95:切り札という名の最後の手。
闇に浮かぶレインの瞳が、紅く耀きを濁らせる。彼女の威圧が、何より明確に攻撃の意思を告げていた。
殺すつもりではないだろう。だがここで止められたら、八千草の元へ行けないようにされたら。沢渡井澄にとっては、死ぬのとさしたる変わりはない。だから思考を切り替えて、状況への対処にあたる。
倒す必要はない。おそらくは井澄のほうが、水路についてよく理解している。うまく逃れて、脇道に入ることができればいい。まあ……そのためには戦闘を避けえない間合いに、すでに入ってしまっているのだが。
彼女の目が玉翠の色を薄めた現象に不可解さを抱く余裕もなく、井澄は戦闘に向けて自身の肉体を調整していった。激情によって体の起動は早めながらも、そこから先は冷徹なる理性によって律し、精密に稼働させる。粗雑な動きで死に体を晒すなど、あのレイン・エンフィールドの前で許されるはずもないのだ。
ひと息、肺腑深くから吐き出した息で、腕を自然と振り下ろす。体の前で両手を交差させる一挙動で両手の指の間に計六枚の硬貨幣を握り、まっすぐ見据えた。三間先、闇を抱いて立ちつくすレインの息使いを捉える。
さて支度をする段階は、とうに終わりを告げている。いまここに居るのは、互いに互いを大事に思いながらも、それ以上に我執へ囚われた二人の個人だ。
己の中の優先順位は、とうの昔に定まっている。
互い相容れることはなく、互い同じ道を往くことはない。
断絶を、表明するための戦い。
「……っぁあああああ!」
がなりたて、井澄は両腕を左右へ解き放つ。親指で溜めた力が振り抜かれ、指先から六連の羅漢銭を飛ばした。
三間、それはどちらの得物にとっても必殺に帰す間合いである。短銃にとっても、暗器にとっても最も威力際立つ距離――だがそんな定石じみた考えのなかでレインを倒せるなどとは、井澄は欠片も思っていない。
擲つと同時に後ろへ倒れ込むよう上体を崩し、レインからの攻撃をかわしにいく。先手をとったことで応じざるを得ない状況に追い込んでの回避だ。先を読んでの行動策として、悪手ではなかった。
はずなのに。
飛来する硬貨幣には目もくれず、どころかまばたきもせぬまま、レインの紅眼が井澄をとらえ続ける。その間に、
それがすんでのところで拍子を合わせて彼に対処の好機を与える。とっさに両手の指弾で、正確に相手の射線へ打ち込んだ。
硬貨幣は、二発ともがくの字に曲がって井澄の顔の脇を過ぎぬけていった。ほぼ同時に、井澄の放った羅漢銭の内半数がかわされ、残りが跳ね返されている。一枚の例外もなく、硬貨幣は折れ曲がっている。
真正面、彼女の視界内での事物は、たとえ奇襲や機先を制した攻動であっても、すべて見透かされている。驚異的な反応速度は、井澄の攻撃を認識してすぐに身体強化の部位を運動神経の起動速度のみにしぼっているからに相違ない。
「――っ」
馬鹿な、とは言わない。まさか、など出るはずもない。井澄はレインの常識外れた強さをよく知っている。
やっと耳に届いた五発分の銃声が、連なり重なってひとつの音としか聞こえずとも、当然のこととして動いた。身を転がし、伸ばした左腕を引く――幸いにも、彼女はこの場へ現れた瞬間に湊波へ向けて牽制の一発を撃っている。ピイスメイカーは六連装のため、これで弾切れだ。歯を食いしばって、左手から伸びた遠間の黒糸矛爪で柱へ自分を引きつけていく。
井澄でも二抱えほどある柱の影に隠れ、レインの死角へ入る。ぜぇと短く息ついた。この短い攻防でも消耗させられるほどの威圧感が、いまのレインには付随している。長く戦うなど、もちろんできるはずもない……。
臨むべきは短期決戦からの遁走であり、そのためには手数で優るほか手立てはない。井澄は柱の影に潜んだまま、両の横合いに向けて袖を振った。空中に、硬貨幣がいくつも舞う。
「届けッ――!」
