました」


 背を向けたままほかに別離の言葉はない。必要が無い。


 なぜなら追えば、語れば、次の一言が今度こそ致命のものとなるかもしれないのだ。喪失への新たな恐怖がレインの足を止めると、井澄はよく理解していたのだろう。


 実際にしばしの間すくんだままで、彼女の震えだけが水面を伝い波を動かしていた。


 歩きだしたのはだいぶあとで、行く先もわからずに水路をさまよった。


 そして偶然に。


 ……レインは、焔獄のうちに追い詰められた井澄と八千草を、目にしたのだった。



        #



 今日も銃を磨く。


 二か月前を最後に、ピイスメイカーの銃口は一度たりとも叫びをあげていない。


 ひょっとすると……これから先も。


 息吹きかけて曇らせた銃身をぬぐい、レインはガンベルトに納める。


 弾丸は一発たりとも入っていない。ベルトに連ねていたそれらは、あの日すべて撃ち尽くして、二度と補給することはなかった。


 この銃の最後の仕事が井澄を傷つけるためでなく――彼を守るためであった、、、、、、、、、、ことを、己に深く刻み込みたかった。安い自己満足であるとわかっていても、そこからしか彼女は進めない。


 過去を見過ぎた。いまも見ている。でも、彼女が知りたい過去記憶は、失われて二度とかえらない。そのことは理解している。納得は、まだできていないけれど。


「う」


 嗚咽が喉を潰した。


 レインはまだ、井澄を想っている。


 そこからなら進めると、己を信じながら。



        #


         #



 がたがたと馬車が石畳を駆ける音を耳にして、目を覚ました。夢の中特有の現実から乖離した万能感が過ぎ去るのを認めて、彼は二、三度目をしばたいた。


 傾斜のついた天井――屋根裏であることを示す景色が、ぼやけた視界に飛び込んでくる。眠っていたソファから体を起こし、毛布を払い落すと、頭を掻いて手櫛で髪を整えた。


 大量の手帖を納めた棚の横にある、書き物机の椅子にかかったジャケツをとり、サスペンダでズボンを吊るした上に羽織る。シャツの袖口に硬貨幣を仕込みながら部屋の出口へ向かい、ふっと、眼前にある小窓から外を見る。


 霧に包まれた街が、隙間縫う朝日の下に照らされていた。ところどころ伸びる高い煙突が、霧を灰色に染めんばかりの黒煙をあげ、街の雰囲気を薄暗く設えている。だが実用性に蹂躙された景観というのは、それはそれでひとつの極致として見栄えのするものだ。


 とにかくも、ここは外だという開放的な雰囲気を、彼は毎朝味わっている。目の前に広がるのは、煉瓦と石畳をはめ合わせて造られた街ではあるが、かつていたあの場とはまったく趣きがちがう。雑然とした中に、作り手よりも住む人の意志が強く感じられた。少々治安の悪い貧民街ではあるものの、だからこそ溢れる生の活気が、満ち満ちていた。


 ――英吉利は倫敦ロンドン云州東淵イィストエンド


 かつて憧れた女性と、かつて尊敬した男性。二人の尽力によって様々な情報屋・人脈を駆使し、とうとう彼はここへ、辿りついた。……国に居場所を失い、逃げ伸びたのだ。


 彼は胡乱な頭での回顧をやめると、ぎしぎしと音を立てながら梯子を降りた。


 すると眼下の廊下を歩む、黒い影と目が合う。


「おはよう」


「おはようございます」


 濡れた宝石を思わせる瞳が、尊く儚い煌めきと共に彼を見る。


 澄まし顔にくわえたパイプからは濃密な煙がふかりと浮かんで、彼女の周囲に幻想的な空気を生む。細く整ったおとがいが絶妙な輪郭線をより際立たせ、この世にあらざるような完璧で危うい均衡を保たせていた。


