96:慟哭という名の澎湃。

『話す』の語源は『放つ』であるという。


 交渉対話コミュニケイションという概念を得て社会的な生物となる、その遥か以前から人間たちの中に存在していただろう『放つ』概念。遠くへものを飛ばす、そういう概念――それは人間が身一つで持つ殺戮能力のなかで、頭脳の次に他の生物に優る点だ。


 ところでこの放つという行動には、手元から離すという過程が不可欠だ。己のたなごころより物体を離す、是すなわち投擲である。打擲ちょうちゃくと比べて相手との距離をあけられるため、反撃を受けにくく一方的に殺し易い攻撃法である。


 しかし一方的、という言葉が奇しくも示しているが、投擲は不可逆な性質を持つ。投げても手元へ返る得物というのもあるにはあるが、それは命中という結果を得ないことでしか成り立たない。己の手を離れたものは、基本的に己の手に余るのだ。そう、取り返しはつかない。一度放ってしまったものは、もう二度と戻ることはない。


 そして、『放つ』を語源とする『話す』も、同じ性質を持っている。覆水盆に返らず、口にした言葉は取り消せない、故に重い。


 ……だが言語魔術は、取り替えられず取り返せず取り消せないはずの『言葉』に対して、さまざまに働きかける。


 人々の交流の基礎である言語を、滅茶苦茶に掻き乱す。中でも殺言権は最悪に位置する術式だろう。なにせ、不可逆なはずの言葉の流れをせき止め、殺し、奈落の底へ消し去ってしまうのだ。


 温かき一言も。


 冷たい悪言も。


 優しき佳言も。


 苦しい失言も。


 皆まとめて十把一絡げ、区別も差別もなく消し去ってしまう。言霊殺しの非道な術式、この世の道理に反した力。代償を伴う狂った契約が可能とした、兇気の産物。何も知らず身につけた、舌に宿る破滅のちから――思えばずいぶん、この力に振りまわされた。いいやいまも、振りまわされ続けている。


 だが構わない。厭わない。


 それらを踏み越えてきたから現在の井澄の想いがある。苦しさも、優しさも、冷たさも、温かさも、すべて得てきたからこそのいまだった。


 井澄は、進むと決めたのだ。沢渡井澄として、過去も知った上で進むと決めた。


 だから――停滞するレインを、おわらせる。


「あなたは……、」


 つぶやいて、井澄はレインを見た。


 レインの紅き瞳が、井澄をとらえてひどく、うろたえていた。


「私を想う自分の気持ちを、絶対に譲らない」


 断じて、井澄は舌を納めた。


 震えるレインの銃口は、まだ降りることはない。


「それがあなたの、自己の存在証明だから。……そうだ、ひとは自分の信念がかかったとき、自分の想いを寸分たりとも疑わないとき、誰よりもなによりも強くなれる」


 謳うように述べて、井澄は一歩を踏み出す。


 レインの震えは大きくなり、とうとう突きだしていたナイフをとり落とし、左手をひっこめてこめかみにあてがう。苦悶の表情と青筋が浮かび、白い顔はいよいよ死人の印象が漂う。


 無理もないと思いながら、井澄は足を止めない。レインの表情に、辛さが混じった。


 痛みに耐えるように。苦しさを堪えるように。


 喪失に、、、怯える、、、ように。


「……さて、ならばひとを弱くするにはどうすべきか。簡単な問答でしたね」


 再び、舌をのぞかせる。


 レインが目を見開いて、憎悪に満ちた顔で刺飾金をねめつけた。だがもう遅い。殺言は、、、成された、、、、のだ。


 おそろしくて、あまりに非道だと感じて、けっして遣わないでおこうと封じてきた殺言権の禁じ手。これまでは遣えるほどの条件が整った相手とほとんど戦わなかったため、自然と封じられてきたが……つい先ほど、湊波に向かって井澄はこの制限を解いたばかりだった。


 なりふり構ってなど、いられない。息をひとつ吐いて、気力で背筋を伸ばし、レインへ向かう。


「あなたの信念を。私の前に立ちふさがる動機、、を――私を想う、、、、その気持ちをすべて、、、、、、、、、消し去ればいい、、、、、、、!!」


 レインも、限界の様子だった。ぐしゃりと顔を歪め、なりふり構わず涙をこぼした。


 整った輪郭を崩しそうなほどに唇を曲げて頬を震わし、喪失の恐怖に、、、、、、泣いていた。


「なん、てこと、を」


 恐怖にうわずる言葉が、井澄をさいなむ。それでも、手を緩めるつもりはなかった。


「今のは、威嚇です。新聞社での会話、、、、、、、に限定しました」


「なんてこと、してくれた……お前……わたしの、記憶を、、、、、、、!」


 かろうじて絞り出した弱弱しい弾劾は、貯水槽の高い天井へ跳ねて反響した。井澄は唇をかみしめて自分の成したことによる結果を受け入れ、血の味滲む口腔で、短剣型の刺飾金を転がした。


 殺言――言葉を、殺すこと。


 想いとは、感情と感想の積み重ねが生む総体だ。その人と築いてきた関係性が、強く果てない想いを形作る。……その関係性というのはなにかと言えば、さまざまな交流で積み上げられてきた感情による、相手への信頼である。