そして両手からの羅漢銭を、少し角度をつけ真正面の壁に打ち出す。続けざま袖からこぼれた硬貨幣を、指弾と羅漢銭で連射した。壁に跳ね返された硬貨幣は、射出時につけた角度によってわずかに井澄から逸れ、先ほど横合いに投げだした硬貨幣の群れに飛び込んでいく。
赤火船舶の中で名執という男に向かって放ったのと同じ、乱打術である。死角からの、無差別で無軌道な射出でならばわずかにでも動きを止められると判じた。
軽い金物の擦れる音と共に反射する硬貨幣で、威力こそ低いものの機銃掃射のごとく弾がばら撒かれる。ここで井澄は襟巻をほどくと、右のカフス釦の先へ括りつけた。
硬貨幣の掃射で稼いだわずかな反撃封じの間に、これを頭上へ投げる。釣りのごとく、井澄は糸を引いて、わずかに柱の影から襟巻をのぞかせた。引き戻す暇もなく、銃声が襟巻を撃ち抜く。レインの気がこちらから頭上へ逸れた。
この隙に反対方向から飛び出した井澄は、左の遠間の糸を回収する。無駄のない動きで、次の柱まで突っ切った。
横目でうかがうと、レインは硬貨幣の掃射から逃れるべく上に跳んでいた。緩く山なりの軌道を描く滞空時間の長さは、強化された身体能力の成せる業である。左手には二挺目の短銃を握っており、それが先ほど襟巻を撃ち抜いたのだと推察された。
弾丸はまだ残っているらしく、すかさずレインの銃口がこちらを向く。井澄は冷静に動作の出だしを見極め、取りだした硬貨幣で指弾を叩き込んだ。互いの弾がはじき合い、跳ね返って辺りに散る。またも軌道を読まれたことに、レインが怪訝な顔をした。
が、当然の話である。先の湊波戦でもそうだったが、向こうはこちらを殺せないのだ。ならば狙ってくる部位は即死する頭部・出血量を増やし絶命させかねない胴体、動脈などが外れる。手足しか狙ってこないならば、指弾の予備動作で腕を狙いから外し、残る足への軌道をつぶせば事足りる。
そして、落ちるまでの間に、レインの動きがわずか固まる。装弾数が尽きたのだ。こうなってしまえば、弾数に余裕のある井澄のほうが有利だった。
視界のすべてを見透かしていても、身動きとれねば避けられまい。
「落ちろ!」
レインが行動選択肢を狭められた時間を、余すところなく遣い尽くす。さらに構えた指弾の連撃で、足を止めての射撃に専念した。爪の先で弾かれる硬貨幣が、よく通る高い音と共にレインへの射線を埋めていく。たとえ銃床で叩き落とそうにも、防ぎきれない範囲へ攻撃を放った。
これを察してか、彼女の対応は素早い。
「〝Eisen wird ausgedehnt.〟」
弾を撃ち尽くした短銃の形状が、ぎゅるりと流動して一筋の線と化す。
銃把から銃口への流れはものの一瞬で停滞し、彼女の手の中には鉄で出来た長大な鞭があらわれていた。鋭い先端がしなり、手近な柱へ突き立てられる。わずかな一点を支えに、レインは体を引き寄せて射線から逃れた。身動きとれないはずだった空中で、無理やりに体の軸を移動させていく。
驚愕する井澄の前で、彼女は柱の側面へ足裏をつけた。そのまま上体を起こし、倒し、真下へ向けて走り出す。重力任せより速い挙動で着地してすぐ、井澄へと迫りくる。恐怖に駆られ指弾を放つが、左右へ揺れる足運びに射線をずらされ当たらない。
獣のごとき突撃の中かろうじて、腰の後ろを探っていた彼女の手が、下手投げで鋭くナイフを投擲してくるのが見えた。真っ直ぐに――
「なっ、」
――井澄の、心臓を狙っている!
来るはずがないと思っていた攻撃に、精神の動揺が生まれてしまった。身構えて両腕を交差させ、迫る刃に備えてしまう。
「――〝Eisen wird ausgedehnt.〟!」
それこそが、向こうの狙いだったのだ。ナイフがレインの高速詠唱に従い、形状を変化させる。地と水平に回転する刃から柄から、形を伸ばして鋭さを失った。
細い縄のような形状となって、交叉させた両の前腕に巻きつく。ぎょっとする間もなく、再び硬質化して、確りと腕を固定させてしまった。反撃どころか、もはや防御もままならない!
