93:行き違いという名の思いやり。

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 走り続ける井澄の前で、道は少しずつ蛇行して伸びる。貯水槽に辿り着くとのことだったが、どのくらいでそこに着くかまではわからない。水の中を掻きわけて進む井澄の足は、もったりとした重さにまとわりつかれ、余計に気持ちだけはやらせる。


 逸ればそれだけ、物思いは増えた。かたちを成さず取り留めもないものばかりだったが、八千草のことばかりが過る。嫌な、感覚だった。あの日空にあがる煙を見て走り、焔の中で崩れ落ちた八千を見たときと、同じ感覚だった。


 心臓の奥底がぎりぎりと絞めあげられる。めぐる血が途絶えて息が詰まり、ひととしての活動が切れてしまいそうだ。いくつもの可能性が頭を浮かんでは通り過ぎていき、思いはせることもかなわず消える。八千草の無事だけを願って、短く荒れた息が漏れる口を好きに喘がせ、足を回転させる。視界が正常であることにのみ、彼は足が空転していないことを知る。


 けれど意志が先に進み過ぎた歩みはやはり安定に欠け、膝が落ちた感触のあと顔から水面を望む。腐りかけた水の中を横倒しになった体で転がって、味覚と触覚をおぞましさに蹂躙された。


 絶え絶えの息で身を起こすと、肘を水底についた両腕の間で映る己の顔が、波紋に歪んだ。反吐と共にすべて吐き出し、井澄は喉奥にからむ臭気を捨てた。


「……八千草」


 名を呼ぶだけでわずか活力が宿る、瞬間を見逃さず膝を伸ばす。よろめく足に鞭打って、手套をはめた手で口許をぬぐい、鼻腔を閉じて大口で肺腑を膨らませた。腹の底から湧きあがる熱のおもむくまま、叫びだしそうな衝動を進む力に変えた。


 駆けあがっていく傾斜の緩い坂を、何度か足を滑らせそうになりながらも井澄は走った。跳ねる水が這い上って脚部を濡らすより早く。飛び出しそうな自分の意志よりは遅く。先へと臨んでいく一歩一歩が、彼を着実に運んだ。


 最後の一歩が、坂を登りきって――、想定していたより低い位置へついたために重心を崩す。がくんと前に倒れた首を、背筋を張って正した。眼前に開けたのは、これまで通ってきた空間に比べ遥かに広い、貯水槽だった。端から端まで、一町ほど。奥行きは暗がりにまかれてわからない。しとしとと降る水滴が、落ち着いた水面へ波紋を押し広げている。


 そこかしこへ等間隔に、井澄でも二抱えはありそうな石柱が並ぶ。それらが支える天蓋は黒々とした遠い闇に隠され高さをうかがわせない。井澄は眼鏡の位置を指先に整えながら、またぱしゃぱしゃと歩きだした。


 靖周の推測の通りならば、この貯水槽から各所の水路のどこかへ逃げこんでいるのではないか、とのことだ。けれどいまのところ奴の姿も八千草の姿も、見えない。すでに逃げられてしまったのか、それともまだ向こうもここまで着いていないのか。はたまた、ほかの水路へ逃げこんでやり過ごされたか。


「…………、」


 考え出しても仕方ない。すでに井澄は動いてしまったのだ。であるならば、結果を信じて前に進むほかない。


 鉛のような足取りに慎重さと鋭敏さをみなぎらせ、井澄は柱の間を進んだ。水滴のもたらすささやかな音を掻き消して、歩みの音が跳ね返る。頬伝う汗の滑る音さえ聞こえるような五感の冴えに身を浸し、井澄の眼光が闇を貫いていく。息使いは吸いすぎず吐きすぎず、動けなくなってしまわないよう肉の硬さを身の内から抜いた。


 落ちる。水滴と足が交互に、同時に、水面を叩いて底まで通る。


「ふう……」


 逸る気はいまや押し込まれつつあった。足の一踏みごとに心の底へ追いやり、出てこないよう押さえつける。呉郡黒羽に芯まで教え込まれた業と技術が、筋から神経を支配していた。ひと息ごとに、先んじようとあがいていた意識と体が拍子を合わせ、歯車をかみ合わせた。


