星読みのアトリと狼の娘-9

 ふたりで天幕を立て、小鍋に湯を沸かして干し肉をちぎって入れる。からからに乾いたチーズもいくつか放り込んで塩で味を調えると、野宿にお決まりの夕食が完成した。オトが肉包みや柔らかいパンを持ってきてくれていたが、リコが帰ってきたときに食べさせてやりたかったので手をつけなかった。ふたりきりでそれを食べ、火の前に並んで座り今度は茶を淹れる。アトリはいつもの癖で茶葉を節約して薄味になったが、イリスは文句を言わなかった。

「昔みたいね、こうしてると」

 アトリも思っていたことをイリスが口にして、アトリは笑ってそれに返した。お互い今よりまだ若く、弱さを見せられなかった頃の話だ。

「私を迎えに来たあの子ね、なんて言ったと思う? アトリ殿の奥方のイリス殿ですか――って言ったのよ」

 アトリはお茶を吹き出した。それを見てイリスはけらけら声をあげて笑う。揶揄が含まれている笑い声にほんの少し腹が立って、アトリは口元を拭うと半眼でイリスをにらんだ。

「嫌だったか?」

「嫌じゃないよ。そうです~って答えたもん」

 ことこの件に関してはイリスの方が上手で、アトリは出会ったばかりの頃のように赤面し、その顔を隠すため頭を下げ両手を挙げ、降参の意を示した。イリスはますます笑って、おかしそうにアトリの金髪をなで回す。

 出会ったころとはちがうのは、姿かたちだけでなく心の内側の弱いところまでさらけ出せるようになっているところだった。幼い子のように頭を撫でられていると、不意に弱気になってアトリはそのまま手を下げ、イリスのスカートの端を握りしめた。

「…………リコは、帰ってくるかな」

「帰ってくるよ。約束したんでしょう。そしたら、また一緒に旅をしようよ。私の商売も手伝って」

 アトリを振り向かずに去って行ったリコ。狼そのもののような姿で瞳を輝かせ、鋭く吠えて、立派な雄狼から群れの頭を譲られた。それはもう本当に始祖の狼だった。アトリのようなどこにも属さないものなどとても手の及ばない、力持つ獣だった。

「その時はアトリが星を見て、どこへ行けばいいか教えてね。それにリコがいたら、ほら、私たちどこへだって行けるよ」

 子供をなだめるような言い方にうんと頷く。少しばつが悪かったが顔をあげると、イリスの肩越しに見る夜空に、星が落ちた。

「――星が落ちた、今」

 イリスは眉をひそめた。凶兆のように感じたのかもしれない。アトリは首を振って、イリスを空に向かせた。

「悪い知らせというわけじゃない。星の命が終わったしるしだけど、終わりは次の始まりを告げる知らせでもある。冬の終わりは春の始まりだ。もうだいぶ星が動いて、春の星が見え始めてる」

 少し前にもリコにこんなふうに説明してやったことを、アトリは思い出した。イリスは眼鏡の奥の目を細めて、見えないものを見ようとするように首を伸ばしている。

「星も空も、この大地だって動くけど、ひとつだけ、季節が巡っても動かないものもある。あの星は、いつも北の空にのぼる」

 同じことをリコにも教えてやった。リコはアトリの前にちょこんとおさまって、一生懸命空を見上げていた。

「だから、方角が分からなくなったときはいつもあれを探すんだ。いろいろなものが変わっても、動いても、あれだけはいつも同じところにあるから」 

 星はしんしんと、静かに大地に光を投げかけ、霜と夜露に反射して草原もまた星空の一部のように輝いていた。


 ◇


 話しながら、いつの間にか眠っていたらしい。


 目を開けると、膝を抱いて座るイリスの頭がアトリの右肩に寄りかかり、規則的な寝息を立てていた。アトリも同じ姿勢で寝ていた。天幕の入り口は紐で結えていたが、強い風に解けてしまったようでぱたぱた音を立ててはためいている。大きな毛皮を頭から被っていたとはいえ、よく凍えなかったものだと思う。

 目の前の地面には昨晩の焚き火が燻っている。炭の内側はまだあかあかと燃えており、星が最後に燃え尽きるときの色を思わせた。熱で大地は溶かされて、その周囲だけ霜が降りず、黒々とした土は草原の命を抱いて脈動しているようにも見えた。

 視線を上げれば、南の空が少しずつ明るくなるところだった。東の地平線から昇る太陽は、それが実体をあらわす前から世界を照らし出している。夜空と朝日が混ざり合うところは闇も不思議とやわらかく優しい色に染まり、明けの星々が低い位置から名残りの光で瞬いていた。

 夜明けの空気、風も大地も空の星も全て、厳冬期が終わり春が訪れようとしていることを告げていた。

 入り口を閉めたかったが、右腕はイリスを支えていた。左は肩から動かすとまだ痛むが仕方ない。左手を伸ばしてひらめくフェルト布の切れ端をつかまえようとしたが、なかなかうまくいかない。アトリをもてあそぶように、ぬるい風が分厚いフェルトを大きくめくりあげた。

