94:反駁という名の本心。
「お前に拾われた頃の俺に――似てるな」
湊波は、ただ黙ってゆらっと体をうごめかせた。
断ずる靖周は両手から力を抜いたまま、戦意を失ったかのように立ちつくす。けれど心の内に宿る火は、生を諦めていない。だからこそ、言葉に力を付与させることかなう。
だれよりも真摯に、生きようとしていた。
「お前は人に従うだけで、意志がねぇ」
逆らうことも抗うこともできずに。いや、本当はそのどちらもできたはずなのに、自らで自らの可能性を狭めてことに当たる。
靖周も、かつてはそうだった。追い詰められて視野狭窄に陥り、本当ならほかにもあったはずの選択肢を手放して、湊波の誘いにのった。刃を手に取り、符札を携え、幾多の人間を手にかけた。そこにはどうにでもなれという、自棄になった心持ちがあった。
本当はもっと考え抜いて、選ぶべきだったのだ。島から逃げる手もあったはずだ。身を売る中から身を立てる手を講じてもよかった。
でも、安易なほうに流れた。殺すほうが簡単そうに思えた。なにより、自分を傷つける世界に倦んでいたので、内に籠る暴力的な衝動に身をまかせたかった。誘われた側だと思えば、責任も湊波に押し付けることができる。
だから、選ぶことなく流されたから、自分で自分に納得できないで生きてきた。澱のように溜まる『自己を欺いた罪悪感』が次第に心を圧迫し、軋みをあげて彼を苛んだ。
小雪路に真実を言えぬまま過ごしてきた。
すべては「これでいい」「どうにでもなれ」という精神の招いた自業自得。
「そんな、機能だなんだって自分を殺してるようなこと言って――、お前は本当に、納得できてんのか」
「……機能が文句を言うかい?」
「言わねえよ。でもお前は、いまでこそ鼠のナリしてやがるが、元は意志ある人間だろ」
ああ。
そうだ。この既視感。
湊波が模った人型。その空虚なだけの眼窩に、見えた気がした闇を煮詰めた目。
それは先日まで井澄が抱いていた目の色であり――かつての靖周もまた、あの目をしていたのだ。己と己の大切なものに傷つくことを強いる、この世界そのものへの憎しみが、目の色として現れていた。
こいつも、きっとそうなのだ。
「八万四千、石身鉄牙の鼠の群れ……この呪法は、頼豪阿闍梨が怨死のため生み出されたと聞く。これを身に宿せたってこたぁ、お前自身も似たような経験があったんじゃねぇのか」
だれかを、世界を呪って。
「たまたまその行き先を定めてくれたのが、往涯って野郎だっただけで」
それは靖周にとっての湊波のように。
「お前――意志がない振る舞いをして、だれかに従って。自分がまちがえてないって保証してもらわないと、耐えられなかったんじゃないのか?」
靖周の言葉が、広い道幅に反響していった。
降り注ぐ水音ばかりが耳の注意を引く。
途絶えている。
鼠の……、ざわめきが。
「…………はハはハハ」
湊波の声音が、ひび割れる。
とっさの判断で、靖周は符札を袖から水面へ飛ばした。小雪路の手をつかみ、膝を屈伸させて斜め後方の空中へ向かう。
噴き上げる風の力で群れを薙ぎ払い、離脱に成功した。群れは渦を巻いて跳びかかろうとしたところであり、まさに間一髪、狂いの許されない拍子での行動だったといえる。
「っぶねぇな――図星つかれて逆上してんなよ、どこが機能だ人間くせェな!」
距離を稼ぎながら靖周は短刀を口にくわえ、空いた右手でさらに符札を取りだす。下を見ると、すでに群れの一部が靖周たちの予測着地点へ迫っているところだった。
「くっそ、どうすっかね」
「あれくらいの数なら、うちがやれる」
「あん?」
「こないだ思いついた技、遣うんよ」
靖周の横でうつむいていた小雪路は、彼のつかんでいた手を離すとわずかに先んじて落ちていく。どうするつもりだ、と見ているうちに、空中で帯を振りかざして両手の間に渡した。
吸った水を滴らせている帯は、ひとたび振るえばその重さによってまっすぐ伸びる。上体を屈めるように着地した彼女が深く掻い込んで構えるそれは、一丈数尺はあろうという長さと相まって、まるで血濡れた赤き槍のようだった。
「〝