 倒そうとするな、殺そうとするな、応じて動くだけだと識れ――


 落ちる。音が、心が。沈み込んだ薄闇が幕のごとく井澄を覆っていて、だから彼の肌は幕に触れるものを、感じとった。


 水滴ではない大きめのしぶきが、左手で跳ねた。動こうとするまでもなく、両手には硬貨幣が握りこまれていた。そして消えた。


 親指の爪が割れんばかりに弾き出された一枚が、音を発した位置へ撃ちこまれている。鋭くあがった水がめくれた皮膜のかたちに拡がる。射止めたのは、小さめの鼠の腹だった。


「――湊波」


 歯を鳴らしてつぶやき、井澄は右手にとった羅漢銭の構えで腕を向けた。鼠の近くにあった柱の裏へと、左足で踏みきり、壁面を蹴りつけて上に回り込んだ。


 だがいない。左右に目を凝らし水路を探すが、こちら側の壁面にはつづく道も少ないらしい。重力にしたがい降りる身の重みを膝の屈伸で殺し切り、井澄は鼠を探しに低く駆けだす。


 そのとき、上からまた、落ちてくる。


「チッ」


 舌うちしながら井澄は頭上へと左手の糸を伸ばした。寸刻みに切り裂く無音の手ごたえのあと、


 風切る細い刃が石身鉄牙の鼠から血をなびかせる。


「――よく来た、沢渡井澄」


 それきり、湊波の声の残響はつづく鳴き喚きの接近に打ち消された。不可避にして不可逆の、重力に任せた飛び降り。降り注ぎ始めた鼠が、井澄の真上の闇を崩し始めた。埋め尽くす鼠の驟雨。


 範囲の広い待ち伏せ――これだけの数を用いたなら、八千草を囲むほうはわずかでも手薄になっているはず。可能性の先を見出し、井澄は奮起した。低く駆けながら鼠の群れをかわし、どうしても身に迫るものだけ糸で薙ぎ払った。この血液に触れてもならない。対処に苦心しながら、井澄は元来た道を退路として選んだ。そこが一番、広い道なのだ。


「意に沿わぬなら殺す、というわけですか」


「いや。殺しはしないさ。ただ身動きとれないように仕立てて、こちらの意に沿うよう動かすだけだ」


 進行方向にある柱へ糸を巻きつけ、己の身を引き寄せるよう回避する。塊となってぼどりと落ちてきた鼠が、井澄の足が離れた場所へ一瞬遅れて叩きつけられる。すれすれの遁走に肝を冷やし、井澄は柱を蹴るとまたべつの柱へ糸を投じた。


 とはいえ殺すわけではないからか、向こうの動きにはやはり鈍いところがある。逃げに成功する理由はそこだけだった。身動きを取れなくする、というのなら、おそらく湊波は先ほど八千草にそうしたように井澄を昏倒させるなんらかの毒などを使うはず。


 だが呪いとして術式を己が身に確立している黒死病とちがい、八万四千の群れすべてにその毒を装備するのは難しいのだろう。決め手に欠ける攻めがその証拠だ。殺せないがため手足を狙おうとして、挙動の自由度を奪われている。


 付け入る隙は、そこだけだった。


「……湊波」


 あとわずかで元来た道へ着くところで、井澄は追っ手に語りかけた。


「なんだい」


 水面をひずませ、灰色の波が迫る。横っ跳びに波をかわし、着地した井澄の運足が水底を削る。ざり、と踏み出した場所は、ずいぶん柱から離れてしまっていた。顔を上げ、彼は鼠の群れへ目を凝らしつつ言う。