 彼女は、ぬばたまの髪を腰まで伸ばし、毛先だけをひとつにまとめて豊かに揺らす。広めにとったデコルテ部分が、纏う衣服と肌の境に色彩の区分けを生み、なんとも言えず朝から刺激が強かった。漆黒のドレスは多段のティアァドによってふっくらとした陰影シルエトを投げかけ、伸びた足先は、編みあげの長靴ブウツにちょこんとおさまる。


 今日も今日とて、彼女は麗しい。梯子を降りる中途でじっと固まった彼は、朝の陽ざしさえ耀き失せるような彼女の容貌へ、溜め息をつきながら見つめるのをやめない。と、次第に不気味に思ったか、彼女は片方の眉を上げながら彼へパイプの先を向けた。


「……なんだい。朝から呆けたような顔をして」


「いえ、あー、その。少し、忘れていたことがありまして」


「忘れていた?」


 言えば途端に彼女は眉をすっと下げて、しどろもどろになりパイプを落としそうになった。


 その動作に合わせてわずか、彼女が屈んだ隙を見逃さず、とんとんと素早く二段ほど梯子を上がった。なにをしているかわからないようで、彼女はいぶかしげに彼を見る。


「……なんだい?」


「大事なことを忘れていましたが、これで完遂いたしました」


「だから、なにが?」


「お気になさらず……そうです、この段でした……」


 真面目な面持ちをつくり、彼は彼女を見つめ続けた。


 こちこちと、廊下に置かれた柱時計が時を刻むこと数秒。


 やっと彼女ははっとして彼の思惑に気づいたらしく、大きく肌を出したデコルテ部分をぎゅうと押さえて顔を真っ赤にした。


 これを眼福と思ったのもつかの間、梯子の足を蹴り飛ばされたせいで落下し、着地失敗で激痛にしかめた顔を真っ赤にすることとなった。ただ、この赤色は、皮下に血潮がたぎるのみならず鼻腔からあふれ出た結果による。


 顔を左手で押さえ、掌が染まるのを見て、彼はうめいた。ハンケチで拭う。


「ぐう……血、血が、」


「なにが違うというんだい覗き場所を確保してまで不躾に人をねめ回しておいて」


「あの、すいませ、血が、」


「弁明の余地など与えはしないよ。まったくお前はいつもいつも――」


「いやだから血が、」


「――だいたい、忘れる、、、だとかそういう言葉は、安易に口に出さないでおくれよ」


 ぽつりと繋げた言葉は、気炎を乏しくしたにも関わらず、重く響いた。


 這いつくばった姿勢から彼は、腕組みしてこちら見下ろす彼女を見上げた。


 その顔は、意思を主張するための怒りを表してはいるが、それ以上に憂いを秘めて案じる心持ちが深くから滲みだしている。


 悪ふざけが、すぎたか。


「……申し訳ありません」


「わかればよろしい」


 うなずきを返した彼女は、パイプをくわえ直すと彼の横を過ぎようとした。とっさのことで、彼は血濡れていないほうの手で彼女の手を取り、引きとめる。


 すると彼女は縦に振ったばかりの首を横に振り、手をふりほどいた。彼は少し傷つきそうになったが、彼女がいやそうな顔をしていたわけではないので、なにか理由があるのだろうと思った。……自身の手汗でも気にしたのだろうか、べつに気になどしないのに。