きつい姿勢によって狭まった視界を、レインが突っ込んでくる。判断の猶予はない。井澄はまだ自由の利く両手首を、鋭い返しと共に振るった。糸が手首より伸ばされるが、軌道は緩慢で、レインの接近に応じるにはあまりに鈍間だ。
……緩んだ時間感覚の狭間を漂いながら、井澄は、この致命的な局面への覚悟を固めた。
この局面の先があることを、切に祈りながら。
「寝ていろ――」
振りかざされるレインの右拳が、弧を描いてこめかみを狙う。身をすくめ肩を縮め、井澄はかわそうとした。
そして衝撃に動きを止める。呼吸できないことで自身の停止を悟り、次に感じたのは、覚悟していてなお耐えがたい嘔吐感だった。
「ごっ、ぁ、おっ」
見せつけて囮にした右に意識を集めてからの……、左の拳が、腹部から鳩尾まで抉るように突きあげていた。胃袋の表面が熱い拳でなぞられたような錯覚があり、吐き出された呼気にも酸っぱさが付随する。白く染まる視界を、呆けたようにながめてしまう。
それでも意識を失わずに済んだ理由は、八割方彼女の手心によるものだろう。
だが残りの二割は、井澄が自身へ加えた『
覚悟した致命的局面の、その先が。
「っお、……」
視覚の完全回復より先に、息を吐きつつ身をよじって両腕を振り下ろす。接近し、間合い深くに潜り込まれたいまだからこその攻め手を、数瞬前に選択していた。
つまり糸を出したのは、あの瞬間の迎撃のためでなく。
誘いこんでの、反撃のため。
「……おおっ――ぁあああッ!」
レインが井澄の攻め気に勘づくが、もう遅い。
井澄の両の糸は、放たれたときから彼の背へ回り一周してきている。
己の身を以て生み出した死角から、自身の体を滑車がわりにして、レインの両側から挟撃を仕掛けている!
「なん、てことをっ、」
喘ぐレインだがもう遅い。ぎりぎりまで耐え忍び繰り出した挟撃は、たとえ彼女の驚異的な反応速度を以てしても越えられない時間の壁を生みだした。認識し、意識し、行動が現実に反映されるまでの隙を、貪り尽くして糸は迫る。
当然井澄の背中にも深く切り傷を刻むこととなっていたが、かくして背と腹を同時に支払った奇襲はレインの動きを止める。とっさに振り上げた彼女の両の前腕を迂回し、レインの背中を抱きしめた。鮮血が、舞う。
「うぅっ!」
「まだだッ――」
つづけざま、井澄は止まらない。交叉したまま固定された一点を軸に、前腕を鋏のごとく動かして、両手を重ね合わせた。そして一呼吸のうちに右手で左手を、握りつぶす。さらなる痛みに吐息が乱れるが、ほかに方法がないなら覚悟するまで。親指を根元からひしゃげさせたことで、井澄は捕える輪の鉄塊から腕を引き抜いた。
歯噛みするレインは、もう目の前。膝から脱力し、井澄は倒れ込む。背中の糸が緩み、虚空へ浮かぶ。いまやレインを囲む輪と化している糸は、井澄が両腕を左右へ開く動きによって互いちがいに径を狭める。
「――断ち切れ――!」
ひゅぱっ、と空気を引き裂く音がして、二重の輪が斬撃を残した。すでに糸の触れている彼女の両前腕を、食いちぎらんばかりの勢いであった。
いかな反応速度、運動神経強化であっても、それは状況を認識するという初動を要する。そして術式起動への意識という過程を経て、ようやく辿り着くのが行動という結果だ。超至近距離で放たれた円環の斬撃は、認識という初動の間にレインへ辿り着く。
そんな――
確信を得るなどという余分な
同時に見えたのは、紅く暗く耀き、ぎゅるりと有り得ない速度で動いた彼女の眼球だ。
次に認識できたのは、右手の水面へ斜めがけに落ちた自分の前で、はらはら落ちた二条の糸だった。
ほかになにも、見えなかった。
結果だけが、残っていた。
レインは背中を切り裂かれた以外に傷を負わず――右逆手につかんだナイフを正面へかざすような体勢で、その場に立ち尽くしていた。不可避としか言いようのないあの円環の斬撃を、くぐり抜けてそこに居た。
身体強化を右腕一本に絞りこみ凝縮したのか、不可視の速度で刃を振り終えている。だが、だがしかし、そんなことは適うはずがない。認識する一瞬の猶予さえ与えず、井澄の糸は彼女の体を切り裂こうとしたはずなのだ。見えているはずが……見えて……
見える、とは。嫌な推測が、脳裏をよぎる。
それでも水面へ身を横たえた井澄は、全身をよじり転がして間合いから離脱した。転がる過程で左の長間の糸を飛ばし、柱へと自分を引き寄せていく。汚水が、背に沁みて痛んだ。