「いまからでも降参して傘下に下る――と言ったら、私を害さず連れていきますか」


「そんな目をして言うものではないな。信用を得ようというならもっとそれらしい顔をするべきだ」


 次の突撃も、跳躍でかわす。空中に身を投げだした井澄は隙ができる。次の柱までは、三間を越える距離があった。井澄の糸では到底届かない。


 勝機と見て湊波が群れの動きを真上に捻じ曲げた。これを見て取るより先に、井澄は左腕を振るった。


 腕から伸びる糸が――柱に絡みつく。なに、と状況の変化に湊波が戸惑うのを感じた。


 空を断ち切るのは三間を優に越える糸だった。ぴんと張り詰めて震え、細かに大気を刻む音が高く伸びる。指先に糸を手繰り寄せ、井澄の体が浮き、空中で加速を得た――師より賜りし品ではない、もうひとつの黒糸矛爪ジグソウ


 先ほど山井と月見里と出会った屋敷で、なぜだか積み上げられていた得物の山から奪い取った品だ。呉郡礼衛門と名乗る男……師・呉郡黒羽の身内だというレイモンド・グレゴリーなる男が用いていた剣玉から盗んだのだ。


 井澄の黒糸矛爪より遥かに長い間合いを誇るそれは、湊波の想定を越えて機能する。


 いつだってそうだった。井澄は暗器であるはずの指弾と羅漢銭をこそ攻撃の主体とすることで、この糸を隠しとおしてきた。奇襲、奇策のたねとして。


 柱の根元まで移動して、井澄は腕を縦横に振るって袖内へ糸を巻き取る。あまりにも長いため普段扱う一間ほどの糸に比べ少々扱いにてこずるが、遣い勝手の悪さはもうひとつ盗んできた道具が解消してくれる。


 指先でこねるように糸を操ると、カフス釦が巻かれた。群れに目を向け、井澄は言う。


奥の手、、、ですよ。そしてこちらは防刃手套〝珍機織うずはたおり〟――でしたかね」


 両手にはめていた、装飾の気が薄い純白の手套を撫でる。呉郡黒羽もよく装備していた、糸の扱いをさらに精密なものとするための得物。その存在について知っていたのか、湊波はぐねぐねと群れをにじり寄らせつつ手套に視線を向けていた。


「借り物の道具で、少しばかり強くなったつもりかい」


「もともと私は借り物しか持っていませんよ……。道具も技も、もっと言えば記憶すらも借り物でできています」


 でもそこに、沢渡井澄を認めてもらえたのだ。ならばもはや井澄は、己の心情を飛び越えていける。借り物だけれど。借り物であったとしても。


「そこから何を生み、どう返すか。ひとの価値は――きっとそこで決まるのですよ。記憶の有無など、自我の所在などどうでもよい。信用するところにそれはある」


 断じて、井澄は舌を突き出す。


「信用も疑いも積み重ねの先にある。私とあなたの間にも積み重ねたいくらかの年月がありますが、いまはそれこそがあなたの疑いを生んでいる。歳月とは、人とひとの関わりとは、難しいものですね」


 勿体ぶった言い回しをして、湊波の注意を引きつける。時間を稼ぎ、状況を生み出せねばいまだ井澄に勝機はない。奇襲奇策では彼には勝てない。小細工のみでは懐に入れない。


 ならば――大細工でも成してみせる。


「何が言いたい」


「いや、言いたいことなど特には。あなたもよくご存じでしょう――」


 湊波が己に襲いかかっている状況を。


 極限まで己が追い込まれたように見える状況を。作りだした上で、


 細工を施す、、、、、


 ……逃げようとする背後の道、元来た道。そこにひしめく鼠の影を、井澄は捉えていた。逃げようとするとき、人は道が狭まることや未知の領域に到達することを恐れ、既知の道や広い道を選ぶ。情報の扱いに長けた湊波も当然これを知っていたか、井澄の退路は最初から塞がれていた。