 声音をわずか揺らして、彼女は言う。


「な、なにかな」


「いえ少しばかり、手をお借りしたいと思ったまでで」


「……そんなことを言って、また良からぬことを働くつもりなのであろうよ」


「ちがいます。信じて下さい」


 じっと見据えると、彼女の半目と見つめ合いになった。


 なんだか時が進みを怠けはじめたように感じて、数秒。ほどなくして彼女は折れた。最近気づいたことだが、まっすぐに見つめると存外彼女は弱い。


「まったく。はい」


「ありがとうございます」


 腰をかがめて差し出された右手をつかみ、彼は上体を起こそうとする。


 が、そのとき、床についていた左手へ重心をかたむけてしまった。ずきりと激しい痛みが走り、欠いた均衡を取り返そうと体をよじる。


 そのせいで、今度は右足に体重がかかる。ぞわりと皮膚をむしるような痛みが広がって、たまらず彼はひっくり返った。


「え、あ、わ!」


 当然、手を繋いだ彼女も転倒した。


 あわてて彼は彼女を抱きとめたが、そのために受け身がおろそかになった。どすんと、重くはないが軽くもない衝撃を胸板に食らい、咳に似た悲鳴が彼の喉を通りぬけた。これを聞きながら彼女はうらみがましい目で睨みつけてきて、その愛らしさに心臓が止まりそうになった。


「……お前やっぱりわざとだろう」


「滅相もない……手と、足の具合が、まだ戻ってないだけでして……」


 だからこそ引き起こしてもらおうと思ったのだが、状況がこうなっては最初から用意していた言い訳にしか聞こえない。真相を知る己でさえそう思うのだから、心の内を知る由もない彼女には、余計にしらじらしく聞こえたはずだ。


 ところが彼女はハアとつぶやいて――彼の首元を吐息がくすぐった――それだけ。もそもそと乗っけていた体をどけると、落としたパイプを拾い上げて彼のそばを離れた。文句を言われるよりも、ある意味でこわかった。


 彼女はそれから再度右手を、差し向けてきた。


「ん」


「はい?」


「だから、起き上がるのだろう」


「あ、はい」


 素直に手を出すと、彼女はそっと握ってくれた。白魚のような指先が、しっかりと彼の指の間にからめられた。動きにどきりとして、触れた手の先から、身の内が火照りかけた。


「……あだだだだだだ」


 すぐに火照りは痛みに変わった。ぎりぎりと筋の間に細い指が突きたてられている様子だった。


「ふん。ただでは起こさないよ」


「慣用句を、妙な活用で使いますね……」


 びりびりと指がしびれたが、今度はしっかりと引っ張られて、立ち上がることができた。けれど寝起きのためもあってまだ足取りおぼつかない。はあぁ、と今度は聞かせるのが目的らしい溜め息をついて、彼女は左脇を支えてくれた。


「ありがとう、ございます」


「気にしなくともよいよ。……まあぼくにできることで、したいと思えたことなら、多少はやってあげるさ。ただではないけれど」


 そっぽを向きながら、くわえたパイプより煙をあげる。小柄な彼女にはさぞ重かろうが、しゃんと背筋を伸ばして歩行の補助をしてくれた。


 連れだって狭い階段を降りると、一階を形作る一間に着く。六畳ほどの空間は大して物がないため、実際には狭いのだが広く映る。置いてあるのは入口に外套掛けひとつ、中央にロウテエブルを囲んで四脚の椅子、日向のキヤビネットに納められた少量の本、これだけ。


「ふう」


「つかれた」


 椅子に体を預けた彼の正面へ、彼女も腰を下ろす。右手はロウテエブルに載った赤いグラス――灰皿代わりにしている――を引き寄せて、同時に口にくわえたパイプから煙を喫み、空中へ輪を描いて噴き出していた。


 彼はそれを見てジャケツの懐を探る。出てきたのは紙巻煙草の箱で、中から一本を取りだして唇にのせると物言いたげに彼女を見た。彼女は横目でこれに気づくと、


「……ん、」


 右手がふさがり、左手は骨を折っているためか、ロウテエブルへ身を乗り出した。


 ――が、唖然とした彼が口から煙草を落とすまでの間で、自分の行動があまりに顔を近づけると気づいたのかあわててグラスを置き、右手にパイプを持ち直して火をくれた。


 至近での接触ならばつい先ほどあったのに、と思ったが、「――自分から近づくのはちがう!」とまるで心中をのぞいたように的確な言葉をつぶやいて、わたわたと煙をふかしながら目を泳がせていた。彼はひとしきりその様を観察して、めまぐるしく変わる身体言語をたのしんでから、落ち着いた頃合いを見計らって煙を吐きながら言った。