 では『交流』の過程の大半を成しているものは、なにか? 答えは、言葉による交わりだ。


 ならば、『呪文』という過程を消されれば『魔術』という結果が発動しないように――言葉を消されれば、想いも消える。


「なぜだ井澄せいと、そもそも、どうやってこんな量の言葉を」


「殺せる言葉の量の制限がある、などと言った覚えはありませんね」


 たしかに殺言権は、日に三度しか使えない欠陥のある能力だ。


 しかし……一度に消せる言葉の量、、、、、、、、、、について、特別な制限はない。


 井澄は自分が認識した言葉のすべてを消すことができる。三度という制限は『ここからここまでを消す』と区切りをつける回数についてであり、やろうと思えば一度の殺言でだれかとの会話の記憶すべてをこの世から抹消することも可能だ。


 だから最期の瞬間、八千は井澄にこぼしたのだ。あまりにも辛すぎる、亘理井澄との思い出が消えた事実を前にして。これを悲しいと思うことがなくなるように、彼の言葉を全て殺して、、、、、、、、、、いてほしかった、、、、、、、、と口にしたのだ。……沢渡井澄には思い出せないが、亘理井澄は彼女へ、自身の異能が持つこの最悪の性質について語っていたのだろう。


 だから井澄は、レインを殺せると言ったのだ。物理的には、不可能でも。


 井澄を想うレイン、、、、、、、、という存在は――殺すことが、できる。亘理井澄の遺した膨大な量の手帖が、失われた記憶のなかにあったレインとのやりとりもある程度把握させているから。それらすべてを消してしまえば、もはやレインはいまのように井澄を強く想うことがなくなる。


 井澄の前に立ちふさがる動機が、消える。他者の想いを踏みにじる、なんと惨く酷く狡い手段だろうか。


 さらに間を詰めて歩み寄り、井澄はレインまで残すところ一間となった。


「……それと井澄せいとじゃない、私は沢渡井澄です。でも呼びたければそう呼び続ければいいでしょう、どうせ次で最後なんだ。最後の殺言で、その名も、あなたの中からし去る」


「やめろ……やめろ!!」


 近づく幽鬼のような井澄に、レインは銃把を握りしめて錯乱した。わかっているからだろう。殺言権は詠唱も要さず射程も制限が無いという点が、もっともおそろしいのだと。


 瞬間的に、言葉を刈り取る。彼女の苦悶の表情も、指を弾くいとまに消せる。


「私を想うから、そうも苦しむ。私の存在があなたのなかで限りなく薄く軽くなってしまえば、そうも苦しむことはない」


「だめだ、駄目だ、だめだ! 苦しみも辛さも含めてわたしだ。お前に嫌われても憎まれてもそれでわたしだ、すべて受け止めて生きていけるんだ! そのためだけに生きてきたんだ……けど、だけど……」


 銃口が、降りる。


 レインの心が、折れていく。


「だけど……お前への想いが、すべて消されたら。それは、わたしなのか……?」


 左手で頭を押さえたまま、レインは少しずつ膝を屈して、浅い水底へ沈んでいく。


 へたりこんだレインの前に立ち、井澄は顎をひいて彼女を見る。なだらかな肩を震わし、小さくなって怯えている。丸まった背中に、十字の傷が痛ましい。


 こんなにちいさな背中だったろうか、と思った。もう記憶のなかの姿はほとんどが代償として取りたてられてしまっているが、わずか残る彼女の後ろ姿は、いつも大きくて見上げるべき対象だった。見上げて遠い、頂だった。


 あこがれでは、あったのだろうと思う。だから、井澄は言った。


「そのとき自分が思う自分、なりたい自分が――自分自身です」


 少なくとも井澄はそれを選んだ。


 沢渡井澄でありたいと思い、八千草と共にありたいと望んだのだ。


「本当にあなたと私は、よく似ている。いや、私があなたと育ち、あなたに似たのでしょうね……でもひとつだけ、明確にちがう。私はいずれ代償によってこの想いを記憶と共に失うでしょうが、それをさほど恐れていない」


「……なぜ」


 ピイスメイカーを水に浸しながら、レインは憔悴しきった顔をしていた。


 きっと井澄もいつか、こんな顔をしていたのだろう。世界を憎んだ絶望の面相が、そこにあった。暗く、淀んだ、闇を煮詰めた目の色だ。見えている範囲が、光を取りこむ範囲が狭いから、このように闇色の目になるのだろう。


 この目をしていた頃、井澄は自分の中でのみ、自分の向きあう事物の答えが見つかると思っていた。だがちがった。答えはいつだって、だれかとのやりとりの間に見つかった。


 レインがこのやりとりで自分の答えを見いだせればと願いつつ、言葉を継いだ。


「たとえこの想いが朽ちたとしても、いまの私と同じとはいえない、私になったとしても」


 遠くない明日に絶望が、立ちこめてくるとしても。


「それでも、残るものは残ると知っているからです」


 亘理井澄は、沢渡井澄よりレインに近い性質の人物だった。この世すべてを自分と八千のみで推し量り、ゆえに彼女が失われたときは世界を憎んだ。ほかに世界を知らなかったからとはいえ、狭い自分の周囲の事物を広範に適用させようとして。それが答えだと、本気で思っていた。