 だからこそ、だった。


 いつだってそうだった。井澄の奥の手、、、は、師より賜りし鋼の糸。


 だが追い詰められたと見せかけたときの、切り札、、、は。


「――私は言葉を生むより、殺す、、のが専門です」


 ぶつりと引き裂くような、言霊の断末魔があったと思われた。この世に現された『言葉』という不可逆なはずの存在が、流れのうちに短剣を突き立てられ、息絶える音のこだま。たしかに井澄の耳には、聞こえた気がした。


 続けて言う。切り捨てられて当然のはずの、言の葉を。


「さて……降参いたします、、、、、、、。どうか、八千草のもとへ連れていってはいただけませんか」


 突き出した舌の根だけが、ことの行く末を握っている。井澄の身を齧る寸前で――――湊波の群れは、猛る奔流を押しとどめた。なぜそうしたのか己で理解していない様子で、しかし現象としてたしかに停止は起きていた。場に落ちる静寂、掻き乱す水音が、かろうじて時の流れの実在を示し続けている。


 先ほどまでは迷うことなく斬り捨てたはずの言葉に、湊波は過剰なまでの反応を見せていた。惑う群れを見るのは、広場に集う群衆を見るのに似ていた。獣であるがゆえの群れとしての統率、これを失った湊波は、これまで見た人間体での接し方よりなお人間らしさというものが感じられて、ふしぎなものだった。


 ややあって、湊波が問いを発する。


「……お前……亘理井澄、、、、……、なぜ、私は……」


 感情が無いはずの湊波だが、これ以上ないほどに抑揚揺らす声音が表れていた。ある種絶対的であったものが、崩れ去ったがための困惑に声の色を変えていた。


 信用も疑いも歳月の積み重ねによるものだ。それを変えるのは難しい。井澄は先だって、そうつぶやいた。


 それはべつに他人に対する態度としてのものだけでは、ない。実感を得たから、井澄はよく知っている。


「なぜ私は――お前を、、、襲った、、、……?」


 人は自分自身への信用、、、、、、、、さえ、歳月さえ。ときに虚ろに、投げだしてしまうのだ。


 井澄はにやりと皮肉るように笑んで、彼の前に両手を掲げる。そのまま投降して、八千草の元へと連れていかせる腹積もりであった。残る殺言の権利は、二回。うまく扱えば再度湊波の自分への認識を騙して、遁走できると考えていた。


 一歩。敵意が無いことを姿勢と態度に表しながら……それでも目の奥の感情までは消せていないのだろうが、歩み寄りを示す。井澄の進行に、湊波の群れはわずか警戒を強めた。だとしても彼に、断るところはない。わかっているからこそここまで機を引きのばしてきたのだ。


 逃走経路が確保され、彼らが最も逼迫した状況に至り、わずかな誤りもないよう細心の注意を払う瞬間を。ずっと待っていた。


 そこでこそ、殺言権による情報の撹乱、、、、、は、最も強い効果を発揮してくれる。


「さあ」


 いまここで自分を襲った不義理は許そうとでも言うように。井澄は両腕を広げて、湊波の眼前へ迫る。

行動選択へ悩む様子だった湊波は、結局はぶらさげられた選択を採ることにしたのか、惑う群れを一つ律して井澄の歩みへ呼応しようとした。群れが、井澄を受け入れるようにざわめき分かれる。


 そして、血肉を吹きあがらせて砕け散った。


「――窮鼠らしくそこになおれ、湊波」


 高い声音が、響き渡った。途端取り巻く空気の熱が高まり、顔をかばい後ろを向いた井澄の近くで、焔の嵐が顕現する。


 広い、広い貯水槽が、頭上高くまで闇を払われる。煌々とした耀きに晒され、暗がりに慣れた井澄の目は痛みを脳髄へ訴えた。


 音もなく焔が止み、熱されて臭いのひどくなった空気を吸いながら、井澄は見た。ちらつく光の粒の向こう、己が来た道を辿ってきた――レインの姿を。足下の水に焔を映しながら、彼女はピイスメイカーの銃口を掲げて井澄を見ていた。硝煙が、風にまぎれる。