――捨て身の覚悟で得たのは、わずかながら浴びせた背への斬撃と、恐ろしい推測ひとつきり。背の痛む部分を触れさせないよう注意しながら、井澄は柱に体重を預けて立ち上がる。じくじくと壁面伝う血液にあたたかさを覚える。血、と考えて、濃い紅の色を思い返す。
紅。レインの、目の色。
「あなた……まさか」
間合いの空いた今は確認することもできないが、井澄は目を凝らして彼女の瞳をのぞきこもうとした。
わからない。確証は、得られない。ただ先ほど目撃した不可解な速度の眼の動きと、不可解なまでの高速反応に胸騒ぎが抑えられない。
認識、意識、行動。この三手順により生じるはずのどうしようもない時間の壁を、どう乗り越えたのか。ひとつ手にしてしまった推測は、井澄に恐怖を生みそれが他の思考の道筋を閉ざす。これしか考えられないと、結論付ける。
すなわち、彼女が井澄の知るあのころよりなお、強くなっていると。
「眼球にまで……
「……ああ」
指摘がなんでもないことであるかのように、レインはうなずきを返して目を逸らす。
ぼうと紅さを宿した瞳。翡翠の色合いを薄めているのは、虹彩を囲む輪郭として浮かび上がる真っ赤な線によるものだったのだ。その線は単なる着色ではなく、刺青として施したもの。どれほどの痛みを踏み越えてか、身体強化術式を起動する文言を、細かく細かく彫り込んだもの。
だから、認識が追いつくのだ。眼球の動きがついてくるのだ。
なんということはない、これも彼女の身体強化の一環だったのだ。行動までの三手順にかかる時間の壁を、限りなく薄くするための支払い。これをして彼女は視界内の物事への認識速度を強化している。
常人なら認識の追いつかない速度で繰り広げられる状況も、彼女にとっては緩やかに映りゆく長い時間なのだろう。そうして状況を眼で認識し、対策を運動神経に意識し、他者を置き去りにする速度で行動結果を引き寄せている。
〝剣征〟瀬川進之亟の至っている最速とはまた異なる最速。己が速さを以て周囲を停滞せしめる、執念の培った異能だった。辛そうに息を整え、レインは紅の双眸で井澄を見る。目の色が、徐々に揺れる。
「〝
だから死角からの攻撃だけは、わずかに通じた。けれど愛用していた糸を切断された現状、もうあのような攻撃は望めないだろう。
届かない。遠すぎて、果てない時の隔たりが、彼我の間合いに満ち満ちていた。気づくのがあと少し早ければと、井澄は悔やんだ。濡れそぼる前髪の隙間からレインを見れば、彼女はナイフを左手に持ち替え腰のガンベルトより弾丸を取り出し始めた。目はうつろで、どこともつかない場へ視線を向けている。
ひどく、胡乱な目付きに見えた。井澄には奇怪に映った。
「……もういいだろう。わたしへ届かないことはわかったはずだ」
彼女は空いた手にピイスメイカーをとった。素早く装填を済ませ、ロウディングゲェトを閉じる。次いでナイフを左片手で正眼にとり、右の短銃は腰につけて構える、遠近両方に対応した姿勢を見せた。どこをとってもゆるぎなく、付け入る場所のない構えだった。
けれどその目は、鈍く耀きを失っていく。紅さは絶えず瞳の周りを行き来しているが、戦闘開始当初にあったような猛々しい光はうかがえない。
「降参しろ」
声音も語調も、まるではりがなかった。
ともすれば、腕を下ろしてこちらへの戦意が削げてしまうのではないかと、そんな錯覚を抱きそうになるほどに。力が抜けていく瞳は、動作のために一体化していたはずの精神と肉体が、少しずつ乖離していく過程を表していた。
井澄は呆気にとられ――すぐに、その原因に気づいて。
気づいてしまったがため、喉奥から振り絞るような声で唸った。
「……なにを、傷ついたような顔をして」
顔をゆがめて、井澄の指摘に体勢が縮こまり目が泳ぐ。
でも視線だけは、ある一か所から外れたままで絶対にそこを見ようとしない。弱弱しい目はますます揺れて、戦鬼の如き戦いぶりを見せつけていたつい先刻までの彼女が、嘘のようだった。
その様にますます苛立ちを覚え、井澄は裏返りそうな声音を震わせた。
「どこまで……どこまで勝手な態度をとるんですか。ちゃんと見ろ。しっかり見ろよ。あなたが、あなたが立ちはだかるから、
骨を砕いてひしゃげた左手を掲げながら、井澄は一歩踏み出す。レインは退くことこそなかったが、たじろぐようなびくつきが手足の先端にあらわれた。
「平穏な結末など望めないこと、理解してたはずでしょう」
「そんな……こと」
「わかってるなら、よく見ろ」
「そんな、ことは!」