 そも、彼の最大の後悔である殺言権の代償については、せめて八千に打ち明けることができていればこれほどの悲劇にならなかったのに。彼女をあそこまで傷つけ、自死に至らしめることはなかったのに……。ひとことで言えば、彼は愚かだった。


 でも、それでも、残るものは――あった。愚行の先にも、光はあった。


 沢渡井澄が、彼の想いと行動の欠片を、八千に伝えられた。最善どころか次善ですらなかったろうが、このひとつ残った最後の欠片が、彼女をすんでのところで救った。たしかにあのとき、八千は絶望のみ抱いて沈まずに済んだのだ。


 それを知るからこそ、井澄は信じられる。自分も絶望のみ抱いて沈むことはない、と。


「いずれ私は空っぽになり、私でなくなるでしょう。でもきっとそのときも、八千草が傍にいてくれる。この島で得た関係性が、そのときの私を満たしてくれる」


 実際にそうなるかどうかは、わからない。あの往涯とちがって、井澄には先のことなどなにひとつ解りはしないのだ。


 だがわからないままに信じられること、それそのものが尊いのだと感じている。


「これが私にとっての、すべて受け止めて生きるという在り方です。いまを信じるから、先を信じられるだけの」


 言い放って、井澄はじっとレインを見る。


 なにを考えているかはわからない。予想はできるが、する必要はないだろう。


 もう彼女の目に、紅さはない。


「……そう、か。――わかった」


 言って、レインは唇を結んだ。残酷な、あまりに酷薄な手段を告げられ、他にどうしようもなく。色を失くした目を閉じ、おもむろに顔を伏せて、両手で覆った。


 彼女の前で、井澄は舌を出す。去来する思いがいくつもあった。けれどすべて踏み越えていくと、井澄はここに来るまでに決めていた。だからその顔に涙は無い。これ以上亘理井澄から、なにも奪わないと決めていた。


 刺飾金に封じた力が、意識によって引き金をしぼる。


 最後の殺言が、言霊の喉笛を引き裂いた。



        #



 最後の符札が、またたきの間に後方へ失せる。鼠の横合いを過ぎる加速の一瞬、靖周は小雪路の首にかじりつきながら進行方向を見据えた。


 まだ、いる。さすがに数はかなり減ってきたものの、道幅を塞ぐ奴らの牙に一度でも噛まれればそれでおしまい。貯水槽までは残りわずかだが、おそらく辿り着くまでに力は途切れる。そこからは体力勝負で逃げ切らねばならない。


「あとは走ってくしかねーか。だが俺は術が打ち止め、こっから役に立てるか微妙だな」


「なに言っとん。道に詳しいのん兄ちゃんしかおらんよ?」


「それはそうだがよ」


 上下左右、あらゆる方向から挑みかかる群れを、手にした帯を振り薙ぎ払いながら進んでいく。道はいよいよ真っ直ぐになり、鼠の待ち伏せも執拗になってきた。それほどまでに靖周の言動が気に食わなかったのかと思ったが、失言を取り返せるのは井澄くらいなものだ。考えても詮無いことに時間を割く余裕はない。


 すると速度を失い始めた疾走のなか、小雪路は意識こそ視界の鼠たちに向けたままで、靖周に話しかけてくる。


「井澄ん、八千草んに追いつけたんかな」


「どうだかわかんねぇが、たぶん貯水槽の先には進んでるだろ。俺たちもあそこから分かれ道に入るが、あいつらには合流しないことを祈るぜ」


「え、協力しにいかんの?」


「そりゃお前」


 飛来する礫のごとき鼠を、片手に握った鎌で切り落とす。


 群れ成す鼠は、まだまだ進路にやむことなく湧き出続けている。数の暴力、まったくもって恐ろしい話だ。


「……この群れ引き連れてっちゃ、邪魔にしかならねぇだろ」


「あーそっか」


 荒れた風に吹かれて、会話は打ち切られた。


 あとは井澄がうまくやることを祈るほかない。裏を返せば、これだけの群れをこちらに集中させたのだ。彼が八千草を取り戻す際には、幾分か戦いが楽になるだろう。となれば、靖周たちはこの群れを引きつけて離脱、逃走をはかるのがよいと思われた。


「よし小雪路、緩やかな勾配に入ったら降ろせ。俺も走る」


「りょーかい」


 言っているうちに坂へ辿り着き、靖周は小雪路の背を跳び降りた。慣性にしたがってしばし空を舞い、先行く小雪路の後ろへ着地。かかっと下駄が打ち鳴らされ、ふたたび抜いた短刀で二刀の構えをなした。先導すべく前に出て、低く身を屈めて走り出す。退路は、頭に叩き込まれた図面が正確に指し示していた。


「うし、行くか」


 あとは鼠の追撃をかわしつつ、地上を目指すのみ――そんな風にわずかばかり単純な思考の道筋をつかった、とても間とは言えないほどの隙に、


 それは起こった。


 どう、と空気を打ち抜いてきたのは、溢れだした大量の汚水だった。緩やかな坂の両側、どこかの水路からの放水が、道の果てにぽかりと見える貯水槽への道を塞ぐ。傾斜のある道に入った瞬間の、道へ慣れぬ足をすくいあげていく。