 金色の髪が、焔の揺らぎに合わせて逆巻いた。


「レイ、ン」


 名を呼べば、無言のうちに地面を一蹴り、三間の距離を埋めた。卓越した身体強化術式によるものだろう。ふわりと舞うその間にも、彼女の横を抜け地上に居た黒ずくめの連中が走り込んでくる。彼らは手に手に焔を宿し、残骸と化した鼠にも執拗に火勢を緩めなかった。湊波は焼き滅ぼされてゆき、井澄の得た交渉の機会は、灰燼と帰していった。


「レイン、あなたは、なにを」


「ゐ組は第三経路を通り六十五区画を掌握。ろ組は第五経路を封鎖し先行するは組と合流、速やかに湊波戸浪の逃げこんでいる地区の出入り口を固めろ」


 喪失から、空白となった心に憤慨が注がれるまでのわずかないとま。レインは井澄を見ることなく、周囲の黒ずくめに指示を飛ばしていた。殺言権の生みだした虚を突かれた湊波は、成す術もなくわずかに群れを敗走させたのみで、井澄とのやりとりよりも己の保身を優先したと見えた。


 逃して、しまった。


「レイン……あなたは……」


「一匹たりとも、というのは難事だと理解しているが、敢えて命ずる。一匹たりとも逃すな。今回の一件でわかった通り、奴の潮引鼠の異能は危険すぎる。これから頼豪阿闍梨に関する一切は禁術として指定するべきだな」


「レイン!!」


 淡々と作業を進める彼女に激昂し、井澄はつかみかかる。


 体術のほとんどが並以下であり、ゆえに指弾や羅漢銭といった奇襲の暗器に頼った戦型となった井澄だが、身体強化を施した指先のおかげで握力に任せた攻撃だけは常人を遥かにしのぐ。蛇のごとくうねり襲いかかる指先は、ふてぶてしくも立ちつくす彼女の、首筋に向いていた。


 途端、空中を、一転した。


 攻撃をすかされた記憶すら、目の内に留まってはくれない。上下逆さになった彼女を見ながら背中から落ちる感触だけが、現状を正確に伝えてくれていた。息が詰まり、背中から胸部へ打ち抜いた衝撃が肺腑の空気を押し固める。


 耳だけが、正常に働く。


「では各員、殲滅に当たれ。くれぐれも――日輪は念入りに、焼き滅ぼせ」


「――――レイィィィンッ!!」


 無我夢中で水底の地面をつかみ、井澄は反転した景色を戻す。もんどりうって倒れそうになりながらも、両手は馴染んだ戦術の通りに動いた。三枚ずつの羅漢銭。内の二発は、糸と繋がったカフス釦。向かう先は、冷徹に井澄を見る彼女だ。すでに焔の使い手は去ったのか、見慣れた闇に閉ざされた中で、彼女の肌と髪だけが色を浮き立たせている。


 低く駆けながら、彼女へ迫った。あと三間。胸の前で交差させた腕を、外へを振り放って打ち出す。切り裂く硬貨幣四枚、引き裂く糸が二条。互いちがいに交叉する糸は、鋏のごとくレインの両腕を断ち切らんと両脇の空間を攻めた。


 そのとき――玉翠の双眸が、炉の中のように紅を滲ませた気がした。



        #



 銃把を強くとった短銃を振り下ろし終えたとき、糸はあらぬ方へ弾かれていた。四枚の羅漢銭も、地面や柱へ行き先を変えている。レインはじろりと眼球の動きを止め、発動した能力、、を解除した。


 無傷のレインは、ゆらりと半身に構え、左手で扇撃ちフアニングの構えを見せる。亘理井澄の知る頃の彼女とはまったくちがう戦型で、しかしいまでは身にしみついた戦型。


「……行かせは、しない」


 ようやく、井澄に向けた言葉だった。彼我のあいだは残り三間。井澄にとっては得意とする距離だろうが、レインにとっては殺すことすら造作もない間合いだ。ぴたりと照準を井澄の膝につけ、レインの戦意がゆらゆらと銃口から立ち上っていく。敵意でもない。殺意でもない。ただ、彼を止めたい思い。