「見ろ! これが、あなたが私につけた、傷なんだ!」
怒鳴り散らせば、やっと視界の中央に井澄の左手を置く。
それでも目をそらそうという気持ちが相当強いらしく、しきりにえずくような肩のいからせ方をしていた。結果に対して目を向けることがまるでできていない。逃げ出してしまいそうなほど、臆している。
井澄を追い詰めると決めておいて。土壇場になって、怖気づいているのだ。あんまりな態度のレインに対し、井澄は怒りを抱くと同時に、強い失望を覚える。
「こんなものじゃ、ないんです……八千草を失ったときの私の傷は、こんな痛み程度では済まされない。わからないんですか」
「……理解はできていないが、己が身に置き換えて想像はできる」
「ならばどいて下さい。どいて、道をあけてください」
拒絶と懇願をないまぜにした語調で言えば、レインは思い詰めた顔でかぶりを振った。
わかっていた、言葉を尽くす段階は終わっていると。
それで止まれないからぶつかり合っているのだし、いま井澄が放った言葉は、そっくりそのままこちらへ返ってきてもおかしくないものだった。
けれどレインは言葉の応酬を、自らの言葉で切り出してきた。目に宿る力が、ほんのわずか強まっている。そこに井澄は、レインがどれほど臆しても、退くことだけはないだろうと再認識した。
「……嫌われても、憎まれても。わたしはお前の命を失わせたくない。そのためならどんな手を使っても、どう思われてもいい――だから、その思いゆえ道をあけることは、できん」
わかっていた、言葉を尽くすほどに終わっていくと。
互いに胸の内から出てくる言葉は、ほとんど同じなのだ。向ける対象と周囲の環境がそれぞれで違い過ぎているだけで。痛いほどその語の意図が理解できてしまうから、言うほどにわだかまりが生まれる。
「そんなのは……、屍のように生きろというのと同じだ」
井澄がぽつりと答えれば、泣きそうな顔で、レインは黙っていた。沈黙で、肯定していた。ぞっとするような狂気が立ちこめて、井澄を包みこんでいく。
理解しあえないことだけを、理解していく。悲しみのかたちだけが同一であると確かめて、互いに通りすぎていくしかない。なぜなら二人とも
……さあ。
戦っても、勝てない。逃げることすら、できない。選択肢は刻一刻と潰されていき、とうとう、井澄はこのような状況に追い込まれている。
万策尽きてゆく。最後の一手が、頭をちらつきはじめた。
井澄を屍とするつもりなら。想いと想いが、すべての原因ならば――
「それなら私は……あなたを、殺さなくてはならない……」
どうしても遣いたくなかった
だからこれは言うなれば、井澄が自身の罪悪感を薄めるための儀式だった。
八千が、許そうとはしなかった儀式だ。亘理井澄とこの世に別離を告げるあの別れ際、彼女は一度だけ
レインは、井澄の考えなど知らず、言う。
「殺せはしない。井澄、お前はわたしより、弱い」
いまにも震えて泣き出しそうなくせに、その一点に関してのみレインは絶対に揺るがず、退かない。
恐怖と痛みに耐えているからこそ至れる精神の深く沈んだ領域で、自己の肉体を制御している。恐怖と痛みが生むほどよい緊張が、油断も慢心も許さない。だから外から見ただけではとても戦うに適した精神状態ではないのに、その実彼女の躍動はすべてが完璧と呼んでいいものだった。
そうだ。たしかに殺せはしない。実力的にも、心情的にも。井澄はレインを殺せない。
けれど、人を殺す手段は、たったひとつきりではない。現に八千は、おおよそ通常の人間ではとれないような方法で、自身の自我を殺したと言えるだろう。……あの日の会話が、よみがえる。彼女の言葉がよみがえる。
「いいえ。弱くとも、殺せる……私なら、殺せる。もちろん、物理的には無理でしょう。でも私は……
目を閉じ、開いて。井澄は見る。レインを見る。
己の知る最期の姿になるかもしれない彼女を、じっと見た。山中で離れた日、村上に刺された直後よりなお蒼白で弱弱しい、でも折れることだけはない顔を、見つめる。背後から吹き抜ける風になびく金色の髪が、いつまでもまぶたの裏にこびりついて消えそうにない。
そっと舌を、突き出した。最後の最期、八千が井澄に頼もうとした、たったひとつの忌むべき手段。
使わず済めばと思っていた手を、ここで使用すると決めた。
「いまここで――私のすべての言葉を、殺していく」
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