「……は?」


 退路にばかり意識を割いていたので、経路として通るこの道の詳細を想起するに時間を食う。足はとられ、空転する。上体が倒れてひっくり返った靖周は、ここにきて自身で口にした言葉をやっと思い出す。


『細すぎて人体が通れない道は使えない。低い位置にある、道全体が常に水で満たされてるとこも使えない』。だがこのどちらも、湊波単体にとってはなんら問題なく利用できる道なのだ。どんな細い道でも鼠にとっては通るに易く、そして水で満ちた道の水門を解放することで、靖周たちの足を止めにきたのだ。


 符札はもうない。体勢の崩れは、己の体術以外で立て直せない。とっさのことで両足を振りまわし、重心を移動させて波を乗り切ろうとする。だがそれしきでかわせるような水量ではなかった。また、波に乗った鼠も、靖周を齧らんと殺到する――


「兄ちゃん!!」


 伸びてきた帯が振りまわした靖周の足を絡め取り、力強く引き寄せた。ぐんと視界が流れゆき、小雪路のほうへ後退する。さらに絶妙な力加減で彼女は靖周の体勢も立て直してくれたが、しかし、そのために水に襲われるまでの猶予を使いきってしまった。


 彼女が逃げる間を、失った。波に乗る鼠を帯で薙ぎ払うのが、精いっぱいで。


 互いに腕をつかみ、はぐれぬよう体をひとつにして、押し流された。上下左右が入り乱れる。呼吸が途絶えて肺腑が喘ぐ。体中至るところを、何かが打ちのめしてゆく。水圧に加速させられた物体による衝突の痛みは、かたくなに閉じた靖周の口を割るには十分だった。気泡が漏れ出し、頭のなかが白くなる。懸命に耐えて、長い数瞬を過ごした。


 次第に高さと勢いを失くし、波はほどける。


 巨大な生物から吐き出されるように転がった靖周と小雪路は、水の呪縛から解放された口を大きく開いて、めいめい酸素を取り込んだ。おぼろげだった視界が鮮明になり、思ったほど距離を戻されたわけではないと気づく。一町ほど先に、先ほどの坂の入口が見えていた。


 けれど、遠かった。あまりに、遠い。


「ああ、くそ……」


 ここまで進んでくる間、やり過ごしてきた鼠たちが、二人の周りを取り囲んでいた。


 床から壁面から天井まで、びっしりと苔のように覆い尽くす鼠が、黄色い目玉を向けて靖周たちを食い殺さんとしている。もうずいぶん倒したように思えたのに、まだこれほどの数を保持している。――八万四千、数としては膨大に過ぎた。


「絶体絶命、ってか」


 湊波は答えない。風吹く草の海のように、ざわりと群れを波打たせただけ。その間も靖周は周囲を確認し、なんとか逃げ道はないかと探すが、徒労に終わる。死角も隙間もなく配置された鼠の陣は、死を除いた可能性をすべてかじりつくしていた。


 靖周は片膝ついたままで後ずさりして、まだ咳き込んでいた小雪路と、背中あわせになる。触れあった部分が、熱い。動いている彼女を感じて、生を感じる。空っぽの手に、彼女の手を、強く握りこんだ。ぎゅっと、握り返してくるちからがあった。靖周は振り向く。


 横たえた体を丸めている小雪路は、幼い日、まだ物心もついていなかった日の彼女を彷彿させた。


「ああ――クソッ」


 なにひとつ考えもなく、靖周は小雪路に覆いかぶさった。自分より背丈もある妹を相手に、これで守り切れるわけではない。こんなことをしてもどうにもならない。わかっていても、そうせざるを得なかった。


 きっと、先ほどの小雪路もそうだった。


 そして空気が掻き乱される。湊波の群れが、全方位から一斉に押し寄せた。



        #



 瀬川の全方位を取り囲む水の龍は、あぎとを開ききって首を伸ばす。


「――ふん」


 鼻を鳴らしての斬舞が過ぎ抜け、龍は喉元を食い破られる。一太刀三殺。首を落とされた龍は骸も晒さず水へ還り、再びあらたな頭を生やして瀬川を襲う。その瞬きの間を制する判断は、予測によって加速を見せた。


 予測といっても、先を読めない瀬川の思考を読んだのではない。徐々に減る足場の都合上、行くしかない場を作り上げることで成し得る予測だった。踊り狂う水流の檻は瀬川に安寧の場を与えず、激流の攻めは途切れることなく続く。海からくみあげた水が流れに乗って注がれる。


「絶やすなよ、注ぎ続けるのだ……」


 大気を塗りつぶして、水の龍は迫る――勇叉魚神に身を食わせて操るうち、九十九は意識と無意識の狭間で攻動と行動を成すようになっていた。ただ攻めるため攻める、ただ殺すため動く。認識意識行動の手順は大幅に短縮・簡略化され、脳髄の処理速度も上昇の一途を辿っていた。