「と、いうか」


「なんだい」


「いえ、私が驚いたのは、そもそもパイプで火を渡そうとしたことについてです」


 そのようなものに頼る必要は、ないのだ。


 彼女はその双眸で睨み選んだものを、自在に燃焼させることが可能なのだから。……彼に近づく手間その他諸々の状況を加味すると、面倒臭がって力で火を灯すだろうと、そう思っていた。


 彼女はいま耳にした疑問をしばし己の内で噛み砕いていたのか、上を見、目を閉じ、少し時間をあけた。それから目を開け、彼にゆっくりと視線を戻してささやいた。濡れた宝石の双眸が、割れる寸前のような切ない耀きをもたらした。


「もう、使いはしないよ。お前を助けるためだとか、そういう『相当の覚悟と必要』に迫られなければ」


「……そうですか」


「ああ。こいつも自分で選んで決めた、ぼくの成したいことなのでね」


 グラスに目を落とし、パイプの灰を掻きだす。


「普通の生き方を、なるべく続けてゆきたいのさ」


 灰を出し終えると陶製のパイプ置きに据えて、彼女はカウンタで仕切られた炊事場へと消えた。


 先の言の通り、朝食の用意をはじめたいまも、火熾しのために力は遣っていない。もっとも、少し前までそれが彼女の『普通』でもあったのだし、さほどの苦労でもないのだろうが。


 なんにせよ、彼女が普通を求めるのであれば、彼が望むのもそれだ。


 そして彼女が仮に望んでいなくとも、彼が求めるものはそれだ。


「普通、普通――ですか」


 並はずれないこと。特別でないこと。


 普遍的な基準のなかに埋没し、他と引き比べられることも少ない、立場。


 それが普通。孤立はあっても断絶は少ない。同種同格が他にいくらも認められ、生物生活の中で大きな隔たりを感じないということ。


 ……ふとそんな思いをめぐらして、生物、という言葉が、彼のなかに沈みこんだ。彼の中に糸を垂れて、先端にとある一人を引っ掛け、意識の上澄みへ引きあげてきた。


 社会を動かす機構だと己を自認した者。


 あの男は、社会をこそ生物だと言い、だから自分はその一部品に過ぎないと判じていた。この論理を、彼は朝食が仕上がるまでの言葉遊びに用いた。……もし、社会を生物というのなら――それは一切、同種同格の存在をもたない生物となるだろう、と。


 広い意味で見れば、社会などこの世界にひとつしかないのだから。故にそれ、、は共感を覚えることなく、すべてに共有を拒まれる。共感と共有の断絶。圧倒的な大きさや力や技能持つものは、それを理解し納得できる者が少なくなるため、どうしても感覚が『普通』と断絶する。


 そんな存在。周囲を狂わすばかりの、異物。


 ひとはそういうものを――化け物と、こう呼ぶのだ。


「……あの男の場合は自分からそう呼ばれるために、そう呼ばれるに足る動きをしていたのでしょうけど」


 要するに奴は、自ら断絶を望んでいた。これでは、どうしようもない。


 けれど自らの責任と意志の下に成ったのではない断絶ならば、理解しようと思えば――『理解しよう』という想いやりは、少なくとも伝わるはずだ。


 それをこそ、彼は望んでいるのだ。己の、成し続けてゆきたいこととして。


「おまたせ」


 言葉遊びが論を結んでから少しして、彼女が朝食を運んできた。どこかで朝方買ってきたらしいパンに、あたためたミルクと焼いた卵が並んでいる。ひどく空腹であることに気づき、彼は頬をほころばせた。


 だが、きつね色に焼けたパンへ触れる直前、はたと手を止める。これでいいのか、転んでただで起きるのではだめではないか。人から受けたものはどんなものでも返す、その精神はどこへいった、と内心の彼が叫んでいた。


