星読みのアトリと狼の娘-8

 昼間の草原に、アトリは佇んでいた。数日前にリコと過ごしていたときより、ほんの少し風が柔らかくなった気がする。山から吹き下ろしてくる風は相変わらず全てを吹き飛ばしそうに強かったが、身を切り裂くような冷たさはない。地面は霜で覆われているが、もうすぐそれもぬかるんで、あちこちで草が芽吹き始めるだろう。夜空の星もその位置を変えつつあった。

 馬が一頭、暇そうにわずかな草の根を食んでいた。そのそばで遊んでいた少年が、唐突にアトリのもとへ駆け寄ってきた。

「ねえ、パン食べていい?」

「ああ、そうだな。もう昼過ぎか。食おう」

 そばには敷き布が広げてあって、宿営地から馬に乗せてきた水やパンに干した果物など、昼食になりそうなものが並べられていた。持ってきた種火で小さな火を熾して湯を沸かす。少年は敷き布の端を押さえていた荷物から皿や器を出して手伝渡してくれた。

「ありがとな」

「おなか減ったね」

「うん……」

 大して身体を動かしたわけでもなし、アトリはあまり空腹を感じていなかった。しかし子供はアトリの付き合いが悪くても、岩陰に見えたウサギの耳をつかまえようと挑戦したり、風に飛ばされている葉を追いかけたりして走り回って遊んでいるので腹も減るだろう。仕事をなにひとつしていないのに、こうして食事にありつけるのはありがたかった。

「ユスフ、おまえはいつまで、おれに付き合うつもりなんだ」

「おれがいたらだめ?」

「だめってわけじゃなくて……おまえにも仕事があるだろう」

「父上は、いいって言ってたよ。アトリさんは手が不自由だから、それを手伝うのがおれの仕事だって」

 にっこり笑って答える少年に、アトリは苦笑してお茶の器を渡した。まだ左肩は薬を浸した布で覆い包帯をぐるぐる巻きにされているので動かすのは難しかったが、手先の動きは問題ないし右手は無事だ。手伝いはあまり必要なかった。どうも体よく子守りをさせられている気がする。


 ユスフはあの時狼から返された少年で、傷ひとつなく一晩眠ると元気を取り戻し、アトリから離れなくなった。その上アトリがリコを待つため宿営地から出ようとすると、おれも行くと言い出した。

 宿営地が狼の襲撃を受けた夜、羊たちが心配でユスフはこっそり幕屋を抜け出した。羊の群れの中に隠れていたら、いつの間にか狼に襟元をくわえられ運ばれていたそうだ。狼はそれが自分たちの仲間ではないと気付いた後も、ユスフを真ん中に置いてあたためてくれたし水場に連れて行ってくれた。あの一晩、ユスフは仔狼だった。

『おれが待つのはリコだ。リコは帰ってくると約束したが、狼たちは戻ってこないぞ』

 アトリははっきりそう言ったが、それでもいいとユスフは譲らなかった。狼の一員だったことをまだ忘れられないのだろう。連れて行ってくれないかと族長のホウエンに頼まれれば、断ることはできなかった。

 それから五日経つ。アトリは朝になるとユスフを連れ食料を分けてもらい借りた馬でリコたちと別れた場所までやってきて、日が落ちる前まで過ごし、夜はホウエンたちの宿営地に泊まらせてもらうという日々だった。


「――だれか来た」

 草原の遊牧民は目が良い。アトリも星を見る目は良いが、いくつも重なった丘の向こうに浮かぶ小さな点が馬であることは、言われてもしばらく分からなかった。ユスフは馬に駆け寄り、その背によじのぼって立ち上がった。のんびり過ごしていた年寄り馬は、おどろいて足踏みした。

「二頭いる。両方とも人が乗ってる」

「おまえのとこの誰かか?」

「たぶん――あの馬はそう」

 それならいいかと、ほとんど警戒せずにアトリは敷き布に足を組んで座ったままのんきに空を眺めていた。曇り空が続いていたが、強い風に吹き飛ばされて青空が見えるようになっていた。そんな調子だったので、二頭の馬がすぐ近くまでやってきて馬上の姿を確認できるようになり、ようやくおどろいて、アトリは飛び跳ねるように立ち上がって馬に駆け寄った。

「アトリ!!」

 向こうも馬から飛び降りてアトリに走り寄ってきた。華奢な身体を抱きとめて、柔らかい黒髪に顎を埋める。相手も――イリスもアトリを抱き返そうとして左肩の包帯に気づき、つま先立ちになってこわごわそこに触れた。

「大丈夫なの、撃たれたって――」

「きれいに抜けたし、まだ少し痛むけど、まあそれくらいで済んでる」

「リコとコゲは?」

「……まだ、帰ってこない」

 そう、と頷いてイリスは身体を離した。眼鏡の奥の瞳が悲しみに沈んでいる。手は繋いで離さないまま、アトリは彼女を連れてきてくれた男に向きなおった。馬から下りてユスフと話している彼はオトだった。

「ありがとう。こんなにすぐ連れてきてくれるなんて、だいぶ馬を飛ばしただろう」

「他でもないアトリさんの頼みだ。なんでも聞くさ」

 弟と似た顔で笑って、オトは疲れた様子もなくひらひらと手を振った。

 アトリがホウエンに頼んだのはたったひとつ。街道沿いの街まで行って、イリスに事情を話して連れてきて欲しいということだった。アトリとリコは二人連れで何日もかけて移動してきた。だいぶ距離もあるし断られても仕方ないと思ったが、ホウエンたちは快諾してくれた。

 リコを信じて送り出したし、戻ってくると約束して、それも信じている。けれどひとりで待つのはどうにも寂しく、リコが帰ってくるとき、イリスと一緒に迎えてやりたかった。

 イリスもイリスで、街でやることもあっただろうにすぐに荷物をまとめて駆けつけてくれたようだ。その気持ちがありがたくて、もう一度手を強く握って彼女を見下ろした。イリスはアトリを見上げ、ようやっとうれしそうにほほえんだ。

「いつも夜は戻ってるんでしょ。私、天幕も持ってきたの。ふたりなら寝れるわよ」

「それは――ありがたい」

 馬の背に積まれた荷物を示して、イリスは得意げだった。昔、商人である彼女に付き合って旅をしていたとき、よくこんなことがあったような気がして不意に懐かしくなった。

「泊まり? やったー」

「おれたちは今日は帰るぞ、ユスフ」

 飛び上がって喜んだのも束の間、まじめな顔をしたオトにたしなめられ、なんでなんで、とユスフは不満そうにだだをこねた。なんでもだ、とぴしゃりと言い切って、オトはいくつかの荷物を地面に置くとその代わりに弟を馬上に放り上げた。

「天幕立てるのだけでも、手伝おうか」

「ありがとう、でもたぶん、大丈夫だ。いつもやってるから」

 断られても悪い顔はせず、オトはそうか、とこざっぱりした様子で頷いた。それじゃあまた、と言ってひらりと馬に飛び乗ると別れを惜しまず去って行く。オトの身体からはみ出るようにして、ユスフが手を振っていた。

「にぎやかな子ね。狼から助けたっていうの、あの子でしょ」

「またそれか……狼から助けたんじゃなくて、狼が返してくれたんだよ。ユスフもそれが分かってるから、ここで狼を待ちたかったんだ」

 狼は戻ってこないのにな、と呟くと、イリスはことんと身体を傾けてアトリに寄りかかった。

「リコもコゲも帰ってくるよ、絶対。一緒に待とう」

 うん、と頷いてアトリもイリスの頭に顔を預けた。

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