 そんなレインに歯噛みして、井澄は叫んだ。


「なぜです。いまといい、この前といい――そしてなによりあの日、、、といい! あなたは何度、私の前に銃声を響かせるつもりですか!!」


 途中までは顔色を変えずいたレインだが、あの日という言葉にのみ反応し、わずかに目を見開く。


 どれほど慣れろと言い聞かせても、やはり、彼の言葉にだけは過剰に心を揺らされる。そこに立つ井澄に呼吸を合わせつつ、震える唇でレインは言った。脳裏に浮かぶのは山の中、あのときの橘八千草と、銃口の先にいる井澄が重なってしまう。


「思い、出したのか……あの日、陽炎事件の日の記憶を」


「いいえ。私の記憶は代償ですから、戻ることはありません。本人から直接に、聞いたまでです」


「……そうか。だが代償ということは、今後も。失われゆくのは、止められないのだな」


「取り戻せないまま、でしょうね。でも構いはしません、いまのこの身はいまを生きるためにあります。……だから、そこをどいてください……!」


 懇願されて、レインは唇を結び震えをおさめる。


 彼の思いが、胸を叩く。あの日の彼の絶叫が、よぎっては戻り頭の中を満遍なく染めてゆく。


 そしてゆっくりとかぶりを振って、彼女は、腰の横に据えた得物で井澄に退却を促した。


「行かせるわけには、いかない。戻れ、二度と奴らに関わるな」


「なぜです。あなたは統合協会に属するくせに、なんの恨みがあって八千草を狙うんですか!」


「恨みはない。ただひとえに、必要なことだから成す。統合協会も一枚岩ではなくてな、日輪の扱いは戦に用いんとする受入派と、危険故に処分せよとの抹殺派、ふたつに別れている。わたしは、後者に所属し――それ以上に、私情のためここにいる」


 ふうと息を吐き出し、引き金に乗るか否かの位置で指が揺れている。受け入れられるとは思わない。でも期待だけは浮かぶ、そうした心情を表していた。


 私情。それがここにきて予想外の答えだったか、井澄は停止する。継いだレインの言葉は、まっすぐに井澄を見据えて通る。


「村上にわたしが刺された日のことは、まだ覚えているか」


「……この間、新聞社で会ったときに話したでしょう」


「よかった。そこだけ覚えていてくれれば、十分だ。いやべつに、覚えていてくれなくても、構わない」


 それでもわたしの思いは変わらない。つぶやいて、レインはわずか笑う。


「あいつとわたしはあの日、往涯の手からお前を逃がすべく、わざと部隊を壊滅させて戦死者の中にお前の名を刻んだ。……あの日からなにひとつ、わたしたちの行動理念は変わっていない」


 くだんの魔の手が伸びてきたと知り、同時に日輪としても危険だった橘八千草の殺害に及び。井澄の情報をひたすら隠匿し、そのうち彼が島に渡ってからも様子をうかがい。やがて三度みたび、伸びた往涯の手から守るべくレインが島に来訪し。日輪は目覚め。井澄は島の戦乱に巻き込まれて、ここに至る。


 どれほどの痛みを踏み越えてか、彼はここにいる。それを思えば、たまらない。彼自身がどう思っているかは関係なく、レインたちには辛くてたまらないのだ。彼が身を粉にして動けば、たとえ彼がそれを良しとしていてもレインたちは身を斬られ粉にされる思いなのだ。


 それを利己的衝動と呼ぶなら、好きにすればいい。衝動に耐えられない精神を弱いと罵ればいい。だがその暴言を許す相手は井澄のみだ。ほかのだれにも文句は許さない。邪魔などさせない。