中ほどを持って正面に向け、連結した双つの輪を描くように両手を振るう。両端が回転して周囲に残像を起こし、その中途で、風切る音に鋭さを増した。手首の返しをきかせた急激な加速で、槍のように伸び、鞭の如くしなる。
「――〝
振り薙いだ一撃、もう片端での一撃。弾け飛ぶ音が、重く水面を圧する。
布という
だけではなく。
背後に控える群れの動きが、わずかに鈍った。にっと笑う小雪路の振る帯は、先ほどまでの重さ感じる軌道が嘘のように、軽く乾いた挙動でまた足下の水に浸されている。
そうか。帯の吸った水の摩擦を弱めて帯からはじき出し、そのあとでまた強化しているのだろう。粘性を増した水あめのような液体に絡め取られ、群れは止まっているのだ。動きが止まれば、もう一撃。確実に数を擦り減らされ、また動きを止められる。
「小癪な」
湊波はならばと群れを分け、多方向から攻めてくる。周囲を一掃する小雪路の薙ぎ払いであっても、撒ける粘性液体の量は限られているところに気づいた。あわや、上下左右の四方から呑みこまれる寸前。
目の前に向け、靖周は逆三角を描くように鎌を三度振るった。そこに、符札を投げつける。――風切鎌の発動。断層によって道筋を分かたれた空傘の風圧は、三等分されて小雪路の周囲を吹き抜けた。
「にいちゃん、さすが!」
「ぼさっとすんな、いまのうちに逃げにゃ」
あくまで吹き飛ばすだけである靖周の風では、奴らを押し返すことはできても倒すことはできない。かといって、どれだけの数がいるか知れない奴らを相手に、小雪路の体術だけに頼るのは危険すぎる。
道を探すこと、一秒。海への出入り口は見えているが、そちらには鼠が多すぎる。いまは逃げの一手で以て元の道へ走るしかないと判断した。きびすを返したところへ、鼠が迫る。
「……逃がすとでも、思うかい」
湊波の声が追いすがる。知ったことかと靖周は空傘を用い、空中を飛んだ。
だがかちん、と歯を鳴らす音が聞こえたあと、これを合図にしていたのか上から影が落ちるのを見つける。
天井を駆けていた鼠たちが、幕を下ろすように進路を塞いできた。
「う、おおおおお!?」
慌てて前方への風で制動をかけ、鼠に接触しないよう下へ降りる。もちろん、下にも群れは迫っていた。
仕方なしに、符札を打ち付けて風で吹き飛ばす。水底までさらって見えた石造りの床へ、二人は背を合わせて降り立った。そこへ、幕のようだった鼠たちが殺到する。群れで群れを蹴り飛ばすように、こちらへ跳躍してきた。
「ぐぅっ」
ふたたび符札を飛ばす。その風にのせて、小雪路の帯が伸びる。ぶち開けた風穴に帯がぴんと張られて、そのまま縦一文字に幕を切り裂いた。できた隙間に飛び込むようにして、二人は倒れ来る幕を越える。
「はやく――退路を、」
言ってる間にも背後からの追っ手が足下を埋めんとする。圧倒的な、圧倒的過ぎる物量差が、ここにきて大きな壁として立ちふさがった。靖周の符札はどんどん減らされている。これが尽きれば、もはや彼にできることはほとんどなくなってしまう。
冷や汗をかきながら足を繰り出し、重い一歩を先へと運んだ。来た道は、もう目と鼻の先だ。
「小雪路、いくぞ」
振りかぶった符札で、水の流れ落ちてくる頭上三間ほどの水路へ跳ぼうとする。だがそこで小雪路が、ぴりっと険しい顔に変わって、跳躍のために屈んだところで動きを止めた。ほぼ同時に、靖周の袖を引っ張った。
「あかんよ」
「なに」
「水の色、」
それ以上言わず、彼女は上方より注ぐ水柱から離れようとした。
途端水の色が……濁って――
「畜生ッ」
しぶきがあがり、霧雨のように注がれた。水面を割って飛び出たのは、黒々とした鼠の大群だった。まだ、これほどいるのか。とてもではないが、対処しきれない。
空傘の発動で文字通り上に傘を開くように、靖周は鼠の驟雨をかわした。そこから真横にもう一枚を遣い、高速で離脱する。小雪路と肩を組み、壁面を下駄で滑りながら移動した。距離をあけることには成功したが、隅の方へと追い込まれつつあるのが現状だ。
使用枚数、ここまでで十三枚。残り、七枚。退路に辿りつけずにこれを遣いきってしまえば、そのときにはもう。
「人の身を捨てて人の精神を保つのは、難儀なものでね」
迫る群れの中にまた人型を作り出して、湊波は言葉を繋いだ。