 しかしそれでなお、瀬川には追いつけない。奴の剣はますます冴え、いまや周囲に見えざる半球状の結界があるとさえ思えた。刃圏の中は、時の流れが異なる領域。何人たりとも侵すべからず、踏み込めば即ち首を差し出すことを意味する。彼の間合いには、斬撃が在り続ける、、、、、


「――ふ、ふ」


 笑ったような息の通り方を耳にして、おやだれだろう、と九十九は思った。


 少しして、自分の呼吸だったと気づいた。やれやれ、笑っている場合なのか、と背をもたせかけていた壁際から、首を起こす。


 低い視界で、暴れ回る瀬川を見据える。さしもの彼も長時間に及ぶ戦闘で、わずかばかりの疲労が見え始めていた。一太刀ずつ、配慮のようなものが蓄積していくのがうかがえる。というのも、長きにわたる戦いで彼は消耗しつづけていた。


 体力だけでなく、手にした長脇差を。龍との接触の都度すり減らし、針のように細められていた。……そも、本来なら鉄でも瞬時に溶かす術式を、凄まじい剣速と血の膜で回避していただけなのだ。休む暇なき連撃の檻に閉ざされたいま、彼は得物を失いつつある。


 また、振りかざす龍の顎は戦艦の甲板を食い散らかし、足場をも削りゆく。穴だらけになった地形は行動範囲を制限し、瀬川が『対して応じる』ように仕向け、先手を打たせない。つまりは、彼をわずかでも守勢に追い込んでいるのだ。


 また、笑った音が喉奥にこみ上げる。身の内に湧き上がる衝動を、堪え切れなかった。


 ああそうか。得心いって、九十九は首を元の位置まで下げる。相変わらず低い視界のなか、自分の周囲を囲む水の膜の彼方、剣と踊る瀬川を見やる。あの剣征を、攻動の魔神を、自分が守りに追い立てている。そのことが愉快だった。


「追いつけ、引き裂け……」


 つぶやきに、力はない。


 ふ、と笑うたび、腹から力が抜けていく。丹田から生気が漏れ出しているような感覚。


 否、そんなに小難しいものではない。下げざるを得なかった、、、、、、、、、、視界のなかで、膝から流れる、、、、、、血液の道筋をぼんやりと目で辿り、九十九は龍を使役し続ける。甲板は、もはやまともな足場の方が少なかった。


 そのまともな足場に――九十九の龍が、ぶつけられる。九十九自身が、得られた好機に驚いた。先へ。先へ。まだ先へと寸毫の時を争い続け、いよいよ読み合いに打ち勝ち、とうとう九十九は瀬川を完全に守勢へ押しこんだ。


 先の先を、制したのだ。着地する点を失い、瀬川の生き場がなくなった。九十九は自分が、寂寞たる思いを抱きつつ、裂くような笑みを浮かべているのを自覚した。次いで意識が、龍に乗って瀬川を狙う。己が手足として使役する龍が、吸い込まれるように瀬川の空間を目指す。十重二十重に囲む龍の顎は、正に牙を剥いて、彼の血肉を貪らんとする。


 瀬川の長脇差が振るわれる。最初の一匹は切り落とされる――次の一匹が触れそうになる。身を翻して断ち切られる――次がかすめる。縦に捌かれて三枚になる――次が引っ掛ける。振り向きざまに首が落ちる――次が、次が、次が、次へ、次を。


 重なり合った龍の渦で、瀬川の刀が、遂に折れる。


 右の二の腕が、ばくりと肉を千切られる。


「はははははは、はッ!」


 哄笑をあげる九十九。笑わずにおれようか。遂に至ったのだ、瀬川の血肉へ。ずっと彼方だと思っていた存在が、とうとう手の届くところに降りてきた。己の手がもぎとった肉が溶かし呑まれるのを見て、可笑しくて仕方なくなった。


 ところが瀬川は削げた肉の在った位置から噴き出す血しぶきを見向きもせず、さらに右膝裏も食われながら、表情を変えずにつぶやいた。


「愉しいか」


「ああまったくだ!」


 返したところで、右の手足から肉を失った瀬川が落ちた。龍に弾かれたために錐もみしていて、砂袋を落としたような乾いた音を立てた。九十九との距離は五間ほどだが、その五間は食いつくされた甲板の作りだす峡谷に隔てられている。もう、瀬川は動けまい。


 名残惜しく思いながら、九十九は最後の龍群を向ける。出し惜しみせず、すべての力を攻勢に向けた。


 だがそこで、瀬川は飛んだ。


「……同意だ」


 右膝を叩きつけて上体を起こし、左足のみで甲板を蹴りつけた。痛みがないのか、動きには迷いがなかった。


 肉一切れで繋がるだけの右腕は、ぶらりとするのが邪魔なのか親指を咥えて位置を固めている。這うように地を嘗める挙動が、隙間とさえ言えない空隙を道と定めて縫い止めた。無理な突撃で左肩と右顔面をわずか削ぎ飛ばされながら、瀬川の体が間合いを刻む。


 そしてほどけたサラシの端に、折れた刀の切っ先を食いこませながら、投擲した。


 どんと突きたった刃が、空中に活路を生みだす。白い布地が、道なき道を繋げる。


 自らを断崖の向こうへ手繰り寄せ、瀬川は九十九の見開いた目の前に現れた。これは、予測できていない。しかしまだ、水の膜がある。いくら攻勢に出て水量を龍に注いだとて、臆病さを消さなかった九十九の防御は未だ残っている。