 そのとき――。

 白んできた空のふち、その下に隆起する丘のてっぺんに、小さな影をみとめて、アトリは動きを止めた。

 影はすぐに見えなくなって、次に丘を斜めに駆け下っている姿が夜明けの光を受け像を結んだ。アトリはそれから目を離せないまま、からからに乾いた喉でイリスを呼んだ。

「イリス――起きろ、起きてくれ、なあ」

 うーん……とおぼつかない返事があり、右肩が軽くなった。アトリは立ち上がり、天幕から飛び出した。

「アトリ?」

「あれを見ろ!!」

 数拍遅れて、イリスも天幕から転がり出てきたが、アトリはそれを見ていなかった。

 影は影でしかない。大型の獣が走っているだけで、ただのはぐれ馬かもしれない。走りながらそう考えたが、足は止まらない。

 やがて近づいてきて、それが確かに栗毛の馬であり、よく知っている相棒の姿であり、背中に小さな娘を乗せているのがわかって――アトリは、無我夢中で叫んだ。


「リコ!!」


 リコはコゲの背でぱっと顔をあげた。まだ遠いのに、その顔が歓喜一色に染まるのが手に取るようにわかる。アトリも笑った。笑って、あっという間に近づいてきたコゲから飛び降りたリコを受け止め――強く強く、抱きしめた。


「――――おかえり、リコ」

「ただいま、アトリ」


 髪や服は乱れ、丸い頬も泥で汚れていたが、声は元気で金の瞳もきらきら輝いていた。追いついたイリスがアトリごとリコを抱擁し、リコは小さな手でイリスの頭を包み返した。その手首にはしっかり腕輪が輝いていた。

「心配した、心配したのよ、もう」

「うん、でも――リコ、ちゃんとかえってこれたよ」

 リコは笑ってアトリを見た。そうだな、と答えようとしたが、リコがすっと手をあげて指をさすのでその先を追う。リコはまっすぐ、空を指さしていた。

「とおくまで行ったの。みんなでずっとずっといっしょに走って、もう少しみなみの、あたたかいところまで――」

 アトリを振り返らず去っていったリコ。リコもコゲも狼の群れとひとつになっていた。狼を遠くへ逃すというそれはやり遂げたのだとわかって、アトリはそうかとうなずいた。

「でも、そうしたらどこから来たのかわからなくなっちゃった。こまって、コゲとぐるぐる回ってたら、夜になって、星が見えてきて――」

 そこでリコは、得意げにふふんと鼻を鳴らしてアトリを見た。三角の耳がピンと立ち、尻尾をぱたぱたと忙しく振っている。全身からあふれる喜びに答えるように、地平線から昇ってきた太陽がさあっと草原を照らした。新しく生まれたばかりのような朝の光の中、リコはますます輝いて見えた。

「アトリがおしえてくれた星が見えたから、それをさがして、さがして、走ってきたんだよ。うごかない星が見えたから、そっちに行けばもどれるかなって」

 アトリは瞠目した。思った通り、アトリを驚かせることができたと喜ぶように、リコはますますはしゃいで、もう一度アトリの頭に抱きついて、額に額をおしつけた。

「そしたら、もどってこれた! ねえ、すごい?」

 アトリは言葉もなく、リコの黒髪と、己の金の髪が眼前でぐしゃぐしゃに混ざり合うのを見ていた。

 どこにも属さない草原の拾われっ子、なにも持たない孤独で気ままな根無し草のその日暮らし、それでも忘れられず、捨てきれなかった育ての親と故郷と――いろいろなものがつながって、今アトリの前で体温と感情を持つ実体となっていた。狼の部分と人の部分を両方持ったまま、アトリの元に、リコとして帰ってきてくれた。

 感極まってなにも言えないアトリに代わって、イリスがリコの頭をなでて答えてくれた。

「すごい、えらいわ。本当にすごい」

 リコは笑って、イリスにも同じように頭をおしつけた。笑い声が重なって、あっという間に明るくなっていく青空に響きわたった。

 その空はもう春の色をしていた。激しい夏と厳しい冬の一年が終わりを告げ、何もかもが新しく生まれ変わる、春が来る。


 リコは春と共に帰ってきたのだと、アトリは思った。


 アトリも、健気な娘をほめてやらねばならなかった。アトリに抱き上げられたままイリスとじゃれあっているリコを、ぐるりと回してアトリに向き直させる。大きな動きが楽しかったのか、リコは歓声をあげた。

「――ありがとな、リコ」

 ほめてやろうと思ったのに、金の瞳と向き合って出てきたのはそんな言葉だった。リコは少しだけ不思議そうに首をかしげたあと、にんまり笑って、大きくうなずいた。ふさふさの尻尾が、アトリとイリスの間で跳ね回るように元気よく動いた。


「うん!」


 ◇


 天高くそびえる山ありき。山は天に通じ、天は山に恵みを与える。

 山の頂より清水ありき。清水は命を生み、命は山に育まれる。

 清水よりはじめに生まれし狼ありき。狼は強き脚で山を駆け下り、草原に恵みをもたらす。


 冬の終わりに生まれし狼は人の群れで育ち、狼の姿を持ち人の声を聞く。

 春に生まれた家畜の仔とともに健やかに育ち、夏には山から雲を呼び雨を降らせる。 

 西に生まれた星読みは、どこにも属さぬ姿で狼には聞こえぬ星の声を聞く。

 秋には収穫や家畜の実りを知らせ人の子の運命を読み解き、冬には嵐を予見し人を助ける。


 そしてまた冬の終わり、星読みに導かれ狼の声は春を呼び、歩みひと踏みごとに命が芽吹く。

 その姿に星の輝きを持つ星読みと狼は、星の巡りとともに草原をさまよい、生きていく。




星読みのアトリと狼の娘 完

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星読みのアトリと狼の娘 なかの ゆかり @buta3neko3

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