「幸福というものは、少なくとも、得られない。人の身であったころに感じたそれらは、この姿で得るにはかけ離れ過ぎている。だから私はほかの目的意識によって幸福追求に至らねばならなかった」
ぎしぎしと顔の中の眼窩が広がっていく。さながらこちらを凝視するように、大きなくぼみは靖周と小雪路を捉えていた。
「私は、機能であると自任しなければ、気がふれてしまいそうだった……。それは認めよう」
だが、と言葉を切って、人型は、片手をこちらへあげた。
「他人にそれを、指摘されたくはないよ」
鉄砲水のごとく、鼠の大波が押し寄せる。群れは幕として現れた奴らと、水の中から現れた奴らとで、より数を増して太く巨大な瀑布と化した。風でぶち抜いても、その向こうで残る勢力に襲われる。水面を覆う絨毯のごとき奴らの背は、さすがに広すぎて小雪路でも払えない。もっと威力を、間合いを、強く広くとれる技が必要だ。
どうする。手元にあるのは短刀四本、符札が七枚、風切鎌。たしかにこの鎌と靖周の術は相性が良いと思われたが、それでも威力をあげるわけではない。範囲にしたところで、ひとつの術で起こす風を分割するのがせいぜいだ。風の道筋を定めるだけの得物。
細かいことを考える余裕は、もうない。
「……っだあああああぁ!」
「にいちゃん?!」
叫び、口から離した短刀を再び手に取る。
やぶれかぶれの符札で、正面に無理やり穴をこじ開け突き進んだ。当然、群れを崩しても次の群れが足下から跳びかかる。おぞましい数の牙と爪が、靖周を狙って凶気をかざす。これらに向けて羽織で打ち払い両手の刃を振り下ろし、無謀な突破に靖周は挑んだ。
「もうっ、無茶せんでよ!」
左手から現れた小雪路が、体の周囲に帯を巻くように群れを踏みにじり、薙ぎ砕く。獅子奮迅の連続攻撃で、互いの間合いをなんとか庇いあいながら群れより脱出を目指す。
だが所詮、多勢に無勢だ。突っ込んだ直後の勢いから一転、押され始めたのを感じた瞬間、靖周は眼前を過ぎた帯の中ほどをつかむためまた口に短刀をくわえた。符札を取り出し、上に逃げようとする。
「〝空が、」
と。
「――っっとぉぉ!?」
「わ、ひゃっ」
靖周は、己のからだが力強く飛ばされるのを感じた。足裏から受けた風は臓腑を持ちあげる暴力的な圧力で靖周を打ち上げ、これに引っ張られた小雪路も高く舞い上がった。そして、足下にまき散らされた風の結末を見る。
それは、水面へ扇形に広がった。常よりも発動が早く、強烈な風の圧。擦り減らされ、研ぎ澄まされ、たしかな鋭さを抱いた――もはや風の刃と呼ぶが相応しい結果を、眼前にもたらしていた。
靖周の風が、絨毯の長い毛足を削ぐように、鼠の群れごと水を切り裂いたのだ。
「……なに」
驚きの声をあげる湊波だが、驚いたのは靖周も同様だった。なぜ、こんな効果を得ることができたのか。
考えてすぐ、左手の鎌に目をやる。
「これ、か」
風切鎌。この呪具は風の道筋を定める。振るった通りに大気に断層を生み、風の通り道を自由に決める。先ほどはその力を風の分割に用いたが、今回はちがう。闇雲に振りまわした鎌が偶然描いた軌跡によって、この効果が生まれた。
おそらくは――風の道筋を、狭めた。普通に発動するときはある程度の方向を設定するのみで放出される風を、振るった鎌の軌道が一方向に束ねたのだ。結果、狭い径を通り抜けたことで風はその圧力を増し、鋭く研ぎ澄まされて刃のごとく水面を切り払ったのだ。
「……こんな遣い方があったか」
ぼやく間もまだ飛ぶ。靖周たちを打ち上げる風の威力も、増している。一枚分の威力と思えないほど空中を飛んで、落ちるまでに靖周は再度鎌で大気を刻んだ。素早く二度、ほぼ同じ軌道をなぞって左右に振るい、この隙間へ向けて符札を差し込んで発動する。
狙い通り、行き場を失った風は断層の狭間で荒れ狂い、靖周の体を強く後方へ押し出す。威力が強すぎて骨が軋むほどだが、しかし飛躍的に上昇した風力は、易々と距離を稼ぐ。途中で靖周は鎌を振るって風を御することで、進路定めた滑空を実現した。
滑空は、山なりの軌道を経て、二人を元来た道まで届かせた。次いで小雪路もよこに着陸し、振り返った。
「……おのれ。逃がしはしないぞ、お前たち」