 残っている。


 この後に及んで、まだ、守りの配分が。


まったく、、、、、」


 言って、瀬川は、帯に差した匕首を左手で抜いた。同時に、奴の右腕が二の腕を繋ぐわずかな肉片を断ち切られ、浮かぶ。


 九十九が見えた瀬川の動きは、ここまで。


 次に見たのは、己の胸に生えた、ほんのちっぽけな鉄片だった。


「……、」


まったく、、、、、愉しくもなかった」


 瀬川は、左手で掌底を繰り出した姿勢をとっていた。


 奴は右腕を斬り飛ばし――空に浮かぶ間に断面に匕首を突き込み、鞘のようにして。それを掌底で押し出すことで、水の膜を抜けるまで刃を守らせたのだ。


 せめてあと、一寸。膜の防護を厚くしていれば、こうはならなかったろう。つまりは、守勢を、あと少し固めていれば。もしくはすべて攻めに回していれば――いや、なんだ、そうか――瀬川の顔を見て、九十九は己の思い違いに気づく。


 右の顔面は龍に食われ、眼窩からとろけた球を転がし。剥き出しの歯の根をのぞかせながら、瀬川は耳まで裂けた口で、つまらなそうに、、、、、、、していた。目の前にある結果が、当然のことと知って、、、いたのだ。


 思い通り攻勢に出て相手を封殺していると思っていたが、なんということはない。瀬川は……この結果を得るためにこそ、九十九が攻めきるように仕向けていたのだ。防護膜を薄めるため。自らの身と隙を餌に、誘いこんでいた。


 心の臓がやぶれ、脊髄を穿たれている。九十九は声も出せず、がくん、がくん、と首を前後させた。顎がおさまるべき位置を見失い、舌の筋がからまって絶息させる。龍を。龍を、動かさねば。


 思っても頼っても、すでに水は四散していた。術を失い降り注ぐ海水の雨にまかれながら、瀬川は腰をおろし、膝の上に腕を載せた姿勢で九十九の絶命を待っていた。


「言い残したことは、あるか」


「…………、……」


 なにも、言えない。一言たりとも、出てこない。


 九十九は頭上を見上げた。龍が砕けた海水の雨は真っ直ぐ、矢のように落ちてきている。風は凪いでいて、唇に感ずる空気は乾いている。


 船が止まっている、と思った。視線を、下げる。かすんだ景色に遠く見ゆる他の戦艦も、止まっているように思えた。


 自分の関わった時代の流れが、止まりゆくのを感じた。軋みをあげる機関の停滞。歯車に過ぎなかった自分の停止がそこに連動するのは、ごく自然なこととも思えた。


「…………」


 九十九は死を受け入れた。



        #



 八千草は、目を見開いた。爆ぜるような火花を見た。


 それは日輪の発動かと思ったが、すぐにちがうと悟る。にぶい後頭部の痛みが、単なる衝突の余波によるものだと悟らせた。右手を頭にやると、硬い壁に突き当たった。


「……痛……」


 ぼやきながら、身を起こす。そのとき誤って、自ら折った指をついて起き上がろうとしてしまい、跳びはねた。だがおかげで、寝ぼけることなく完全な覚醒を果たした。


 火花が去ったあとに目の前に広がっていたのは、薄暗い空間だった。ところどころに灯はともっているが、頼りなく揺れていかにもあやしい。その情景と、鼻腔を突くすえた臭いに、八千草はここが下水流れる道だと知る。


「なにが、起きてる」


 意識が落ちる寸前に自分がいたのは、煉獄の火中だったはずだ。それがこんなところに移動している理由がわからず、現状の把握に努める。周囲を見回し、狭い道幅から状況を読み取ろうとした。


 そして、見つける。


「っ、湊波!」


 跳び退って、距離を取る。団子状に寄せ集まってこんもりとした茂みのようになっている鼠の群れが、八千草のすぐそばにいた。また襲われると思い、すぐさま焦点を合わせて日輪の力を意識した。弾けて立ち上る紅蓮の焔が鼠を包んで、轟音と共に焼き尽くす。


 なぜか、すんなりと、鼠は死んだ。特に抗うこともなく、暴れることもなく。ぎいぎいと苦悶の声はあげていたが、あれほどしつこく狙っていたのが嘘のように、身を縮めて滅ぼされた。急に殊勝な態度になったわけがわからず、八千草は疑問ばかり心中に浮かべて、壁に背をもたせかける。


「……一体……」


 と、ひと息つく暇もなく。ばしゃばしゃと道の向こうから、走りくる音を聞いた。振り返ると、先の黒ずくめの男が一人、手に掲げた焔を灯に八千草を見つけたところだった。


 投じられる蒼の焔が膨れて、道を埋め尽くそうとする。慌てて日輪の力を発し、火勢を拮抗させる。


「ぐ……見つけたぞ! こちらゐ組、第六十五区画から六十六区画への経路で日輪を発見! 至急他班を――、」


 伝令を押し潰すべく、八千草は拮抗させる間に距離を取りつつ練ったもうひとつの爆焔で、向こうの足下を埋める汚水を熱した。


 急激にあたためられた水が蒸気をあげて爆風を生む。唐突に増した圧力に耐えきれなかったか、蒼の焔は押し返されて吹き飛んだ。もちろん距離をとっていたとはいえ、八千草も無事ではない。きいんとひどい耳鳴りに襲われながら、熱い空気を吸わないように伏せる。