「もう奴らに、化け物、、、となり果てた存在に関わらせてなるものかという、あいつとわたしの、我が儘のため。その私情のため、わたしはここにいるんだ」


 絞り出すように、レインは戦意を高めていく。銃口から届く威圧は、井澄をすくませ進ませない。


 けれど口を閉ざすほどのものでは、なかったか。井澄は眼鏡の奥で噴き出す憤怒と執着の色を漂わせ、首に筋を浮かび上がらせながらささやいた。


「化け物、だと」


 自分が禁句に触れたことは察したが、もう遅いし、なにより撤回する気もない。いまこの場で虚言や心にもない言葉を口にする余裕、それらの起こす過失を拾う余裕は、レインにはない。


「……ほかに言いようもあるまい。個人の在り様ひとつで、ここまでこの国を掻き乱すのだぞ。もはや人の慮外のものだよ、奴らは。近づくべきでない」


「知ったことではありません」


「そう言うと、思った。だから、わたしはお前の道に立ちはだかると決めたんだ。お前が進んでしまうから。自ら、危険へ近づいてしまうから」


 自分を押し殺した、感情と表情との隔絶。


 そんな憂いを含んだまま、レインは井澄を見つめる。


「これ以上、お前を傷つけさせはしない」


 発言を押し通す手段として武力を匂わせ、レインは目つきを研ぎ澄ます。


 対して、井澄はもう、足を止めてはいなかった。


 噴きあげる感情に押し出されるまま、レインの威圧が生んでいたはずの圏、その内部へ一歩を踏み出している。


 顔をうつむかせた彼は、鼻先へずれ落ちた眼鏡を、鬱陶しそうに払いのけた。空中を飛び、水底に沈む、その間もつづく隙だらけの歩みに、だが今度はレインがのまれた。引き金から指が、遥か遠く無限の果てへ離れていく気がした。


 ギヤマン越しでない彼の目が、闇との境界線で妖しくゆれていた。


「……なにが、傷つけさせはしない、ですか……あの作戦で、あなたたちを失ったと思ったとき! あの燃え盛る山で、八千を失ったとき! そして、八千草が失われようとしているいま――――どれだけ、傷つけてきたと思っているんだッ!!」


「他にどうしようもなかった。お前を往涯の手に落とさないためには、お前が暮らす世界を平穏に保つには、ああするしかなかった」


「だれが頼んだ。私と、亘理井澄は、たとえ危険に身を晒し己が擦り切れてしまうとしても、大切な人と過ごす日々だけが欲しかった……!」


 その、一言で。


 レインの心中も、堰を切った。もう、限界だった。留めてはおけなかった。


 大切な人、大切なひと、大切な他人。


 血は繋がっていなくとも、レインにとって井澄はだれより、大切だった。自分で自分がわけがわからなくなるくらい、彼のことを思ってきた。『狂おしい』、というこの国の言葉があったことに感謝するほど、常軌を逸した思いがそこにあった。


 求めた、求めた、求め続けてきた。舌が思いを、吐き出した。


「――わたしだって、そうだ。だれより、お前が大切なんだ! たとえ共に暮らせていなくても、同じ空の下のどこかで健やかに暮らしていてくれればそれでいいと、そう思っていた……だがその願いすら阻まれた、往涯と日輪のせいだ! だから自ら動くほかなかった!」


「勝手だ! なにも知らないくせして、勝手に私に依存して、あげく八千草を悪く言うな!!」


 激昂したために、彼の素の口調が、現れつつあった。


 先ほどまでの口調は、この島に来てからの喫煙癖は、きっと村上の真似だったのだろう。井澄もまた空白を埋めるため、過去の記憶に頼りすがって依存しているとレインには見えた。


 それともこれもそうであってほしいという、願望に過ぎないのだろうか。井澄の本心は、失われゆくレインたちとその過去に見切りをつけて、先へ足を進めようとしているのだろうか。もう彼女には、わからない。


 だから信じたいように信じることにした。


「言いたいように言うさ。お前も、言いたいように言え。恨んで憎んで蔑むがいい。嫌われる覚悟は、すでに固めている」


「レインッッ!!」


「それでもわたしたちは――」


 どんなかたちでも、お前に生きていてほしい。


 口にはせず、レインは言葉を思った。


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