 伸ばしかけた右手を引っ込め、彼はできるだけ難しい顔をしてみせる。彼女はまたなにか始めたな、と冷めた目であった。


「その情けない顔はなにかな、冷めるよパンが」


「いえ、そのことは大変申し訳ないと思っているのですが……先ほどあなたに手を握りつぶされそうになった痛みが、まだ残っておりまして」


「はあ」


「左手は、ご存知の通りすっかりぼろぼろでして」


「へえ」


「よろしければ、食べるお手伝いなどしていただけないかと、ね」


 うつむき加減に彼女を見据える。ただでさえじっと見つめられると弱い彼女だ、さて怒りだすか恥じらうか、自分の明日はどっちだ。


 などと考えていると、彼女はくっ、と体を震わせて、くつくつと続けて笑みをこぼした。笑うとは、彼も思っても見なかった。花が咲くような笑みは見ていて心地の良いもので、解語の花という喩えがこれほど似合っているものも、他にないとは思ったが。


 彼女は、笑いながら彼へひとつ、言う。


また、、お前は……、少し隙をみせるとそういうことを言うのだから、たまったものではないよ」


 まだおかしそうな表情で、カップに注がれたミルクを飲む。予想外の反応と言葉に彼は戸惑い、次の反応に出るまでにだいぶ遅れた。ぼうっとしている彼の前で、彼女は緩んだ表情を、少しずつ元に戻していった。


 遅れに遅れて数秒の後。彼女がカップをロウテエブルへ置いた頃に、彼はぽつりと返した。


「……また、とは?」


「ん、何を聞いていたんだい。まったく、と言ったのだよ」


 怪訝な顔で彼を見て、彼女は仕方なさそうにパンを手に取った。


 そんな発音だったろうか、とついさっきの言葉を思い返してみるのだが、考えがまとまる前に口へパンを押し込まれたので思考はこんがらがった。唐突な行動は結果だけ見れば彼の望んだとおりのものであるが、過程があまりにおざなりである。


「ほら、わざわざ手ずから食べさせたげるよ」


 もごもがとくぐもった悲鳴をあげながら、首がのけぞってそれきり彼女の顔は見えない。少し楽しげに、いたずらっぽく笑いながら、彼女は首をかしげてみせる。



 だが彼は、


 どこか悲しみを湛えたような色を、その目に見た気がしていた。



        #



 共感は、ふとしたことで断ち切られる。


 この痛みには、永遠に慣れることがないのだろう。彼女はそう思う。


 彼は、彼女との間に持っていたはずの共感を、少しずつ遠くへ置いてくる。日々刻々と、刻んだ時間が削り落されていく。


 こんな地の果て、英吉利にまで居を移しても、異能の代償からは逃げられない。


 ――島を出たあと、彼から告げられた想いも。


 ――それへ答えた、彼女の想いも。


 いつか彼の中からは、永久に失われてしまう。


「……いいさ、それでも」


 朝食を終えて二階の自室へ戻った彼女は、後ろ手に閉めた扉に背をもたせかけてふうと息をつく。


 寝床にするベッドと趣味の本を壁際へ配し、逆の壁際へ書き物机とクロウゼット、身鏡とキヤビネットを並べた部屋。こつこつと、長靴で床を鳴らしながら、彼女はキヤビネットへ近づく。


 大きめにつくられたそれをきいと開ければ、中には、手帖が納められていた。


 取り出して、頁を繰る。いくつかの短い記録が連ねられたそこへ、懐中筆を用いて書きこみを成す。内容は――かつての肉鍋の一件を、彼が忘却してしまったことについて。


 それからひとつ、ひとつ、今日も確かめ噛みしめる。彼の失ってしまった記憶について。頁をめくり、不用意に口に出さないよう今後の己を戒める。きっとかつて彼も、同じように確認を積み重ねていたのだ。周囲との齟齬が生じないよう、丹念に入念に。