 まだ、自分の苦境は終わっていない……。少なくともそれはわかった。いまの爆音で位置も知られただろう。よろよろと起き上がった八千草は、壁に手をつきながら逃走を開始した。


 どこへ続くかもわからない道の果てへ、爪先を向けて歩いていく。



        #



 生きたまま鼠に臓腑を食い荒らされ、地獄鍋の様相を呈する自分を想像しながら、靖周は目を閉じ小雪路を抱きしめつづけた。


 うめく小雪路の呼吸をきいて、これが最後にきく音かと思いながら、迫る死の痛みに耐えようとした。


 ……そうこうしているうちに、自分の呼吸を数えだしている自分に気づき、うっすらと目を開ける。痛みは、ない。状態に変化は、なにひとつなかった。


「にい、ちゃん」


「小雪路」


「いたい」


「あ、ああ、悪ぃ……」


 力がこもりっぱなしになっていた腕を、なんとか外す。やっと呼吸が整ったらしい小雪路も、髪から水をしたたらせつつ起き上がる。


 死んだわけではなさそうだった。浄土が汚水にまみれているとは、聞いたこともない。


 二人は手を取り合ったまま、静かに辺りを見る。


 広がっていたのは――痙攣し、陸にあげられた魚のようにのたうち回る、鼠の姿だった。群れのすべてが長い歯を軋ませて腹を天地へ揺さぶり、苦しげに身悶えしている。


「……え……?」


「――ちょうど、ぎりぎり。だった、みたいね」


 二人して呆気にとられているところに、か細い声が聞こえた。靖周は声の位置、自分たちが押し流されてきた方角に目をやる。


 杖先が、こちらを向いて煙をあげていた。


 壁に肩をつけながら、黒煙を身にまとう山井翔が、黒き瞳と闇の眼窩で鼠の群れを睨んでいた。


「や、山井……あんた、どうしてここに」


「どうしても、なにも。……病人のため、身を尽くすって、アタシは決めてんの」


「いや身を尽くすって、あんた歩けるような状態ですらねぇだろ!」


「歩けた。その結果が、すべてよ」


 この言葉だけははっきりと言った。そしてずるずると、肩をつけたまま山井は体を滑り落としていく。からんと杖が転がり、彼女の膝と共に水底へ落ちた。気力を振り絞ってなんとか構成していたのだろう術式が弱まり、黒煙が薄れる。


 靖周と小雪路は駆けよろうとしたが、けれど、鼠の群れが邪魔になって近づけそうになかった。すると山井は、両手と膝をついた姿勢のままで、うつむき加減になりながらぜいぜいと息を切らして言った。


「安心、なさい……もうそいつにゃ、何の力もない、わ」


「なに?」


 靖周は足下に目を向け、七転八倒する鼠たちを見る。そこで、鼠たちの一部が立ち上がり、また人の形をとった。いや、とろうとしてはいるのだが、うまく形成されないのか崩れては立て直しを繰り返している。顔なく色なく表情なき湊波の、それは苦しみと痛みを表現していると思えた。


「……やま、い……お前は……」


 湊波はいつもの平坦な語調を刺々しく変じており、声にぎいぎいと鼠の鳴き喚きが混じる。痙攣は、わずかずつではあるが弱まっており、それは静まっていく水面を思わせた。山井は深い息をひとつ吐いて、無理につくった笑顔で湊波を睨みつけた。