ざわざわと寄せ集められた鼠が、暗く二人に影を落としていた。
湊波は群れをひとつの塔のごとく集め、斜めがけにその突端を倒してこちらへ迫ろうとしている。慌てた様子で、小雪路は靖周を背に担ぎあげた。
「さっきのすんごい空傘、はよ!」
「わぁってる!」
とは言ったものの、使える数はあと四枚。いかに威力を底上げしたといっても、倒しきるほどの量ではなく、そも逃げ切れるだけの力かすらわからない。この
そんな、靖周の心中にもたげた疑念を正確に見抜いて、湊波は傾いでいく巨大な群れから声を飛ばした。
「そも、無駄な足掻きだ。私は誰一人としてこの島から生かして帰すつもりはないよ。いまここで逃亡できたところで、そこからどうする?」
「んな先のこと考えちゃいねぇよ。お前こそ、そこからどうする」
「そこ、とは」
「そうやって死体の山築いて国のためって動き続けて、先なんざあんのか」
どっ、と先端が着地し、流れに逆らって流れを生みだす。這いだした鼠は床から壁面、天井部までのぼりながら全方位から二人へ迫ってきた。引きつけるだけ引きつけて、靖周はまた鎌を二度振るう。小雪路が、屈みこんで前傾姿勢をとる。
「うちは孤独じゃないから、先があるって思えるんよ」
「俺も逃亡できりゃ、また山井やら月見里やら井澄たちと協力して先を見出せる。そう信じられる」
繋がりがあったから、ここまで来れたのだ。山井から渡された鎌を見て、靖周は確信していた。
「繋がってるからこそ俺たちは生きてこれたんだ。無駄じゃない。無駄なんかにゃ、させねぇ」
掲げた符札を、拳と共に断層の隙間に叩き込む。
纏め上げられ噴き出した風が、二人の背を叩いて爆発的な加速を生んだ。遠くあった景色が、すぐ手の届く範囲にまで縮められて眼前へ現れる。緩やかに曲面を描く道が迫り、小雪路の下駄が振り上げられた。
壁へ接して、受けた風に押し飛ばされることも足をもつれさせることもない、絶妙の加減で滑走してゆく。置き去りにしてきた鼠の群れもけっして遅くなどないが、いまの二人の前では愚鈍といって差支えなかった。
「このまま進め!」
「わかっ――」
直後、小雪路は壁面を蹴って離れる。がくんと首が横倒しになり、舌を噛みそうになりながら靖周は揺れる視界を認識しようと努める。
天地逆さになり天井へ。さらに三角飛びで移動するさなか、小雪路は片手を離して帯を振り薙いだ。先端が反対側の壁に触れたとき、靖周の体に制動の際にかかる慣性が働く。帯の摩擦を強めて、身動き不能の空中で無理やり減速したのだ。ここから帯を引いて体を壁の方へ引きつけていき、正常な視界、床に足付けた視界へ戻っていく。
その過程で、直進していたら辿り着いたであろう場所が、鼠の壁に遮られているのを後方に見た。いまの高速推進のなかでも、彼女は視界内の変化を正確に把握しているのだ。
「まだ潜ませてる鼠がいたのか……」
「来とるよ!」
かなり失速して足を止めた二人の前で、壁際から水底から鼠が群れ成し湧き始める。もちろん後方からの追っ手も、つづくだろう。ぼんやりしている時間はない。溜め息をついて、靖周は鎌を振るった。いまを乗り切らなきゃ、先など来ない。
「やれやれ。三枚のお札で乗り切れるかね」
「わからん。けど、なんとかしやん。なんとかなるん」
「具体性ねーなぁ。まあ……いっつもその場しのぎで、具体的な先なんざ考えてこなかったけどな、俺も」
いまだって、具体的といえるほど先が見えているわけではない。
だがなんとかなると小雪路が言うなら、なんとかしてみせようと思う。こうした単純な期待への応答、その繰り返しで日々が紡がれてきた。きっと続けていけるとも感じている。
だから前へ。後ろから首に腕を回し、小雪路の耳元に口を寄せて靖周は言った。
「いくぜ、小雪路」
「どこまで行くん」
「行けるとこまでだ」
「行けるとこまで――」
繰り返した小雪路は、くふふと笑って顔を横向けた。すぐ耳元に向かって話していたので、彼女の顔が真正面、一寸も間をおかず向きあう。
屈託のない笑みで八重歯をのぞかせ、小雪路は言った。
「じゃ、行こっか。――未来、とかまで」
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