 そうして共感を得られぬ言葉は、記憶は、周囲から隔絶されて彼女のなかに仕舞いこまれる。


 彼女の知るいまの彼がいなくなったあとも、ひとりで記憶を抱いて生きていくのだ。


「……いいさ、かまわない」


 そうすれば彼女が傷つくことを、血を流し続けることを、彼はよくわかっている。わかっていて、願った。


 つまりは、これまで過ごしてきた『いつも通り』を織り上げていくということ。壮絶な苦痛を伴いながらでも、彼女にずっと傍にいてほしいこと。……彼は一種あまりに残酷で身勝手な、こんな願いを語った。自分が彼女を遺していくのを知りながら、あえてその先も願い出た。


 ひどい、言葉だ。


 けれど――なにより、


「……いいさ、うれしかったから」


 だれより、彼女を選んでくれた証左なのだ。


『傷つけると知った上で、それでも自分がどうにもならない。わけがわからなくなりそうで、自分の意志なのにどうにもならない』……彼の吐露したひとことだけで、彼女はひとりになる道を歩いていける。


 だって彼女も、そうなのだ。彼を想えば、自分を見失う。嫌われたらと考えれば、自分が砕けてしまいそうになる。傍にいられなくなったらと思うと、胸が張り裂けそうになる。


 これら複雑な気持ちを、伝えずにはおれなかった――彼と自分は、たしかにその一瞬、同じ想いを抱いて通じ合っていた。


 いつか失われるとしても。


「……いいよ、それで十分だ」


 手帖を抱きしめ、彼女はささやく。


 謳うように、述べあげる。


「好きだ、大好きだ……心から、想っている」


 想いは、彼から失われるだけ。


 彼の伝えた想いと彼女の抱いた想いは、彼女が忘れない限り消えることはない。


 だからべつに、すべてを焼くほどの過ぎた力は必要ない。


 彼女を真に殺せるのは――それこそ、彼が舌下に秘めた力だけなのだから。


 笑み浮かべ、手帖をしまった彼女は階下へ戻る。


 まだ彼は、そこにいてくれた。



        #



       #



「――ご存知なかったと思いますが」


「うん」


「私は……、その、あなたのことを」


「うん」


「憎からず、想っています」


「憎からず、かい」


「いえ、その。ああ、うう。……言わずとも伝わっては、おりませんか?」


「さあねぇ。どちらとも言えないけれど、だからこそ、きちんと言葉にして伝えてほしい」


「言葉に、して」


「うん。だって言葉にしてくれれば――ぼくが忘れない限り、お前以外のだれにも、その想いは否定できないし、殺せやしないのだからね」


「忘れない限り、ですか」


「忘れないよ」


「…………、」


「絶対にね。傷つくだろうけれど、死にたくなるくらい痛むだろうけど、忘れはしない。そして先に言ってしまうけれど、お前にぼくが望むのはただひとつだよ」


「それは、」


「なんだと思う」


「…………あなたのなかから、私の言葉を……絶対に消さないでほしい……ですか」


「ああ。その通りさ」


「………………、」


「さ、言いなさい。どんな願いでも、残酷な望みでも、ぼくはすべて、聞き届けてあげるよ」


「……すみません」


「なにに謝っているんだい」


「そこまで、お膳立てさせてしまったことについて」


「……ふん。わかってるなら早く言えというんだ、ばか」


「はい。伝えます」


 息をひとつ吸って、舌を動かす。


 動作としてことばに現せば、それはなんとも簡単この上ない。


 だがことばは、想いは、ひとたび世に放たれたあとは複雑で深遠なはたらきを見せる。


 想いは、ほかのあらゆる現象とちがい――『成され続ける』。かつてあったならばいまに続いている。途切れることはなくどこまでも届いていく。体が朽ちても記憶が果てても、残るものが、ある。


「私は、あなたのことを」


 そうして彼は、


 ただひとりの彼として、


 ことばを世に顕した。


 我がままに、身勝手に、彼女に吐露する。


 その――想いを。つづいてきた――想いを。


 彼女と、つづけるために。




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明治蒸気幻想パンク・ノスタルヂア 留龍隆 @tatsudatemakoto

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