 やっとそこで、靖周は気づいた。山井の顔が、黒煙がほとんど薄れ消えても、黒さに覆われていることに。黒い痣、、、に、全体を包まれつつあることに。


「『人を呪わば穴二つ』――って、ね」


「なに、山井さん、どういうことなん……」


 困惑している小雪路が問えば、山井はまた一呼吸を置いて、ごほごほと咳き込んだ。距離があるため見えづらいが、たしかに彼女は血を吐いていた。


 喀血。黒い痣。それは、つまり。


「……思えば、最初から、、、、、だったのね。湊波。あんたは……緑風にアタシを、迎え入れたときから。ずうっと、そうだった、のね」


「山井……山井、っぐ、く、お前、」


 がたがたと人の形を崩しながら、湊波は片手を伸ばす。反撃のための動作とも見えた。けれど靖周はそれよりも、死に際の人間が手を伸ばす様だと、強く感じて仕方なかった。


 弱り切った声で、目だけは強く、山井は湊波へ言う。


「医者だから……葉閥に引き入れて、有用だと思ったのも、あるんでしょうけど。……それ以上にあんたはアタシを、飼殺しにする必要が、あった」


「う、っぐ、ぅうう……」


敵対、、しないために……いまみたいな状況を、作らないために」


 ぞぐぞぐと黒い痣が増えて、山井の喉元からせり上がる。黒死病の症状だ。湊波が持つ呪いの力が、山井を浸食している。


 だが、同時に。


「アタシに――呪詛返し、、、、を、されないために……!」


 山井の呪詛返しが、湊波を浸食していた。のたうち回る鼠たちが、端から少しずつ、息絶えていく。驚きの現象に、靖周は疑問を呈した。


「自分で扱う菌で、死ぬのか? それに呪詛返しつっても、この群れ全部に当てたわけじゃねぇだろ?」


「保菌者が、ぜったいに罹患しない、わけじゃない……だいたい、鼠は菌を媒介するだけで、黒死病にかかれば普通に死ぬしね……そして、群れ全部に当てなくても、通じるとは思ってた。……だって、そんくらい呪詛返しにびびってなきゃ。こいつがアタシに黒死病をかけず、、、、、、、物理攻撃に徹した理由、、、、、、、、、、が、わからない」


 あ、とそこで靖周は思い当たる。


 たしかに、湊波はやたらと山井を殺すことにこだわっていた。あの門扉の前でもそうだったが、その後邸内に攻めてきた際にも山井を差し出せば他を助けるようなことを言い、妙に山井への執着を見せていた。


 あれは、山井の術式への恐怖の裏返しだったのか。


「……八万四千匹で、湊波戸浪。一匹一匹は独立してて、だから本質を見失いそうだけど……たくさんの手、足、目、頭があるだけと、そう考えれば。に一部でも侵されれば、全体へ広が……、っごぼ、ごほっ! げ、ぅう……」


 だくだくと血を吐き、山井は言葉尻を消してしまう。もはや立ち止まっていられず、靖周と小雪路は鼠を踏みつけながら急いで駆けよる。


「山井、おい!」


「山井さん!」


 汚水に浸りそうになっていた体を靖周が支える。ひどく冷たく、強張っている。


 閉じかけていた右目をゆっくりと開きながら、山井は浅い呼吸の合間につぶやいた。


「…………あー……。まあ、さっきも言った通り、『人を呪わば穴二つ』なのよ……」


 閉じた左の眼窩からも、血がこぼれ出す。


 ……呪い合いのもたらす、螺旋に絡みつつ堕ちる結末が、すぐそこまで来ていた。互いの術式が互いを食らい合う。その性質が互いに〝呪い〟であることが、問題だった。


 呪い合うということは互いに互いの思念の道筋を繋げてしまい、術の影響を受けやすくなる。


 要するに、防御を捨てて殴り合っている状態なのだ。どちらかの命が、穴の底で尽きるまで。


「でもだいじょうぶ……あいつを殺すまで、アタシは、死なない」


 見る間に、鼠は数を減らしていく。ぼとぼとと、天井や壁面を覆っていた鼠が落ちていく。人を模る湊波も、もだえ震えて散っていく。あの闇を煮詰めた眼窩が、大きく広がって靖周を捉えた、気がした。


 けれど山井もすでに危険域だ。もともと、鼠に全身を齧られてひどい裂傷を負っている。流した血の量で言えばいつ死んでもおかしくないはずだ。これを耐えているのは、やはり、気力と呼ぶほかないのだろう。運や天賦などとは言いたくない。


 綱渡りの削り合い、どちらが落ちるか見届けるまでの時間が、過ぎてゆく。靖周たちは見守る以外に、できることがなかった。


「……お前たちが、危険を冒してまで、山井を助けたから……か」


 現状を俯瞰するような物言いで、湊波が声音を揺らす。死した鼠が水の流れにのせられ、道の果てへと動き始める。山井はそれでも油断なく、湊波が滅されるまでを目に焼き付けんとしていた。


 とうとう、湊波の右腕が、ぼとりと落ちる。手を鏡にするがごとく、落ちるまでの過程を見ていた湊波は、崩れだした形を保ち切れずに上半身が分かたれた。


「……ああ、おわりか……」


 右肩から頭部だけを残して、鼠が水面に沈んでいく。


 砂でつくった像が波に消されるように、ばらばらと根元から砕けていく。彼の生に、幕が引かれようとしていた。落ちゆく頭部をなんとか、もたげながら、湊波は最期の言葉を継ぐ。


「……三船靖周。三船小雪路。そうまでして……個を生かすに執心し……命を賭して……どこへいく」


「……どこにも。俺は少なくとも、いまの今、ここで生きてる現実を生きる。見えてもいねぇ先なんかに、頼ったりすがったりしたくない」


「いつか、それを……まちがいだと、気づいたら。たとえば……救った相手が親の仇、、、だと気づいたら、どうする」


 含みのある言葉をささやいて、湊波はうつむいた。思わせぶりなことを言って撹乱しようとしているだけにも映った。


 だからといって答えない理由は、特になかった。答えなら、得ている。靖周は――湊波たちのように先を案じていまを蔑ろにするつもりなど、毛頭ない。そういう時間は、これまでの十数年でいやというほど繰り返してきたのだ。


 進めばいい。まずは進んで、それからだ。


 だから。


「そんとき考えりゃ、いいだろ」


 言葉の最後まで聞こえていたのか、そうでなかったのか。湊波は沈黙のうちに体を失い、流れに砕けた身を沈めた。


 ほぼ同時に山井も目を閉じ、靖周の腕の中で首が、倒れた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る